江戸期のみさき道 (往路後半)」カテゴリーアーカイブ

高浜海水浴場前の八幡神社  長崎市高浜町

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高浜海水浴場前の八幡神社  長崎市高浜町

「みさき道」は高浜の町中から高浜海水浴場のある八幡神社前に達する。八幡橋は渡らず河口沿いに墓地の先端を行き、やがて海に突出した老松茂る「しのぶ」の丘を越え古里へ入る。「しのぶ」の丘とは、今「忍の地蔵」のある料亭松美のところである。
海水浴場手前の八幡神社は、横の広場に公衆トイレがあり、「みさき道」歩きのよい休憩地点となる。現在の神社は昭和58年9月に改築された。少し神社に残る珍しいものを紹介しておく

まだ昔の時代、前の川に架かった「八幡橋」の欄干を一部残している。現総代の本村藤夫さんの話では、橋はアーチ石橋でなく、間に支柱のある桁橋だった。
「手洗石」は塚崎病院寄贈の新しいものとなっている。昔のその石や鳥居・燈籠が離れた松林に片付けられていた。これを見にきたのは、長野観音堂跡にある珍しい手洗石と同じようなものが、八幡神社にもあると「野母崎町郷土誌」が記していたためであるが、大きさや造りも全然違うようだ。手洗石はこれを生かしてほしかった。

新殿の右側奥に、旧鳥居の額や祠が残されている。祠の扉裏には「文化十一申戌年七月一日」と左に「世話人」5人の刻みがあった。祠の神体は移しているため、何を祀っているかわからないが、小さな狛犬が可愛い。この一角も「ラビリンス」もの。郊外編でまとめたい。

「大正九年三月設」の標石のある石垣  長崎市高浜町

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「大正九年三月設」の標石のある石垣  長崎市高浜町

これは路地裏探検「ラビリンス」の部類の郊外編。「みさき道」の道筋に目にするので、一応紹介しておく。長崎市高浜町の町中の家にある。
「みさき道」は先項の長野観音堂跡公民館の方へ行かず、高浜郵便局から右のまっすぐな小道に入る。すぐ川沿いの車道に出るが、角の商店から小道を直進する。道は緩やかにカーブしながら国道499号線と出合う。高浜バス停の先となる。

この国道に出る手前に、見事な石垣と塀のある広い屋敷がある。左側の石垣の上を見ると、中間くらいでコンクリート塀が白壁となり、その境目に「大正九年三月設」の標石をはめ込んでいる。なかなか凝った石垣の造りと標石である。
榎の大木がある国道側に玄関があり、新しい家となっている。坂を上がって覗くと庭も立派だった。

今来た道を振り向くと、長崎半島南の第一高峰、ゴルフ場内の二ノ岳(標高325.5m)が遮るものなく聳える。いかにも街道の道である。なぜ「二ノ岳」と言うか。ピークが2つあるためらしい。
この家は本村宅。高浜に本村姓が多い。街道沿いであり特別に由緒ある家かと思ったが、近隣の人に聞くと、明治時代からの大農家であったようだ。
「みさき道」は国道を横切り、なお古い家並みの中を行く。高浜海水浴場前の八幡神社前に出るが、八幡橋の架かる川の河口は渡らない。

 「○月江金公」の石碑  高浜の長野観音堂跡公民館の庭先

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「○月江金公」の石碑  高浜の長野観音堂跡公民館の庭先

長崎市高浜町野中の「奉供延命水」水場の碑に続き、高浜の町中にある「みさき道」沿いの珍しい碑について、次項とも2つを紹介する。
「みさき道」は、延命水から高浜の町中へ下る。野母崎高校の正門前を通り、橋を渡って高浜警察官派出所と高浜郵便局の前の道を直進する。ここは分岐となり、真直ぐな小道が「みさき道」だが、左へ曲がる広い車道を行くと、すぐ左手石垣上に榎の大木が目立つ「長野公民館」がある。

