長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:4206 茶畑からの富士山(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4206 茶畑からの富士山(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4206 茶畑からの富士山(2)
〔画像解説〕
富士市鈴川(すずかわ)あたりの砂丘上にある茶畑から北方の富士山を遠望したもの。茅葺きの民家の先で丘陵は終わり、その先には東海道に面した鈴川の町屋(元吉原宿:もとよしわらしゅく)の瓦葺屋根が見える。瓦葺の屋根の先には、浮島ヶ原(うきしまがはら)が広がる。茶園には茶摘みをする4人の女性が見える。

■ 確認結果

目録番号:4206「茶畑からの富士山(2)」は、画像解説どおり「富士市鈴川」から茶畑と北方の富士山を遠望したものだろう。
鈴川倶楽部ブログ記事「古写真と鈴川」に、具体的な撮影場所を富士市鈴川東町「木之元神社南から」と記している。
現在の写真は、HP「神奈川の歴史探索を中心にして全国へ 旧東海道」から。

長崎外の古写真考 目録番号:4134 神戸全景(4)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4134 神戸全景(4)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4134 神戸全景(4)
〔画像解説〕  超高精細画像
現在の新神戸駅の南西高台から神戸市街を望む。明治中期。中央の道路は生田川の川筋を埋め立てて造成され、工事を請け負った和歌山出身の加納宗七(かのうそうしち)にちなんで、明治6年(1873)右(西)側が加納町と名付けられた。現在の新神戸駅から、フラワーロードを経て税関に至るこの道路は、古くから都の貴族や文人墨客が来訪した名所・布引(ぬのびき)の滝に続くので、滝道(たきみち)と呼ばれた。道の両側にはまだ家屋があまり建っていない。左手向こうに見える細長い松林は、居留地の東の境界・旧生田川の土手の名残で、外国人のレクレーション・グランド(現東遊園地)になっていた。このグランドでは、クリケットやフットボール、ローンテニスなどが行われ、外国人たちのスポーツと娯楽、社交の大切な場であった。開港して20年あまりが過ぎ、道路が新しく開かれ整備されていく状況がよくわかる。手前に見える端正な洋風建築はホテルであろう。

■ 確認結果

目録番号:4134「神戸全景(4)」は、同じ写真がHP「OLD PHOTO of JAPAN」に掲載されている。〔撮影者:玉村康三郎〕であろう。同説明は次のとおり。

撮影者: 玉村康三郎
発行元: 玉村康三郎
メディア: 鶏卵紙
写真番号: 70219-0028
1880年代の神戸 • 山手からの眺め</a>
神戸を、現在の新神戸駅に近い山側から撮った写真。中央に見える広い道路は滝道(今はフラワーロード)である。この道は、この写真を撮った場所から少し歩いた所にある布引の滝に通じているので、そう呼ばれていた。この道は、1871年(明治4年)に外国人居留地を水害から守るために付け替えられた、旧生田川の川床に沿っている。この写真が撮られた時は、神戸の町ができて未だ20年ほどしか経っていないが、既に主要な港町に発展しており、外国人も1,000以上住んでいた。その4分の3は中国人だった。

長崎外の古写真考 目録番号:4099 東海道と富士山

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4099 東海道と富士山

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4099 東海道と富士山
〔画像解説〕
富士市鈴川の砂丘の上から北方の富士山を遠望したもの。写真中央を横切る松並木が東海道。左端の背の高い2本の松と茅葺きの小屋の間が河合橋(かわいばし)である。砂丘と東海道の間には水田が広がり、その中を東海道線の線路がのびているため、鉄道の開通した明治22年以後の撮影である。

■ 確認結果

目録番号:4099「東海道と富士山」は、画像解説どおり「富士市鈴川の砂丘の上から北方の富士山を遠望したもの」だろう。
鈴川倶楽部ブログ記事「古写真と鈴川」に、具体的な撮影場所を富士市鈴川本町「鈴川駅南から」と記している。「鈴川駅」の開業は1889年(明治22年)。1956年(昭和31年)4月に「吉原駅」に改称された。
現在の写真は、HP「富士山百景」鈴川(No.70 東部ブロック)から。「鈴川は吉原駅を中心とした地区です。吉原駅南口から少し東に行った所の小高い丘には「六地蔵」があり、そこから富士山が見えます」と説明がある。

