長崎県の石橋」カテゴリーアーカイブ

諫早公園の眼鏡橋近くにある桁石橋

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諫早公園の眼鏡橋近くにある桁石橋

諌早市高城町の諫早公園へ移築復元されているアーチ石橋の名橋「眼鏡橋」を見たら、近くにある趣きのある桁石橋も訪ねてみよう。
「くじら橋」「御書院の太鼓橋」「慶巌寺の参道橋」は、いずれも諫早藩のご城下、眼鏡橋のふるさとにふさわしく見ごたえがある。

慶厳寺の参道橋の親柱は、「享和三年」と刻まれている。同寺の摩崖仏三十三観音・名号石などは史跡の項で別項。
HP ” Fwd−net 長崎・諫早 ”の中「石造アーチ橋以外の石橋たちを訪ねて」による説明は次のとおり。

写真  1  第 k-002 番   く じ ら 橋       諌早市高城町(諫早公園内)
安政年間(1858年頃)
郷土の聖人、土橋多助翁が、旧好古館(現諫早市役所)の裏門にに架けた橋。現在は諌早眼鏡橋の奥に移築。

くじら橋と土橋多助翁

諫早公園の、眼鏡橋の後ろに、小さな石橋が架かっている。これを「くじら橋」という。この橋は、元々、旧好古館(現諫早市役所)の裏門に、安政年間(1858年ごろ)に架けられた橋で、今でいう、市役所と北島医院の間に架かっていたという。
橋が架かっていた掘割は、山下淵から、水を取って、輪内(仲沖)に、水を通していた、用水路です。この用水路は、今も商店街を横断して、仲沖に水を送っている。

その後、明治6年に諫早小学校を建てるため、旧道路を潰したので、この橋が小学校の裏口となったが、大正10年から、始った諫早公園造りが一応の完成をみた後、上り口にの掘割に木橋を架けたが、木陰で腐食が早いため、大正末期に、くじら橋を、諫早公園昇り口に移した。
昭和の時代になり、何時しかこの橋の謂れも、忘れ去られて行き、昭和32年の諫早水害のあと、眼鏡橋を諫早公園に移築する際、盛土をするため、くじら橋は撤去することになったが、この橋が、「くじら橋」であったことは知らなかったが、良い橋で勿体無いため、眼鏡橋の池に架け替えることとなり、現在の位置に架けられている。

この橋が、くじら橋と呼ばれるのは、現在で言う新橋の上まで、鯨が迷い込んで来ることがあったからだというが、今となっては定かではない。
この橋が、「くじら橋」の名を取り戻したのは、昭和52年頃から、城下町の調査を始めた、諫早高城会の、山口祐造氏の、ご努力に拠ったものである。…
土橋多助翁が架橋した橋は、上記の鯨橋以外に半造橋、段堂橋、田代橋、森山の多助橋(市道下名多助橋線であれば現在の下井牟田からの市道)であったという。全て石橋であったという。…

写真  2  第 k-003 番   御書院の太鼓橋      諌早市高城町(諌早高校内)
江戸時代
藩政時代の庭園に架かる桁橋

旧諌早家の御書院(諫早高校)

現存する大名庭園が、そのままの姿で残っている諫早高校のシンボル「御書院」の庭園です。旧領主である、諫早家から寄贈された日本庭園を、諫早高校の生徒達は、「御書院」と呼んで大切にしています。…
庭園の中央に、大きく配した心字池は、どの角度から見ても心を和ませてくれます。庭園内には、楠木の古木が力強く茂っています。…
紅葉が池に映えて、良い雰囲気です。この日本庭園が学校敷地内にあるんですから、諫早高校は贅沢な学校ですよね。

眼鏡橋の諫早公園とは隣接し、諌早市体育館の後ろを回る高城回廊に御書院の入口があり、この御書院に入れます。
御書院には、梅雨の前に白い花をつける「なんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)の木」がある。満開の時は、雪の積もったように見事だ。…

写真  3  第 k-017 番   慶巌寺の参道橋       諫早市城見町
享和3年(1806年)    長さ 8.0m 幅員  3.3m
筝曲六段発祥の地として有名。
諫早の眼鏡橋の川向にある慶厳寺の参道橋。摩崖仏三十三観音など見るべきものが多い。

