長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:3827 茂木長崎ホテル(1)ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3827 茂木長崎ホテル(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
2、3は、前香焼町の所蔵写真と思われる。

目録番号:3827 茂木長崎ホテル(1)

上記について、まず次項を参照。 https://misakimichi.com/archives/1535

「長崎市制120年のあゆみ」企画展は、プレ企画展として、長崎帆船まつり期間中(4月23日〜27日)に、長崎県美術館で開催した後、5月1日〜31日には長崎市歴史民俗資料館を会場に、120枚のパネル写真や映像、資料などで長崎市の120年を振り返っている。
6月以降は地区巡回展として、平成17・18年に合併した7地区で開催されている。きのうのテレビ中継で〔香焼地区〕が香焼公民館1階ロビーで開催されていることを知り、夕方に見学に行った。展示のパネル写真などで気付いたことを3点。

1 目録番号:3827 茂木長崎ホテル(1)
企画展の写真説明文は、写してきたとおり。説明文は企画展のため新しく作成されている。長崎市広報広聴課が、業者へ委託して作成されたパネル写真なので、業者側の手配によりしかるべき執筆者に依頼し、監修を受けて説明された文と思われる。
上記で参照した資料「茂木商工会30周年記念誌」平成2年刊の44〜45頁て見てもらったとおり、茂木には2つの同じような名のホテルがあったのを、混同して説明している。
展示写真と潮見崎にあったのは、「松柏楼」となったホテル(現在は、新田の高崎湯裏の土地)である。「昭和41年廃業後は会社の寮として使用されていたが、所有会社の倒産により昭和56年に解体された」は、最後は大長崎建設建和寮として使用された道永エイが建てた弁天崎の「茂木ビーチホテル」(現在は、弁天橋そば「Sマート茂木店」が建っている)の方と思われる。
なお、茂木町「裳着神社の由緒」説明板に、茂木ホテル(後のビーチホテル)の古写真があったので、最後に追加した。両ホテルの造りを良く見て判断してもらいたい。

2 川南工業香焼造船所の前身、「松尾造船所」の創業年
〔香焼地区〕独自の展示で、次とも「造船のまちの幕開け」のパネルがある。説明文に「長浜鉄工場(松尾造船所)は、明治35年(1902年)に進出した最初の造船企業」とある。
手持ち資料”世界の船舶 2006.11”の船の科学館飯沼一雄氏稿の中、151頁「■松尾鉄工場の復興」によると、「日清戦争を契機に艦船修理にはより大きなドックが必要と感じ、新たに香焼という小島に3,000トンの入渠可能な石造りドッグを新造、続いて鉄工場、旋盤工場、鋳物工場なども建設して、明治37年(1904)に分工場として運用を開始した。正式には松尾鉄工場香焼分工場と呼ぶ」
また、出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「川南工業」の項は、「川南工業(かわなみこうぎょう)は長崎県西彼杵郡香焼村にあった造船会社。南極観測船「宗谷」建造の造船所として知られる。
概要 [編集] 長崎港入口にある香焼島(現在の長崎市香焼町)には1900年(明治33年)に松尾造船所が設立されたが、1925年(大正14年)から閉鎖されていた。製缶工場で財を成した川南豊作は、1936年(昭和11年)に周囲の土地ごと造船所を買収、川南工業を設立し造船業に参入した」
「松尾造船所」の創業年の記述の仕方が、さまざまである。地元香焼町の史料によって、わかりやすい説明をしてほしい。

3 香焼炭鉱の「明治40年、第3試錐の跡」
これも〔香焼地区〕独自の展示で、「造船のまちの幕開け」のパネルの中に、第3試錐の跡の現地写真と説明文がある。「試錐の跡が今も恵里下と栗ノ浦との間の「高石」と呼ばれる岩場に残っています」
史跡(市東南)の項、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1650
香焼町は同町郷土誌によると、「高石」にある第3試錐跡しか確認していないようだ。 伊王島大橋(架橋中)に通じる香焼トンネル入口左方から「高石」にかけての海岸に、香焼炭鉱の明治40年「第1試錐の跡」「第2試錐の跡」も現存している。

長崎の古写真考 目録番号:3939 高鉾島(35) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3939 高鉾島(35) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3939 高鉾島(35)
目録番号:4727 高鉾島(41)  関連作品:2865 高鉾島(12)、5623 高鉾島(33)

