長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:1527 港の風景(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1527 港の風景(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1527 港の風景(2)
〔画像解説〕
写真中に場所を特定する手掛かりはないが、整理番号3-1「横浜海岸通り(1)」との比較から、本写真も横浜海岸通りと思われる。着物にかんかん帽をかぶった男が柵の鎖に持たれて物思いに耽っているようである。

■ 確認結果

目録番号:1527「港の風景(2)」の沖の石垣らしいものは、台場のようである。横浜港にあった台場とすると「神奈川台場」。その一部と考えられる。
現在の横浜市神奈川区神奈川1丁目「神奈川台場公園」の一角。埋め立てられているが、遺跡が出ている。

次のHPを参照。
埋文よこはま20(PDF)   資料も同HPから
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/cms_files_maibun/pr_brochure/my20L.pdf
横浜市 環境創造局 神奈川台場公園
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/make/kanagawadaiba.html

長崎外の古写真考 目録番号: 755 富士山と小川

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 755 富士山と小川

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 755 富士山と小川
〔画像解説〕
様々な地点から、富士山を撮った古写真は多数存在する。本写真はその中では極めて素朴で寂しい風景となっている。演出されていないありのままのこのような風景が、当時の真の日本風景かもしれない。

目録番号:1213 富士山の遠望(1)
〔画像解説〕
場所は特定できないが、富士山が正面に見える。中景は川が流れ、川岸に沿った道路に篭に乗った人物、それを先導するこうもり傘をさした男などがはっきりと見える。前景窪みの工作物は何であろうか、識別できない。

目録番号: 612 柏原からの富士山(4)
〔画像解説〕
柏原は駿河湾に注ぐ勝間田川河口左岸に位置する。中央を通る田沼街道沿いに小商人・小職人の町屋が並び、川崎湊の発展に伴ってにぎわいを見せたという。町から外れた、景観の良い街道筋であろう。

■ 確認結果

目録番号: 755「富士山と小川」は、2枚目の目録番号:1213「富士山の遠望(1)」と同じ場所であろう。3枚目の目録番号: 612「柏原からの富士山(4)」も同じ。次の記事をまず参照。
https://misakimichi.com/archives/2376
現在の静岡県富士市沼田新田あたりの光景。2枚目の中景の川と見えるのは、富士沼(浮島沼)。前景窪みの工作物は、工事中の排水路。開削が完成して木橋を架け、沼の水を川のように流しているのが、1枚目の目録番号: 755「富士山と小川」の様子?と思われる。

平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の218頁 駿河之国に、同じような写真が「柏原富士沼」として掲載されている。同解説は次のとおり。
⑦ 柏原富士沼  (現、富士市沼田新田あたり) 原宿と吉原宿の間、柏原の排水路あたりから北を向き、浮島沼(富士沼、須津沼とも呼ばれた)とその先の富士山を撮影。

以前の記事のとき、地元「鈴川倶楽部」から、次のコメントをもらい、場所を特定できている。
2010/6/27(日) 午前 7:55  鈴川倶楽部です。場所は特定できて、現在の柏原の昭和放水路です。右に見える山は愛鷹山で透水性が少なく、雨がふると浮島沼に流れ込み、その出口が田子の浦ひとつしかなかったので、浮島沼周囲の村は冠水被害に会いました。そこで、地形的に掘割をしやすいスイホシと呼ばれたこの地を、もうひとつの吐き出し口に開削しました。

長崎外の古写真考 目録番号: 745 大八車を引く男たちと富士山

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 745 大八車を引く男たちと富士山

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 745 大八車を引く男たちと富士山

■ 確認結果

目録番号: 745「大八車を引く男たちと富士山」は、東海道「保土ヶ谷」あたりでないだろうか。
WEB「浮世絵」氏は、北斎・広重の浮世絵と東海道の古写真その5 保土ヶ谷 において、葛飾北斎「富嶽三十六景」より「東海道保土ヶ谷」に対比させ、「撮影データ不明 長崎大附属図書館提供」とし、この写真を掲載している。
「信濃坂」の次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2620
現在の保土ヶ谷から見た富士山は、HP「<<梅>>備忘録〜Random Walk」から。

