九州(熊 本 県)」カテゴリーアーカイブ

不動岩  山鹿市蒲生

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不動岩  山鹿市蒲生

山鹿から菊池へ行く途中、国道325号から撮影している。クマみる|熊本情報サイトによると、これは熊本二十五景のひとつ、奇岩名勝の山鹿「不動岩」だろう。

不動岩

この不動岩は、山鹿市三玉(みたま)地区の蒲生(かもう)にあり、その北東・標高389メートルの山の中腹から頂上にかけ、天に向かって突き出しています。岩の高さは約80メートル、根回りは100メートルです。
不動岩は、5億年以上も前の古生代(オルドビス紀)の『変はんれい岩』からできたもので、まだ日本列島の形すらできていない時代のものです。
この変はんれい岩が気の遠くなる年月をかけて崩れて海に流され、海水に洗われ丸い小石や砂(さざれ石)になり、そのさざれ石が海底に厚く積み重なって強い圧力を受け岩磐となり、その周囲が削り取られていわゆる国歌「君が代」の歌詞にある「さざれ石の巌(いわお)」となったものが不動岩です。
また奇岩名勝として、熊本二十五景のひとつにも数えられています。

不動岩の名は平安時代、山伏たちがこの山中にこもり、不動明王を本尊として祀り修行したことに由来します。当時たくさんの山伏たちがこの岩の周りに坊を建て、修行していたと伝えられています。現在も不動岩の付け根には不動神社の拝殿があります。
不動岩のふもとまでは登山道路(九州自然遊歩道)が整備されており、乗用車が5台駐車できる展望所もあります。前不動・中不動・後不動の三つの岩から構成され、中不動と後不動には、遊歩道を使って登ることができ、そこからの眺望はまさに絶景といえます。

金剛乗寺の石門  山鹿市山鹿

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金剛乗寺の石門  山鹿市山鹿

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋による説明は、次のとおり。
なお、本堂右横の境内には「童子椿」がある。宥明法印お手植えと伝わり、法印が修業の旅に出て帰ってこないので、花が咲かないのだという。野口雨情の山鹿小唄に「童子椿は花なし椿 山鹿千軒たらいなし」と唄われている。

金剛乗寺の石門

山鹿市山鹿
高野山真言宗護国密山佛性院
金剛乗寺談義所略由緒
「そもそも山鹿湯町なる菊池加藤細川の代々藩主の祈祷寺 遠き由来を尋ぬれば五十三代淳和亭八二五年 天長二年の巳の年に弘法大師が九州に 真言秘密の妙教を弘めんためし山鹿にも錫を留めて地を選び 建立し給う霊地なり 大師九日のその間 茲に談義をし給えば九日町や談義所の名も是よりぞ出でにける西の高野と言う程に名も高かりし霊跡も 星霜うつり年かはり衰へたるを元暦のかたじけなくも後鳥羽院勅願再興あらせらる 然るを元徳元年に 中僧正恵鏡法印 中興の祖として薫せらる そののち文明五年の春1473年 当時法印菊池家の兼朝公の舎弟なる宥明法印大徳が 温泉出止みしその時に 祈祷によりて朧月の夜の丑の刻身命不惜の法力に涸れたる湯をば祈り出し 重朝公より境内一町三セ 寺領八十石僧屋敷 十八ケ所賜はりて 後の世までの幸いを残し給うぞ有難たき御恩を受けたる法印の徳を慕うて感恩の儀式は今に湯祭灯篭と 残りて町の繁栄を一しほ添ふるものぞかし山が湯町の氏寺と歴史を重ねて井磨ここに真言祈祷の大院なり 南無大師遍照金剛」

八千代座  山鹿市山鹿

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八千代座  山鹿市山鹿

熊本県観光サイト なごみ紀行による説明は、次のとおり。

八千代座・夢小蔵

八千代座は、明治43年建築され、回り舞台や枡席、花道など江戸時代の歌舞伎小屋の長い歴史を伝える芝居小屋として有名です。その八千代座も、老朽化のため保存工事をしていましたが、5年にわたる平成の大修理を終え、平成13年6月1日にオープンしました。八千代座の斜め向かいにある夢小蔵は明治20年に建築された蔵を八千代座の資料館に再利用したもので、八千代座で使われていた衣装や小道具が展示されています。建設は八千代座よりも古く、小道具の展示品は150点に及び、それ以外にも八千代座の構造模型、巡業記念札、チラシ、映写機、建築の積帳、決算書、上演記録等もあります。

山鹿温泉元湯 さくら湯  山鹿市山鹿

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山鹿温泉元湯 さくら湯  山鹿市山鹿

熊本県観光サイト なごみ紀行による施設説明は、次のとおり。私は古写真確認のため訪れた。
本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/3979

