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淡路島の国指定文化財・国登録文化財 (記事URLまとめ)

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淡路島の国指定文化財・国登録文化財 (記事URLまとめ)

リストは、兵庫県教育委員会文化財課HPの「国指定文化財一覧」・「国登録文化財一覧」から。ウェブサイトでは、文化財概要がわからず、所在地地図もないのが困る。国データベースも。
本ブログ掲載記事は、次のURLから参照。ほかは訪ねていない。

国指定文化財

種別 指定年月日 名称 所有者(管理者) 所在地
史 平11. 1.14 洲本城跡 267,852.90㎡ 洲本市ほか 洲本市大字小路谷小字古城他
https://misakimichi.com/archives/3770 (写真1)
天 平10. 7.30 野島断層 3,478.73㎡ 淡路市 淡路市新小倉
https://misakimichi.com/archives/3745 (写真2)
史 平13. 7.28 徳島藩松帆台場跡 52,060.95㎡ 淡路市ほか 淡路市岩屋字大谷川北他
https://misakimichi.com/archives/3741 (写真3)
史 昭26. 6. 9 淡路国分寺塔跡 188.93㎡ 国分寺(南あわじ市) 南あわじ市八木国分331
https://misakimichi.com/archives/3832 (写真4)
名 昭 3.10.13 慶野松原 160,330.00㎡ 財務省(南あわじ市) 南あわじ市松帆
https://misakimichi.com/archives/3838 (写真5)

国登録文化財

種別 登録年月日 名称 所有者(管理者) 所在地 時代年代
建 平15・ 7・ 1 榎本家(旧小川家)住宅主屋1棟ほか 個人 洲本市五色町鮎原上944 江戸末期他
建 平16・ 3・ 2 米田家住宅主屋1棟ほか 個人 洲本市宇山2-5-4 昭和16年
建 平14・ 8・21 塩屋橋1基 兵庫県 淡路市岩屋 大正7年/昭和61年移築
https://misakimichi.com/archives/3738 (写真6)
建 平19・12・ 5 田中家住宅主屋1棟 個人 南あわじ市賀集立川瀬字居屋敷28-1 明治14年/大正11年・昭和初期増築
建 平20・10・23 国生みの館(旧三原郡役所)1棟 兵庫県 南あわじ市八木入田カツラ尾663 明治17年/平成19年移築
建 平23・ 1・26 永田家住宅主屋1棟ほか 個人 南あわじ市倭文長田字吉野坊1493 明治中期他

なお、淡路市「五斗長垣内遺跡」が、2012年9月19日国史跡に指定されているが、兵庫県教育委員会文化財課HPの「国指定文化財一覧」には、まだ修正がないようである。

そのほかの南あわじ市の風景・史跡  兵庫県南あわじ市

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そのほかの南あわじ市の風景・史跡  兵庫県南あわじ市

福良港のうずしおクルーズ船、福良港前の淡路人形座、鎧崎桜ヶ丘英霊墓地と慈母観音像、伊毘うずしお村伊毘港、うずしおラインから阿那賀のホテルアナガ方面を望む、同ラインから大鳴門橋方面を望む、八木養宜の淡路ファームパークイングランドの丘園内汽車、西淡三原IC入口近くの緑の道しるべ西淡公園オニオンタワー、緑の道しるべ賀集公園淡路人形浄瑠璃初菊モニュメント、賀集八幡の護国寺

西山北古墳  兵庫県南あわじ市賀集八幡北

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西山北古墳  兵庫県南あわじ市賀集八幡北

南あわじ市HPの埋蔵文化財事務所「西山北古墳」による説明は、次のとおり。
国道28号八幡交差点から北へ県道31号に入る。イオン南淡路店先の緑の道しるべ賀集公園(人形浄瑠璃「初菊」モニュメントが建つ)角から左折する。山路川は下流の山路橋を渡ると、古墳場所の案内図がある。

徒歩3分とあり、狭い車道をバイク(車は進入不可)で行った。現地案内板は、道路右の一段高い荒れた竹藪の中にあった。場所はここに間違いないだろうが、日没で断念。
淡路島の滞在も今夜までだった。したがって、西山北古墳写真は、南あわじ市の上記HPから。

西山北古墳(にしやまきたこふん)