慶巌寺(城見町)

本明川に面してあり、諫早公園の対岸にあたる。天満町〜蓮光寺〜此処、そして安勝寺と、本明川河畔に名刹が続く。
諫早の旧市街の中央に慶巌寺がある。有名な八橋検校がここで筝曲「六段」を創ったといわれる。毎年秋には、「六段祭り」も開かれる。
また、摩崖仏「三十三観音」があり、市指定有形文化財となっている。文化財かどうかは別にしても、古の民人達の信仰の深さが偲ばれる。

観音様を拝したところで、石段を上ってみよう。右手には、天明7(1787)年建立の、俳聖芭蕉を偲んだ、翁塚がある。明治の神仏分離の折に、廃寺となった、お四面さまの荘厳寺から移築した、仁王門が見事。…
仁王門をくぐって境内に入ると正面が、本堂。紋を確認すると、佐賀鍋島藩の紋、杏葉が打たれている。慶巌寺は、二代藩主の室、慶巌院の志望により、慶長10年に建立されたもの、二代直孝公の時代に、佐賀鍋島藩と諫早藩の上下関係が確定したので、当然の紋ともいえる。
境内には、奇縁があって、この地に祀られる名号石もある。そのほかにも、水害の慰霊碑や十六羅漢像、なんと言っても、普段は見れないが、諫早家家宝、明珍の鎧も、ここで保管されている。

宇久町に残るアーチ石橋  佐世保市宇久町

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宇久町に残るアーチ石橋  佐世保市宇久町

佐世保市宇久町に残るアーチ石橋は、1橋である。妙見神社の旧参道に架かる「妙見橋」。
宇久平港ターミナルから右へ佐世保市宇久行政センター前を通りながら、広い道を左折して宇久小学校角まで上る。信号を左へ県道160号線に入る。宇久高校を過ぎて300mほど行くと、右手に「愛宕山道」のゲートがある。
この手前に川が流れ、県道脇から見ると上流側にアーチ石橋がわかる。

ゲートの山道をたどると10分ほどで県道から回り込んだ車道へ出る。妙見神社(山本神社)はこの上にある。
大木とともに案内してもらった地元の大岩先生の話では、旧参道の橋「妙見橋」は1年ほど前にわかり、佐世保市(吉井町・世知原町を含め)33番目のアーチ石橋。架橋は100年くらい前ではないかということであった。

HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は以下のとおり。
同HPによると、妙見神社拝殿脇の築山に小さな桁石橋があり、平成9年まで現役の石桁橋であった「観音橋」(場所?)の板石も現地に保存されているとの記事と写真があるので、同HPを参照。私は見忘れた。

写真      第 169 番   妙  見  橋    佐世保市宇久町平郷 
宇久島にもあったアーチ橋。小値賀や上五島にも期待したい。
架橋年は未確認  石工 烏山 伊勢蔵   長さ 5.5m  幅員 2.8m
市街地から登る。県道に出て宇久高校を過ぎて道が直線になったら200m程度。妙見神社への旧参道に架かる。(傍にあるゲートには愛宕山道と記載)
長崎県の離島には、対馬厳原と五島福江にしか残っていないと思っていたら、こんなしっかりした石橋が残っていたとは驚きだ。

小値賀町に残る桁石橋  北松浦郡小値賀町

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小値賀町に残る桁石橋  北松浦郡小値賀町

小値賀町に残る桁石橋。石板橋と牛渡橋は小値賀港ターミナルの観光案内所で聞いた。

写真   1   石  板  橋              笛吹郷字笛吹
小値賀港ターミナルのすぐ裏手の路地にある。
古い町並みの名残りがあり、格子戸のある家がまだ残る。小値賀港バス停から笛吹本通りを行き、すぐの食品店「エイダン」先角から右手路地に入ると、その奥に石板橋はある。
6本ほど板石を渡した桁橋。両脇は人家で溝下に潜れない。
この橋は、観光案内所でもらえる「勇魚捕り加子達の名残 漁師町レトロ案内図」に次のとおり説明と写真があった。中、上の橋は、人家が建て込み上流の溝(柳田水道)を確認できない。「上橋」はあるようだが、「中橋」は上面をアスファルト舗装されているらしい。
② 板石橋  江戸時代の享保3年(1718)に完成した。上、中、下の石橋の内の下の橋。

