長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:6234 外国人の江戸散策

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6234 外国人の江戸散策

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6234 外国人の江戸散策

目録番号:6215 長応寺のオランダ総領事館

■ 確認結果

目録番号:6234「外国人の江戸散策」に写されている寺は、次の目録番号:6215「長応寺のオランダ総領事館」のとおり、東京高輪にありオランダ総領事館であった「長応寺」でないだろうか。
外国人2人の姿(拡大)が似ている。ベアトが同行したスイスの使節団長アンベール一行やオランダ領事ポルスブルックが考えられる。

芝増上寺のような感じもするが、双方の寺とも建物を比べる写真が見当たらない。
神奈川発コミュニティーサイト「カナロコ」に、次のような記事がある。
最後の写真は、横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 −幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊の145頁にある「187.夜警の役人達」。同じ場所と構図で写している。役人のみ写し提灯を持っているが、同時に撮影された作品ではないだろうか。

【港都の黎明・17】ベアトが写真撮影、使節団の江戸散策
2011年3月3日

スイスの使節団長アンベールの著作「幕末日本図絵」には、14章から19章にかけて、江戸についての長い記述がある。これを読むと、宿舎の長応寺に滞在しながら、ゆっくり江戸市中を散策したように受け取れる。しかし、ブレンワルドの日記によると、実際にはそうでなかったようだ。
使節団が長応寺に入ったのは1863年5月28日だが、時あたかも生麦事件の解決をめぐるイギリスと幕府の交渉が難航しており、世情は騒然としていた。

江戸は危険だとして、日本側は横浜へ戻ることを要求し、使節団は夜になると船で宿泊するような生活をしばらく続けたのち、6月8日に横浜に退去した。6月24日になって幕府が賠償金の支払いに応じたので、最悪の事態は避けられたが、使節団との交渉は横浜で行われることになった。
使節団が再び江戸を訪れたのは翌1864年2月5日、条約の調印のためだった。一行が江戸市中を散策したのはこの日と翌6日の2日間だけで、6日の夜にはもう横浜に戻っている。

「幕末日本図絵」によると、長応寺には写真家ベアトの「小さな仕事場」があり、使節団に同行して、江戸市内を撮影して回った。現存するベアトの江戸の写真のいくつかは「幕末日本図絵」の記述と符合するので、この時に撮影されたものと考えられる。
三田の綱坂の写真もその一つで、「幕末日本図絵」にも版画に直して収録されている。ただし、ベアトもアンベールもこれを高輪の薩摩藩下屋敷の写真だと誤解している。写真を整理した際に別の写真と入れ替わってしまったようだ。

幕末の条約のもとでは私人が自由に江戸を散策することは認められていなかったから、ベアトは外国の代表と一緒でなければ撮影できなかったのだが、その代表がスイスの使節団だけだったとすると、2日間でそんなに多くの写真を撮れただろうか? ブレンワルドの日記がこの疑問に答える手がかりを与えてくれる。
1863年8月17日の日記によると、オランダ領事ポルスブルックがベアトとともに江戸へ向かったという。ベアトの江戸の写真の中には、ポルスブルックに同行して撮影したものもあるのではないか。

長応寺はオランダの代表が江戸滞在中に宿舎として利用していたので、長応寺の中のベアトの仕事場はその際にも役立ったことだろう。
ブレンワルドの日記には他にもベアトが登場する。その一つは1863年10月16日、ブレンワルドがベアトのもとを訪ねると、14日に横浜で何者かに殺害されたフランス軍士官、「可哀相(かわいそう)なカミュ」の遺体の写真があった、というもの。11月9日には、ベアトに肖像写真を撮ってもらっている。   (2011年3月2日掲載)

慶應3年(1867)12月の薩摩屋敷焼き打ち事件のときに西応寺が全焼したため、高輪伊皿子の「長応寺」が次のオランダ領事館となった。長応寺はその後衰微、明治37年北海道天塩郡幌延町字上幌延へ移転している。長応寺跡は現在、秀和高輪レジデンスというマンションにかわっていて、当時の面影はまったくない。
現在の北海道「長応寺」の写真は、HP「諏訪大社と諏訪神社」上幌延諏訪神社跡(長応寺)から。別のHP「長応寺」寺の歴史には、東京高輪の「長応寺」が大寺院であったことを、次のとおり記している。