長崎外の古写真考 目録番号: 598 屋形舟(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 598 屋形舟(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 598 屋形舟(2)
〔画像解説〕
整理番号12-28と同じ。川を航行する屋形船に多くの人が乗船している。船頭2人が櫓をこぎ、他の12人は客か。男女入り交じった客はそれぞれ思い思いの場所でポーズをとっているが、川遊びか渡し船の演出写真と思われる。

目録番号: 628 屋形舟(3)
〔画像解説〕
整理番号12-28と同じ。川を航行する屋形船に多くの人が乗船している。船頭2人が櫓をこぎ、他の12人は客か。男女入り交じった客はそれぞれ思い思いの場所でポーズをとっているが、川遊びか渡し船の演出写真と思われる。

■ 確認結果

目録番号: 598「屋形舟(2)」と、目録番号: 628「屋形舟(3)」は、同じ光景の写真。山谷堀が隅田川に流れ込む河口にあった有明楼(ゆうめいろう)前の今戸河岸で撮影。背景は向島で牛島神社や長命寺のある辺りだろう。

大正14年(1925)東京朝日新聞社発行『アサヒグラフ臨時増刊写真百年祭記念号』に同じ写真が、「内田九一氏と東京隅田川の舟遊」として載っている。
説明に「明治七年頃の撮影で舟中欄干にもたるるは内田九一氏 平田健一氏所蔵」となっている。内田九一の弟子か、「臼井秀三郎」の撮影とされる。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2230

今回、目録番号: 598「屋形舟(2)」と、目録番号: 628「屋形舟(3)」の2作品を取り上げたのは、カラーが鮮明。一見、同じような写真に見えるが、比べてみると「背景の富士山が消えた」「着物の色が変った」「別物がある」など、違う点がある。
比較写真で主なものに青囲み線をした。カラーの技術上のことだろうが、写真がこんなに変る見本として見てもらいたい。

長崎外の古写真考 目録番号: 438 柏原からの富士山(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 438 柏原からの富士山(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 438 柏原からの富士山(2)
〔画像解説〕
柏原は駿河湾に注ぐ勝間田川河口左岸に位置する。河口付近の低湿地帯であろうか、中央の近景に帆船、遠景に富士を配している。撮影者が船上から撮ったのかどうか、気になるアングルである。

目録番号: 499 柏原からの富士山(3)
〔画像解説〕
柏原は駿河湾に注ぐ勝間田川河口左岸に位置する。河口付近の低湿地帯であろうか、左手前に帆船、中央に富士を配している。撮影者は船上から撮ったのであろうか?セイラム・ピーボディー博物館のモース・コレクションの中に同じネガから現像したと思われる写真がある。『モースの見た日本』(小学館)

目録番号:4205 柏原からの富士山(5)
〔画像解説〕
富士市柏原新田付近の浮島沼(沼川の上流)から北方の山頂に雪の積もった富士山を遠望したもの。沼の水は沼川を通り、田子ノ浦に注ぐ。浮島沼の周辺は浮島ケ原の湿地帯で、川舟で移動するため、水路網が発達していた。帆をあげた川舟には男性2人が乗る。

■ 確認結果

目録番号: 438「柏原からの富士山(2)」と、目録番号: 499「柏原からの富士山(3)」は、ほぼ同じ場所から撮影している。カメラ目線は高く、船上からの撮影ではない。現在の富士市柏原新田付近、浮島沼(沼川の上流)沿いの東海道から、北方の沼と富士山を遠望している。
1枚目の目録番号: 438「柏原からの富士山(2)」と、3枚目の目録番号:4205「柏原からの富士山(5)」は同じ写真。

2枚目の目録番号: 499「柏原からの富士山(3)」についても、掲載を略したが、目録番号:2245「東海道沼川からの富士山(1)」、目録番号:2914「田子ノ浦沼川からの富士山(15)」、目録番号:2960「田子ノ浦沼川からの富士山(16)」が同写真としてある。
いずれもタイトル、撮影者など調整が必要。

なお、目録番号: 499「柏原からの富士山(3)」の画像解説にある「セイラム・ピーボディー博物館のモース・コレクションの中に同じネガから現像したと思われる写真がある。『モースの見た日本』(小学館)」460頁の掲載写真は最後のとおり。
「460 和船 Cargo vessel(model) ca.1880」とあり、撮影年代は「1880年頃」となっている。