写真   2   小値賀町歴史民俗資料館の中庭池の橋    笛吹郷字木ノ下
笛吹本通りの親和銀行小値賀支店1つ手前の路地を左方へ入る。
資料館は鯨組小田家の住居跡。鯨捕り関する資料、小値賀の民俗資料が展示されている。
その前の石畳坂は「長崎県まちづくり景観資産」に指定されている。
中庭の池に2つの石橋があった。築庭は小田家の以前といわれている。

写真   3   牛  渡  橋              前方郷字牛渡
HP「おぢかの歴史」の資料である小値賀町教育会「小値賀町歴史・文化フィールドワーク」によると次のとおり、
2 牛ノ塔(町指定史跡)
現在一島である小値賀島はその昔,前方地域とその西側の地域の二島に分かれていた。松浦平戸家15代を継承した肥前守源定は鎌倉時代末期,命じてこの両島間を埋め立て田となした。現在神殿と新田と呼ばれている一帯である。
この工事は「潮見様」という人柱の伝説を生むほどの難工事で,使役した牛が多く犠牲になったという。これを哀れんだ源定は工事が竣工した建武元年(1334),これら犠牲となった牛を供養するため舟瀬の海岸に妙典経約七万字を書写した一字一石経を埋納し,その上に供養塔を建立した。
これが『牛ノ塔』である。現在も毎年4月に牛ノ塔祭りが開催されている。

以上は現在、中村郷船瀬海岸に残る「牛ノ塔」の話だか、船瀬から島の北東部へ県道161号線で回ると、今も地峡をなすような前方郷に「牛渡」の地名と集落があり、現在の県道路肩下の溝のような小川に桁石橋の「牛渡橋」が残っている。
HP資料のとおり、昔、小値賀がまだ2島であった頃、この「牛渡橋」は両島へ牛を渡すための貴重な石橋だったとも考えられるが、考証文献は不明。「牛渡橋」と言われる橋のすぐ上にも、あと1つ桁橋があった。「牛渡」バス停のすぐ先の県道下に「牛渡橋」はすぐ確認できる。

御崎浦鯨組納屋場跡にある桁石橋  平戸市生月町御崎

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御崎浦鯨組納屋場跡にある桁石橋  平戸市生月町御崎

平戸市の生月島に渡り、島の北端「大バエ灯台」へ行く途中の県道42号線の道脇で見かけた桁石橋。
場所は今、御崎漁港として整備されている生月町指定史跡「御崎浦鯨組納屋場跡」碑の近く。
当時の海岸線はまだ陸寄りと思われ、鯨の解体場や納屋は今の県道敷きの部分にあったのではないだろうか。石祠が近くに2つあり、生月新四国霊場札所と地蔵2体の石祠。 

この浦の中央に田んぼから小川が流れ、すこし広いと思われる畦道らしいものの下を覗くと立派な桁石橋であった。すぐ下流も貯め口らしい複雑な造りをし、現在の県道新橋が架かっている。
町が設置した納屋跡碑の説明板は次のとおり(□は草と重なって写り、わからない字)。

生月町指定史跡  御崎浦鯨組納屋場跡  昭和46年3月29日指定

享保14年(1729)益富又左衛門正勝が、この地に、舘浦で営んでいた鯨組を移した。
この一帯を石垣で囲い、網納屋、鍛冶網大工□等の納屋、赤身納屋、東蔵尾羽毛蔵、苧蔵、塩蔵大納屋、道具納屋、油壺場、小納屋、□□□□□納屋、勘定納屋、大工納屋、米倉、新筋蔵、艪納屋、油貯小倉、油貯六間倉、荒物貯八間倉等各一宇、筋納屋二宇、羽差納屋一宇、加子納屋三十宇、□轤八箇等があり、海岸に鯨の解体場、船曳揚げ場があり、当時の大工場であり、日本最大規模の捕鯨基地でもあった。享保十八年に鯨の□□□を導入してからは、少し離れた古賀□□□□□網干し場を設けている。
天明8年(1788)絵師、司馬江漢は生月の益富家に1カ月滞在し、この間この地を訪れて捕鯨その他をスケッチしている。又、明治24年には、幸田露伴が、この地や羽差をモデルとして、小説「いさなとり」を発表した。
捕鯨不振により文久元年(1861)基地は閉じられた。
平成3年3月25日設置  生月町教育委員会