新しい公民館は4年前に建った。この高台が「長野観音堂」の跡地である。公民館建設のため、観音堂が壊され石碑などが庭先の隅に移されている。
「延命水」でふれた11月初め長崎市高浜公民館からもらった資料「たかはまの字名の由来考」の43頁、「本村名 長野」の中にこの「○月江金公」の碑を上のとおり記していた。庭先に横倒しされ、「野母崎町郷土誌」にも記録がなかったようなので、これまで全く気づかなかったため、12月15日に碑を確かめに行った。

写真のとおり碑は横倒しにされてあった。しかし、上部の「○」の刻みは大きくすぐわかるが、「月江金公」の字がわかり難い。浜石の自然石に浅く刻んだもので、字は磨耗しているようだ。「月」の字のみ、石面のくぼんだ所に掘られ、何となくわかる。
「○」の印は、「禅僧のなかでも特に高僧だけ許された禅僧の印だそうで」とは新しい見解であった。これまで深堀や末石などの墓地・地蔵堂で同じ様な石に、上部に「○」や梵字を刻んだのは多く見ていて(別項あり)、これは経筒を納めた「経塚」と思っていた。

刻字は碑の石を見たかぎりわからない。今、この画像を首を左にして眺めると、たしかに「月江金公」とうっすらと写っている。資料の著者は、高浜の入江の月夜を風雅な文で綴っている。この碑の記録はロマンを感じる資料である。
なお、昭和61年「野母崎町郷土誌 改訂版」144頁から「長野の観音堂」は次のとおり。緑泥片岩の手洗石が珍しい。この観音堂は、脇岬観音寺と関係はないらしい。
榎の大木は公民館隣家の人に聞くと、堂の裏手にもあと1本あったが、幹が伸びて下の家にかかっていたため伐採している。

「長野の観音堂」
高浜の正端寺の裏山の北側に台地が出っぱっている。これが長野の観音堂である。入口に念仏塔がある。この境内に宝篋印塔の相輪がある。簡略化されており、高浜小学校出土と同じである。又、緑泥片岩の手洗石は、加工して、岩石のさけ目をつけており、製造年月日はないが、中世起源と考える。なお、これと同じ様式の手洗石は浜添の八幡神社境内にある。 

高浜延命水の碑文図と野中の一本松跡場所がわかる

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高浜延命水の碑文図と野中の一本松跡場所がわかる

「高浜延命水の水場とはどこか。野中の一本松はどんな松だったか」については、先の項で野母崎町教育委員会「のもざき漫歩」の話なども載せて紹介していた。
このたびわかったのは、この石碑に刻んでいる碑文図と、戦後すぐ枯れた野中の一本松が立っていた場所である。11月初め長崎市高浜公民館から講座の資料「たかはまの字名の由来考」(著者は古里出身。現在錦2丁目にお住まいの松尾秀喜氏)をもらった。高浜地区の南越・本村・以下宿・黒浜の旧名とその小字名の由来について、詳しくよくまとめられている資料である。

この資料の52頁に「本村名 野中」の項があり、「野中」の呼称の由来と「延命水碑」の図があった。本日12月15日、図の刻字を確認に行った。
右面の「奉供延命水」と、正面の「ひょうたん」マーク及び左角の「安政四年中秋吉祥日」と「施主 長崎市木下町 中尾茂助 高浜世話人 市三郎」は前からほぼ判読でき、他資料にもほとんど記していることである。
わからなかったのは、「ひょうたん」マークの右下の字で、図では上の資料画像のとおり、二行を判読し描いている。

現地の碑を本日、苔をはがすなどしてよく見たが、結果は前と変らなかった。よほど学のある人が拓本でも取らない限り、この二行の字を判読できない。
「たかはまの字名の由来考」は、延命水の水場が「御崎観音詣で」の道(みさき道)の「一休する場所」であって、「年々先豊水の因」となるよう願いをこめて碑が奉供されたことを記録した貴重な資料である。

戦後枯れた「野中の一本松」が立っていた場所は、高浜の町中で偶然出会った本村藤夫さんの話からわかった。氏は現在、高浜海水浴場前の八幡神社総代。昭和20年当時は中学生で16歳。
一本松は枯れていたが、この延命水の地蔵堂のすぐ右脇に立っていた。根元には空洞があり、人がかがんで1人は入れた大きさだったと話された。場所は植林林前にまだこんもりしている。