芳荷山 長応寺      所在地 北海道天塩郡幌延町字上幌延174番地

三州西郡上郷城主2代鵜殿藤太郎長将の寄進により文明5年(1473)創建され鵜殿家累代の菩提寺となった。後、永禄5年(1562)今川方であった上卿城は落城し、その時寺も類焼、時の住持6世日翁はこれを江戸の日比谷へ移し引寺して文禄元年(1592)再建されたが、その後三度移転して芝・高名輸に落着したのは寛永12年(1635)であった。
今川家没落の後、家康に仕えた鵜殿家では藤助長忠の養女おとくが家康の側室となり、関東国替の時、江戸へ下向して甥の日翁と再会、深く帰依して外護の念厚く七堂伽藍を寄進したので俄に堂坊12院を有する大寺院となり、やがて日蓮門下勝劣派の触頭となった。
降って弘化2年1月近火によって類焼。後24世日守の苦辛で庫裡が再建されたが維新以来武家勢の失墜とともに多くの檀信徒を失い極度に衰微してしまった。

明治30年北海道国有未開地処分法力制定され、大規模な開拓地の無償付与制度が確立、これを契機に北海道の拓殖事業は盛んとなり、移民の数も急激に増加しつつあったが、それにともない仏教各派の北海道に於ける布教活動も著しいものがあり、明治31年練行院日聡また長応寺29世を継ぐやこれを北海道に移し開拓地に於ける法華宗布教の中心たらしめようと決意。芝、長応寺敷地売却企及び寄附金をもって翌32年より天塩郡ウブシ原野に法華宗農場を開設、国有未開地243万3.498坪の貸付を受け、新潟、富山、宮城の三県より95戸、更に17戸を補充して農民を移住し入植開拓にあたったが、寒冷地塁闘の辛苦は名状し難いものであった。開墾営農事業は苦難重畳してひどく難渋したが挫折することなく進め一応同41年墾了した。

明治37年長応寺の移転出願は許可され天塩村に地所を得て仮建築し、ひとまず長応寺を移し(現・天塩・妙法寺)、同41年農場内に2万1千坪の土地を割いて堂宇・庫裡等170余坪の新築に着手1大正2年漸く竣工をみたがその発願して企図以来実に15年の歳月を費やして漸く芝・長応寺の移転が実現したわけである。斯様にして長応寺は建立され北海道に於ける法華宗布教の根拠が確立したばかりか、そのためめ手段として開設された法華宗農場の墾開によって、開拓開教の目的は一応遂げられたと言ってよい。
その後、日聡は隠退したが不幸にも大正8年火災のため全焼という思いがけない結果から日聡再び長応寺住職及び法華宗農場主任に復帰した。しかし、農場の負債整理や堂舎再建費用捻出に腐心してやむなく農場を処分してしまった(大正12年)、農場開設以来25年目のことである。苦楽をともにして来た日聡を始め小作人一同にとっても感慨ひとしおに深いものがあった。後、檀信徒の外護により大正11年再建され現在に至っている。

長崎外の古写真考 目録番号:5053 箱根の雪景色

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5053 箱根の雪景色

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5053 箱根の雪景色
〔画像解説〕
箱根は回数は多くないが、2月から3月に掛けて、かなりの大雪が降ることがある。また、箱根では標高により雪の量が明瞭に異なり、海抜300mと500m辺りに雪線があり、それ以下では殆ど積もらない。従って湯本や塔ノ沢ではなく、大平台よりも海抜が高い地域と推定されるが、場所は現段階では特定できない。

目録番号:388 大谷川合満ガ淵(2)
〔画像解説〕
日光含満ガ淵は大谷川の激流が男体山の溶岩を浸蝕して生じた淵である。 この地に百地蔵がある。 展望所の斜め上に地蔵が写っている。 渦巻く激流の名所である。

■ 確認結果

目録番号:5053「箱根の雪景色」は、次の目録番号:388「大谷川合満ガ淵(2)」と同じ場所の雪景色と思われる。
堂は日光含満ガ淵の不動明王の対岸に建っていた「霊庇閣」(れいひかく)という護摩堂。
現在の復元された堂の写真は、HP「日光を漂ふ」 2010.03.22 憾満ヶ淵 から。同関連記事
2004.12.12 含満ヶ淵 による説明は次のとおり。

含満ヶ淵 

この場所は、女峰山の噴火による溶岩が作り出した奇勝である。天海の跡を継いで第五十四世座主になった公海(晃海)が大谷川左岸の絶壁の上に不動明王の像を建て、その下の岩壁に「憾満(かんまん)」の梵字を養源院住職山順に書かせ刻ませた。この「憾満」というのは不動明王の真言・ナウマクサマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソハタヤ・ウンタラタ・カンマンの最後の句を漢字にしたもの。だから、この地を「憾満ヶ淵」、転じて「含満ヶ淵」とも言う。