説明板のとおり、ここは史実がはっきりした当時最先端の捕鯨解体場である。HPを見た限り、この桁石橋は全く顧みられていない。
鯨の解体・保存・加工には真水も必要であろう。なによりも多くの職人の生活があった。近隣からの通勤道もあったろうし、出荷の運搬道も必要である。
この川と水場、道と桁石橋、石垣、石祠などは、地元で当時の解体場の様子を描いた図絵と詳しく照らし合わせ、史跡としての価値を一度考えていいのではないだろうか。

御崎浦にあった御崎捕鯨納屋場のジオラマは、「生月町博物館 島の館」に展示物としてある(HP「写真満載九州観光」に写真あり)。これは掲げられないので、代わりにHP「鯨の郷土誌 – 生月町」から最後の写真とおりの捕鯨図説『勇魚取絵詞』を 。
江戸時代後期、生月島御崎浦を拠点にした益冨組の捕鯨を描いた木版の図説。中の「生月御崎納屋場背美鯨漕寄図」である。これが最も参考となりそうだ。

五島市の桁石橋  石田城蹴出門の石橋・岩川の石橋  

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五島市の桁石橋  石田城蹴出門の石橋・岩川の石橋

五島市に残る桁石橋の2橋。アーチ石橋の「石田城本丸眼鏡橋」は別項を参照。
「石田城(福江城)蹴出門の石橋」は、福江港ターミナルから「五島観光歴史資料館」の通りへ出て、外堀公園の通りを右回りして行くとある。左回りのときは、本丸眼鏡橋から心字池前を通り城外へ出る門が蹴出門である。

「岩川の石橋」は、福江小学校側から武家屋敷通りを抜け、城山町バス停から路地へ入る。または最教寺前の市道を通って行く。
HP「長崎県石橋を訪ねて 長崎の石の桁橋等」による説明は次のとおり。

写真   1   第K−050番  石田城蹴出門の石橋    五島市池田町
嘉永6(1857)年  長さ  m  幅員  m  スパン  m
五島市の石田城の石橋と言えば、この橋が上げられる。本丸眼鏡橋と言っても五島市民でさえ知らない人が多い。かつての石田城の通用門に当たる蹴出門は、幾度かの改修は加えられたものの、江戸時代最後の城としての風格が有る。

慶長19(1614)年、江川城(現在の五島第一ホテル周辺)を焼失したため、寛永14(1637)年に石田陣屋を藩庁にした。盛成は海辺への築城に際し福江川河口に、今日でいう灯台にあたる常夜灯「常灯鼻」を弘化3(1846)年に建設した。幕末の嘉永2(1849)年、五島盛成の代に築城が認められ、最後の藩主である盛徳の代になった文久3(1863)年、ようやく念願であった居城を完成させた。
同時期に着手した松前城が僅か5年で完成したのに比べ、竣工までに14年の歳月を要したのは海城の特殊性もあったろうが、松前城はいわば国家事業として築城されたのに対し、一小藩の事業であったという財政上の理由が大きかったと思える。

写真   2   第K−048番  岩川(ゆわがわ)の石橋   五島市上大津町(城山・山崎)
岩川の湧水水場の石橋
年代は不詳では有るが、同形式の水場(かもん川)が永正4年(1507)に造られている。
長さ m  幅員 m  スパン m
武家屋敷通りから脇道に入り善教寺の前にでる。そのまま市道を進むと左手下に水場が見える。今歩いている道の下から湧いている。その水は清浄で今でも飲めるという。岩川の水場だ。
島原の湧水の水場でも同じだが、飲用や炊事に使う水は上流側。橋の下流の水場は洗濯や雑用水に使われている。川底にも石張りが施され、橋もカッチリと組まれている。

