世知原町洞禅寺にある大正七年「石橋新設紀念」碑の石橋とは?

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世知原町洞禅寺にある大正七年「石橋新設紀念」碑の石橋とは?

平成20年5月26日、佐世保市世知原町へアーチ石橋17橋を見に行った。世知原中学校前から「きりのき橋」へ行く市道へ入ると、すぐ左に「洞禅寺」があり、寺の山門先の道路沿い住職宅入口に、気になる石柱が両側に立っていた。
写真のとおり、右の刻字は「上大菩提 石橋新設紀…」「大正七年三月吉日」である。左のは「下化衆生 …」。境内を見ても池や石橋はなく、どの石橋のことか、調べてみたいと思った。

残念ながら、石柱の写真はこの1枚のみしか写していない。寺の前は市道をはさんで北川内川が流れ、市道は広く改修されているので、寺の参道が昔は川にあったことも考えられる。
帰ってから世知原町「世知原郷土誌」平成2年刊を公民館から借りて読むと、295〜306頁に「6 アーチ式石橋群と石造文化」があった。

「倉渕橋」では、「大正七年(完成は八年三月)、県道倉渕橋をアーチ式石橋に架替えた」とあり、年代的にこれが同時期だ。
寺や石工から見ると「岩下橋・前原橋・曲川橋」で「三橋は…同時期に順次架設されたもので、小学校石垣、洞禅寺石垣などを構築した世知原町栗迎免一六〇の内野永雄氏(平成二年・九十六才)の架橋になるものである」。ただし「架橋は三橋とも昭和二年四月とされる」と出てくる。

石柱のことを、石橋群マップを作成されている世知原地区生涯学習センターの松永先生へ電話で尋ねた。先生はこの石柱の存在を知っておられ、自分も気にかけていたが、まだ調べていない。資料もないらしいとのことだった。

以下はその後の展開である。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」N氏には、大変な指導をいただき世話になっているので、少々期待を込めてメールにより画像を送った。、
さっそく「日本の石橋を守る会」関係から、地元世知原の石橋研究家・画家の末永先生へ連絡を取ってくださり、わかった結果が次である。
末永先生が足を運んで調べられた内容を、そのままの文により紹介したい。

おはようございます。早速洞禅寺へ行ってきました。
なるほど裏山門に一対の石柱が建っていて正面から向かって右に「石橋新設紀念」と刻まれています。側面には「大正七年三月」が読めます。左の柱には「松浦炭礦」その側面には、石工の名が刻まれています。

この松浦炭鉱というところから、「新設」はおそらく倉渕橋だろうと想定できます。というのは、
①「紀念」は「はじめる」の意味に捉えられ、「できた」は記念
倉渕橋完成は大正8年3月ですから大正7年の起工は間違いありません。
②松浦炭鉱のかかわり
明治33年に、松浦炭鉱が現倉渕橋に、木橋(土橋)をかけたという記述があります。
石橋への架け替えに関する著述で松浦炭鉱の名前は出てきませんが、当時採炭一色だった世知原においては炭鉱の力は相当なものだったと考えられます。
したがって、木橋を石橋に架け替えるに当たって、洞禅寺に祈願したものと思われます。
③大々的な石橋
石工の名前は磨耗していてよくわかりませんでしたが、「世知原」という字が読めましたので民族資料館を手がけた地元の石工の名前が出てきそうな気がします。(調査継続)
これほど大きな祈願の石柱を立てて(安全、成就を)祈念した橋と言えば、倉渕橋しかないと思われます。

以上の点から、「倉渕橋をかけるに当たって寄進された石柱」と思われます。
こんなそんな話をしていたら、若住職が気になる石柱がもうひとつあると案内されました。後からついていくと、高さ約50cm位の親柱で、「延命橋」という文字が彫られていました。
若住職はそれがどこの橋か全く見当もつかないといっていましたが、実は、洞禅寺の山門への坂の上り口にアーチ石橋が架けられていたのです。
昭和51年ごろまであったそうです。本殿を建て替える時に、この坂道も作り変え、そのときにアーチ石橋は壊されたようです。
おそらく「延命橋」はその親柱ではないかと思われ、写真等を探していただくようにお願いして帰ってきました.
以上お答えします。

まだまだ世知原でも調べれば、おもしろく貴重なことがあるようだ。N氏と末永先生には、深くお礼申し上げます。