長崎県の石橋」カテゴリーアーカイブ

北松浦郡佐々町に残るアーチ石橋

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北松浦郡佐々町に残るアーチ石橋

北松浦郡佐々町に残るアーチ石橋は、3橋である。佐々町役場前から国道204号線を江迎町の方へ向かう。
1の「トロッコ橋」は、皿山公園前を過ぎて神田入口となるダイレックス角で右折。佐々川に架かる「正興寺橋」を渡らず、右手川岸の遊歩道へ入る。佐々川がカーブする所まで行くと対岸に小さなアーチが見える。

2の「江里峠の橋」は、佐々松瀬郵便局先の交差点から江里川沿いの町道に左折して入る。「平戸街道江里峠」史跡板のある所まで登る。
3の「江里峠下の橋」とも江里川でなく、峠を越した江迎側の山ノ田川上流にあるので、道路標識に従い江迎の方へ少し下る。川を渡る2つの地点で下を覗くとアーチが見える。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真  1  第 127 番  ト ロ ッ コ 橋       佐々町神田免
大正中期    長さ 6.0m  幅員 1.8m
佐々港への石炭トロッコレールが敷かれ馬が曳いていたという。
大正〜昭和30年代まで、佐々川べりにはトロッコのレールが引かれ、上流の炭鉱から馬でトロッコを曳いて下流の佐々港まで運搬されていた。その当時の橋の輪石だけが残っている。
この位置は佐々川が大きくカーブしていて、増水時には濁流が強くあたる場所なのに、よく残っていたものだと輪石の基部を見てみると、しっかりした岩盤に乗っていた。
橋の右手には幅2m程度のトロッコ道が残るが、何ヶ所も崩れていて通行は不能。
【ガイド】佐々町の中心街から国道を吉井町に進む。市瀬を過ぎだ辺りの右手にあるがよく見えない。ナフコの手前から右折して川縁の道を行くと見える。
対岸の県道からは全く見えない。

写真  2  第 167 番  江 里 峠 の 橋       江迎町高岩から佐々町松瀬ヘ向かう平戸街道に架かる橋。
明治19年頃ではないか。北松浦半島最古の石橋の可能性も。 長さ 約9.0m  幅員 約4.9m
佐々から来れば江里峠の最高部を超えて松瀬側に架かる。
松瀬の方から上がってくると、この橋の下流に架かる橋を超えて、長崎街道の案内板を見てから、しばらく上がって右手に田圃がある緩やかなカーブが広がる。
中央部が橋になっている。下流側はヒューム管で延長した様子で、今回はこちらから入った。
この橋の情報を頂いた末永氏によると、明治19年に工事の担当官として赴任していた山口氏が病に倒れ亡くなったことを悼んだ碑が有るそうで、その頃架橋されたのではないかと推測できるとの事。

写真  3  第 168 番  江 里 峠 下 の 橋      江迎町高岩から佐々町松瀬ヘ向かう平戸街道に架かる橋。(江里峠より江迎側)
形状から大正から昭和期の架橋ではないかと判断。  長さ 5.0m  幅員 12.1m
江里峠の橋から50m程度下流になる。水汲み場が目印かな。
末永氏も言っておられるが、この橋の幅は広い。実際に見ているとトンネルかと思うほどだ。

写真  4           神田跨道橋       佐々町神田免
これはあくまで参考。松浦鉄道の上に架かる。コンクリート造。上の道は旧道か?

北松浦郡鹿町町に残るアーチ石橋

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北松浦郡鹿町町に残るアーチ石橋

北松浦郡鹿町町に残るアーチ石橋は、1橋である。中野免の「中野橋」。
鹿町町役場から県道18号線により江迎の方へ行き、鹿町川と出合った「新中野橋」から右折し、川沿いの町道を約500m行くと右手に見える。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真     第  79 番  中 野 橋       鹿町町中野免
大正3年     長さ 約7m  幅員 約1.5m
藪で姿が見えないのが残念だが、なかなか良い姿をしている。町指定文化財。
鹿町町には、「大加勢橋」という立派なアーチ橋が有ったが、残念ながら平成14年の河川改修で架け替えられてしまっていた。橋の存在を教育委員会に寄って話を聞いたときに、この橋を教えてもらった。
【ガイド】江迎町から鹿町町役場に向かう。橋の元のバス停を過ぎて新中野橋の手前を左折。約500mで右側。