高浜の町中と古里までの道

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高浜の町中と古里までの道

A 高浜の町中はどこを行ったか
延命水から毛首公民館前を通り車道のカーブは近道して、野母崎高校の横にある地蔵堂に出る。いよいよ高浜の町に入るが、町中も街道がどこを通ったかおろそかにできない。高校の正門に出て学校を回るように行って橋を渡ると高浜郵便局に出る。
この先、道は二手に分かれるが細道をまっすぐ進む。左の車道を行くと少し先の高台に長野観音堂があったが、最近壊され公民館に建て替えられている。入口に念仏塔・宝篋印塔の相輪・手洗石がある。脇岬観音寺と関係はない。川端の商店前で二手の道はまた合い国道を横切りまっすぐ陰平へ進む。この途中に地蔵がある。海水浴場前に出るが川は渡らない。「肥前全図」に表れる「三反(友は誤)田川」はこの川らしい。

B 高浜から古里まで海岸を行ったか
関寛斎日記は「水際の奇岩上を通る凡そ二十丁」と記して、高浜から堂山峠の登り口である大古里まで海岸を行ったように感じるが、そうではない。岩を巻きながらきちんとした山道の街道がある。
高浜海水浴場から正面の墓地の脇を越し、埋立て前の海岸線を行き内野自動車手前から家の間の道に入る。先で畑道となり上に続くが、そこには行かず右へ竹薮をかき分け横に入ると、高浜温泉の上で料亭「松実」の裏に出る。後はきちんとした道で部落の中を通って龍田神社前を行き古里公民館前に出る。この先の小店の前などは距離が短く波がひどい日も、大古里まで海岸を行かれたようである。
なお、料亭「松実」の山手側建物の駐車場奥に、ガラスサッシの地蔵堂がある。「忍の地蔵」というのはこれである(別項)。

高浜延命水の水場とはどこか 野中の一本松はどんな松だったか

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高浜延命水の水場とはどこか 野中の一本松はどんな松だったか

尻喰坂を越し以下宿の南谷を上ってきた「岳路みさき道」との合流点でもある現在の町道の付け替え地点(小さなアンテナ塔がある)から300mほど行くと、植林の谷筋から水が流れ、かたわらに地蔵尊が祀ってある。
自然石の大きな碑があり、「奉供延命水」「安政四丁巳年仲秋吉祥日 長崎今下町施主中尾民助 高浜村」とある。道中の格好の水場であったろう。しかし、今は上がゴルフ場となっているため沸かして飲むよう注意書きがある。

この側に「野中の一本松」と言われる松があった。高さ20mもあり、根元に大きな空洞があったとして、次のとおり「のもざき漫歩」でおもしろい民話が創られているが、松の木はあまり考えられない。戦後、松ヤ二採取で枯れたという。

野母崎町・野母崎町教育委員会「のもざき漫歩」平成5年から
6 野中の一本松
現在、毛首の集落から東北の方向に三百メートル程へだてたところに『野中』という字があります。そこは徳道を経て三和町川原の方へ通じる道がひらけています。その途中に大きな松の木が一本あったことから『野中の一本松』と、いつのころからか村人は呼んでいたそうです。
それはそれは大きいばかりでなく、枝振りの美しさも他に類を見ない松でした。てっぺんまでの高さは二十メートル、周りが十五、六メートルもあったろうといわれています。まして、この木の近くに混々(滾々が正)と清水が湧き出て、通行人は言うまでもなく、当時黒浜、以下宿から本村の学校へ通う子供たちの憩いの場所でもありました。…
この松の木の近くに、白いコケでおおわれた石碑が建っていますが、さらにそばにはお地蔵さまが祭られてあります。この松と碑とお地蔵さまの三体には何か因果関係があるのではないかと思われます。しかし、現在では巨木はなく地蔵さまと碑が、むかしの物語を秘めて、語ることもなく残っているだけであります。

「みさき道」本道は、徳道から高浜延命水へ下った  道塚などが証明

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「みさき道」本道は、徳道から高浜延命水へ下った  道塚などが証明

