長崎要塞地帯標・軍港境域標」カテゴリーアーカイブ

下関要塞第一区地帯標 第六号(豊浦町小串)発見の経過

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下関要塞第一区地帯標 第六号(豊浦町小串)発見の経過

次も、佐世保市高橋輝吉氏から送られてきた資料。下関要塞第一区地帯標の蓋井島「第五号」に続く、本土側、下関市豊浦町小串郷での陸軍省昭和十年二月十六日「第六号」と「第八号」の発見の経過及び地帯標写真。

高橋輝吉氏稿  下関要塞第一区地帯標 第六号の発見について

3年前、山陰本線で下関市豊浦町へ。市小串支所の壁に1枚の写真。陸軍省、下に石城。此れはイシキ?さん、他に写真が有りますか、と尋ねると、此れだけですと。お寺の坊さんですと。
何十回となく電話するけど出ず。やっと出られたので、色々尋ねると…室津川を上がると解かると、それだけでした。

やっと発見したけれど、時間がなく、地元の方に尋ねると、有りますと。有れば仏様の石ですと。上に揚げましたと。30m先を見渡すと、「ミカゲ」石で造った祠が30基位有り。お寺の持場で、此の時、石を発見されたと思います。
発見しましたと、電話するけど出られません。年賀状を出しましたけど、返ってはきません。多分、90才位かなー。思いはそのままです。

1回目、竹林にて良く撮れず。2回目、OK(ダムの話し有り)。3回目、石を2m先の方へ。竹も伐った。4回目、朝日新聞にて。30m先小型ダムが造られていた。写真は2回目の時の写真。
蓋井島に第五号有り。第六号となったのかな−七号なし−八号有り。第八号は室津公民館広場に有り、10年位前、港改修の時に出て来たそうです。小串公民館に資料渡し済み。

佐世保軍港の秘密重油タンク群

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佐世保軍港の秘密重油タンク群

次は、佐世保市高橋輝吉氏から送られてきた資料のうち、佐世保港の地下重油タンク群建造の詳細を記した佐世保史談会発行「談林」の掲載文。掲載号不明で調査中。

(2) 重 油 タ ン ク 群
−日本で最初のコンクリート製重油タンク−

佐世保の西岸、川谷あたりに5基の円形の白いタンクが見える。重油タンクである。だが、佐世保港の重油タンクは総数23基といわれている。従っていま見えるこのタンクは、そのほんの一部で、大部分のタンクはこの川谷を中心に、北は赤崎から南は海を越えて横瀬までの地下深く秘されているという。今はアメリカ軍が使っているが、終戦まではもちろん海軍のものであった。しかし当時は軍の機密保持が特に厳しい時代であったから、秘密のベールに包まれて、市民のほとんどは、ここにこのような施設のあることを知らなかった。

そもそも佐世保に初めて重油タンクが作られたのは明治の末期で、軍艦の燃料が石炭と重油を混用した時代であった。当時の重油タンクはすべて鋼製であったから、明治44年(1911)に佐世保鎮守府に起工命令が出たときは当然鋼製の予定であった。だがこのとき佐鎮の建築科にいた真島健三郎技師は、鉄筋コンクリート案をもち出して、計画の変更を上申した。
真島技師は日本におけるコンクリート工法のパイオニアといわれた人であった。だがこの頃はまだコンクリート工法の幼稚な時代であった。従って、わずか30センチそこらの厚さの壁で、水より浸透力の強い重油を入れることは危険とされ、なかなか許されなかった。けれども真島技師の熱意は遂に海軍省の首脳を動かし、試験的に行なわせてみることになった。
真島技師は現場に起居し、全力を傾けて工事に当った。そのかいあって大正元年(1912)にできあがった日本最初の3基のコンクリート製重油タンクは、鋼製に勝るとも劣らぬ完全なものであった。

コンクリート製は鋼製に比べるとその築造費がうんと安あがりであった。このため海軍は大正3年(1914)9月、佐世保の川谷に6千リットル重油タンク8基の急造命令を出した。折りから佐鎮建築科長の任にあった真島技師は、このころ出現した飛行機に備えて、「土中式重油タンク」をつくり、これが大正11年(1922)11月にできあがった。けだしこれは、日本最初のコンクリート製の地下重油タンクであった。
第一次世界大戦を機に艦船の燃料は、石炭から重油に変った。佐世保軍港は燃料基地的な性格の港であった。庵ノ崎に総量20万キロリットルの膨大な重油タンク群がつくられた。大正15年(1926)に完成したこのタンク群は、長方形の土中式であったことは川谷と同じであったが、「無筋コンクリート油密施行法」を用いた点で、画期的であった。第一次世界大戦の影響で大正4年(1915)ころ1トン90円だった鉄の値段は、7年(1918)ころには350円に急騰したため、鉄材の使用量を極力節約する必要に迫られた。このため真島技師が苦心のすえ開発したのがこの「無筋コンクリート油密施行法」で、側壁と底部には一切鉄材を使わないという画期的なものであった。

