長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:5741 軍人家族集合写真(縁先、8人)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5741 軍人家族集合写真(縁先、8人)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5741 軍人家族集合写真(縁先、8人)

目録番号:5770 若き軍人とその妻

■ 確認結果

目録番号:5741「軍人家族集合写真(縁先、8人)」は、次の目録番号:5770「若き軍人とその妻」と同一人を、同じ時に同じ場所の縁先で撮影している。
従って、〔撮影者:明石:精文館石巻〕、〔撮影地域:明石〕であろう。

長崎外の古写真考 目録番号:3006 函館港のパノラマ(4) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3006 函館港のパノラマ(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3006 函館港のパノラマ(4)

目録番号:3007 函館港のパノラマ(5)

目録番号:3008 函館港のパノラマ(6)

目録番号:3009 函館港のパノラマ(7)

目録番号:3010 函館港のパノラマ(8)

■ 確認結果

目録番号:3006「函館港のパノラマ(4)」などは、5枚組のパノラマ写真となっている。
長崎大学附属図書館HP「古写真仮想展示会>洋風化・近代化」による、つなぎ合わせた写真と解説は、次のとおり。現在の写真は、HP「新tackyのゆったり写真館」から。

幕末の函館の市街

慶応3年−明治5年(1867−1872年)頃の函館市街。
明治2年(1869年)までは箱館と表記された。右端に見えているのは文久3年(1863年)完成の弁天岬台場である。1854年下田での日米和親条約にもとづき、箱館は開港を約され、ペリ−の艦隊は箱館を視察した。
箱館は松前藩から幕府に上地され維新まで箱館奉行により統治された。開港後、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、オランダの各国人が在留した。

長崎外の古写真考 目録番号:5492 富士山登山口の大鳥居

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5492 富士山登山口の大鳥居

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5492 富士山登山口の大鳥居

目録番号:5697 富士吉田・浅間神社の鳥居

■ 確認結果

目録番号:5492「富士山登山口の大鳥居」は、〔撮影地域:未詳〕となっているが、次の目録番号:5697「富士吉田・浅間神社の鳥居」(富士山がはっきり写っていないが)と同じ鳥居ではないだろうか。

現在の写真は、HP”北村忠三の「足のむくまま・気のむくまま」:★富士山麓一周一人旅”から。同説明は次のとおり。
「富士吉田駅」の近くにある「大鳥居」ですが、冨士浅間神社の参道になっているようで、正面に神社があり、その奥に冨士が見えています。地元ではこの大鳥居を「金鳥居」と呼んでいるようです。

長崎外の古写真考 目録番号:5473 浅草寺本堂内部(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5473 浅草寺本堂内部(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5473 浅草寺本堂内部(2)

目録番号: 162 浅草寺本堂内部(1)
〔画像解説〕
朱塗りの太い柱を中心に遠近を強調した力強い構図で、堂内の様子が子細に見て取れる。天井から巨大な提灯がぶら下がり、左手奥には大きな供え餅が据えてある。右手、格子戸にローマ数字で書かれた文字盤の時計が掛けてある。

■ 確認結果

目録番号:5473「浅草寺本堂内部(2)」は、次の目録番号: 162「浅草寺本堂内部(1)」と同じ写真である。〔撮影者:日下部金兵衛〕ではないだろうか。

長崎外の古写真考 目録番号:5455 金閣寺庭園(4)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5455 金閣寺庭園(4)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5455 金閣寺庭園(4)

目録番号:2254 金閣寺庭園(1)
〔画像解説〕
鹿苑寺庫裡を鏡湖池南西縁より東北東に望む。池に浮かぶ松の木をはさみ吹き抜け屋根を冠した庫裡の切妻の大屋根が見える。池の水面には水草が広がり、緑が映える。玉村康三郎撮影。

目録番号:2283 金閣寺庭園(2)   (掲載略)

■ 確認結果

目録番号:5455「金閣寺庭園(4)」は、次の目録番号:2254「金閣寺庭園(1)」などと同じ写真である。〔撮影者:玉村康三郎〕であろう。

長崎外の古写真考 目録番号:4872 磯子の菖蒲園

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4872 磯子の菖蒲園

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4872 磯子の菖蒲園
〔画像解説〕
明治中頃から、磯子や岡村・富岡では都心へ出荷される花卉の栽培が盛んになり、一部は輸出された。磯子は杉田の梅林など、古くから花作りで知られるが、明治中頃には間坂(まさか)の菖蒲園が横浜の名所として内外人を集めた。

