佐世保軍港の秘密重油タンク群

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佐世保軍港の秘密重油タンク群

次は、佐世保市高橋輝吉氏から送られてきた資料のうち、佐世保港の地下重油タンク群建造の詳細を記した佐世保史談会発行「談林」の掲載文。掲載号不明で調査中。

(2) 重 油 タ ン ク 群
−日本で最初のコンクリート製重油タンク−

佐世保の西岸、川谷あたりに5基の円形の白いタンクが見える。重油タンクである。だが、佐世保港の重油タンクは総数23基といわれている。従っていま見えるこのタンクは、そのほんの一部で、大部分のタンクはこの川谷を中心に、北は赤崎から南は海を越えて横瀬までの地下深く秘されているという。今はアメリカ軍が使っているが、終戦まではもちろん海軍のものであった。しかし当時は軍の機密保持が特に厳しい時代であったから、秘密のベールに包まれて、市民のほとんどは、ここにこのような施設のあることを知らなかった。

そもそも佐世保に初めて重油タンクが作られたのは明治の末期で、軍艦の燃料が石炭と重油を混用した時代であった。当時の重油タンクはすべて鋼製であったから、明治44年(1911)に佐世保鎮守府に起工命令が出たときは当然鋼製の予定であった。だがこのとき佐鎮の建築科にいた真島健三郎技師は、鉄筋コンクリート案をもち出して、計画の変更を上申した。
真島技師は日本におけるコンクリート工法のパイオニアといわれた人であった。だがこの頃はまだコンクリート工法の幼稚な時代であった。従って、わずか30センチそこらの厚さの壁で、水より浸透力の強い重油を入れることは危険とされ、なかなか許されなかった。けれども真島技師の熱意は遂に海軍省の首脳を動かし、試験的に行なわせてみることになった。
真島技師は現場に起居し、全力を傾けて工事に当った。そのかいあって大正元年(1912)にできあがった日本最初の3基のコンクリート製重油タンクは、鋼製に勝るとも劣らぬ完全なものであった。

コンクリート製は鋼製に比べるとその築造費がうんと安あがりであった。このため海軍は大正3年(1914)9月、佐世保の川谷に6千リットル重油タンク8基の急造命令を出した。折りから佐鎮建築科長の任にあった真島技師は、このころ出現した飛行機に備えて、「土中式重油タンク」をつくり、これが大正11年(1922)11月にできあがった。けだしこれは、日本最初のコンクリート製の地下重油タンクであった。
第一次世界大戦を機に艦船の燃料は、石炭から重油に変った。佐世保軍港は燃料基地的な性格の港であった。庵ノ崎に総量20万キロリットルの膨大な重油タンク群がつくられた。大正15年(1926)に完成したこのタンク群は、長方形の土中式であったことは川谷と同じであったが、「無筋コンクリート油密施行法」を用いた点で、画期的であった。第一次世界大戦の影響で大正4年(1915)ころ1トン90円だった鉄の値段は、7年(1918)ころには350円に急騰したため、鉄材の使用量を極力節約する必要に迫られた。このため真島技師が苦心のすえ開発したのがこの「無筋コンクリート油密施行法」で、側壁と底部には一切鉄材を使わないという画期的なものであった。

その後、重油タンクの建造は軍縮のため一時中断されたが、満州事変のぼっ発を機に軍拡時代に入ると、昭和10年(1935)から横瀬と川谷に40万キロリットル重油タンクの建造が始められ、昭和17年(1942)までに5万キロリットル槽8基が完成した。
これらの重油タンク群は、すべて軍極秘のうちにつくられ、その工法は学界にさえ発表されなかったし、川谷の5基のほかはすべて地下に秘されていたのである。一般の人びとは全く知るよしもなかったが、実はこのほかに、これらと平行してつくられた百数十基の軽油タンクもあったのである。佐世保港の西岸一帯は巨大な油の貯蔵庫だったわけである。
給油のためであろうか。今日も赤崎のジョスコー岩壁には、巨大なアメリカ航空母艦が横づけしている。