その後、重油タンクの建造は軍縮のため一時中断されたが、満州事変のぼっ発を機に軍拡時代に入ると、昭和10年(1935)から横瀬と川谷に40万キロリットル重油タンクの建造が始められ、昭和17年(1942)までに5万キロリットル槽8基が完成した。
これらの重油タンク群は、すべて軍極秘のうちにつくられ、その工法は学界にさえ発表されなかったし、川谷の5基のほかはすべて地下に秘されていたのである。一般の人びとは全く知るよしもなかったが、実はこのほかに、これらと平行してつくられた百数十基の軽油タンクもあったのである。佐世保港の西岸一帯は巨大な油の貯蔵庫だったわけである。
給油のためであろうか。今日も赤崎のジョスコー岩壁には、巨大なアメリカ航空母艦が横づけしている。

佐世保軍港の秘密重油タンク群  祠堂石文を読んで

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佐世保軍港の秘密重油タンク群  祠堂石文を読んで

次は、佐世保市高橋輝吉氏から送られてきた資料。佐世保港の西岸、北は赤崎から南は海を越えて横瀬まで地下深く秘されている大正初めから昭和の戦中につくられた重油タンク群。一般の人には知られていないが、現在も米軍によって使用されている。
重油タンク群建造の詳細は、佐世保史談会発行「談林」に掲載があり、次の記事とする。

高橋輝吉氏稿   佐世保軍港の秘密重油タンク群  祠堂石文を読んで

祠堂造営由来
大正七年七月ヨリ庵崎ニ於テ海軍ノ工事始マリ。職員、職工、二百余名此ノ地ニ居住ス。由ツテ一同記念ノ為メ、鎮守明神ノ祠堂ヲ造営シ恵比須神ヲ合祀ス。
大正十年四月十日

軍港を見渡す山、赤崎岳。船越一帯の地下燃料「タンク」。第一次大戦頃より、船の燃料が石炭より油に変る時代。「庵崎」に出来た地下「タンク」。秘密タンクとも言われた。全部コンクリート製で難工事だったと思う。
石文に有る職員、職工。職工は宿舎かなー。周りの村、村。地元の人も含め、多くの人が「コンクリート」の為め24時間労働だったと思う。当時、鉄が値上がりのためと、コンクリート。テストのため。幸いかなー、当地、佐世保では地震がないのが幸いしてよかったのかなー。史談会の話にはなし?(触らぬ神?)
終って見れば、○秘「タンク」の事として、言うに言われない事が有ったと思うので、時の氏神を持ち出し一幅の○○にしたのかなー。何とも解しない石文だったと思うがー。多分、洗脳されたと思う。
庵崎に「海軍用地」「陸○○」などの石柱が8本位有った。猪の穴、4ヶ所有った。

陸軍省下関要塞の地帯標探し  佐世保市高橋輝吉氏の記事

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陸軍省下関要塞の地帯標探し  佐世保市高橋輝吉氏の記事 

2010年(平成22年)12月28日付朝日新聞福岡地域夕刊などに掲載された、次の佐世保市高橋輝吉氏の記事に関連。
https://misakimichi.com/archives/2530
https://misakimichi.com/archives/300

上記は、北九州市の「門司郷土史会」会誌に掲載された文の写し。掲載号不明のため調査中。高橋氏が、門司郷土史会や北九州市立松ヶ江南市民センターを訪れたのは、2年ほど前らしい。
下関要塞でも、門司区恒見の鳶ノ巣山、蓋井島などの地帯標調査の状況が、会誌に紹介されている。

「長崎」と「佐賀関」に陸軍省要塞地帯標「F.Z」が?

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「長崎」と「佐賀関」に陸軍省要塞地帯標「F.Z」が?