■ 確認結果

目録番号:4872「磯子の菖蒲園」は、〔撮影者:日下部金兵衛〕であろう。
横浜開港資料館HPの4.明治期風景彩色写真に、「磯子の菖蒲園〔彩色写真・日下部金兵衛〕 明治中期」があり、同じ写真である。

長崎外の古写真考 目録番号:4318 鯉のぼり(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4318 鯉のぼり(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4318 鯉のぼり(2)

■ 確認結果

目録番号:4318「鯉のぼり(2)」は、横浜「山下居留地」の風景ではないだろうか。
横浜開港資料館HPの4.明治期風景彩色写真で、「山下居留地 中華街165番地付近〔彩色写真〕 明治中期」が、同じような三角路と角の建物を写している。

長崎外の古写真考 目録番号:2739 横浜公園(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2739 横浜公園(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2739 横浜公園(1)
〔画像解説〕
横浜公園は、居留外国人および日本人共用の「彼我公園」として明治10年(1877)に開設した洋風公園。居留地撤廃後の同42年(1909)には公園全域が横浜市の管理となり、噴水や花壇を備えた庭園が整備されて新たな桜の名所として賑わった。

目録番号:2781 横浜公園(2)   (掲載略)

目録番号:4189 横浜公園の茶店
〔画像解説〕
横浜公園は、居留外国人および日本人共用の「彼我公園」として明治10年(1877)に開設した洋風公園。居留地撤廃後の同42年(1909)には公園全域が横浜市の管理となり、噴水や花壇を備えた庭園が整備されて新たな桜の名所として賑わった。

■ 確認結果

目録番号:2739「横浜公園(1)」、目録番号:2781「横浜公園(2)」(掲載略)は、次の目録番号:4189「横浜公園の茶店」と同じ写真である。〔撮影者:A.ファサリ 〕となろう。

長崎外の古写真考 目録番号:4361 銀座通り(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4361 銀座通り(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4361 銀座通り(1)

目録番号:6693 銀座通り(2)   (掲載略)

■ 確認結果

目録番号:4361「銀座通り(1)」と、目録番号:6693「銀座通り(2)」(掲載略)は、同じ写真。
HP「OLD PHOTOS of JAPAN」に掲載されている。〔撮影者:玉村康三郎〕であろう。同解説は次のとおり。

撮影者: 玉村康三郎
発行元: 玉村康三郎
メディア: 鶏卵紙
写真番号: 71005-0004
1890年代の東京 • 銀座と新橋</a>
1882年から1899年頃(明治20年代)の東京、新橋と銀座の風景。写真師玉村康三郎(1856〜19??)が撮影したもの。汐留川に架かっている木造の橋は、その後1899年(明治32年)4月に鉄製の橋に建て替えられた。

長崎外の古写真考 目録番号:4338 道中姿の侍たち ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4338 道中姿の侍たち ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4338 道中姿の侍たち
〔画像解説〕
十二名の男性が道中姿で刀を腰に帯び、写っている。うち一人は手に編み笠を持ち、僧侶のような坊主頭をしている。左後方で紋付きに山高帽を被った男性やコート姿の男性などが、この道中姿の人たちを見物している。

目録番号:4345 芸奴の勢揃い
〔画像解説〕
勢揃いした芸奴衆は、力強く豪華である。急速な産業の進展による国づくりの反映であろう。明治20年代の写真であろうか。熊本芸妓の「しののめのストライキ」判決は明治33年。

■ 確認結果

目録番号:4338「道中姿の侍たち」と、目録番号:4345「芸奴の勢揃い」は、撮影場所は不明だが、同じ場所で撮影されている。
いずれも、鹿島清兵衛アルバム(2)の作品。

この項は、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2621 
目録番号:4337「大名行列と見物人(1)」と、目録番号:4343「大名行列と見物人(2)」にあるとおり、「明治初めに再現された大名行列 撮影データ不明」における休憩所の風景と思われる。

なお、芸奴を写した目録番号:4351「花笠踊りの女性たち」(掲載略)もあるが、大名行列祭りの関連作品ではないだろうか。