A 徳道の里程を刻んだ道塚はなにか
野母崎徳道の車道三叉路に立つ大型道塚で、「長崎ヨリ五里」「御嵜ヨリ二里」とある。古い道塚と思われがちだが、「文政七年(1824)申十一月 今魚町」とある。今魚町系の建立年のある道塚では一番新しく、観音寺の「道塚五拾本」の寄進の約束から40年が経過して立てられた。
なぜここに里程を刻んだ大型道塚が立てられたか。ここはまっすぐに以下宿に下る山道があった地点で、少し手前では黒浜へも分岐する。その道が「みさき道」と交差する。徳道は当時から半島交通の要所であって、字名は「得な道」の意味があるらしい。

B ゴルフ場の裏門に入ると2本の道塚があるが、これはなにか
ゴルフ場裏門の作業棟の前の小屋下に2本の道塚がある。作業員の方に断わって見学させてもらうことができる。1本は墓石(「庄五郎地蔵」という。別項あり)転用「右御崎道」「左川原道」、その5mほど奥にあと1本「みさき道 今魚町」「上川原道」の2本が並んである。ゴルフ場の造成のとき、ほかの場所で見つかりまとめて移設されたかと思えたがそうではない。
高浜へ行く「川原道」は川原から徳道に上って、この地点で「みさき道」と合流する。その川原道の名残りは、道塚どおり作業棟上のサイクリング道路や町境の一軒家の横にある。明治の地図もそのとおりであった。
この道塚のある場所は茶屋があったと言われる。小屋の石垣の下に水が流れ、作業棟あたりは広い谷間で水田が多かった。「みさき道」は岬木場に行かず、道塚どおり高浜へ下る。関寛斎も高浜に出た。これが「みさき道」の本道である。

C ゴルフ場の中を「みさき道」はどう通っていたのか
野母崎町の高浜へ下る旧町道は、ゴルフ場の中を通り毛首の延命水のところに通じていた。今はゴルフ場の造成があったため、徳道の道塚地点から車道を以下宿の方へ少し下った途中から、ゴルフ場の敷地を外周するようにして新道が作られ、延命水の手前で旧町道と合う。明治の地図によると「みさき道」はこの旧町道沿いにほぼあったようである。今は調査のしようがない。
なお、ゴルフ場道塚から下った次の町道付替え点に出る手前の山道分岐に「みさき道」の道塚があったことが判明している。しかし、ゴルフ場の造成によって失われているようだ(別項調査)。

D 町道の付替え地点はどこか
町道の新道と旧道の付替え地点が、ゴルフ場の道塚から下ってきた「みさき道」の道である。明治の地図からその地点は延命水の手前あたりと見当をつけた。一方、別に述べたが、蚊焼西大道から分岐し蚊焼・岳路・黒浜・以下宿を通ってもう一つの「岳路みさき道」がある。これは岳路に道塚があることから推定した道である。
以下宿の南の谷から山道へ入って尾根に上がると、天保4年の地蔵祠があり農道となり、延命水手前300m位で町道の新道と合う。ここにはアンテナ塔と道路向かい側には取水タンクがある。このあたりは崖を切り取って新道が広げられている。崖の脇に回って旧道跡を探すとすぐあった。ここが町道の付替え点であり、「岳路みさき道」との合流点であった。後日、野母崎町役場で確認した。 

永一尾の見晴らし地点  休憩用ベンチと展望

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永一尾の見晴らし地点  休憩用ベンチと展望

秋葉山口の郷路八幡、妙道尼信女墓を過ぎ、ほどなくすると突然、外洋の視界が開ける。三和公民館から約2.9km、1時間のところ。伐採地で植林がまだ5年くらいしか経っていない。五島灘を一望し、長崎港口から港外の島々、左奥に端島まで見える。

先週の平成19年11月3日、長崎学さるくの本番を迎え、蚊焼峠から脇岬観音寺まで草刈り整備をした。新聞に載せたので12人が集まった。見晴らし地点の竹のベンチはそろそろ腐りかけ、代えなければならない。郷路八幡先の竹林から竹を伐り、全員が運んでベンチを作りかえた。席を倍にしたので、20人は座れるようになった。