次は、同標石を調査されている佐世保市の高橋輝吉氏から、平成21年8月送られていた資料と写真。記事にするのを失念していたので、今、掲げる。話は1年半前で、少し古くなる。
「F.Z」は、Fortified=要塞化された Zoneの略。要塞地帯図は、海軍大臣官房「海軍制度沿革」巻十五から。(其二)佐世保区域図は略。
この項は次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2433

高橋輝吉氏稿  「長崎」と「佐賀関」に陸軍省要塞地帯標「F.Z」が?

長崎港入口左方向。福田地区一帯。小江の野島に「F.Z」第二地帯の第一号が。其れより後、飽の浦に「F.Z」第二地帯の第十六?号が。何とも解しがたい標石だ。
此の度、福田崎に「F.Z」第二地帯の第二号が。少し方向が? 道人氏の数年の努力によるもので、ありがたい事です。何んで此の不便な地、小島、岩場に、飽の浦福田越の手前に「F.Z」が?

一方、大分の佐賀関要塞に昭和十五年十二月「F.Z」第三区地帯標が620mの山の上に。何んで思って見た時に、昭和十五年十月、四国「宿毛」沖を通ったと有り。アーツーそうか。「大和」だなーと。豊豫水道を山より睨み、見守っていたのかなーと。
此の度、長崎の道人氏より福田崎に「F.Z」有りと。エーッと思って、佐賀関の事を思い出してみた。ヤット合点した次第です。

長崎の福田崎へ行って見ました。一回目はだめでした。何分、大きな岩場と石浜です。此れが解かれば。「武蔵」に必要な「F.Z」の標石です。道人氏に感謝です。佐賀関は私が「ヤッター」と。
戦艦「大和」「武蔵」の裏面史になりますかなー? 海面も「F.Z」地帯と思って見たが? 「武
蔵」のマストが見えるかなー。飽の浦のは「第十六?号」。日付は謎が。
「大和」=呉、「武蔵」=長崎。付けていたのは縄のれんだ。

別 記
福 田 崎   「F.Z」2nd2 第二区地帯標 第二号
小江の野島  「F.Z」2nd2 第二区地帯標 第一号
飽 の 浦   「F.Z」1st2  第一地帯標  第十六九?号

小江の野島にも「F.Z」2nd2=第二区地帯標。第一号が有ります。飽の浦にもその昔、山越へ飽の浦より福田へ行く村道の分れ道に有った。「第十六九?号」。「F.Z」1st2=第一地帯標。標石が少し気にかゝる所有り。何となく謎が残る?
写を見て下さい。乱数表かなー? 「F.Z」1st2=後で加刻したのかなー。改刻なのか、年月日と刻彫りが。「S.M」=を改刻したのか。「S.M」=「F.Z」。後にもう1本発見されると解かるかな?

野島にはフェンスと施錠有り。飽の浦は謎だ? 戦前の野島は、福田崎の北にある小島で、現在は埋め立て陸続きです。福田崎は釣り人用の道のみ。縄のれんを付け、「武蔵」は佐世保にも来た。5回位は福田崎を通ったのかなー。
佐賀関と長崎。「F.Z」の標石は無理を通したのかなー。

佐賀県肥前町にある伊万里湾「陸軍輸送港域標」

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佐賀県肥前町にある伊万里湾「陸軍輸送港域標」

次は、同標石を調査されている佐世保市の高橋輝吉氏から送られてきた資料と写真。佐賀県肥前町にある伊万里湾「陸軍輸送港域標」第二区第七号から第九号を見つけた経過。
伊万里湾の「陸軍輸送港域標」は、「陸軍輸送港域軍事取締法」により、昭和15年6月10日に第一区38本、第二区61本、合計99本が指定区域に設置された。
「陸軍軍事基地輸送港域伊万里臨時派出所」の概要は、宮地滋氏稿が伊万里市郷土研究会「烏ん枕」第71号平成15年11月1日発行に詳しく掲載されている。
この項は、次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2478

高橋輝吉氏稿  佐賀県肥前町にある伊万里湾「陸軍輸送港域標」

第二区第七号  向島。第七号は「島誌」古川さんが存じだった。案内を乞い、発見に至りました。石の横2mは、20〜30mの断崖でした。

第二区第九号  第九号は、本土内肥前町の通り道で尋ねたところ、其れは「山」に有りと。個人所有。理由有りで「写真」が思うように…(撮れず)。地名、場所は駄目と。「第九号」と標石確認にて写真のとおり。話しなし。