長崎外の古写真考 目録番号:4031 備前の灯台

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4031 備前の灯台

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4031 備前の灯台
〔画像解説〕
左下に「BIZEN.」とあるが、伊勢湾入口の菅島 (すがしま 現三重県鳥羽市) 東北端にある菅島灯台。イギリス人技師ブラントン(R.H.Brunton)の設計で築造され、明治6(1873) 年7月1日に初点灯。以来、灯台本体は現役で活躍。付属官舎は博物館明治村に移築復元され、重要文化財に指定。明治10年頃までの早い時期の撮影。

■ 確認結果

目録番号:4031「備前の灯台」は、画像解説のとおり、伊勢湾入口の菅島 (すがしま 現三重県鳥羽市) 東北端にある「菅島灯台」に間違いない。
〔撮影地:三重県〕となり、タイトルの変更も必要だろう。
現在の写真は、HP「日本の灯台〜訪問記」から。伊勢湾フェリーの船上から写している。

長崎外の古写真考 目録番号: 326 相撲(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 326 相撲(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 326 相撲(1)
〔画像解説〕
相撲は本来神事と深い関係を持ち、宮廷では、初秋の行事として相撲の節会を行った。これは、東西二手に別れ、何れが豊作であるかを占ったものである。江戸時代、武家で練武として普及した他、草相撲・辻相撲も盛んで、神社での奉納相撲も盛んに行われた。

目録番号: 529 相撲(3)
〔画像解説〕
相撲は、直径4.55mの円形で、40〜60cm盛り土された土俵で行われる。土俵は、東南西北に位置する四方柱(よもばしら)に囲まれ、方屋(かたや)といわれる屋根に覆われる。四方柱は春夏秋冬を表わし、その上部には水ひき幕が張られた。

目録番号:4288 相撲巡業

目録番号:3349 東京大角力協会の巡業

■ 確認結果

目録番号: 326「相撲(1)」、目録番号: 529「相撲(3)」、目録番号:4288 相撲巡業は、小屋掛けの相撲興行である。東京の本所「回向院相撲場」の本場所風景と思われる。資料及び古写真は、HP「森川和夫:廣重の風景版画の研究ー(1) 古写真で読み解く広重の江戸名所」から。

回向院の相撲は江戸時代に限ったことではない。明治42年(1909)両国国技館が完成するまでは、回向院で晴天10日の小屋掛けの本場所が行われていた。2階の桟敷席があり。「角力場は桟敷の梯子持ち回り」と詠まれた梯子が写っているのも興味深い。観客席には屋根がないので、帽子をかぶっている人が多い。

最後の目録番号:3349「東京大角力協会の巡業」は、写真が新しい。観客席には屋根があり、段差がある立派な桝席と変っている。これが明治42年(1909)完成した両国国技館ではないだろうか。「角力」は「相撲」か。

長崎外の古写真考 目録番号:1110 葬式(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1110 葬式(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1110 葬式(3)
〔画像解説〕
町中を行く葬列。非常にたくさんの人々がカメラの方を見ている。左には僧侶たち、右には人々に担がれた棺が見える。僧侶の近くにあるのぼりには「故石橋老母喜久」と書かれている。 

■ 確認結果

目録番号:1110「葬式(3)」の作品は、HP「OLD PHOTOS of JAPAN」に掲載されている。同説明は次のとおり。〔撮影者:日下部金兵衛〕が正しいのではないだろうか。

撮影者: 日下部金兵衛
発行元: J B Millet Company
メディア: 鶏卵紙
写真番号: 70614-0007
1890年代 • 明治時代の葬儀</a>
霊柩車とその周りに大勢の参列者が写っている。場所は東京か大阪のような都会と思われる。幟には「故石橋老母喜久」の名が読める。明治時代、葬儀には通常大勢の人々が参列し、費用もかかった。短い間に一家に続けて二つの葬儀があると、その家は破産すると言われた。社会評論家からの批判、特に車が増えて人々が道路から押し出されるといった社会の変化などで、これらの派手な行事は結局終わりを迎えることになった。