■ 確認結果

長崎港口の「高鉾島」関係。目録番号:3939 高鉾島(35)と坂段がある構図の目録番号:4727 高鉾島(41)、関連作品:2865 高鉾島(12)、5623 高鉾島(33)とも、これが現在の神の島教会から撮影された高鉾島の光景である。
高鉾島の奥が小ヶ倉で大久保山、その背後に熊ヶ峰から八郎岳への長い稜線が続く。2枚目の古写真には、高い坂段を上がり、石垣の角に座って景色を眺める人がいる。

神の島教会の石垣を見ると、この坂段の跡が写真のとおり、現在も残っている。神の島教会は明治14年(1881)に木造教会が建てられ、更に明治30年(1897)にレンガ造りとなり、 昭和36年(1961)増改築されて今日の姿となっている。
坂段を改修したのがいつかは不明だが、位置からすると現在の礼拝堂の入口あたりから、いずれも撮影された古写真と思われる。
神の島教会には、高鉾島を向いて「高鉾島殉教者顕彰碑」がある。

長崎の古写真考 目録番号:3809 高鉾島(16) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3809 高鉾島(16) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号:3809 高鉾島(16)
〔画像解説〕
神の島の海岸から見た高鉾島。高鉾島は、キリスト教の殉教の島として海外に知られ、パッペンベルグ(PAPPENBERG)島と呼ばれていた。現在の神の島教会付近から、高鉾島を撮影したもの。明治20年頃(1887)の写真。

目録番号:3874 高鉾島(21)
〔画像解説〕  同

■ 確認結果

長崎港口の「高鉾島」関係。目録番号:3809「高鉾島(16)」と目録番号:3874「高鉾島(21)」とも、撮影場所は「現在の神の島教会付近から」としているから、別に問題はない。
しかし、画一的な説明に感じる。撮影場所は、神の島教会側からではなく、教会とはまったく反対の海岸側の岩礁からである。
奥に見えるのは長崎港の港口で、現在は女神大橋が架かる。三角形の山は星取山であろう。

松の木が2本生えた岩は、地元では「ドンク岩」と言っていたようである。今は岩上に恵比須様のほか、白亜の聖母像が建つ。
昭和59年(1984)6月再建された合成樹脂製の高さ4.6mの聖母の白像。長崎港に出入りする船をやさしく見守っている。海岸の岩には、大きな甌穴があった。

長崎の古写真考 目録番号:3810 高鉾島(17) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3810 高鉾島(17) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3810 高鉾島(17)
目録番号:3811 高鉾島(18)   関連作品:655 高鉾島(3)、5622 高鉾島(32)

■ 確認結果

長崎港口の高鉾島を写した古写真は、条件を「高鉾島」に指定して探すと、43作品がある。撮影場所の疑問があるものを、これまでも載せた。
上記の4作品も、撮影場所は「神の島」からではない。神の島側からだと、高鉾島の背後に写るのは、八郎岳から熊ヶ峰にかけての稜線となる。

最初の目録番号:3810 高鉾島(17)の古写真は、左側の島が「皇后島(鼠島)」、右が「高鉾島」である。八郎岳は皇后島の背後にある。2島の間は深堀の城山。高鉾島の右側の平たい島は香焼島。
したがって、この古写真は「神の島」からではない。小瀬戸町の長崎市小榊支所横から上がった「大悲寺墓地」の中段から撮影されている。

次の目録番号:3811 高鉾島(18)と関連作品:655 高鉾島(3)、5622 高鉾島(32)とも、これも古写真は「神の島」からではない。前記の小瀬戸町「皇后島(鼠島)」へ渡って写されている。
撮影場所は皇后島の南端、「神功皇后之御舊」碑が立つ海岸あたりからと思われる。そのため、高鉾島が近くに写り、左脇背後の島は、香焼島の左半分である。
ほしなべさんと宮さんへ。この海岸で夕方、50cm級ヒラメがゲットされました。

ボードイン・コレクション、国の登録有形文化財に

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ボードイン・コレクション、国の登録有形文化財に

長崎大学付属図書館(長崎市)が所蔵する、オランダ人医師アントニウス・ボードイン(1820〜85年)が日本で収集した江戸末期〜明治初期の古写真「ボードイン・コレクション」が3月19日、国の登録文化財として文化審議会から答申された。
ボードインは1862年、オランダ軍医ポンペが長崎に開いた病院「小島養生所」(長崎大医学部の前身)に赴任。写真が趣味で、長崎などで風景や庶民を撮影した。オランダの子孫が528枚を4冊のアルバムに整理し、それを長崎大が07年に購入。ネット上で公開している。…
(話題:ボードインの写真 登録文化財に−毎日jp(毎日新聞)から)