第二区第八号  さて第八号は、本土の大崎半島は解かりましたが、海側か、山の方か。海の方はなし。山の方は向島送電のため一部入っただけで、何10年と行かず、地元の方は、話しは聴いた事ないと話しに成りません。
2回目だめ。3回目七号…と九号と線を引く。どうも端の方かなあと思い探す。(2回目の時は、石より10m近くを通った)。第八号発見。岩場の横、石より1m先は10mの断崖だった。石の所より「向島」はと思い、カメラは向島を見る。

佐世保市菰田ダム近くにある陸軍省「長崎要塞第二地帯標」

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佐世保市菰田ダム近くにある陸軍省「長崎要塞第二地帯標」

次は、同標石を調査されている佐世保市の高橋輝吉氏から送られてきた資料と写真。柚木村に明治三十二年七月十四日設置された長崎要塞区域標(もとは佐世保要塞区域標とあったもの)の所在地と標石保護一例の具体的な記録。関係する六及び七の部分だけ抜粋する。
資料の稿者三間十郎氏(故人)は、柚木村長十二ヶ年、三間文五郎氏の碑があり、子孫と思われる。戦後処理に合わず、村に良く記録が残ったのであろう。(研究レポート「江戸期のみさき道 第2集」平成18年4月発行163〜167頁に資料全文を掲載)

この資料六において、柚木村の「長崎要塞第三地帯標」所在地を掲げ、「これから察すると第一号標石は多分石盛岳に所在するように考へられる」とあるが、事実は違った。
柚木村の標石はすべて「第二地帯標」(「第三地帯標」は、会誌の誤字と思われる)。石盛岳は「第七号」移設して個人所有。
菰田ダム近くにある「第一号」は個人の畠の中(以前は原野だったか)。特に「第二号」はダム道脇にあることを、高橋氏は数年前、独自に発見されている。石盛岳とは番号が飛び、近辺を踏査するとまだ標石が見つかりそうだ。

(資 料)  三間 十郎氏稿 「長崎要塞地帯標石の一資料について」
佐世保史談会発行 「談 林」 第14号 昭和47年9月   21〜26頁
一、
何といっても私共の郷土にとって消えがたいのは、旧日本の影像でもあった佐世保軍港のことである。が今私がここにとり上げてみようとしているものは、その偉大な軍港、海軍といったかげに隠れたような存在であった陸軍の要塞についてである。
はなばなしい存在ではなかったが、この地域住民にとっては密接不可分的な陸軍省のお役所があった。その要塞法の遺物である標石がまだあちこちに見かけられるようである。
山登りのついで等フト道わきに見かけるそれらの標石の前に佇んでみたりして、なつかしいという程の思い出の種にはならぬにしても、そのあとづけに何がしかの興味を覚えられる方もあるだろう。…
六、
記録上判明している地帯標石所在地は次の如くである。これはモト柚木村内の分で、第三地帯標石と思はれる。
番 号         所   在
九 号 冬越県道交叉路ヨリ大野村二至ル県道二沿イ四五〇米ノ道側
一〇号 冬越県道交叉路ヨリ十郎井手二沿ヒ九〇米ノ地点ノ里道ヨリ更二東方一〇〇米ノ里道附近
一一号 石森ヨリ里道分岐点ヨリ西方向里道ニ沿ヒ九〇米ノ里道附近
一二号 石森ヨリ西南方里道ニ添ヒ一八〇米里道附近
一三号 標石一四号ヨリ北西方二〇〇米標高三五〇米高地
一四号 標石一五号ヨリ北西方五五〇米里道三叉路附近
一五号 標石一六号ヨリ北東三五〇米県道ト里道トノ交叉附近
一六号 標石一七号ヨリ北西方四五〇米里道三叉路附近
一七号 標石一八号ヨリ北西方四〇〇米里道側
一八号 三本木部落ヨリ東南方里道三叉路
一九号 標石一八号ヨリ県道二沿イ約四〇〇米道路側
二〇号 標石一九号ヨリ県道二沿イ約一五〇米県道側
二一号 標石二〇号ヨリ県道二沿イ約三〇〇米道路側
二二号 標石二一号ヨリ県道二沿イ約四〇〇米道路側
二三号 標石二二号ヨリ県道二沿イ一〇〇〇米道路、河ノ中間地点
二四号 標石二三号ヨリ県道二沿ヒ約四〇〇米小川附近
二五号 日宇村界五七一米独立高地
二六号 標石二五号ヨリ村界二沿ヒ約三〇〇米 大字木切木場ノ辻 原野五五一七第一
これから察すると第一標石は多分石盛岳に所在するように考へられる。
七、
最後にこの標石保護について一例を掲げてみよう。
云渡書
長崎県北松浦郡柚木村大字柚木
元触区七十九番地戸 平 民 水車業
○○○○  安政五年八月十五日生
右ノ者大正二年五月四日午後八時荷馬車二松材ヲ積載シ柚木村字三本木ヲ通過スル際不注意ノ結果、同所土橋附近二建テアリシ佐世保要塞第三区地帯標石第十八号ヲ毀壊シタル所為ハ要塞地帯法第二十六条二違反シタルモノ二付仝条ノ規定二依リ科料弐拾銭二処ス、若シ完納シ能ハサル時ハ一日間労役二留置スヘシ、但シ此云渡二対シテハ正式裁判ヲ請求スル事ヲ得其期限ハ此云渡書ノ送達アリタル日ヨリ五日内トス
大正二年五月一三日
山口警察分署二於テ分署長 警部 吉 富 寛 吉