長崎外の古写真考 目録番号:2845 道頓堀通り(3) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2845 道頓堀通り(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2845 道頓堀通り(3)

目録番号:5457 道頓堀通り(7)   (掲載略)

目録番号:2269 道頓堀

■ 確認結果

目録番号:2845「道頓堀通り(3)」、及び目録番号:5457「道頓堀通り(7)」(掲載略)は、次の目録番号:2269「道頓堀」と同じ写真である。〔撮影者:玉村康三郎〕となろう。タイトルの調整も必要。関連作品で出てこない。
HP「OLD PHOTOS of JAPAN」の玉村康三郎作品にある。同説明は次のとおり。

撮影者: 玉村康三郎
発行元: 玉村康三郎
メディア: 鶏卵紙
写真番号: 70621-0005
1890年代の大阪 • 道頓堀の劇場街</a>
道頓堀通りの西から東を望んだもの。この通りは芝居茶屋や、料理屋、芝居小屋が多く賑やかな場所だった。明治時代には道頓堀五座と呼ばれた五つの大きな芝居小屋があったが、その一つが背景に写っている朝日座で、木造の櫓と呼ばれる舞台がある。朝日座は明治23年(1890)に新築開場しており、この写真はその直後の頃のものと思われる。

長崎外の古写真考 目録番号:4442 向島堀田庭園(13) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4442 向島堀田庭園(13) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4442 向島堀田庭園(13)
〔画像解説〕
旧佐倉藩主堀田家の向島別邸「七松園」で、明治初年から20年(1887)ころまで堀田家が所有していた。隅田川の水を引き入れた回遊式庭園で、潮の干満によってその景観を変えた。当時、東京の名園のひとつとされていた。各所に配された人物は、堀田家の人々であろう。

目録番号:4158 向島堀田庭園(11)
〔画像解説〕
目録番号4442よりも水位が高くなり、池端の川原石積みがほとんど水没し、異なる景観を見せている。奥左手の藤棚上に堀田家の家紋を染めた幔幕が見える。中央奥の庭木の向こうに目録番号4442にはない隣家の瓦屋根が見え、やや新しい時期の撮影とわかる。

目録番号:4667 向島堀田庭園(16)
〔画像解説〕
旧佐倉藩主堀田家の向島別邸「七松園」で、明治初年から20年(1887)ころまで堀田家が所有していた。隅田川の水を引き入れた回遊式庭園で、潮の干満によってその景観を変えた。当時、東京の名園のひとつとされていた。各所に配された人物は、堀田家の人々であろう。

目録番号:6730 向島堀田庭園(16)

■ 確認結果

長崎大学古写真データベースの東京「向島堀田庭園」の関係作品は多くある。
構図は2通り。いずれも種別では同じ写真なのに、撮影者が異なったり、未詳となっている。
1枚目の構図の写真は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に、「日下部金兵衛撮影の着色写真」として掲載されている。

1枚目の目録番号:4442「向島堀田庭園(13)」と同じ写真は、次のとおり。
目録番号: 1130  向島堀田庭園( 1)   撮影者: 小川一真
目録番号: 1761  向島堀田庭園( 3)  撮影者: 鈴木真一
目録番号: 2213  向島堀田庭園( 5)  撮影者: 玉村康三郎
目録番号: 2653  向島堀田庭園( 7)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 2907  向島堀田庭園( 8)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 2911  向島堀田庭園( 9)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 4159  向島堀田庭園(12)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 4442  向島堀田庭園(13)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 4667  向島堀田庭園(16)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 4830  向島堀田庭園(14)  撮影者: 撮影者未詳

2枚目の目録番号:4158「向島堀田庭園(11)と同じ写真は、次のとおり。
目録番号: 1170  向島堀田庭園( 2)  撮影者: 小川一真
目録番号: 2207  向島堀田庭園( 4)  撮影者: 玉村康三郎
目録番号: 2282  向島堀田庭園( 6)  撮影者: 玉村康三郎
目録番号: 2653  向島堀田庭園( 7)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 2993  向島堀田庭園(10)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 4158  向島堀田庭園(11)  撮影者: 撮影者未詳
目録番号: 5474  向島堀田庭園(15)  撮影者: 玉村騎兵衛?
目録番号: 6730  向島堀田庭園(16)  撮影者: 撮影者未詳