山鹿温泉元湯 さくら湯

「さくら湯」は、今から約370年前に肥後細川藩初代藩主(細川忠利公)が山鹿の温泉を気に入り、「御茶屋」を新築したのがその歴史の始まりで、約250年前に書かれた「山鹿町絵図」には「御前湯」として記録されており、大改修が行われた明治3年から昭和48年に取り壊されるまでの約100年間にわたって山鹿市民の大切なコミュニケーションの場として愛され親しまれていた市民温泉で、「八千代座」と共に湯の町山鹿のシンボルでもありました。
その後、大規模都市再開発事業により昭和50年に、鉄筋コンクリート造のさくら湯(温泉ビル)が完成しましたが、当初の予想以上に老朽化が進んだことを契機に、往時のさくら湯を再生しようという計画が持ち上がり、平成16年に庁内でさくら湯再生プロジェクトチームを設置し、「さくら湯再生にかかる報告書」をまとめました。
その後、平成21年には、この報告書を基本にさくら湯再生を具体化するために、市民委員を中心とした「さくら湯再生基本構想策定協議会」を立ち上げ、「さくら湯再生基本構想」をつくりあげました。そして、平成22年度に、その「さくら湯再生基本構想」により、「さくら湯」の基本・実施設計を行い、平成23年7月より「さくら湯建設工事」に着手しまして、平成24年11月23日(祝)開湯(オープン)しました。

参勤交代の道「豊前街道」  和水町付近

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参勤交代の道「豊前街道」  和水町付近

豊前街道 とは – コトバンクによる解説は、次のとおり。写真は和水町付近の光行寺、下岩官軍墓地、ハゼ並木、玉名・山鹿郡境碑。腹切坂は訪ねていない。

ぶぜんかいどう【豊前街道】  (出典 講談社)

熊本県玉名郡南関(なんかん)町、和水(なごみ)町にある街道遺跡。指定名称は「豊前街道 南関御茶屋跡(なんかんおちゃやあと) 腹切坂(はらきりざか)」。南関御茶屋跡は、県北部、福岡県に接する南関町の中心部、関町の熊本城から小倉(福岡県)まで続いていた豊前街道沿いに建てられた宿泊施設跡。近世の街道沿いの御茶屋跡が現存し、往時の建物構造を残していることから、2003年(平成15)に国の史跡に指定された。南関町は古代には官道が通り、国境警備のための関が設けられていた。近世においても、豊前街道として利用され、参勤交代の際の肥後国内における最終の休憩、宿泊地点であることから宿泊施設として御茶屋が設置された。現在の御茶屋跡の建物は1850年(嘉永3)に起工して、1852年(嘉永5)に竣工したもので、建物は南北に長い造りで、北から御居間、御次の間、三の間と配されている。1892年(明治25)に個人の所有となり、建物は民家や料亭として利用されてきたが、2004年(平成16)末、保存修理工事が行われ、往時の姿を取り戻すこととなった。和水町岩の腹切坂は豊前街道にある坂で、永野原台地から寺本の集落に入るまでの約400mの急坂。切腹にまつわる複数の言い伝えが残っている。2005年(平成17)に追加指定を受け、茶屋跡とあわせて名称変更された。
南関御茶屋跡へは、JR鹿児島本線玉名駅から産交バス「南関ターミナル」下車、徒歩約10分。腹切坂へは、同駅から産交バス「肥後岩下」下車、徒歩約40分。

熊本県のアーチ式石橋  竈門(かまど)橋  和水町久米野

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熊本県のアーチ式石橋  竈門(かまど)橋  和水町久米野

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,352  竈門(かまど)橋

和水町久米野  久米野川
橋長:12.5m  橋幅:4.2m  径間:8.7m  拱矢:4.2m
架設:1921年
坂田川から県道16号線を3.7Km西進、県道315号線へ右折、150m先現橋の上流に架かっています。

2014月7月28日から、熊本県へ50ccバイクの旅。以下、主な史跡・巨樹・滝・石橋など、訪れたところを紹介する。台風接近のため八代市でいったん中断し、7月31日に帰崎した。
鹿児島県へは、天候が安定してから再び出かけるつもり。

謎の隧道遺構 トンカラリン  熊本県玉名郡和水町

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謎の隧道遺構 トンカラリン  熊本県玉名郡和水町

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説、及び現地説明板は、次のとおり。
江田船山古墳公園入口前の県道反対側の山手にある。タンタン落しと呼ばれる開口部周辺(写真なし)から始まり、丘上の鶯(菅?)原神社の手前に出て一連のトンネルは終わっている。
和水町HP観光マップ〔29〕の記事も参照。  http://map.kumamoto-net.ne.jp/nagomi/