「陸軍輸送港域標」から見た開戦1年前の伊万里湾

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「陸軍輸送港域標」から見た開戦1年前の伊万里湾

次は、同標石を調査されている佐世保市の高橋輝吉氏から送られてきた資料。
「陸軍軍事基地輸送港域伊万里臨時派出所」の概要は、宮地滋氏稿が伊万里市郷土研究会「烏ん枕」第71号平成15年11月1日発行に詳しく掲載されているが、高橋氏の標石調査に関係した部分のみ抜粋する。
写真は、伊万里市大川内町の青螺山頂(標高620m)にある「陸軍輸送港域第二区標」。

高橋輝吉氏稿  「陸軍輸送港域標」から見た開戦1年前の伊万里湾

伊万里湾が佐世保軍港より外れて何10年。昭和15年、開戦1年前、陸軍の波が起こった(前々から所望していたのか)。新兵科 陸軍輸送部隊「暁部隊」。川南造船04艇造りも伊万里にあった。伊万里市郷土研究会「烏ん枕」第71号参照。
伊万里湾一帯の土地の証しとして、陸軍省は用地標石100本を建てた。現在、残っているのは、佐賀県側=15本(内1本は「特」所)、長崎県側=10本。

此の内、第二区の第1号は海の中。第一区の第1号は、星鹿の山の中に有り。星鹿には陸軍兵舎有り。黒島にも兵舎有り。星鹿では古老の話しだと、4年生上の生徒は中位の石、煉瓦は高等科、近くの大人は多くの資材を運んだそうです。
城山には海軍の「聴音機」対潜水艦用。石を運んだ道にも「海」石が有り、第16〜133号。多くの石で城山を取り巻いているのかなー。

展望台より見えるのは、元寇の島か、向島の7号か、逃の浦の防塁か、血田の陸軍省か(第一区の2号)。青島の岩礁地帯に、島の話しでコンクリートの「柱」有り。若しやと思い行ってみた。双眼鏡で見ると、岸より130mの所。
陸軍省  第一号(第二区)  陸軍輸送港域第二区標  昭和十五年六月十日

(資 料) 宮地 滋氏稿 「陸軍軍事基地輸送港域 伊万里臨時派出所について」
伊万里市郷土研究会会誌 “烏ん枕(からすんまくら)” 第71号 平成15年11月 

◎標識と高橋氏                      26〜27頁
陸軍輸送港域には第一区と第二区の要塞地として標識(石)が設置されている事は前記しているが、現在この標識を探し求められている佐世保市の高橋輝吉氏である。
戦時中、軍事物資の積出港は全国で、宇品と伊万里の二ヶ所が陸軍輸送港に指定された。伊万里港域を示す標識が第一区四十九平方キロ・第二区は二百十平方キロの区域に約百本の区域標識が建てられている。
高橋氏は次兄が陸軍船舶工兵として戦死をされている経緯もあるが、文献を求める一方、供養の一環として戦後の記録のない状態で探し求められていた。高橋氏は八年前から伊万里方面に出向き腰岳や大川内の青螺山等の伊万里湾が見える尾根を探し平成十五年七月現在で一三本(高橋氏の最近の話では24、25本)と敷地標識も数本が確認されているし、自身も同行したが、簡単に探し出す事は非常に難しい骨の折れる探物である。
今後何本の標識が見付けられるかが期待として大きいのは、丁度此の時期に郷土の地区史を残す為資料を集めていた最中に高橋氏と巡り逢ったので参考になった事は事実で有難い事であった。輸送港基地は当地区であり、地元の年配の方に聞き取る以外に方法はないと思っていたからである。