佐世保市(小佐々町)に残るアーチ石橋

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佐世保市(小佐々町)に残るアーチ石橋

佐世保市(小佐々町)に残るアーチ石橋。西川内の「西川内橋」は、佐世保市街から国道204号線か県道139号線により佐々川河口の見返橋を渡って、小佐々小学校のある田原交差点まで行く。
県道18号線により小佐々浦の海岸へ方へ向かう。まもなく左手に大きなアーチ石橋「西川内橋」が見える。
上流・下流側に広がる風景は写真のとおり。親柱の刻みは「大正九年八月架」であった。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真     第  58 番  西川内橋(小佐々の太鼓橋) 小佐々町西川内(県道沿い)
大正九年     長さ 15.5m  幅員 3.5m
小佐々町指定文化財(4号)
大正9年(1920年)7月にアーチ橋として架橋された。この堤防沿いの道路は、県道が開通されるまでは小佐々町の幹線道路であった。ちなみに、この橋の建設費は4、630.5円であったという。人夫賃が一日2円、石工が3円の時代である。

(2014年6月17日 追 記)
最近、小佐々町で次の石橋が見つかっているので、現地へ出かけた。後ろに写真、所在地図を追記する。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」長崎県の石橋によるデータは、次のとおり。

№6,935   岳 下 橋  2013.12.22

佐世保市小佐々町矢岳 岳下(だけした)
橋幅:6.5m  径間:4.63m  拱矢:1.67m  環厚:40㎝   輪石:28列(南側13列、北側14列)
12月10日に、「日本の石橋を守る会」末永副会長より新規情報を頂いていました。
西川内橋で撮影中、ちょうど末永さんが通りがかられ、ご一緒しました。
水は流れていません。縦断勾配がついているため、輪石の数は左側13列、右側14列。

JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)の鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋 (2)

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JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)の鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋 (2)

平成20年5月30日、JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)の鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋を見に行った。場所の説明はわざと省略した。自分で探していただきたい。
N氏HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」の長崎県の石橋及び煉瓦アーチの長崎本線を参照。

多良見町伊木力あたりで、特に見事な鉄道橋が見られる。千々石ミゲルと見られる墓石の場所の入口のところには「山川内跨道橋」(煉瓦アーチ)がある。続けて山川内川に架かる大きな「山川内橋梁」、そばに「山川内東跨道」がある。
後の2橋は全体が完全に切石で造られていて、N氏は立派な「石造アーチ橋」としてカウントされている。
この鉄路の長い土手は、谷間反対側の県道33号線野川内入口のカーブ地点からよく見える。列車が通る時間に合わせて見る景色は秀逸だ。

また、鉄道沿線すぐ近くには、長与町高田郷の川平有料道路の入口あたりの県道沿い「洗濯工房」店裏の川に壊れかけたアーチ部分だけ残る石橋「高田の橋」がある。
多良見町野川内の谷にも、同じように壊れかけたアーチ部分だけ残る石橋「幸仏橋」があるので、今のうちに見ておいてほしい。
いずれも前に紹介済みである。この日の風景は別項とした。

JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)の鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋 (1)

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JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)の鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋 (1)

平成20年5月30日、JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)の鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋を見に行った。場所の説明はわざと省略した。自分で探していただきたい。
N氏HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」の長崎県の石橋及び煉瓦アーチの長崎本線を参照。

多良見町伊木力あたりで、特に見事な鉄道橋が見られる。千々石ミゲルと見られる墓石の場所の入口のところには「山川内跨道橋」(煉瓦アーチ)がある。続けて山川内川に架かる大きな「山川内橋梁」、そばに「山川内東跨道」がある。
後の2橋は全体が完全に切石で造られていて、N氏は立派な「石造アーチ橋」としてカウントされている。
この鉄路の長い土手は、谷間反対側の県道33号線野川内入口のカーブ地点からよく見える。列車が通る時間に合わせて見る景色は秀逸だ。

また、鉄道沿線すぐ近くには、長与町高田郷の川平有料道路の入口あたりの県道沿い「洗濯工房」店裏の川に壊れかけたアーチ部分だけ残る石橋「高田の橋」がある。
多良見町野川内の谷にも、同じように壊れかけたアーチ部分だけ残る石橋「幸仏橋」があるので、今のうちに見ておいてほしい。
いずれも前に紹介済みである。この日の風景は別項とした。

世知原町洞禅寺にある大正七年「石橋新設紀念」碑の石橋とは?