長崎外の古写真考 目録番号:1617 田舎の子供たち

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1617 田舎の子供たち

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1617 田舎の子供たち
〔画像解説〕
写真中にCOUNTRY CHILDRENとある。場所は特定できないが、背景などから見て庭園に遠足で来た子供たちであろう。中央に男の先生らしい人が見える。大きな子から小さな子まで多学年にわたっている。子供たちの服装、表情など見る上で貴重な写真である。

■ 確認結果

目録番号:1617「田舎の子供たち」は、「庭園に遠足で来た子供たちであろう」か。灯籠があるから神社の水舎だろう。前かけをほとんど付けた子供たち。ある作業の休憩風景のように見える。
撮影者「日下部金兵衛」(1841−1932)は、甲府の出身。イギリス人カメラマン、F・ベアトの助手として修業。明治14年(1881)頃独立し、横浜に金幣写真館をひらいた。

山梨県南巨摩郡富士川町(旧鰍沢町)教育委員会が、明治時代?の同じような子供たちを写した貴重な写真を所蔵している。山梨県HPの「山梨県埋蔵文化財センター」の項に、次のとおり記事と写真がある。 http://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/topics/101-200/0188.html

遺跡トピックス№0188 鰍沢河岸跡[かじかざわかしあと]

鰍沢河岸跡は、富士川町(旧鰍沢町)明神町〜横町地区にある遺跡で、国道52号の改築工事や護岸工事に伴い、平成8年から19年度まで発掘調査が行われました。鰍沢河岸は、江戸時代初めに開かれた富士川水運の船着き場で、青柳河岸[あおやぎかし](富士川町)・黒沢河岸[くろさわかし](市川三郷町)とともに甲州三河岸と呼ばれました。
江戸時代には年貢米や塩の運搬、明治時代以降は様々な生活物資や人々の輸送を行い、昭和3(1928)年の富士身延鉄道(現在のJR身延線)全線開通により舟運の役割を終えるまで、甲府盆地の経済・文化の玄関口としての役割を担いました。発掘調査によって、富士川水運に関わる様々な施設や河岸を中心として発達した町並が発見されました。

河岸には欠かせない荷物置き場
平成8年度には、年貢米などを保管した御米蔵[おこめぐら]や検査場などの施設があったとされる御蔵台[おくらだい]周辺の発掘調査が行われ、建物跡や道路跡・杭列などが発見されました。また、御米蔵の前面にあたる場所から、カマボコ状の高まりが並ぶ施設が発見されました。
発掘当初は、この連続する高まりが何に利用されたのかわかりませんでしたが、鰍沢町教育委員会が所蔵する写真に、この高まりの上に荷物が置いてある様子が写っていたことから、荷物を置くための荷積み台[につみだい]であることがわかりました。荷物置き場は、荷物がたくさん集まる河岸には欠かせない施設です。写真では、たくさんの荷物が荷積み台に置かれ、鰍沢河岸が栄えていた様子がうかがえます。…

以上が「鰍沢町教育委員会が所蔵する写真」によって判明した、当時の富士川水運「鰍沢河岸船着き場の荷物置き場」。子供たちが荷物運搬に従事していた様子でないだろうか。
類推するとこの写真も、日下部金兵衛撮影と思われる。鰍沢河岸近くには、「妙法寺神社」がある。目録番号:1617「田舎の子供たち」の水舎はここと考えられるが、地元に検証をお願いしたい。

長崎外の古写真考 目録番号: 298 湯本茶屋付近の箱根旧街道(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 298 湯本茶屋付近の箱根旧街道(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 298 湯本茶屋付近の箱根旧街道(1)
〔画像解説〕
湯本茶屋をやや下ったところから見た箱根旧街道の石畳の様子である。当時の写真は重いガラス板と電話ボックスのような暗室を数人の人夫で担いで行く必要があったので、茶店で休憩の際に撮影されたものが多い。

目録番号: 631 湯本茶屋付近の箱根旧街道(2)
〔画像解説〕
湯本茶屋をやや下ったところから見た箱根旧街道の石畳の様子である。遠くの山は双子山である。現在、写真の松は残っていない。電柱が見え、湯本の電化された明治25年以降と判断される。