公海は不動明王の対岸に霊庇閣(れいひかく)という護摩堂を建て、山内の僧侶に護摩供養をせしめた。明治三十五年九月の洪水のため、この大谷川流域は多大な被害があり、このあたりの人工施設は壊滅的な状態であったそうだ。今は霊庇閣のあった場所に護摩壇の跡が残るだけである。
霊庇閣は、昭和四十六年(1971)に復元されたもの。右画像の岩壁に、「憾満」の梵字が刻まれているはずなのだがよく判らない。もしかしたら、わずかに見える凹凸がそうなのかも知れない。そして、その岩上にはかつて不動明王があった。

長崎外の古写真考 目録番号:1344 中禅寺湖近くの橋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1344 中禅寺湖近くの橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1344 中禅寺湖近くの橋

目録番号:4279 猿 橋
〔画像解説〕
山梨県大月市猿橋町に所在する桂川に架けられた猿橋である。猿橋は「木曽の桟(かけはし)」「周防の錦帯橋」とともに日本三奇橋と呼ばれ、昭和7年(1932)に国名勝に指定された。猿橋は橋脚を用いない「ひじ木けた式橋」である。写真は桂川の上流部から猿橋を望み撮影されたものであり、橋の上に多数の人物が写っているが、撮影時期等は不明である。

■ 確認結果

目録番号:1344「中禅寺湖近くの橋」は、次の目録番号:4279「猿橋」のとおり、山梨県大月市猿橋町の桂川に架かる「猿橋」であろう。橋や岩面が違うのは、撮影年代が違い、桂川の上流からと下流からと撮影された写真のためではないだろうか。
HP「木の構造物」による説明と写真は、次のとおり。
「猿橋」とするには、はっきりした確信がまだない。調査は継続中。「中禅寺湖近く」と何かキャプションにあるのだろうか。

猿 橋
<概要> 山梨県大月市猿橋町の桂川にかかる「猿橋」(さるはし)は、山口県の錦帯橋(きんたいきょう)、徳島県のかずら橋と並ぶ、日本三大奇橋※の一つであり、昭和7年に名勝指定を受けている、その構造形式は、「肘(ひじ)木けた式」と呼ばれ、橋脚がなく、両岸より張出された四層の桔木を支点とし、上部構造を支えているものである。
猿橋の歴史は古く、初期の建築年代は600年頃百済の国の志羅呼(しらこ)が、猿がつながって対岸に渡る姿を見て、これを造ったという伝説があるが、詳細は不明である。文献としては、延宝4年(1676年)には橋の架け替えがあったと記述されている。
現在の橋は、昭和59年に総工費3億8千万円をかけ完成したもので、将来にわたるメンテナンスのことから、H鋼を木材で囲った桔木が用いられている。

※日本三大奇橋は上記の他に、栃木県の神橋が入る場合もある。
また、現存しないものでは、長野県の木曽の桟橋、富山県の愛本刎(はね)橋(ともに猿橋と同様の構造形式と考えられる)があり、これを含めて言う場合もある。

長崎外の古写真考 目録番号:5750 学校の遠景

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5750 学校の遠景

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5750 学校の遠景

目録番号: 74 三井寺から望む琵琶湖(1)
〔画像解説〕
大津市園城寺。閼伽井という霊水があり、この「御井」から三井寺と呼ばれた。長等山の山腹の景勝の地に位置し、特に観音堂からの眺めは有名。左手に入母屋の亭があり、中央に台が置かれている。下方に琵琶湖と沿岸の平野を眺望する。

■ 確認結果

目録番号:5750「学校の遠景」は、滋賀県大津市の風景と思われる。地図のとおり三井寺近く現在、大津市歴史博物館がある後ろ長等山から、御陵町「滋賀県立大津商業高等学校」の前身だった学校を写し、琵琶湖対岸の山は、野洲市の三上山(標高432m)連山であろう。

大通りは三井寺の大門通りではなく、次の御陵町の通り。対岸の山は、目録番号: 74「三井寺から望む琵琶湖(1)」と、撮影場所がかなり北となるため、山の姿のみ対照のこと。現在の写真は、HP「Flickr:sintaronakaoka’s Photostream」から。
神戸や横浜では、対面にこのような山や島は見えないと思われる。