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世知原町洞禅寺にある大正七年「石橋新設紀念」碑の石橋とは?

平成20年5月26日、佐世保市世知原町へアーチ石橋17橋を見に行った。世知原中学校前から「きりのき橋」へ行く市道へ入ると、すぐ左に「洞禅寺」があり、寺の山門先の道路沿い住職宅入口に、気になる石柱が両側に立っていた。
写真のとおり、右の刻字は「上大菩提 石橋新設紀…」「大正七年三月吉日」である。左のは「下化衆生 …」。境内を見ても池や石橋はなく、どの石橋のことか、調べてみたいと思った。

残念ながら、石柱の写真はこの1枚のみしか写していない。寺の前は市道をはさんで北川内川が流れ、市道は広く改修されているので、寺の参道が昔は川にあったことも考えられる。
帰ってから世知原町「世知原郷土誌」平成2年刊を公民館から借りて読むと、295〜306頁に「6 アーチ式石橋群と石造文化」があった。

「倉渕橋」では、「大正七年(完成は八年三月)、県道倉渕橋をアーチ式石橋に架替えた」とあり、年代的にこれが同時期だ。
寺や石工から見ると「岩下橋・前原橋・曲川橋」で「三橋は…同時期に順次架設されたもので、小学校石垣、洞禅寺石垣などを構築した世知原町栗迎免一六〇の内野永雄氏(平成二年・九十六才)の架橋になるものである」。ただし「架橋は三橋とも昭和二年四月とされる」と出てくる。

石柱のことを、石橋群マップを作成されている世知原地区生涯学習センターの松永先生へ電話で尋ねた。先生はこの石柱の存在を知っておられ、自分も気にかけていたが、まだ調べていない。資料もないらしいとのことだった。

以下はその後の展開である。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」N氏には、大変な指導をいただき世話になっているので、少々期待を込めてメールにより画像を送った。、
さっそく「日本の石橋を守る会」関係から、地元世知原の石橋研究家・画家の末永先生へ連絡を取ってくださり、わかった結果が次である。
末永先生が足を運んで調べられた内容を、そのままの文により紹介したい。

おはようございます。早速洞禅寺へ行ってきました。
なるほど裏山門に一対の石柱が建っていて正面から向かって右に「石橋新設紀念」と刻まれています。側面には「大正七年三月」が読めます。左の柱には「松浦炭礦」その側面には、石工の名が刻まれています。

この松浦炭鉱というところから、「新設」はおそらく倉渕橋だろうと想定できます。というのは、
①「紀念」は「はじめる」の意味に捉えられ、「できた」は記念
倉渕橋完成は大正8年3月ですから大正7年の起工は間違いありません。
②松浦炭鉱のかかわり
明治33年に、松浦炭鉱が現倉渕橋に、木橋(土橋)をかけたという記述があります。
石橋への架け替えに関する著述で松浦炭鉱の名前は出てきませんが、当時採炭一色だった世知原においては炭鉱の力は相当なものだったと考えられます。
したがって、木橋を石橋に架け替えるに当たって、洞禅寺に祈願したものと思われます。
③大々的な石橋
石工の名前は磨耗していてよくわかりませんでしたが、「世知原」という字が読めましたので民族資料館を手がけた地元の石工の名前が出てきそうな気がします。(調査継続)
これほど大きな祈願の石柱を立てて(安全、成就を)祈念した橋と言えば、倉渕橋しかないと思われます。

以上の点から、「倉渕橋をかけるに当たって寄進された石柱」と思われます。
こんなそんな話をしていたら、若住職が気になる石柱がもうひとつあると案内されました。後からついていくと、高さ約50cm位の親柱で、「延命橋」という文字が彫られていました。
若住職はそれがどこの橋か全く見当もつかないといっていましたが、実は、洞禅寺の山門への坂の上り口にアーチ石橋が架けられていたのです。
昭和51年ごろまであったそうです。本殿を建て替える時に、この坂道も作り変え、そのときにアーチ石橋は壊されたようです。
おそらく「延命橋」はその親柱ではないかと思われ、写真等を探していただくようにお願いして帰ってきました.
以上お答えします。

まだまだ世知原でも調べれば、おもしろく貴重なことがあるようだ。N氏と末永先生には、深くお礼申し上げます。

佐世保市(世知原町)に残るアーチ石橋  (4)

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佐世保市(世知原町)に残るアーチ石橋  (4)