トンカラリン

トンカラリンは、熊本県和水町にある隧道(トンネル)型遺構である。江田船山古墳(国の史跡)がある清原(せいばる)台地に位置し、全長は464.6メートル、自然の地隙や人工の石組暗渠で構成されている。「トンカラリン」の名称は、穴に石を投げ込むと「とんからりん」という音が聞こえることからつけられたという説と、朝鮮語由来という説がある。[1]

建造目的
トンカラリンに関しては民間伝承もなく、排水路説、古代信仰遺跡説、朝鮮的信仰遺跡説などの諸説があるが、未だに定説はない。熊本県教育委員会は1974年に現地調査を行い、1978年3月に「近世の排水路」との調査報告書を一旦は発表したが、用水路説と信仰遺跡説も検討すべきと将来の検討にゆだねている。[2]2001年に同教委と当時の菊水町教育委員会が再調査し、「排水路」にしては不都合な点が多すぎるとして、現在は再び「謎の遺跡」とされている。この調査では第2のトンカラリンが2001年に発見され[3]、さらに第3、第4のトンカラリンが埋蔵されている可能性も指摘されている。

1975年5月にトンカラリンを訪れた[4]作家の松本清張は、魏志倭人伝の一節からトンカラリンが邪馬台国の卑弥呼の鬼道であるとの説を唱えた。この説の発表は、トンカラリンの存在が広く知られるきっかけとなった。[5]

トンカラリン シンポジウム
2001年10月29日に、菊水町 現和水町(なごみまち)における熊本県県民文化祭において、トンカラリン シンポジウムが開かれ、当時までの研究が総括された。[6]井上辰夫筑波大学名誉教授、古閑三博熊本県文化財保護審議会委員、飯田精也、大田幸博、井上智重、出宮徳尚が出席した。井上辰夫は穴に潜って出ることは俗から正、死から正への転換で、トンカラリンはこの秘儀と結びついているだろうと述べた。古閑、飯田は地裂は地震でなく、雨でも起こることを述べ、排水路説を否定、大田も地裂を重要視、出土遺物を検討しその使用は江戸時代の初期を下限とすると述べた。上限は中世とした。

広島のトンカラリン 広島県東広島市安芸津町三津信僧にも同名の隧道型遺構が存在するが、これは、熊本のトンカラリンにちなんで名付けられたものである。

文 献
・古閑三博 『夢、甦る 謎の隧道(ずいどう)遺構トンカラリン』1994 三弘会
・古閑三博 『続(しょく)夢、甦る 謎の隧道(ずいどう)遺構トンカラリン』2003 三弘会

謎の隧道遺構  トンカラリン

菊水町・瀬川鶯原神社近くから始まるこの遺構は、全長445.6mでトンネル状の地隙や、地下道のような石組み暗渠等が組み合わさった実に不思議な構造物である。
昭和五十年代に、作家の故松本清張氏が現地を調査して、邪馬台国が記された『魏志倭人伝』(三世紀に書かれた中国の歴史書)の一節から、『シャーマニズムに関係した鬼道ではないか』と推論したことで、全国的にその名が知られた。しかし、その後の『排水路説』により、ブ−ムは沈静化へ向かった。
再び、トンカラリン論争が甦ったのは、県北部を襲った平成五年六月の集中豪雨以降である。この時、県北の排水路が甚大な被害を受けたが、トンカラリンには一切の被害が無く、それは大した水が流れなかった事を意味していた。そこで、農業土木の見地から、今一度、詳細な再調査が行われる事になった。結果として排水路説には、余りにも矛盾が多いことが判明したのである。
(1)上部の台地面積が狭いので、流れ出す雨水量は少なく、谷部に、大規模な排水路を造る必要がない。雨水を取り込みやすいオープンカッ卜の素掘り溝で十分である。
(2)今日、トンカラリンを築いた場合、工事費の積算額は、二億円近くにもなる。これに見合うだけの経済効果を見い出せない。
(3)排水路は、できるだけ連続的な造りが望ましい。しかし、トンカラリンは、実に数多くの湾曲箇所を伴って蛇行を繰り返している。
(4)石組の構築物に、災害箇所(地隙)が取り込まれており不自然である。排水路施設は、この様な造りをしない。
(5)地隙内に積まれた切り石や、石組み暗渠下部の変化点における角部の整形など、排水路に不自然な飾り箇所がある。面取りされた切り石は常に闇の中にあり、角部には則られて、丸みを帯びている。
この様に、トンカラリンは再び、我々に問題を投げかけるのです。皆さんも、是非、この謎解きに挑戦して下さい。     和 水 町

階 段
石の階段7段がある。のぼりつめれば70センチ四方のあまりの石の隧道となり人は這って通りぬけることができる。横穴式石室との類似を指摘する説もあるがよく判らない。
小さな土師器片が発見されたが今のところ出土品はない。

