ふるさと古写真考」カテゴリーアーカイブ

「ふるさと」の古写真考 P.87 中島川と阿弥陀橋(明治20年代)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.87 中島川と阿弥陀橋(明治20年代)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.87 中島川と阿弥陀橋(明治20年代)
〔写真説明〕
この橋は中島川の上流にかかっている。場所は八幡町の傍である。阿弥陀仏像が橋のたもとにあったのでこのように呼んだ。この橋は元禄3年に圓山善爾という人が寄進して架けられた。(提供:鎮西学院)

■ 確認結果
中島川流域、前項の伊勢宮前「高麗橋」の1つ上流の橋が「阿弥陀橋」である。現在は、昭和62年3月に「高麗橋」とともに新しいコンクリート橋に架け替えられている。
HP「中島川石橋群 ~石橋歴史コラム~ (長崎中島川グリット/中島川流域委員会ウェブサイト)」の以下の投稿を参照。 Copyright (C) 2009 Nagasaki.n-grit.com All Rights Reserved.
「阿弥陀橋」も、昭和57年の長崎大水害にも耐え元の姿で残ったが、河川改修のためやむなく解体された。その石材はまだどこかに保管されている。

長崎名勝図絵に「鎮治の東八幡町の旁に在て一瀬川に跨る 其の傍に弥陀の仏像を奉ず 名づけて極楽橋とし、又呼で阿弥陀橋と云う 元禄三年十一月園山善爾建つ銘あり」と記してある。当時の阿弥陀像は明治初年、寺町の深崇寺に移され、現在の阿弥陀堂は近年建立されたものである。

【投稿】 阿弥陀橋を中島川へ呼び戻そう    長崎であいの会 副会長 田口 博人

眼鏡橋が架かる中島川の石橋群の中で、高麗橋と阿弥陀橋は昭和57年の長崎大水害にも耐え元の姿で残りました。ところが防災上の理由により解体されコンクリートの橋に架け変えられ、平成5年7月、高麗橋は中島川の上流の西山ダム下に復元されました。
長崎の人々が誇りにしていた11の石橋の中で、崩壊したすすきはら橋と大井手橋はコンクリートの橋に、東新橋、一覧橋、古町橋、編笠橋の4橋は、まるで歩道橋のように高く通行に不便な橋へと架け変えられました。現在元の姿で残っているのは、袋橋、眼鏡橋、桃渓橋の3橋のみで、昔の石橋群の趣きはありません。

周知のように長崎の石橋群は、日本最古のものであり、300有余年の歴史の中で水害による崩壊と復元を幾度となく繰り返して今日まで受け継がれたのです。それは我々の先人達が石橋に対してなみなみならぬ愛情を持ち続けたからにほかならないのです。
坂本竜馬や福沢諭吉が渡ったこの石橋群は、興福寺をはじめとする寺々へ至る道しるべともなり、地元住民の生活の場として日常の営みの中に溶け込んでいたものです。先人の智恵で構造上壊れるようになっていて水害の被害を最小限に抑えることを目的として構築されています。壊れたら復旧すればいいわけですが現代の河川法の規制により今のような橋に架け変えられました。ダムの下へ行ってしまった高麗橋は何とも寂しげです。

阿弥陀橋は現在もその復元先が決っていません。この橋は、昔近くに処刑場があったらしく、囚人達が処刑場へ向かうのに少しでも苦痛が和らぐようにと架けられた橋と言われています。南無阿弥陀仏と唱えて渡った、そんな歴史を語る橋でもあるのです。長崎人である我々は先人達の守り育ててきたものを見つめ直すと同時にそれを次の世代へ譲り渡す責任があると思います。
石橋を失うことよりも、失うことに何の痛みも感じない自分に気づかないでいることがより怖いのです。せめて阿弥陀橋だけでも中島川に復元されることを望んでやみません。中島川畔でこそ、もっともふさわしい姿をしているのです。

「ふるさと」の古写真考 P.86 高麗橋と伊勢宮(明治20年代)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.86 高麗橋と伊勢宮(明治20年代)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.86 高麗橋と伊勢宮(明治20年代)
〔写真説明〕
慶応2年麹屋町の池島正助氏が私財で再築した。昭和62年中島川の改修工事のために石橋はつけかえられたが、石柱、石欄干は旧材を使用した。昭和56年の水害で再築されている。高麗橋の奥に伊勢宮がある。(提供:鎮西学院)

■ 確認結果
「高麗橋」は、中島川にそそぐ一ノ瀬川の下流域、伊勢宮神社前の銭屋川に架かる石橋。昭和62年3月に鉄筋コンクリート橋に架け替えられている。
昭和57年の長崎大水害にも耐えた石橋は、河川改修のため昭和60年に解体し、平成5年に西山ダム下の河川公園内に移築、復元されている。河川公園内の現地説明板は以下のとおり。
古写真の方の説明文はわかりにくいし、現地説明板と一部、内容が違う。