隠居岳・オサイ観音の海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」

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隠居岳・オサイ観音の海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」

次は、同標石を調査されている佐世保市の高橋輝吉氏から送られてきた資料。隠居岳・オサイ観音の海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」の詳しい所在地図がある。
佐世保市の隠居岳(標高670m)ウォーカーズパークへ出かける際は、宇戸越・オサイ峠方面へも行き、標石を見てもらいたい。

高橋輝吉氏稿  隠居岳・オサイ観音の海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」

軍港は山から守るか。海から守るか。それとも標石で守るか。
明治三十五年 → 海と山に標石有り。  大崎町(9号) 隠居岳右下に(67号)
明治四十五年 → 海岸近くに標石有り。
昭和   五年 → 山に有り。
柚木村時代に、海軍省通達で別紙のとおり資料としてあります。特に昭和五年の標石は、八天岳から隠居岳に。第293号より → 第298号と有り。
第293、297号なし。第294、295、296、298号有り。
途中に「山」と書いた小さな石有り。海軍省の標石を見た事ない人は、軍の石とも言う。   

標石の資料は次のとおり。「佐世保軍港境域標」に関係する一及び四の部分だけ抜粋する。(研究レポート「江戸期のみさき道 第2集」163〜167頁に資料全文を掲載)
なお、この資料六において、柚木村の「長崎要塞第三地帯標」所在地を掲げ、「これから察すると第一号標石は多分石盛岳に所在するように考へられる」とあるが、事実は違う。
柚木村の標石はすべて「第二地帯標」(「第三地帯標」は誤字と思われる)。石盛岳(「八天岳」のこと)は「第七号」移設して個人所有。「第一号」は個人の畠の中、「第二号」は道端にあることを高橋氏は確認している。

(資 料)  三間 十郎氏稿 「長崎要塞地帯標石の一資料について」
佐世保史談会発行 「談 林」 第14号 昭和47年9月   21〜26頁
一、
何といっても私共の郷土にとって消えがたいのは、旧日本の影像でもあった佐世保軍港のことである。が今私がここにとり上げてみようとしているものは、その偉大な軍港、海軍といったかげに隠れたような存在であった陸軍の要塞についてである。
はなばなしい存在ではなかったが、この地域住民にとっては密接不可分的な陸軍省のお役所があった。その要塞法の遺物である標石がまだあちこちに見かけられるようである。
山登りのついで等フト道わきに見かけるそれらの標石の前に佇んでみたりして、なつかしいという程の思い出の種にはならぬにしても、そのあとづけに何がしかの興味を覚えられる方もあるだろう。…
四、
要塞地帯標とは別に軍港境域標と云うものがある。参考までに一部資料にふれておく。
佐建財第二一四號
昭和五年十一月七日               佐世保海軍建築部長
軍港境域標柱及標札建設二関スル件照会
今回佐世保軍港境域改正ノ結果貴村内(註柚木村)二於テ別図指定ノ民有地内二境域標柱及標札ノ建設ヲ要スル事ト相成候就テハ地主ノ承諾ヲ要スル義二付乍御手数別紙書式二依リ地主ノ承諾書ヲ徴シ回付方御取計相煩度(終)
(附図上二図示)
栗木越〜八天岳。第六一号〜六五号
八天岳〜隠居岳。第二八六号〜二九八号
(註)この間オサヨ越南〜隠居岳間第二九三より二九八号までをこの時新設した。
(参考)
昭和五年十月二十四日               海軍大尉 田中 健介
(軍港境域決定ノ件)
来ル廿七日(月曜日)ヨリ三日間貴村二関スル佐世保軍港境界線(西ノ岳—八天岳—ヲサエ越—隠居岳ヲ通ズル区間)ノ決定ヲ致度就而貴村吏員一名御立会ヲ得度右通知ス(以下略)
(註)右に掲げた田中海軍大尉の書簡中に境界線(西ノ岳—八天岳—ヲサエ越—隠居岳ヲ通ズル区間)と示してあるところの「西ノ岳」と云うのは所謂国見岳のことであろう。我々地元では「西ノ岳」と云へば通常隠居岳のことを指して謂うのであるが、而しながら国見岳のことを「西ノ岳」と云う例もある由。…