佐世保市(世知原町)に残るアーチ石橋は、17橋である。
HP「お茶と石橋の街 世知原 せちばる web site」の石橋の項を参照。
散策用”せちばる石橋群マップ”は、世知原活性化施設「国見の郷」(農産物展示販売)・佐世保市役所世知原支所・生涯学習センターなどにある。
ほとんどの橋に、説明板が付けられ、主要道路入口から案内標識が整備されている。

世知原町郷土誌編纂委員会編「世知原町郷土誌」(世知原町 平成2年10月発行)295〜306頁「6.アーチ式石橋群と石造文化」による説明は次のとおり。
掲載順は、石橋の場所がわかりやすいように変えた。

最後の「(2) 竜の氏橋」は、現在、上流側に新橋を造るため工事中。また、すぐ30mほど上流には古い桁橋「小岩橋」があり、見るには左岸の畑畦道を通って行く。
なお、古山橋の上流にあった「(5) 通地橋」は崩壊の危険性があり、昭和62年解体された。代りに世知原中学校グランドの「若鮎橋」を入れて、17橋と紹介した。

写真 14  ( 4)  古 山 橋        (上野原免・古山)
佐々川の支流・字山中の絶壁下にあり、道路面は舗装されて若干修復の跡はあるが完形。周辺景観ともよくマッチしている。
架橋 大正13年    橋長 9.7m  幅員 3.6m  橋高 6.3m

写真 15  ( 3)  尾 崎 橋        (槍巻免・浦木)
知見寺線の旧道、尾崎の墓所下にあり、佐々川の本流に架かる。交通量は少ないが現在も使用中。道路面は舗装されている。
橋の両側は10m前後の急峻な断崖絶壁で、架設上の困難がしのばれる。
両岸の断崖上部を加工して橋台とし、輪石には砂岩でなくて安山岩系の石を使用するなど、伝統的な石橋の構築技法に従っていることが観取され、工事の困難性の故か目地のモルタル補修もなく、橋面はともかく橋全体は創架時の状態をよく保っている。現時点では町内で最も古い橋といえる。
架橋 明治30年    橋長 6.7m  幅員 3.6m  橋高 9m

写真 16  ( 1)  高 観 寺 橋      (上野原免・天竺田)
佐々川上流の高観寺旧蹟のたもとにあり、現在は使用されていない。
スパンドレル(アーチ両脇の三角小間)部に一部崩壊が認められるが、他はほとんど完形で残存しているる
国民宿舎「国見山荘」への通路にあたり、県道に併行して現在の高観寺橋からその全部を見ることができる。川も美しく上流の景観とよくマッチしている。
架橋 昭和4年11月  橋長 13.3m  幅員 3.9m  橋高 6.4m

写真 17  ( 2)  竜 ノ 氏 橋      (上野原免・竜ノ氏)
高観寺橋下から佐々川支流の竜ノ氏川を上った小橋で完形。道路面は舗装されていて一部補修の跡がみられ、現在も使用されている現役の橋であるが交通量は少ない。
架橋 大正15年    橋長 4m  幅員 3.4m  橋高 3. 6m

佐世保市(世知原町)に残るアーチ石橋  (3)

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佐世保市(世知原町)に残るアーチ石橋  (3)

佐世保市(世知原町)に残るアーチ石橋は、17橋である。
HP「お茶と石橋の街 世知原 せちばる web site」の石橋の項を参照。
散策用”せちばる石橋群マップ”は、世知原活性化施設「国見の郷」(農産物展示販売)・佐世保市役所世知原支所・生涯学習センターなどにある。
ほとんどの橋に、説明板が付けられ、主要道路入口から案内標識が整備されている。

世知原町郷土誌編纂委員会編「世知原町郷土誌」(世知原町 平成2年10月発行)295〜306頁「6.アーチ式石橋群と石造文化」による説明は次のとおり。
掲載順は、石橋の場所がわかりやすいように変えた。

写真 10  ( 6)  い ず み 橋      (栗迎免・矢櫃)
佐々川本流の町中心部にあり、住宅密集地の「かじか団地」に架かる。
松浦炭鉱の時代には、炭鉱住宅(川向)への通路となっていた。現在は使用されず、新いずみ橋と併行して残っている。完形で両側絶壁状の崖上に架橋されていて、尾崎橋と同様、工事の困難がしのばれる。
断崖の下流域は、材料の石材採取地となっており、前記「歴史民俗資料館」の石材もここから採取されたといわれている。川面の風景も情緒がある。
架橋年 不 詳   橋長 9m  幅員 2m  橋高 7.9m