豊臣秀吉の朝鮮の役後、長崎に移住した朝鮮高麗の人たちは、最初現在の鍛冶屋町あたりに住み、高麗町といった。後に現在の伊勢町に移され、新高麗町となったことから、橋の名前は「高麗橋」となったといわれる。

高 麗 橋 こうらいばし  長崎市指定有形文化財(昭和46年10月21日指定)
この橋は、もと、中島川上流部の伊勢町、八幡町間に架けられていた石造アーチ橋である。承応元年(1652年)明国人によって創架されたと伝え、慶応2年(1866年)に拡幅改架された。昭和57年7月の大水害後の河川改修のため、昭和60年に解体し、平成5年3月、現在地に移築復元した。移築にあたっては、アーチ石等の主要部は旧材を用いたが、川幅が広がったため端部には石材を補足し、また失われていた高欄も復旧した。

「ふるさと」の古写真考 P.79 館内の3階建民家(館内町・昭和48年)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.79 館内の3階建民家(館内町・昭和48年)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.79 館内の3階建民家(館内町・昭和48年)
〔写真説明〕
館内は、中国人の居留区(唐人屋敷)であったが、安政の開国後は、居留地から外され、日本人が多く居住した。写真は福建会館天后堂付近で、この一帯は、このような住宅が密集していた。背後にみえるのは佐古小学校。(撮影:松尾○○氏)

■ 確認結果
写真を良く見ると、木造3階建建物の2階右側に「名倉堂接骨院」の看板、道脇の板塀に「館内町 3」の住居表示板、上手に長崎市立佐古小学校の校舎が写っている。
館内町の3街区を訪ねると、「名倉堂接骨院」は廃業していたが、木造3階建建物はそのまま残っていた。

唐人屋敷内の「福建会館」左横の公園角から上へ車道を登ったすぐである。観光案内で館内町唐人屋敷の「福建会館」と「天后堂」というと、別の場所を考える。
「福建会館」の方も、市指定有形文化財説明板のとおり、正しくは「福建会館(正門・天后堂)」となっているので、場所を間違えないように。

「ふるさと」の古写真考 P.78 大浦住宅街(元町一帯・昭和63年)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.78 大浦住宅街(元町一帯・昭和63年)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.78 大浦住宅街(元町一帯・昭和63年)
〔写真説明〕
南山手町のグラバー園の上辺りから撮影したもので、正面の山は、かつて正午に大砲をドーン(午砲)と撃ったドンの山、中腹辺りに北大浦小学校がみえる。段々畑状に連なり、頂上にまで迫らんとするこれらの家並は、長崎名物のひとつでもあった。(撮影:松尾○○氏)

■ 確認結果
撮影した場所は「グラバー園の上辺り」だが、正しくはグラバー園スカイロード側、第2ゲートから相生町側へ少し下ったところにある「南山手レストハウス(旧清水邸)」下の遊歩道に小さな「大浦展望公園」がある。ここからの展望なのである。
古写真手前に写る太陽熱温水器を付けた屋根の家が、2軒とも同じ屋根の形で現在もあった。

説明にある「北大浦小学校」は、平成19年4月、南大浦小学校・北大浦小学校・浪平小学校の3校が統合、長崎市東山町の旧北大浦小学校の敷地に「長崎市立大浦小学校」として開校した。2年を経て平成21年4月、上田町の旧南大浦小学校の敷地に新校舎が完成、「長崎市立大浦小学校」は移転している。

「ふるさと」の古写真考 P.65 海星高校(昭和55年)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.65 海星高校(昭和55年)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.65 海星高校(昭和55年)
〔写真説明〕
佐古小学校付近の高台から十人町・海星高校を望む。南国の長崎に珍しく雪に覆われた市街。正面には洋館造りの海星学園の修道院がそびえ立っている。海星高校左手奥には雪をかぶった鍋冠山が見える。中央大屋根は広済寺本堂。その左下には史跡天后堂がある。現在この角度からは海星高校右側に女神大橋の巨大な支柱をみることができる。(撮影:松尾○○氏)

■ 確認結果
「海星学園」は東山手町。高台の大きい方は修道院、左右の方が中学・高校の建物となる。中央大屋根は中新町の「広済寺」。その左下となる唐人屋敷の「天后堂」はこんもりした木立で、古写真では良く確認できない。
佐古小学校そばの見通しの良い高台から撮影されているのは、説明どおり間違いないと思われる。現在、さるく説明板「唐人屋敷景」が設置されている所と、同じ場所からである。
「唐人屋敷景」説明板は次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1606