20年ほど前に書かれた案内看板は判読しがたいが、藩政時代には入り江が、この近くまで迫り貿易船の用水としても使われたという。郡家真一氏が、昭和49年に発行した「五島物語」に寄れば、鎖国後も中国・朝鮮との密貿易が行われていた五島藩の歴史の一端が思い出される。

五島市に残るアーチ石橋

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五島市に残るアーチ石橋

五島市に残るアーチ石橋は、1橋である。五島市池田町の「石田城(福江城)本丸眼鏡橋」。
福江港ターミナルの通りからすぐ見える建物は「五島観光歴史資料館」。 石田城本丸眼鏡橋は、この裏手となる長崎県立五島高校の正門入口にあるので、外堀公園の通りを回って行く。
同城の「蹴出門の石橋」と市街「岩川の石橋」は桁石橋であるので、別項を参照。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真      第 103 番   石田城本丸眼鏡橋    福江市池田町
嘉永6(1857)年  長さ 8.6m  幅員 約4.7m
石田城祉は県立五島高校になっている。
日本で最後に出来た城、石田城の石橋と言うと外堀に架かる桁橋ばかりが紹介されるが、城内に入っていくと立派な石造アーチ橋に出会える。

平戸市に残るアーチ石橋  (2)

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平戸市に残るアーチ石橋 (2)

平戸市(田平町を除く)に残るアーチ石橋は、4橋である。国指定重要文化財「幸(オランダ)橋」は、(1)を参照。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真  2  第  24 番  法音(報恩)寺橋    紺屋町の鏡川に架かる。
元禄10(1697)年頃     長さ 5.3m  幅員 3.3m程度
平戸小橋と聞いていたが、法音寺橋と言う名前であった。
藩主に願い出て幸橋の幸(オランダ)橋を請負った平戸の石工達が、事前の習作として架けた橋だと伝えられる。橋の名前はこの地にあった寺の名前によるとのこと。

写真  3  第  25 番  誓 願 寺 橋     紺屋町の鏡川に架かる。誓願寺入口。
嘉永元(1848)年頃      長さ5.3m程度  幅員 3.3m程度
法音寺橋のすぐ上流にあたる。
幸(オランダ)橋から、150年程は下った後に作られた橋。しかし加工は幸橋どころか法音橋より劣るような気がする。
布積みの石の加工は一般的、また楔となる石の周辺の石にも隙間が見られる。石工の技術はなかなか伝授は難しいものかもしれない。

写真  4  第 166 番  安満川の橋(大越の橋) 平戸市内から紐差に向かう旧県道に架かる。
明治37?38(1904?1905)年との地元の方の情報  長さ 約 2.5m  幅員 約3.8m+拡幅
紐差に向かって大越の峠から下り始めてすぐ右側(市役所付近からは10km程度)
橋を実際に見てみると切石の精度も高く加工の様子から、県内に多く残る戦後の県道整備時代の架橋と思われる。(下記の記事で修正が必要?)
橋の上流側は木柱で50cmほど拡幅されている事から、現在の道路が出来るまで使われていた様子がしのばれる。

平戸市に残るアーチ石橋  (1)

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平戸市に残るアーチ石橋 (1)

平戸市(田平町を除く)に残るアーチ石橋は、4橋である。
まず最初に幸(オランダ)橋。国指定重要文化財。平戸城の正面口となる平戸市役所横の裏手に架かる。側にオランダ船錨実物展示と英国商館遺址之碑があった。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。後は長崎県HP「長崎県の文化財」から。

写真   1  第   3 番  幸(オランダ)橋     平戸市岩の上町
元禄15年(1702) 国指定有形文化財  長さ 18.6m  幅員 5.1m
藩主が架橋を長崎の石工に依頼しようとしたところ、地元の石工たちが面目に掛けてと嘆願して工事を請け負ったといわれる。
長崎の中島川石橋群が1634〜1700年に続々と架橋された、ちょうどその後に続く時期に架橋されたのだから、長崎の石工に指導して貰えば簡単なのに、自分達の面目に掛けてと嘆願してまで工事を請け負った石工達の心意気が小気味よい。
【オランダ橋の由来】
平戸に大工の棟梁で、豊前(とよさき)なるものがおり、オランダ屋敷の工事を請け負った際に入口を石造りのアーチ型にするよう指示され、その際にオランダ人からアーチの石組みの技術を学び、模型まで作って習得したと言う。この技術を地元の石工達にも伝授していたので、オランダ屋敷の門構えの技術が生かされたから、オランダ橋と呼ぶとか?
高欄の細工も素晴らしいし、枠石の接点の布積みの加工も工夫が見られる。