目録番号:2111 箱根旧街道畑宿付近(1)
〔画像解説〕
湯本茶屋付近からの双子山と箱根旧街道の眺望。明治6年(1873)に敷設された東京・長崎間の電信線が見えず、それ以前の撮影であろう。石畳は文久年間(1861-64)に大改修されたもの。ここは休憩場所であったらしく、職人風の男二人が休憩している姿が見える。この写真と似た構図のものは極めて多い。

目録番号:4742 箱根旧街道畑宿付近(2)
〔画像解説〕
湯本茶屋付近からの双子山と箱根旧街道の眺望。明治6年(1873)に敷設された東京・長崎間の電信線が見え、それ以降の撮影と分る。丸石の石畳は文久年間(1861-64)に大改修されたもの。ここは休憩場所で、やせ馬を背負った男と職人風の男の休憩姿が見える。この写真と似た構図のものは大変多い。

目録番号:4259 箱根畑       (掲載略)

目録番号:4414 湯本からのニ子山  (掲載略)

■ 確認結果

1枚目の目録番号: 298「湯本茶屋付近の箱根旧街道(1)」は、撮影年代が違うが、3枚目の目録番号:2111「箱根旧街道畑宿付近(1)」と構図が似る。
2枚目の目録番号: 631「湯本茶屋付近の箱根旧街道(2)」と、4枚目の目録番号:4742「箱根旧街道畑宿付近(2)」は、同じ写真と思われる。

ここには掲載を略したが、目録番号:4259「箱根畑」、目録番号:4414「湯本からのニ子山」の作品もあるので次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2527
いずれも、タイトル、撮影者、撮影場所、画像解説の調整が必要。

長崎外の古写真考 目録番号:1472 富士川からの富士山(4)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1472 富士川からの富士山(4)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1472 富士川からの富士山(4)
〔画像解説〕
詳細は不明だが、富士山との距離から考えて、手前の川は大井川かと思われる。中州を挟んで二筋に分かれた幅広い川越しに、富士山の姿がとらえられている。

目録番号:4098 富士川からの富士山(6)
〔画像解説〕
富士川町岩淵(いわぶち)の富士川右岸の河原から北東方の富士山を遠望したもの。手前は岩淵の渡船場、対岸の森は富士市の松岡水神社(まつおかすいじんしゃ)である。水神社から岩淵に架橋されるが、写真には写っていない。富士川は急流のため、何度も流失し橋のない時期かもしれない。左手の山が岩本山(いわもとやま)で、対岸には松並木が続く。

■ 確認結果

目録番号:1472「富士川からの富士山(4)」は、タイトルを「富士川」としながら、「大井川かと思われる」と画像解説している。
次の目録番号:4098「富士川からの富士山(6)」のとおり、渡船場があった現在の富士市岩淵「富士川」の光景である。

長崎外の古写真考 目録番号: 205 富士川からの富士山(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 205 富士川からの富士山(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 205 富士川からの富士山(2)
〔画像解説〕
日本三大急流の1つとして知られる富士川は、古来より幾筋も分流し、旅人を悩ませたようである。中州の向こう側には木橋が見えるが(要確認)、より下流のこのあたりでも渡船の必要があったのであろうか?

目録番号:4098 富士川からの富士山(6)
〔画像解説〕
富士川町岩淵(いわぶち)の富士川右岸の河原から北東方の富士山を遠望したもの。手前は岩淵の渡船場、対岸の森は富士市の松岡水神社(まつおかすいじんしゃ)である。水神社から岩淵に架橋されるが、写真には写っていない。富士川は急流のため、何度も流失し橋のない時期かもしれない。左手の山が岩本山(いわもとやま)で、対岸には松並木が続く。

■ 確認結果

目録番号: 205「富士川からの富士山(2)」は、次の目録番号:4098「富士川からの富士山(6)」のとおり、東海道の幕府領だった現富士市岩淵(いわぶち)渡船場の風景。木橋は「富士川橋」という。
富士川舟運については、次のHPに記事があり参照。画像解説は少し誤解がある説明となっている。木橋は富士川をヨコ渡りしているが、岩淵渡船場は、基本的に富士川をタテ流し、内陸と海を結び米や塩などの物流をしていたようで、木橋の完成とはあまり関係がないように思われる。

