「みさき道」永一尾の道筋  郷路八幡・妙道尼信女墓など

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「みさき道」永一尾の道筋  郷路八幡・妙道尼信女墓など

A 「みさき道」の入口看板は、いつ頃設置したか
三和史談会が平成12年4月に「地元住民に古里の歴史遺産へ興味を持ってほしい」と、みさき道の存在を広くPRするため設置した。年数が経過したため1昨年末塗り直し、左側へ移設した。
ここから永一尾と言われるとおり長い尾根を行き、徳道車道に出合う。この間は「みさき道」の全コースを通して最も当時の雰囲気が残る山道である。一部植林が進み左右の雄大な展望が失われているが、雑木林の木立が多く落ち葉を踏みしめて歩く道となる。中間地点の五島灘の見晴らしのよいところに、手作りの竹床の休憩用12人掛けベンチを設置した。
距離は、三和中央公民館からこの入口まで1.3km。入口から徳道車道まで3.5km。さらに足を伸ばし岬木場回り遠見山から脇岬観音寺まで行くと、公民館—観音寺間は実測14.4kmあった。「みさき道」の本道となる高浜・古里経由堂山峠越えも同じ位の距離はあるだろう。

B 「みさき道」は秋葉山を通ったか
平家落人の先祖を祀るとされる郷路八幡が今の秋葉山登り口で、15分もかからず社殿へ行けるが、「みさき道」はそのまままっすぐ進む。為石からは前記の蚊焼峠やこの秋葉神社を通って「みさき道」に入ったことは道があり考えられる。
元禄十四年「肥前全図」に、為石から黒浜あたりと川原から高浜手前へ2本の道が赤線で描かれている。この図は山の尾根に長崎方面からずっと黒線があるが、これは道でなく彼杵郡と高来郡の境を示すものであろう。「みさき道」がどれかわからないが、徳道あたりで為石・川原からの赤線の道は接近している。川原からは秋葉山を通らず高浜に出られるのである。
三和町周辺は、観音さん参りと同じように「秋葉さん参り」が正月と18日の月毎に行われていた。岳路などからは「みさき道」を逆に行って秋葉神社へ参られていたようである。

C 秋葉山口の「郷路八幡」とはなにか
秋葉山口の「みさき道」沿いにあり、小さな鉄の鳥居や石塔が立つ。歩いていてちょうど休憩地点となる。石の刻は正面「郷路八幡」右側面「昭和二十五年一月吉日」左側面「森保信平建立」とあるとおり、蚊焼に住む森保信平氏が神社を祀っている。
先祖に当る平家落人4人がここで果て、近くの大きな石の下に刀を埋めた。戦後うなされることがあり、そこを掘ってみたら錆びた刀が出てきた。すぐ埋め戻し、鳥居を建てたと森保氏から聞いているが、「郷路八幡」の意味と刀を埋めた石がどれかはよくわからない。
鳥居を真っすぐくぐった北東の支尾根上に、境塚らしい小さい石組みが見られる。一度道の調査でこのあたりは歩いていた。松林氏も前に行って確認しているが、昔の文献に見当たらない箇所で、境塚かどうかわからない。

D 妙道尼信女墓とはなにか
郷路八幡から340m進んだ地点に、四角い石積みをし、その上に墓がある。山中の「みさき道」道筋にどうしてこの1基だけ墓があるのだろうか。墓石正面「妙道尼信女」右側面「年号七十年 蚊焼村 宮本源次 木下甚七」左側面「文政三年(1820)旧六月二三日」。地元で「ビックーさん」と呼ぶ。行き倒れの遍路さんを弔ったらしい。
別の話としては、野母の娘さんが川原に女中奉公していて野母に帰る途中、ここで襲われ殺された墓という人もいる。年号七十年が年齢であったら信じるに足りない話となるが、そういった場面もあったろうし、生活に密着して「みさき道」が利用され、しかも70歳になった人もこの道を歩いていたと取ると、感じ入る話の墓である。ここにも間違って川原へ行かないよう道塚があったらしい。

E 長人(永一尾)と字名はなにか
関寛斎日記で「長人」とあるのは、現在の字名で「永一尾」である。字の如く長い平らな一つの尾根で高低はあまりない。約3.5kmの稜線の道である。蚊焼から鯨浜へ行く波戸峠あたりでここを望むと、地形の特徴がよくわかる。永一尾の西側は三和町と野母崎町との町境であった。町境の稜線沿いに「みさき道」は南のピークの方に向かう。

F 黒岳とはどこか
この南のピークが「黒岳」である。山頂には標高243.6mの三角点と、明治32年6月陸軍省の長崎要塞区域標第七号がある。いつか「黒岳」と聞き黒浜の背後にあるので、何とはなしに納得し今も使っているが、明治18年「西彼杵郡村誌」高浜村の地勢の項に「艮位(北東)ヨリ正南ニ亘リ石転シ二ノ嶽及殿隠等高嶺ヲ負ヒ西北傾イテ低ク海ニ瀕ス」とあり、正しい山の名称は「石転シ」(いしころはし)と思われる。
目立つ山で端正な姿であるのに、なぜこんな名前なのか。山頂は村境だが、高浜村も蚊焼村もその字名は当時は表れてない。今の字名で三和町にこの山の西斜面に「石コロバカシ」の字名があった。

「みさき道」は、このピークは登らず東山腹の脇道を行く。途中の植林地に不思議な幟立石を見る(式見矢筈岳にもあり別項とした)。やがてサイクリング道路と平行した徳道の車道と出合い、また少し木立の山道を行くと、徳道の車道三叉路に立つ「長崎ヨリ五里」「御嵜ヨリ二里」の里程道塚に達する。三和公民館から約4.8km。2時間の行程である。