海星高校右側に「女神大橋」の巨大な支柱が見えるらしいが、ここからは見えないのではないか。おもしろいのは、修道院を裏側から見た風景。相生町地獄坂やグラバースカイロード2階あたりから眺めると、修道院や寺の屋根がほぼ同じ位置に見える。寺は屋根の形が違い、石橋へ下るオランダ坂の方の「誠孝院」なのである。

「ふるさと」の古写真考 P.77 中島川の牡蠣舟(昭和28年)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.77 中島川の牡蠣舟(昭和28年)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.77 中島川の牡蠣舟(昭和28年)
〔写真説明〕
背景の山の形、特に正面の秋葉山の形などから、現在の光永寺の前付近と思われる。かつて中島川には牡蠣舟が繋がれ、酔客に好評で、中島川の名物のひとつでもあった。(提供:長崎市)

■ 確認結果
HP「中島川石橋群 ~石橋歴史コラム~ (長崎中島川グリット/中島川流域委員会ウェブサイト)」の以下の記事を参照。 http://nagasaki.n-grit.com/ishibashi
かき舟の小料理屋については、昭和29年頃、堺屋修一氏が撮影された同じような写真があり、場所は中島川「袋橋」の下流脇にあった。

かき舟の小料理屋の背後に、よく見るとアーチ式石橋が写っている。これが眼鏡橋の1つ下流の橋「袋橋」である。正面の山は秋葉山でなく「武功山」であろう。写真右上に「井上クリーニング」の屋上看板が写っている。同クリーニング店は当時から現在も営業しているのを確認してきた。
最後の写真は、右岸側にある「袋橋」の旧親柱。橋下(2枚目の黄線内)には、昔の船つなぎ用纜石が珍しく残っている。

昔のまんま「袋橋」
昭和57年の長崎大水害にも耐えて現在もその秀麗な姿の袋橋。残された3橋のひとつだが眼鏡橋の存在のかげで少し地味な印象。写真は中通りから晧台寺、へいふり坂へと続く銀屋町の通りを写している。右側に御三家で有名な共楽園がある(現在は少し下流に移転、ビルとなって多くの来店者で賑わっている)。当時の写真はいかにもちゃんぽん屋の王道という感じの佇まい。時を超えてふわっと熱い湯気と香りが伝わってきそう。

かき舟の風景
袋橋の下流脇にかき舟の小料理屋があった。中島川の話題になると、このかき舟の風景を鮮烈に思い出すという人が多くいる。決って「子供やったけん入ったことはなか。」で話しは終ってしまう。この舟で宴を楽しんだ人達はかなりの高齢になられていると思われますが、ぜひお話しを伺いたいものである。左側では釣りをしている。当時は眼鏡橋のひとつ上流の魚市橋まで潮が上がってきていて、ここは汽水域でボラやドンポ(ハゼ類の総称)がよく釣れた。

「ふるさと」の古写真考 P.64 港と炭坑住宅(高島町・昭和58年)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.64 港と炭坑住宅(高島町・昭和58年)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.64 港と炭坑住宅(高島町・昭和58年)
〔写真説明〕
高島町は、長崎半島の西約4.5キロ、面積は1.27平方キロで、炭坑の島として発展した。写真から香焼町や伊王島町、さらに遠く稲佐山や岩屋山など、長崎市の山々も望まれる。(撮影:小池○○氏)

■ 確認結果
高島炭坑は、昭和61年(1986)に閉山。現在の高島港付近を写しているが、実際はニ子島炭坑の埋め立てられ島の姿が残る上子島の高台から撮影されたと思われる。
写真から遠く「稲佐山」や「岩屋山」が望まれると説明しているが、写真のどの山を指すだろうか。確認をしにくいので、以前写しておいた高島の一番高い山「権現山公園展望台」及び香焼島「香焼総合公園展望台」からの長崎の山々の写真を掲げる。
これから判断すると古写真では中央あたり、「沖の島」の右側に写っているピークが「稲佐山」、左側に写っているピークが「岩屋山」となるようである。

最後の写真は、8月23日に高島港近く、岩崎弥太郎の像がある公園から撮影して確認した。

「ふるさと」の古写真考 P.92 船上から見た大浦海岸と居留地(明治20年代)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.92 船上から見た大浦海岸と居留地(明治20年代)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.92 船上から見た大浦海岸と居留地(明治20年代)
〔写真説明〕
写真は東山手の洋館(活水女学校ラッセル館、十三番館、五番館、十二番館、鎮西学院本部六番館、海星学院、東山学院など)と、大浦町の洋館群を捉えたもので、、右手の橋は下り松橋である。多くの洋館が立ち並ぶ風景は長崎の近代化を象徴するものであろう。左手奥は風頭山である。写真に写っていないが、下り松橋の右手奥には南山手町がある。(提供:鎮西学院)