滋賀県商業学校は明治19年、当初、大津に県立商業学校として開校したが、明治34年に八幡町(近江八幡市)に移転したため、大津実業補習学校が大津尋常高等小学校(現:中央小学校)に併設され創立した。古写真はこの時代のものか?、また同校沿革によると、「昭和34年9月 現在地に移転」とある。
戦後の学制改革により「滋賀県立大津商業高等学校」と名称変更。2005年に創立100周年を迎えており、県内でも歴史のある公立高校である。
学校の沿革・古写真については、HP「大津市歴史博物館」大津の古写真、HP「滋賀ガイド」ヴォーリズ(アメリカ人の建築家)来日100周年記念特集〔後編〕も参照。

長崎外の古写真考 目録番号:4899 大津の町並み

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4899 大津の町並み

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4899 大津の町並み
〔画像解説〕
高観音(たかかんのん 正式名:近松寺)東方から北西方向を撮影したもの。園城寺観音堂とともに、琵琶湖を望む当時のビュースポット。左手奥には、明治8年(1875)駐屯の陸軍歩兵第9連隊の兵舎が見えるが、同19年着工の琵琶湖疏水工事が未着手であり、この間に撮影されたものと考えられる。

目録番号:2250 三井寺から望む琵琶湖(9)
〔画像解説〕
西国三十三所観音霊場の第14番札所、三井寺(みいでら、正式名:園城寺)観音堂から望む大津の風景。中央の水路は飲料水・発電・物資輸送などを目的として、明治23年(1890)に完成した琵琶湖疏水(びわこそすい)。疏水周辺の様子から、完成間もない頃に撮影されたものと考えられる。

■ 確認結果

目録番号:4899「大津の町並み」は、園城寺観音堂の方が有名だが、画像解説どおり「高観音(たかかんのん 正式名:近松寺)東方から北西方向を撮影したもの」に間違いないようだ。
「同19年着工の琵琶湖疏水工事が未着手であり」とは、園城寺観音堂下からこの古写真の中央あたりに水路はできるが、まだ表れていない。
高観音 近松寺(ごんしょうじ)、園城寺(三井寺)観音堂、琵琶湖疏水の位置は、地図のとおり。

高観音 近松寺から望む大正初期や昭和初期の絵葉書、現在のアングルは、HP「高観音(近松寺)」などから。
三井寺の末寺として栄えた近松寺。近松門左衛門ゆかりの寺。本尊は智証大師の作と伝えられる千手観音菩薩。園城寺で一番高い位置に祀られている観音なので「高観音」と呼ぶ。

長崎外の古写真考 目録番号:3932 湯本の山道

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3932 湯本の山道

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3932 湯本の山道
〔画像解説〕
湯本近くの山道であるが、箱根八里の旧東海道か、鎌倉時代の湯坂道か、あるいは、他の山道か不明である。背後に山等も見えないので、特定が困難である。旧東海道であれば、石畳が見えてもよさそうだが、有るか無いかはっきりしない。既に埋もれた可能性もある。

目録番号:5700 箱根湯本の街道

■ 確認結果

目録番号:3932「湯本の山道」は、次の目録番号:5700「箱根湯本の街道」の作品もある。ベアトかスチルフリードが歩いた道。一般的に「箱根八里の旧東海道」と考えられる。写りがはっきりしないが、石畳の道のようにも見える。

湯坂道は、鎌倉幕府のあった時代から、江戸時代に箱根旧街道が出来るまで、箱根越えの主ルートだったが、標高700m以上を登る。あまり考えられない。
現在の写真は、HP「東海道歩き旅」箱根湯本〜箱根から。

長崎外の古写真考 目録番号: 807 乞 食

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 807 乞 食

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 807 乞 食
〔画像解説〕
“The Far East “”明治4年11月5日号163ページ掲載。湯本でであった乞食。横浜で船頭をしていたが、事故で片目を失い、他にも怪我をして生活の資を稼げなくなったと解説している。”

■ 確認結果

目録番号: 807「乞食」は、箱根の「湯本でであった乞食」なら、〔撮影地域:箱根〕となるだろう。

長崎外の古写真考 目録番号:1020 皇居内濠(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1020 皇居内濠(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1020 皇居内濠(1)
〔画像解説〕
水鳥が泳ぐ壕の対岸、左手に一棟(書院?)、右手に一棟(茶室?)建物が見える。背景には背の高い木立が見える。撮影場所の詳細は不明。

■ 確認結果

目録番号:1020 皇居内濠(1)は、HP「森川和夫:廣重の風景版画の研究ー(1)」古写真で読み解く広重の江戸名所 に同じ写真が掲載され、撮影場所を次のとおり説明している。