草刈りは、樺島の荒木氏が難関の古里ー堂山峠ー観音寺間を、すでに3日かけて1人で済ませてくれていたのでありがたかった。徳道からはサイクリング道路を行き岬木場に出、殿隠山ー遠見山ー堂山峠の山歩きコースの整備に変更した。新聞を見て奉仕作業に初めて参加された方が3人いる。全員よく働く。心強い助っ人に感謝する。

そういうことで「みさき道」を通して歩けるのは、今の時期である。見晴らし地点の完成したベンチと、ここからの展望は上の写真のとおり。

「みさき道」永一尾の道筋  郷路八幡・妙道尼信女墓など

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「みさき道」永一尾の道筋  郷路八幡・妙道尼信女墓など

A 「みさき道」の入口看板は、いつ頃設置したか
三和史談会が平成12年4月に「地元住民に古里の歴史遺産へ興味を持ってほしい」と、みさき道の存在を広くPRするため設置した。年数が経過したため1昨年末塗り直し、左側へ移設した。
ここから永一尾と言われるとおり長い尾根を行き、徳道車道に出合う。この間は「みさき道」の全コースを通して最も当時の雰囲気が残る山道である。一部植林が進み左右の雄大な展望が失われているが、雑木林の木立が多く落ち葉を踏みしめて歩く道となる。中間地点の五島灘の見晴らしのよいところに、手作りの竹床の休憩用12人掛けベンチを設置した。
距離は、三和中央公民館からこの入口まで1.3km。入口から徳道車道まで3.5km。さらに足を伸ばし岬木場回り遠見山から脇岬観音寺まで行くと、公民館—観音寺間は実測14.4kmあった。「みさき道」の本道となる高浜・古里経由堂山峠越えも同じ位の距離はあるだろう。

B 「みさき道」は秋葉山を通ったか
平家落人の先祖を祀るとされる郷路八幡が今の秋葉山登り口で、15分もかからず社殿へ行けるが、「みさき道」はそのまままっすぐ進む。為石からは前記の蚊焼峠やこの秋葉神社を通って「みさき道」に入ったことは道があり考えられる。
元禄十四年「肥前全図」に、為石から黒浜あたりと川原から高浜手前へ2本の道が赤線で描かれている。この図は山の尾根に長崎方面からずっと黒線があるが、これは道でなく彼杵郡と高来郡の境を示すものであろう。「みさき道」がどれかわからないが、徳道あたりで為石・川原からの赤線の道は接近している。川原からは秋葉山を通らず高浜に出られるのである。
三和町周辺は、観音さん参りと同じように「秋葉さん参り」が正月と18日の月毎に行われていた。岳路などからは「みさき道」を逆に行って秋葉神社へ参られていたようである。

C 秋葉山口の「郷路八幡」とはなにか
秋葉山口の「みさき道」沿いにあり、小さな鉄の鳥居や石塔が立つ。歩いていてちょうど休憩地点となる。石の刻は正面「郷路八幡」右側面「昭和二十五年一月吉日」左側面「森保信平建立」とあるとおり、蚊焼に住む森保信平氏が神社を祀っている。
先祖に当る平家落人4人がここで果て、近くの大きな石の下に刀を埋めた。戦後うなされることがあり、そこを掘ってみたら錆びた刀が出てきた。すぐ埋め戻し、鳥居を建てたと森保氏から聞いているが、「郷路八幡」の意味と刀を埋めた石がどれかはよくわからない。
鳥居を真っすぐくぐった北東の支尾根上に、境塚らしい小さい石組みが見られる。一度道の調査でこのあたりは歩いていた。松林氏も前に行って確認しているが、昔の文献に見当たらない箇所で、境塚かどうかわからない。

D 妙道尼信女墓とはなにか
郷路八幡から340m進んだ地点に、四角い石積みをし、その上に墓がある。山中の「みさき道」道筋にどうしてこの1基だけ墓があるのだろうか。墓石正面「妙道尼信女」右側面「年号七十年 蚊焼村 宮本源次 木下甚七」左側面「文政三年(1820)旧六月二三日」。地元で「ビックーさん」と呼ぶ。行き倒れの遍路さんを弔ったらしい。
別の話としては、野母の娘さんが川原に女中奉公していて野母に帰る途中、ここで襲われ殺された墓という人もいる。年号七十年が年齢であったら信じるに足りない話となるが、そういった場面もあったろうし、生活に密着して「みさき道」が利用され、しかも70歳になった人もこの道を歩いていたと取ると、感じ入る話の墓である。ここにも間違って川原へ行かないよう道塚があったらしい。