次に4枚目の目録番号:6730「向島堀田庭園(16)」は、3枚目の目録番号:4667「向島堀田庭園(16)」の続きだから、タイトルは「向島堀田庭園(17)」とするのが正しいだろう。
途中の目録番号で、関連作品の全部が出てこないこともある。

長崎外の古写真考 目録番号:2635 伏見稲荷大社の千本鳥居(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2635 伏見稲荷大社の千本鳥居(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2635 伏見稲荷大社の千本鳥居(2)
〔画像解説〕
伏見稲荷大社境内南東側の稲荷山参道に2列に林立する朱塗の千本鳥居を、参道下から南東に望む。参道は同社境内東側の上御殿から南東方向に延び、稲荷山入口の命婦社に続く。写真は鳥居に記された年号から明治22年(1889)2月以降に撮影されたことが分かる。

目録番号:1108 伏見稲荷の鳥居

■ 確認結果

目録番号:2635「伏見稲荷大社の千本鳥居(2)」は、次の目録番号:1108「伏見稲荷の鳥居」と同じ写真である。〔撮影者:小川一馬〕となろう。タイトルの調整も必要。

長崎外の古写真考 目録番号:2368 アイヌの女性たち(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2368 アイヌの女性たち(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2368 アイヌの女性たち(1)
〔画像解説〕
3人ともに、かつて成人女性が行った口唇の文身をしている(彩色されず?)。耳には玉つきのイヤリング。両端の2人は、アップリケの上に刺繍を施した木綿衣を着用し、房つきの首飾りをつけている。前方中央には儀礼に不可欠なセット(和製漆器椀と捧酒箆)、右後方には木幣(inaw)がある。

目録番号:2369 アイヌの老人
〔画像解説〕
男性が儀礼の際に用いる幣冠(先端には何かの偶像つき)をかぶっている。アップリケに文様が刺繍された衣服を着用。さらに陣羽織を着て、右手に木幣を持つ(いずれも目録番号2368の右方にあるものか)。儀礼用の太刀(emus)を佩いている。儀礼の際の服装をイメージした写真。

目録番号:3014 アイヌの男性たち(1)
〔画像解説〕
左の2人は、木綿衣の上に毛皮のコートを着て、わらじを履いている。右端の男性は毛皮の背中当てをしている。いずれもすねには脚絆をしている。中央の男性(目録番号3910と同じ男性)は、帯のあたりにナイフの鞘(?)と煙草入れを提げている。

目録番号:3910 アイヌの男性たち(2)
〔画像解説〕
目録番号3014の中央の男性と同一人物だろう。同じ毛皮のコートを着ている。右手に持っている太くて長い棒、さらに左手に持っている短くて細い棒が何の目的に使われるものかは不明。

■ 確認結果

長崎大学古写真データベースの「アイヌ」関係作品。修正を要すると思われるもの。
1枚目の目録番号:2368「アイヌの女性たち(1)」、及び2枚目の目録番号:2369「アイヌの老人」は、同じ写真スタジオのような所で撮影されているが、ほかの「アイヌ」関係作品と同様、〔撮影地域:北海道〕として整理して良いのではないか。

目録番号:2369「アイヌの老人」は、古写真販売弘文堂HP「古写真 > 日本 | 幕末・明治・彩色古写真 アイヌの長老」に次のとおり説明している。
盛装して刀を差し伝統の宝物を手にしたアイヌの長老です。かなり古い写真のようです。敷物が幕末期の写真スタジオによく見られるものですが詳細は不明です。全体に経年の日やけがありますが写真は鮮明で台紙に貼ってあります。

3枚目の目録番号:3014「アイヌの男性たち(1)」は、古写真販売jp:HP「幕末明治時代 日本古写真 アイヌ」には、〔撮影者:スチルフリード〕として販売されている。
中央の男性が、4枚目の目録番号:3910「アイヌの男性たち(2)」と同一人と見られる。4枚目が〔撮影者:スチルフリード〕なら、3枚目も同じ可能性が考えられる。