写真 11  ( 7)  山 口 橋        (栗迎免・山口)
世知原の鎮守、山口神社東側の旧道、北川内川が佐々川本流に合流する地点にある。
絶壁の崖上に架かり、川は深い渕をなしていて、その景観はすばらしい。アーチも断崖と対応して造形の美をなしている。
架橋 大正14年  橋長 5.2m  幅員 1.8m  橋高 5.2m

写真 12        若 鮎 橋        (世知原中学校グランド)
雲仙普賢岳の噴石を使用して、生徒達が組み上げた石橋。
生徒達は試作の「ぐらぐら橋」からスタートして、この150個の噴石を組み合わせた石橋を完成させた。切石で無い石橋は古里に架かる小さな石橋を思わせる素朴で懐かしい佇まいを見せていた。(若鮎橋の説明は、HP「長崎県の石橋を訪ねて」から)
架橋 平成15年12月8日  橋長 4.0m  幅員 0.8m

写真 13  (13)  きりのき橋        (北川内免・桐ノ木)
山口橋の上流、念田への入口付近に架かる。旧道で現在は農作業の往来に使用される程度であるが、架橋時から全く手を加えられておらず、道路面の舗装もなされていない野の道にあって、アーチ・欄干・親柱ともに完全。周囲の田園的な状況は絵になる光景を保っている。
保存状態の秀逸さと、年代や架橋経緯の確かさ、架橋記念碑の存在など、現存アーチ式石橋の中で最も貴重なものの一つといえる。総工費558円30銭であった。
県立少年自然の家への通路にもあたり、教育、文化、観光の面でも期待がもてる。
架橋 大正15年3月  橋長 5.7m  幅員 3.5m  橋高 3.1m

佐世保市(世知原町)に残るアーチ石橋  (2)

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佐世保市(世知原町)に残るアーチ石橋  (2)

佐世保市(世知原町)に残るアーチ石橋は、17橋である。
HP「お茶と石橋の街 世知原 せちばる web site」の石橋の項を参照。
散策用”せちばる石橋群マップ”は、世知原活性化施設「国見の郷」(農産物展示販売)・佐世保市役所世知原支所・生涯学習センターなどにある。
ほとんどの橋に、説明板が付けられ、主要道路入口から案内標識が整備されている。

世知原町郷土誌編纂委員会編「世知原町郷土誌」(世知原町 平成2年10月発行)295〜306頁「6.アーチ式石橋群と石造文化」による説明は次のとおり。
掲載順は、石橋の場所がわかりやすいように変えた。

写真  5  (10)  い し 橋      (栗迎免・本田原)
栗迎から太田に通じる旧道、佐々川支流の路木場川(通称、六婆川)に架かる。そのものずばりの名称をもっている。
河川景観はすばらしく、両岸の断崖は町内石橋群の中でも最も高い方に属し、きわめて難工事であったと考えられる。
輪石は頂部で扁平なものを用いていて、設計技法の稚拙さか、または施工の簡便さへの工夫がみられる。
そして、(3)の尾崎橋と同様、両岸の断崖上部を加工して橋台とすることや、輪石には砂岩でなく安山岩系の石を使用するなどの伝統的な石橋構築技法にしたがっている。
架橋 明治40年4月  橋長 8.9m  幅員 3.2m  橋高 10.1m

写真  6  ( 9)  倉 渕 橋      (栗迎免・矢櫃)
佐々川の本流、県道菰田線(佐世保〜世知原〜松浦)に架かる町内現存最大のアーチ式石橋である。見事な半円をえがき、川の端は現在身障者用の釣場や川遊びの場として整備されている。
近代的設計技法により拱環厚(輪石の厚さ)を底部から頂部にかけて次第に減衰し、要石(最頂部の楔石)を目立った扱いにしている。そして、橋台部分を垂直に石積みした上に、扁平な弓形アーチを構えている。
従って、アーチの下部が腰折れ状態となっている。さらに上下流の両端は安山岩を使用し、中央部には砂岩と両者を併用している。
この橋のアーチは長崎県最大、九州でも五指に入る径間長を誇る橋として特筆に値するものである。大正7年(完成は8年3月)、県道倉渕橋をアーチ式石橋に架け替えたのであるが、そのとき世知原村は県に対して八百円の寄付金を拠出している。
架橋 大正8年3月  橋長 20.6m  幅員 4.6m  橋高 8.1m