国の登録有形文化財への答申は、文化史的な意義と学術的価値のある美術工芸品として評価されたもので、写真が答申されるのは、長崎県では初めてである。6月くらいに国の登録となる予定だそうである。
「ぶらりらいぶらり:長崎大学図書館ブログ」2009年3月25日記事を参照。ボードイン・コレクションは、こちらからお楽しみくださいとあった。 http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/bauduins/
朝日新聞長崎地域版の同3月20日記事は上記のとおり(クリック拡大)。昨年はインターネットのアクセスが累計150万件を超えたとある。
長崎が誇る幕末・明治期古写真のコレクションである。

今回の答申を非常に喜びたいが、私が「長崎の古写真考」により指摘しているとおり、インターネット上の画面は、監修の粗雑さが目立ち、見る側に戸惑いがある。
長崎大学附属図書館が、文部省科学調査研究費の補助を受け構築したデータベースである。このような内容で全国に公開されていると、地元長崎の者として恥ずかしく感じることがある。
古写真研究の一助に門外な私が、実地調査のうえあえて苦言している。国の登録有形文化財となるなら、大学関係者へさらに一層の研究と整備をお願いしたい。

長崎の古写真考 目録番号:3863 立神ドック(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3863 立神ドック(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3863 立神ドック(1)
目録番号:4729 立神ドック(2)
目録番号:5223 立神ドック(3)   ほか関連作品 同5224(4)、5628(6)、5894(7)あり

■ 確認結果

目録番号:3863「立神ドック(1)」の、超高精細画像による解説は次のとおり。
解説
この写真は、長崎市街地の長崎港を挟んで西岸の立神にある、三菱会社の立神ドックである。写真右側の海の向こうに東山手居留地が遠望できるが、東山手の丘の上にすでに活水学院の明治15年創建のラッセル館が見えている。明治10年代後期の写真である。
目録番号 4729(登録番号93-21)は、ほぼ同じ角度から撮影した写真であるが、施設の整備状況からみて、こちらの写真が5年程経たものである。ドッグハウスが完成し、ドックの周りにはさまざまな施設が整備されている。ドックには修理のための戦艦が入っている。
立神ドックは明治7年(1874)、フランス人技師ワンサン・フロランの指導によって構築され、明治12年(1879)に竣工した。長さ135.7m、幅33.4m、深さ11.6mの本格的なドッグである。明治17年(1884)7月長崎造船局は三菱に払い下げられ民営になった。周囲の環境から、設備も少なく、三菱会社に払い下げられた頃の写真である。

立神ドックを写した同じような構図のこれら古写真6点。年代はそれぞれ違うが、立神バス停から西泊へ向かう立神トンネル手前の山手高台から撮影されている。ここは現在、市「西立神墓地」となっており、墓地の下段部、白石家の墓のあたりからではないだろうか。
現在の三菱長崎造船所立神ドックの変貌ぶりを見てもらいたい。背景の山は右が「彦山」、左は「武功山」から「烽火山」の尾根となろう。巨大クレーンが動かないと、背景の山は良く写らない。

長崎の古写真考 古写真集: 83 戸町の入江  ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 古写真集: 83 戸町の入江  ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

古写真集:  83 戸町の入江
古写真集:  84 小菅と長崎港
目録番号:4238 高鉾島(24)     関連作品 「高鉾島(1)」ほか25点
目録番号:4543 小菅の造船所と長崎港

■ 確認結果

長崎市教育委員会編「長崎市古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の94頁に掲載がある古写真の2点。同146頁による「図版解説」は次のとおり。

83 戸町の入江〔彩色〕               日本カメラ博物館所蔵
長崎港入り口の目印となっていた高鉾島(左下の表題にあるように鎖国期からパッペンベルグと呼ばれていた)は、外国人には殉教地としても知られ、多くの写真が残されている。これは戸町の丘上から遠望したもので、右手の岬が神崎鼻。左手の入江には和船が停泊している。美しい彩色の写真である。明治中期ころの撮影であろうか。横浜開港資料館所蔵の同一作品はファサリ商会の撮影と推定されている。

84 小菅と長崎港〔彩色〕              日本カメラ博物館所蔵
戸町の丘上の墓地から長崎港を遠望したもの。眼下にみえるのが明治元年に完成した小菅修船場(通称ソロバンドック)で、艦船がドック入りしている。茶色に塗られた捲上げ小屋は、現存するわが国最古の煉瓦造建築である。対岸の中央が三菱造船所の立神ドックで、背後の山が稲佐山。電柱が立っていることからして、明治30年代の撮影とみられる。停泊している艦船も5000t以上の大型船がふえていたのがうかがえる。