■ 確認結果    写真説明の疑問は3点。
(1)タイトルは「船上から見た大浦海岸と居留地(明治20年代)」とあるが、当時のカメラと技術で船上から撮影できたか。同じような光景を写した写真は、長崎大学附属図書館所蔵 目録番号:1208「飽の浦からの長崎港(4)」にある。
手前岸辺が写り、これは飽の浦町恵美須神社近くの高台岩場から撮影されている。今では三菱造船所工場が視界をさえぎる。状況は近くの飽の浦カトリック教会下駐車場から写した。
菱重興産駐車場は戦後、木造の三菱社宅が建っていた。昔は洋館があったようだ。
この項は、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1589

(2)写真の右手奥は「風頭山」だろうか。一番近くに見える丸尾町岸壁の先で確認した。ホテル矢太楼の建物の右奥は愛宕山、左奥は英彦山である、矢太楼から続く尾根で、英彦山の山腹手前に薄く写っているのが、風頭山山頂となる。
後ろの写真は、船上に代わり水の浦手前の海岸通りから。古写真の位置や高さはこのあたりが合い、実際は三菱造船所の構内から撮影されたのではないか。

(3)明治3年(1870)に木造の「松ヶ枝橋」が完成。松ヶ枝橋は当初、「下り松橋」と呼ばれていて、明治中期に鉄橋に架け替えられ、後に鉄筋コンクリート橋となった。
鉄橋となっているので「松ヶ枝橋」で良いのではないか。
この項は、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1539

「ふるさと」の古写真考 P.68 深堀の武家屋敷(昭和38年)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.68 深堀の武家屋敷(昭和38年)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.68 深堀の武家屋敷(昭和38年)
〔写真説明〕
江戸時代、深堀鍋島家(石高5500石)はこの地一帯を支配、佐賀藩の家老職を務めた。写真の屋敷は、同家の三番家老樋口家の屋敷で、深堀の城下町の入口に位置していた。かつてこの一帯は武家屋敷が建ち並び、独特の景観であったが、現在ではこの樋口家と数軒を残すばかりである。(撮影:松尾○○氏)

■ 確認結果
深堀武家屋敷跡。1997年「深堀の石塀」で長崎市都市景観賞受賞。史跡案内坂は長崎市深堀支所入口近くの通りにあるが、三番家老樋口家の屋敷は、長崎市立深堀小学校の正門近くにある。
樋口家は最初の写真のとおり、建て替えられて数十年は経つ。ほかの屋敷も同じで、現在では古い屋敷はどこもなく、石塀と門構えを数軒が残すだけとなっている。現状の適切な説明を願いたい。深堀鍋島家の石高は、ほとんどの資料では6000石となっている。

「ふるさと」の古写真考 P.63 グラバー園(昭和62年)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.63 グラバー園(昭和62年)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.63 グラバー園(昭和62年)
〔写真説明〕
高台からウォーカー邸(写真左の建物)と自由亭(右の建物)を望む。ウォーカー邸は明治の中頃、大浦天主堂の隣に建てられ、イギリス人ロバート・ウォーカー・ジュニアが暮した。この家は西洋風の円形のベランダや、屋根から突き出した日本風の庇など和洋折衷の洋館である。
自由亭は、江戸時代の終わり頃出島のオランダ人のもとで修行したという草野丈吉により、日本で初めて開かれた西洋料理のレストラン。自由亭廃業の後、検事正官舎として使われていたが、昭和49年グラバー園に移築復元された。(撮影:松尾○○氏)

■ 確認結果
高台とは「長崎グラバー園」の上の山、鍋冠山(標高169.2m)山頂展望台からグラバー園内をズーム撮影している。
写真左の建物は「旧ウォーカー邸」だが、右の建物は「旧自由亭」でなく、建物案内図のとおり、遊歩道対面にある「旧長崎地方裁判所長官舎」なのである。
鍋冠山から撮影しているので、拡大写真で言うと「旧ウォーカー邸」の左上(実際は下の方)木立の中に、白い煙突の先端部分が写っているのが「旧自由亭」となる。

グラバー園公式HPによる「旧長崎地方裁判所長官舎」の説明は次のとおり。
明治16年頃、長崎市の上(うわ)町に建てられた長崎地方裁判所の官舎。官舎が洋式建築を取り入れているのはとても興味深く、当時、西洋の家が近代化の象徴だったことを伺わせます。内部は日本人の設計によるもので、暖炉はなく、板張りの洋間と畳敷きの居間があります。原爆で数多くの建物が失われたにもかかわらず、居留地の外側に建てられた洋風の官庁建築として唯一残る貴重なものです。
現在「レトロ写真館」として、レトロファッションで記念撮影ができます。