E 長人(永一尾)と字名はなにか
関寛斎日記で「長人」とあるのは、現在の字名で「永一尾」である。字の如く長い平らな一つの尾根で高低はあまりない。約3.5kmの稜線の道である。蚊焼から鯨浜へ行く波戸峠あたりでここを望むと、地形の特徴がよくわかる。永一尾の西側は三和町と野母崎町との町境であった。町境の稜線沿いに「みさき道」は南のピークの方に向かう。

F 黒岳とはどこか
この南のピークが「黒岳」である。山頂には標高243.6mの三角点と、明治32年6月陸軍省の長崎要塞区域標第七号がある。いつか「黒岳」と聞き黒浜の背後にあるので、何とはなしに納得し今も使っているが、明治18年「西彼杵郡村誌」高浜村の地勢の項に「艮位(北東)ヨリ正南ニ亘リ石転シ二ノ嶽及殿隠等高嶺ヲ負ヒ西北傾イテ低ク海ニ瀕ス」とあり、正しい山の名称は「石転シ」(いしころはし)と思われる。
目立つ山で端正な姿であるのに、なぜこんな名前なのか。山頂は村境だが、高浜村も蚊焼村もその字名は当時は表れてない。今の字名で三和町にこの山の西斜面に「石コロバカシ」の字名があった。

「みさき道」は、このピークは登らず東山腹の脇道を行く。途中の植林地に不思議な幟立石を見る(式見矢筈岳にもあり別項とした)。やがてサイクリング道路と平行した徳道の車道と出合い、また少し木立の山道を行くと、徳道の車道三叉路に立つ「長崎ヨリ五里」「御嵜ヨリ二里」の里程道塚に達する。三和公民館から約4.8km。2時間の行程である。

蚊焼茶屋の推定地点から、相撲灘の大角力・小角力が見えたか

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蚊焼茶屋の推定地点から、相撲灘の大角力・小角力が見えたか

関寛斎日記は、蚊焼茶屋で休憩しこの場所から、「西北ハ港内二テ其ノ西岸ハ遥ヘ絶ヘ高野木嶋 マゴメ嶋 硫黄嶋 高嶋 遥二松嶋ノ瀬戸(高サ五六間)見ユル 之レヲ相撲ノ瀬ト云フ」と記している。「(高サ五六間)」の部分に、大角力・小角力と間違いない2つの岩礁の図を書いている。その説明が高さであろう。

蚊焼茶屋の推定地点から、はたして相撲灘の大角力・小角力が見えただろうか。蚊焼茶屋は字古茶屋の一番端の方で、港外諸島の展望と清水が水脈を変えて今も流れていることにより、旧蚊焼峠と思われる入口の蚊焼山村氏の畑地あたりと推定した。
しかし、展望は私たちと山村氏の完全な思い込み違いであった。相撲灘の大角力・小角力は、五島まで見える晴れた日でないとなかなか確認できない。そんな日はめったにない。こちらの方から見ると、大角力は池島の右沖となる。伊王島の馬込島が邪魔して、池島さえどうしても見えないのである。

海図に線を引いた別図を掲げたが、地図上でもそうなる。峠の先の方まで行くと見えると思われる。蚊焼茶屋はこの地点しか考えられないのに、関寛斎がなぜ2つの岩礁を文中に描いたか。望遠鏡を使っても同じであろう。これは芦屋市平氏の質問から、実際に実見してみた結果である。
ただ、日記の文は途中に段落の「○」があり、必ずしも蚊焼茶屋からの展望と言えない。茶屋から見る港内及び沖の諸島の光景は、そんなに良いものでない。現在休憩用のベンチを設置している見晴らし地点あたりまで区間を解釈してよいとも思われる。
(大角力・小角力の夕日画像は、長崎市HPから)