HPに同じ写真が収録されている。古写真集: 83「戸町の入江」は、目録番号:4238「高鉾島(24)」に、同: 84「小菅と長崎港」は、目録番号:4543「小菅の造船所と長崎港」となっている。
「高鉾島(24)」外に、「高鉾島」の同じ構図の関連作品は、(1)から(42)のうち、実に25点がある。いずれも戸町の丘上から撮影されている。

目録番号:4238「高鉾島(24)」は、前記のファサリ商会の撮影と推定されている同一写真。右下に墓石が写り、戸町墓地から見た景色である。
小ヶ倉バイパスから戸町墓地の上部駐車場へ行く。長崎港入口の同写真は、駐車場から右手でなく、左手へ上がった墓地の高台から撮影されている。この辺りが撮影の名所だったのだろう。
次に、長崎港内と市街地へ視界を移した写真が、目録番号:4543「小菅の造船所と長崎港」となる。日本カメラ博物館所蔵で「長崎古写真集 居留地編」94頁に掲載された2枚の写真は、いずれも戸町墓地の左手高台のほぼ同じ場所から撮影されたと考えられる。

戸町墓地の右手高台を正面へ見る場所。墓地の後ろは、平成19年2月完成した大型マンション「アプローズ長崎南六番館」が建つ。ここは古城「水本城址」であり、「戸町御番所」の境界でもあった。マンション駐車場奥から、わずかに残った山頂へ行かれる。
「五番 従是御番所境内」「九本の内」「従是六番迄之間 弐拾九間半 亥三厘」「天保八丁酉歳四月口之」と4面に刻んだ「五番標石」が残る。寸法は21cm角、高さ90cm。標石が、長崎県史跡に指定されている。
「戸町御番所」の標石は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/5437

長崎の古写真考 目録番号:5242 高島二子島炭鉱前景

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5242 高島二子島炭鉱前景

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5242 高島二子島炭鉱前景

■ 確認結果

高島は、長崎港から南西へ約14.5km。伊王島と端島(軍艦島)の中間にある島である。石炭の島として栄え、昭和61年(1986)に閉山した。
目録番号:5242「高島二子島炭鉱前景」は、「二子島」以外、説明が特にない。「二子島」とは、高島本島の南海岸にあった2つの小島である。手前のが「上二子島」、その先のが「下二子島」と呼ばれた。現在、大きな風車の高島風力発電装置が建っている所が「下二子島」である。
本島との間は広い埋め立て地となり、高島ふれあい多目的運動公園もできている。

高島の移り変わりは、高島港ターミナル近くの「石炭資料館」に、地図や古写真が展示されている。双方から判断すると、「下二子〜上二子間の埋め立て工事」は明治41年(1908)頃、完成が大正3年(1914)。高島本島と二子島が連絡道で結ばれたのが、大正9年(1920)となろう。

目録番号:5242「高島二子島炭鉱前景」の古写真は、「上二子島」の頂上あたりから「下二子島」を撮影していると思われる。
下二子〜上二子間の埋め立てが済み、「二子島炭坑」の広い操業場となった年代。右側の沖に浮かぶ2島は、「中ノ島」と「端島」(軍艦島)。左側は野母崎の半島で「権現山」が写る。

「上二子島」の頂上あたりまで、当時は建物がびっちり建っていた。石垣が残る。現在は完全に荒れて、途中の畑地としている所までしか登れない。
ここでは「下二子島」が写せない。やむなく高島本島側の空室がほとんど古い市営アパート8階の階段窓から、同じような景色を写してみた。