写真  7  (11)  奥 ノ 口 橋     (太田免・奥ノ口)
長田代に源を発する佐々川支流、鍋田川の川口に近く、弦掛観音西福寺の裏の谷に架かる。
現在はスパンドレル部と道路面は完全に消失(豪雨水害?)して、アーチ部分だけが残存、旧道路面は丸太数本で人間だけは通れる。
しかし、この橋はむしろアーチ技法を見るうえでは貴重であり、現状保存をするべきである。足下には優雅な滝があって、立地条件、景観はすばらしい。
架橋 大正15年  橋長 3.4m  幅員 1.7m  橋高 2.2m

写真  8  (17)  丑 太 郎 橋      (長田代免・奥ノ口)
奥ノ口川(鍋田川上流)にあり、昔の作道に架かる。現在は不使用。スパンドレル部(アーチ両脇の三角小間)、輪石ともに安山岩系の自然石を使用し、要石も粗製安山岩で素朴そのものである。
目地はしっくいを全面に使用し、全体構成は自然石だけの風情もあるが、アーチの線は見事で奥ノ口川の景観と見事にマッチしている。
架橋 大正期    橋長 5.3m  幅員 1.8m  橋高 3m

写真  9  (16)  野 田 橋       (長田代免・平原)
小橋で、個人住宅に架かる。架橋年は不詳であるが、近隣住人の証言では昭和30年頃の架橋という。もしそうだとすれば、むしろその新しさにおいて貴重な存在となるのであるが、石組みの状況等からみる限り疑問も多く、この年代判定にはまだ慎重を期すべきであると考える。
架橋年 不 詳   橋長 2.7m  幅員 1.8m  橋高 1.6m  

佐世保市(世知原町)に残るアーチ石橋  (1)

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佐世保市(世知原町)に残るアーチ石橋  (1)

佐世保市(世知原町)に残るアーチ石橋は、17橋である。
HP「お茶と石橋の街 世知原 せちばる web site」の石橋の項を参照。
散策用”せちばる石橋群マップ”は、世知原活性化施設「国見の郷」(農産物展示販売)・佐世保市役所世知原支所・生涯学習センターなどにある。
ほとんどの橋に、説明板が付けられ、主要道路入口から案内標識が整備されている。

世知原町郷土誌編纂委員会編「世知原町郷土誌」(世知原町 平成2年10月発行)295〜306頁「6.アーチ式石橋群と石造文化」による説明は次のとおり。
掲載順は、石橋の場所がわかりやすいように変えた。

写真  1  (15)  曲 川 橋      (谷口免・曲川)
橋長 5.5m  幅員 3.5m  橋高 3m

写真  2  (14)  前 原 橋      (岩谷口免・前原)
橋長 3.3m  幅員 3.6m  橋高 3.1m

写真  3  (13)  岩 下 橋      (岩谷口免・岩下)
橋長 5.7m  幅員 3.8m  橋高 2.8m

以上の3橋(13,14,15)は、いわい橋から通じる県道、梶木場線の橋名と同名の地点に、それぞれ佐々川支流をまたいでいる。
数百mおきに、ほとんど同規模、同型式の石橋群で同一設計手法にもとづいて、同時期に順次架設されたもので、小学校石垣、洞禅寺石垣などを築造した、世知原町栗迎免160の内野永雄氏(平成2年・96才)の架橋になるものである。
架橋は3橋とも昭和2年4月とされるが、多分1橋のものが代表された年代として扱われているのであろう。
内野氏の証言によると、当時は設計図などはなく、お宮の境内に実大のアーチ図を土に書いて、厚紙をきってアーチにならべ、その紙をあてて砂岩を加工したということである。
こういう事例が群として残存し、しかも昭和の初期までこれらの技法が用いられていることは貴重であるといえよう。

写真  4  (12)  い わ い 橋     (岩谷口免・岩谷口)
佐々川本流の岩谷口に架かり、吉井町の一部と境を接している。
現在の橋は、道路舗装と幅増しのため、昭和37年に上部の改良が行われているが、石橋自体は架橋時のままである。
スパンドレルの壁石は砂岩を用いているが、アーチの輪石は安山岩系の固い石を使用している。景観も雄大であるが、旧親柱の刻字によって架橋時の金額等を知ることができる。… きびしい天役によって工事がすすめられたことがうかがえる。
架橋 大正2年3月  橋長 16.3m  幅員 4m  橋高 11m