HP「開運 旧東海道 あちこち寄り道・散歩道」  富士川の渡し5 渡しの終焉

1871(明治4)年、太政官令により宿駅制が廃止となります。この法律は宿場制や駅馬制が廃止となっただけではなく、関所や渡船の制度も廃止となりました。また同時に渡船場には早急に仮橋を架けるようにとの太政官令も発令されました。
しかし、富士川は川幅も広く、資金もなかったため、すぐには仮橋は架けられませんでした。富士川に仮橋が架かったのは1878(明治11)年のことでした。その間も東海道は幹線ですから、渡し舟は続けられています。つまり明治4年の太政官令により、富士川の渡しは官営から民営になったということでした。画像は「富士川を渡る歴史」展の資料の中にある絵葉書です。こちらも同じく、富士川を渡る舟です。

1878年、富士川に仮橋が架けられると富士川の渡しが終わった訳ではありません。実はこの仮橋は冬の間だけ架けられたのでした。見て分かる通り、かなり安易な橋です。ですので増水の多い季節は取り壊されてしまい、その間は従来通り渡し舟で富士川を渡ったのでした。
この仮橋も実は渡橋料がかかりました。ひと1人1銭、牛馬、荷馬、人力車3銭8厘でした。これに対して渡船はひと1人5厘、牛馬5銭、荷馬3銭8厘でした。

大正初期の富士川仮橋です。明治の橋に比べるとかなり立派な造りになってきています。その理由はこのあたりに所有者がいたかどうかは分かりませんが、恐らく自動車の出現だと思います。
富士川橋の鉄橋工事です。1924(大正13)年、国道整備計画の一貫として、とうとう富士川にも鉄橋が架けられました。渡橋料も無料となり、富士川の渡しもついに廃止となりました。

HP「国土交通省甲府河川国道事務所」 ヨコ渡し・渡船場 地域の人々の掛け橋

富士川舟運は、甲斐・信州の内陸と駿河を結ぶことによって、遠く江戸や瀬戸内にまで連絡する社会・経済・文化の大動脈であった。これに対して、富士川にはもう一つの舟が航行していた。
対岸に渡るための「ヨコ渡し」と言われる舟の航行である。橋を架ける技術や経済力の未熟な時代であり、橋の役目を担っていたもので、後世には「渡船」と呼ばれた。富士川舟運が岩渕河岸から甲州三河岸までの縦方向を連絡するのに対し、ヨコ渡しは川の横方向を連絡するのでこの名がつけられた。ちなみに、富士川舟運は「タテ流し」とも言われた。ヨコ渡しの渡船場は富士川とその支川を含めるとかなりの数に上ったと思われるが、現在知り得る数は概ね50箇所である。
このヨコ渡しに用いられた舟の構造は、タテ流しの舟のように大量に運搬するものと違い、その量に見合った大きさのものが各渡船場で造られていた。昭和40年頃までその一部は残り、地域住民の足として活躍していた。

長崎外の古写真考 目録番号: 193 根本中町 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 193 根本中町 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 193 根本中町
〔画像解説〕
現在の箱根湯本正源寺をやや下った橘旅館付近から中町方面の集落を眺めたところ。箱根旧街道と松並木が見える。今は、道路拡張で切られ、松はない。現存するガラス原板から宮の下の写真館嶋周吉氏の撮影と判明した。

目録番号:4466 柏原からの富士山(6)
〔画像解説〕
富士市柏原新田付近の浮島沼から北方の山頂にわずかに雪の積もった富士山を遠望したもの。浮島沼の水は沼川を通って田子ノ浦に流れ出る。沼の水面には逆さ富士と2艘の川舟が映る。それぞれの川舟には立った男性と座った男性が1人づつ乗り、背後には浮き島が点在する。撮影者は水野半兵衛である。

■ 確認結果

目録番号: 193「根本中町」、及び目録番号:4466「柏原からの富士山(6)」は、画像解説からそれぞれ〔撮影者:嶋周吉〕、〔撮影者:水野半兵衛〕と修正できないのだろうか。