長崎の古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場

古写真集:  87 高島炭鉱の立坑

古写真集:  88 高島炭鉱の石炭搬送場

■ 確認結果

高島は、長崎港から南西へ約14.5km。伊王島と端島(軍艦島)の中間にある島である。石炭の島として栄え、昭和61年(1986)に閉山した。
目録番号:3232「高島炭鉱石炭船積場」の超高精細画像による解説は次のとおり。
解説
鶏卵紙一枚のもので裏に筆で「五十一長崎高嶋/石炭鉱」「長崎高嶋石炭」、鉛筆で「四百九」と書き込みがある。グラバーが開発した長崎港外の高嶋炭鉱における船着き場の、この写真は有名であり、これまで上野彦馬の撮影とされてきた。しかしこの裏の書き込みは内田九一によるものであり、一連の関連から目録番号3232(整理番号66-11)と同じくこれも明治5年(1872)6月、天皇巡幸に随行した内田九一の撮影と思われる。
人夫が石炭を積んだトロッコを波止場の板の上まで押し、そこに空けられた穴から下の船の船腹に石炭を落としている。船は帆柱を持つ中型の石炭運搬専用のイサバ船で、積み込み中の船名は「榮力丸」と読める。この石炭は長崎港近くの貯炭場に運ばれ、大型船が入港すると「団平船」と呼ばれた小船で大船の腹からバケツリレーの要領よろしく石炭を積み込んだ。左側には鉱山技師と思われる外国人と監督の日本人が眺めている。向いの小島は飛島である。

古写真の向いの三角の小島は、現在「飛島磯釣り公園」となって、遊歩道と釣場、橋で繋がっている「飛島」である。中央奥は、伊王島の下島「沖之島」で、遠見山のピークが見える。
したがってこの古写真は、高島の北海岸にある「南風泊港」を撮影していることは間違いない。「本町」バス停下に、グラバーが高島炭坑開発のため、イギリス人技師モーリスを招き、明治2年(1889)4月、日本最初の蒸気機関による立坑(約43m)を開坑した市指定史跡「北渓井坑跡」が残り、港左方海岸の小島へ行くと松林の中に「グラバー別邸跡」がある。

次の古写真集: 87「高島炭鉱の立坑」と同: 88「高島炭鉱の石炭搬送場」の写真が、当時の上が「南洋井坑」、下が「北渓井坑」の採炭の様子を写していると思われる。その石炭をトロッコで、「北渓井坑」は近くの船積場「南風泊港」に運んでいたのである。
現地の史跡説明板は、このうちの2枚の古写真を使用して設置されている。
長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の96頁に写真があり、147頁の「図版解説」による説明は次のとおり。

87 高島炭鉱の立坑
88 高島炭鉱の石炭搬送場          いずれも日本大学芸術学部所蔵
慶応4年(1868)、T.B.グラバーは領地支配者だった佐賀鍋島藩の長崎出張人松林源蔵と共同経営の協約を結んで、高島炭鉱の新規開発事業に乗り出した。本国から最新式の機器・技術を導入して、深さ70m余におよぶ堅坑道を穿ち、機械化によって大量の良質炭を採掘、運搬することに成功した。すなわちわが国鉱業の最初の近代化をもたらしたわけだが、経営の方はその後、紆余曲折があって明治14年に三菱商会の所有となった。
撮影は上野彦馬。明治中期頃であろうか。

長崎の古写真考 朝日新聞:長崎今昔 稲佐山から見た長崎

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長崎の幕末・明治期古写真考 朝日新聞:長崎今昔 稲佐山から見た長崎

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

朝日新聞:長崎今昔 稲佐山から見た長崎

■ 確認結果

朝日新聞:長崎今昔「稲佐山から見た長崎」は、きよう2009年2月14日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された古写真。
解説文には、「フェリックス・ベアトが1864年(明治19年)、稲佐山の山腹から撮影した長崎のパノラマです。長崎大学附属図書館が入手したボードイン・コレクションの中の一枚です。海から眺めた幕末長崎の風景がよくわかります…」とある。

最近、入手したコレクションの写真か、長崎大学データベースにはまだ出てこない。解説文は問題ないが、撮影場所の「稲佐山の山腹」とは、具体的にどのあたりだろうか。
心当たりの場所がある。長崎市教育委員会「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊の第3版33頁にある16「対岸から居留地を望む」の写真(長崎市立博物館所蔵)。
この写真は、次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1586

撮影場所は、水の浦や飽の浦から稲佐山登山道がある現在の大谷町、社会福祉法人長崎厚生福祉団の介護老人保健施設「シンフォニー稲佐の森Ⅱ」が建ったケアハウス背後あたりと思われたが、ここからは景色が違う。
ベアト作品の方は、もう少し北へ寄った現在の水の浦トンネル上の「天狗岩」か、その先の長崎ホテル清風あたりの高台からではないだろうか。ここも別ルートの昔の稲佐山登山道があった。

市街地左上に黒く写る「愛宕山」の高さと位置が問題となろう。写真手前に大きく写る大鳥町尾根の形が少々気になる。撮影場所は再調査をしたい。
後ろの写真は、参考のため稲佐山山頂展望台からの景色。