幸   橋  重要文化財(国指定)・建造物

指定年月日 昭和53年1月21日  所在地 平戸市岩の上町亀岡  所有者 平戸市
松浦公30代雄香棟(ゆうこうたかし)が元禄15年(1702)に架けた石橋。はじめ26代法印鎮信(しげのぶ)が亀岡に日の出城を築いたのは慶長4年(1599)であったが、平戸港と鏡浦のため、城と城下町との往来は渡船にたよった。寛文9年(1699)29代天祥鎮信がここに初めて木橋を架けたので、人呼んで幸橋といったという。以来この名は、石橋に改架された後も残された。
また、別名をオランダ橋ともいったのは、慶長14年(1609)平戸にオランダ商館が設置されて、石造建物が建築された時、その工事に関与した石工豊前(とよさき)がアーチ式の技術を会得し、これを伝承した石工達が架けたからであるという。

松浦市に残るアーチ石橋

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松浦市に残るアーチ石橋

松浦市に残るアーチ石橋は、1橋である。白浜免の「悪太郎(巌)橋」。
国道204号線沿いの松浦鉄道の「松浦発電所前駅」から踏切を渡り、右方の市道へ入ると、すぐの悪太郎川に架かる。
扁平なアーチを受ける五角形の起拱石は見事。拡幅された新橋の脇に昔の親柱が3本残され、これによると「巌橋」となっている。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真     第 126 番  悪太郎(巌)橋       松浦市白浜免
大正5年1月(平成14年3月拡幅)  長さ 7.0m  幅員 4.1m
市道白浜中野線の悪太郎川に架かる。
松浦市の教育委員会を訪ねたおりに教えていただいた橋。
【ガイド】国道を松浦駅前から田平に向かっていく。九電入口の信号から左手に入る。MRの踏切を越えて右手に入り、右前方に橋が見える。

平戸市(田平町)に残るアーチ石橋

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平戸市(田平町)に残るアーチ石橋

平戸市(田平町)に残るアーチ石橋は、1橋である。小崎免の「神山橋」。2,3は桁橋とコンクリート造橋であくまで参考。
1の「神山橋」は、松浦鉄道東田平駅の下側の谷にあり、国道204号線の駅手前「市瀬商店」角から左の旧道の道へ入る。

2の「小崎の桁橋」は、同国道を先へ行って、ちょうど国道がカーブする所。旧道がここで合する手前にある。
3の「坂瀬川アーチ橋」は、同国道の平戸市と松浦市の市境にあるコンクリート造橋。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。3はN氏HPのデータから。

写真  1  第 145 番  神 山 橋        田平町小崎免
架橋年は不明(橋梁台帳のページが無かった為)  長さ 5.5m  幅員 4.5m
橋が有ると判っていても、横から見ないと判らなかった。
MR東田平駅の向かいの店舗の裏を通る町道に架かる橋。径間が2.5mで1.5m程石積で持ち上げた上に半円のアーチが架かる。
切石の加工は正確で、カッチリと組まれている。セメントによる接着工法の様子から、比較的新しい石橋であることが判る。改修の様子も見られない。 
ここから、松浦方向に走ると、石桁橋の小崎の桁橋も見ることが出来る。

写真  2  第 k-032 番  小崎の桁橋        田平町小崎免
架橋年は未確認    長さ 4.2m  幅員 3.0m  スパン  1.4m
国道からも見えるがコンクリートの桁橋と思い込んでいた橋。

写真  3           坂瀬川アーチ橋      田平町小崎免
2006.06.10 神山橋の近くで作業されている方から、ここにも石橋があると聞き、駆けつけました。国道204号線、平戸市と松浦市の境です。
コンクリート巻きたてです。果たして石橋だったのか。