「みさき道」本道は、徳道から高浜延命水へ下った  道塚などが証明

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「みさき道」本道は、徳道から高浜延命水へ下った  道塚などが証明

A 徳道の里程を刻んだ道塚はなにか
野母崎徳道の車道三叉路に立つ大型道塚で、「長崎ヨリ五里」「御嵜ヨリ二里」とある。古い道塚と思われがちだが、「文政七年(1824)申十一月 今魚町」とある。今魚町系の建立年のある道塚では一番新しく、観音寺の「道塚五拾本」の寄進の約束から40年が経過して立てられた。
なぜここに里程を刻んだ大型道塚が立てられたか。ここはまっすぐに以下宿に下る山道があった地点で、少し手前では黒浜へも分岐する。その道が「みさき道」と交差する。徳道は当時から半島交通の要所であって、字名は「得な道」の意味があるらしい。

B ゴルフ場の裏門に入ると2本の道塚があるが、これはなにか
ゴルフ場裏門の作業棟の前の小屋下に2本の道塚がある。作業員の方に断わって見学させてもらうことができる。1本は墓石(「庄五郎地蔵」という。別項あり)転用「右御崎道」「左川原道」、その5mほど奥にあと1本「みさき道 今魚町」「上川原道」の2本が並んである。ゴルフ場の造成のとき、ほかの場所で見つかりまとめて移設されたかと思えたがそうではない。
高浜へ行く「川原道」は川原から徳道に上って、この地点で「みさき道」と合流する。その川原道の名残りは、道塚どおり作業棟上のサイクリング道路や町境の一軒家の横にある。明治の地図もそのとおりであった。
この道塚のある場所は茶屋があったと言われる。小屋の石垣の下に水が流れ、作業棟あたりは広い谷間で水田が多かった。「みさき道」は岬木場に行かず、道塚どおり高浜へ下る。関寛斎も高浜に出た。これが「みさき道」の本道である。

C ゴルフ場の中を「みさき道」はどう通っていたのか
野母崎町の高浜へ下る旧町道は、ゴルフ場の中を通り毛首の延命水のところに通じていた。今はゴルフ場の造成があったため、徳道の道塚地点から車道を以下宿の方へ少し下った途中から、ゴルフ場の敷地を外周するようにして新道が作られ、延命水の手前で旧町道と合う。明治の地図によると「みさき道」はこの旧町道沿いにほぼあったようである。今は調査のしようがない。
なお、ゴルフ場道塚から下った次の町道付替え点に出る手前の山道分岐に「みさき道」の道塚があったことが判明している。しかし、ゴルフ場の造成によって失われているようだ(別項調査)。

D 町道の付替え地点はどこか
町道の新道と旧道の付替え地点が、ゴルフ場の道塚から下ってきた「みさき道」の道である。明治の地図からその地点は延命水の手前あたりと見当をつけた。一方、別に述べたが、蚊焼西大道から分岐し蚊焼・岳路・黒浜・以下宿を通ってもう一つの「岳路みさき道」がある。これは岳路に道塚があることから推定した道である。
以下宿の南の谷から山道へ入って尾根に上がると、天保4年の地蔵祠があり農道となり、延命水手前300m位で町道の新道と合う。ここにはアンテナ塔と道路向かい側には取水タンクがある。このあたりは崖を切り取って新道が広げられている。崖の脇に回って旧道跡を探すとすぐあった。ここが町道の付替え点であり、「岳路みさき道」との合流点であった。後日、野母崎町役場で確認した。