75.名所江戸百景 赤坂桐畑 

溜池といえば、現在は地名として残っているばかりだが、明治初年までは、赤坂御門外より山王の宮の麓を東南にめぐり、虎の御門近くまで伸びる大きい池であった。江戸名所図会はこの池について、「昔、神田、玉川の両上水、いまだ江城の御もとへ引かせたまはざりしその以前は、この池水を上水に用いられしとなり」とも記している。
この溜池の南側、日吉山王権現の対岸なる松平美濃守の中屋敷前辺りを俗に桐畑といった。…

名所江戸百景赤坂桐畑
名品揃物浮世絵10広重I〔江戸名所物〕(ぎょうせい)

明治初年の溜池のほとり
目で見る千代田の歴史(千代田区教育委員会)

さて、写真は明治初期の溜池である。この写真は、数少ない溜池の写真で、矢田挿雲の「江戸から東京へ」にも掲載されている。もともとこの写真は1872年5月16日号の「The Far East」紙に貼られたもので、「View on the Moat, Yedo」というキャプションがついている。そのためか、江戸城内の写真とする向きもあるが、これは紛れもなく溜池の写真である。「The Far East」紙にはこの写真の説明があるので、参考までに拙訳を記しておきたい。

「これは江戸城のお堀で、赤坂御門はこのすぐ近くである。日本では、この時節になると、木立の繁みは、その色も姿も、世界の他の国では見られないほど変化に富む。この写真の背景にあるような美しい水際の緑は実は国中何処へいってもお目にかかることができるのである。竹の葉は軽く、また柔らかく、椿や松の木が濃やかな陰をつくっている。そしてその間に叢生する潅木の種類も豊富で、それが、見る者の目を楽しませてくれるばかりでなく、気分も一新させてくれる。江戸にはこのような美しい自然を見られる場所がざっと数えただけでも二十ヶ所ぐらいはあろうか」

外国人が幕末の江戸の美しさ、緑の多さを賞賛した話は多い。この「The Far East」紙の記事もその一つであろう。さて、広重の絵との関連で見ると、この写真に桐の木が写っていないのは致し方ないとしても、もう少し広角で撮られていて、周囲の景色が写っていれば申し分なかったのだが。それにしても、この写真は広重の絵の一部を切り取ったような趣である。池辺に写っているのは、山王権現の僧坊で、社僧には園成院・成就院・玉蔵院・長命院・福聚院・智光院・宝泉院・無量院・智乗院・常明院の十坊があった。
実はもう一枚、溜池の写真がある。回を改めて採り上げたい。

長崎外の古写真考 目録番号:4702 渡し舟(6)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4702 渡し舟(6)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4702 渡し舟(6)
〔画像解説〕
琵琶島弁天の護岸を利用した舟着場。平潟湾を野島まで渡す舟であろう。乗船客の多くは房総方面からの大山参詣などの旅人と考えられる。琵琶島弁天は今も、金沢シーサイドラインの終着駅、金沢八景駅の近くに、写真に写っている白い幹の柏槙の木ともども現存する。

■ 確認結果

目録番号:4702「渡し舟(6)」は、横浜開港資料館HPの「3.F.ベアト幕末関係画像集」に、 金沢の渡し船〔彩色写真〕 幕末期 【所蔵】横浜開港資料館蔵 とあり、〔撮影者:F.ベアト〕となる。

長崎外の古写真考 目録番号: 608 寺の御堂(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 608 寺の御堂(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 608 寺の御堂(1)
〔画像解説〕
神仏分離によって解体された、鶴岡八幡宮の輪蔵か。輪蔵は神楽殿左にあり、経文が納められていた。すでに解体作業に入ったものか、木材が積まれている。

■ 確認結果

目録番号: 608「寺の御堂(1)」は、HP ”がらくた置場 by s_minaga”の「相模鶴岡八幡宮寺大塔」に、同じ写真を取り上げ、次のとおり説明している。
次の元治元年撮影か明治3年撮影かは不明のベアト撮影、横浜開港資料館蔵の写真を見ても、解体された「鶴岡八幡宮経蔵」と考えられる。

○明治3年5月直前経蔵写真:撮影時期・撮影者不明
鶴岡八幡宮経蔵(推定):下掲載の経蔵:(ベアト撮影)と比較しても、八幡宮経蔵であることは確実と思われる。
前面には木材らしきものが積まれている。経蔵もしくは前にあった護摩堂などの解体に入ったものとも思われる。