肥後民家村  熊本県玉名郡和水町

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肥後民家村  熊本県玉名郡和水町

江田船山古墳公園内の「肥後民家村」。熊本県着地型観光サイト「体験!くまナビ」は、次のとおり。入場無料。
旧境家住宅は、国指定重要文化財(昭和48年2月23日指定)。熊本県玉名郡玉東町原倉にあった民家。建築年代は文政13年(1830年)で、内部には玉名地方の生活用具や農具が展示されている。

肥後民家村(江田船山古墳公園内)

「肥後民家村」は、全国各地に残る古民家を移築した浪漫あふれる広大な村。上杉謙信に仕えた「旧布施家」(豪農屋敷)をはじめ「旧緒方家」(明和2(1765)年)、「旧境家」(文政13(1830)年)など貴重な屋敷が多く、体験工房と古民家ではガラス、木工、陶芸、能面などを手がける職人&アーティストがギャラリーや作業場として利用しています。それぞれ見学や体験できるほか、古民家での宿泊も可能。 
また、敷地内には江田船山古墳、虚空蔵塚古墳(共に国指定重要文化財)など数々の古墳が点在。金銅製冠帽、銅鏡6面、くつわ、大刀など驚くほど貴重な遺品が多数出土しています。…

和水町歴史民俗資料館  熊本県玉名郡和水町

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和水町歴史民俗資料館  熊本県玉名郡和水町

江田船山古墳公園内の「和水町歴史民俗資料館」。和水町HPは、次のとおり。
発掘出土品の記事は、熊本県 HP(地域振興部文化企画課 博物館プロジェクト班)「地域発 ふるさとの自然と文化 江田船山古墳 和水町」を参照。
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/  玉名 史跡・遺跡 2009年11月30日記事。

和水町歴史民俗資料館
〒865-0136 和水町江田302(肥後民家村内) TEL(0968)86-4564
開 館 午前9時〜午後5時 (入館は午後4時30分まで)
休館日 月曜日 ※月曜日が祝日の場合はその翌日
入館料 無料
展示内容
先土器時代から古墳時代までの出土品を時代別に展示。縄文・弥生時代の土器や古墳時代の土師器・須恵器。また、江田船山古墳出土の冠帽・沓・装身具などの国宝のレプリカを展示しています。

江田船山古墳  熊本県玉名郡和水町

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江田船山古墳  熊本県玉名郡和水町

四国の帰り、2012年10月4日に「江田船山古墳公園」へ寄った。公園内の歴史民俗資料館・肥後民家村などは別掲。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

江田船山古墳
所在地 熊本県玉名郡和水町江田

江田船山古墳(えたふなやまこふん)は、熊本県玉名郡和水町(旧菊水町)に所在する前方後円墳。清原(せいばる)古墳群の中で最古・最大の古墳で、日本最古の本格的記録文書である75文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘をもつ大刀が出土したことで著名である[1]。国の史跡に指定されている。

概 要
この古墳は、5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推測され、墳丘長62メートル[注 1]あり、盾形の周濠をもつ。古墳は1873年(明治6年)以降発掘され[2]、豊富な副葬品が出土している。これらの大部分は東京国立博物館に所蔵され、1965年(昭和40年)に国宝に指定されている[2]。

古墳の周りには、短甲[3]を着けた武人の石人が配置されている。このような古墳の周りに石人・石馬を配置するという独特の型式は、石人山古墳[4]に始まり、6世紀前葉の岩戸山古墳[5]で最盛期を迎え、以後、消滅する。この岩戸山古墳が527〜8年にヤマト王権(継体朝)と闘って敗北した筑紫君磐井の墓であると目されている。江田船山古墳も筑紫君一族の配下に連なって地域の中首長の墓であったことが想像できる。なお、最近の研究では、この古墳の被葬者は3名であると考えられている[1]。

史跡指定
1873年(明治6年)、地元の人物・池田佐十が「夢のお告げ」を受けて古墳を掘ったことが、江田船山古墳出土品発見の端緒となった。明治政府は白川県(現:熊本県)と交渉の上、発掘品を左十から当時の金額90円で買取り、博覧会事務局(現:東京国立博物館)に移した。[1]

整形をなし、しかも特殊な外観を示し、後円部に組合式家形石棺が置かれ、とくに銀象嵌銘の鉄製大刀が出土したところから古代文化を知るきわめて重要な遺跡として1951年(昭和26年)6月9日、国の史跡に指定された。

なお、1975年(昭和50年)に実施された江田台地一帯の確認調査の結果、幅約20メートルの周濠が墳丘をめぐる事実が判明したため、翌1976年(昭和51年)6月30日には、近接する塚坊主古墳および虚空蔵塚古墳が江田船山古墳の附(つけたり)として、国の史跡に追加指定されている。