6世紀後半頃の古墳、淡路島最大規模の横穴式石室が残る
賀集八幡北、南辺寺山の山裾に位置する古墳です。平成12 年に行った測量調査により直径15m前後の丸い形の円墳(えんぷん)が想定されています。
また内部に残る横穴式石室は、全長約8mで淡路島では最大規模であることが分かりました。この石室の形から古墳の作られた時期は、6世紀後半(約1,450年前)頃と考えられます。

日本全国の古墳情報サイト「古墳マップ」兵庫県によるデータは、次のとおり。

名前 西山北古墳
よみがな にしやまきたこふん
形 円墳
都道府県 兵庫
所在地 南あわじ市賀集八幡北
駐車スペース —
交通 – 徒歩 —
交通 – 車 —
注意事項 —
紹介文 
古墳時代後期に築造された径約15mの円墳。埋葬施設は墳丘南側に開口する横穴式石室で、全長約8m、玄室部は長さ約4m、幅約1.9m、高さ約2.5mを測り、淡路島最大規模を誇る。6世紀後半の築造。石室内には2体のお地蔵さんが祀られている。

西山北古墳の内部写真は、HP「古墳とかアレ 3号墳」がわかりやすいから参照。
http://www2.atpages.jp/kofuntokaare/3gouhun/page348.html

日光寺のビャクシン  兵庫県南あわじ市松帆檪田

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日光寺のビャクシン  兵庫県南あわじ市松帆檪田

HP「人里の巨木たち」全国巨樹探訪記による説明は、次のとおり。
県道31号御原橋交差点から県道125号へ入る。西松帆から倭交川沿いに進むと、左奥に春日神社があり、神社の先に日光寺がある。

名称 日光寺のビャクシン (にっこうじのびゃくしん)
樹種 ビャクシン
樹高 20m(注2 環境庁「日本の巨樹・巨木林 近畿版」による)
目通り幹囲 5.7m(注2)
推定樹齢 700年(注3 旧西淡町社会福祉協議会が設置した樹名板による)
所在地の地名 兵庫県南あわじ市松帆檪田
天然記念物指定 なし

慶野松原から南東に約1.2kmのところに浄土宗法性山上宮院日光寺(ほっしょうざんじょうぐういんにっこうじ)がある。
日光寺の由来について、境内に掲示があった。
それによれば、聖徳太子が初めてこの地を訪れた際、慶野海岸で、波間に漂う一つの筥(はこ)を見付けた。拾い上げて中を検(あらた)めると、如意輪観音像が納められていた。太子がその像を尊信護持していたら奇瑞があった。そこで、像が流れ着いた慶野海岸に七堂伽藍を建て、南海道仏法最初の霊場と定めた。と、そのようなことが記されてあった。現在地への移転時期は不明だが、明応年間(1492〜1501)以降のことらしい。
本堂に向かって右手、聖徳太子堂の前にビャクシンの巨木が立っている。
見る角度によっては1本に見えるが、実は2本が隣接しているという方が正確だろう。ただし、いずれの樹皮も左螺旋を描き、その曲線模様がほぼ一致している。2本は同じ遺伝子を持つ可能性が高いように思われる。
切られた大枝もあるが、全体に樹勢は良さそうだ。今後、さらに立派な姿になることを期待したい。

○○(まるまる)飛行場跡 兵庫県南あわじ市松帆脇田

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○○(まるまる)飛行場跡  兵庫県南あわじ市松帆脇田

淡路地域ビジョン社会基盤分科会HP「淡路島近代化遺産マップ」による説明は、次のとおり。
県道31号御原橋から県道125号へ入る。脇田バス停まで行っても良いが、先がわかりにくい。飛行場跡記念碑のある小さな公園の所在地図を載せる。たしか、このあたりだったろう。
3枚目写真は、付近の民家で溝蓋などに利用されている飛行場跡コンクリート塊。

淡路島近代化遺産 16 ○○(まるまる)飛行場跡

■ 基礎データ
名称:○○(まるまる)飛行場跡
発注者:大日本帝国陸軍
設計者:
建築年:1945年
所在地:南あわじ市松帆脇田

■ 概要説明
昭和18年11月、陸軍は三原平野に阪神地方防空用の飛行場を建設する命令を下したが、人々は軍機漏洩の罪を恐れて「飛行場」とは呼ばず、それを「○○(まるまる)」と言った。
全島からの勤労動員によって昭和20年7月ころに完成したが、まもなく終戦となり、この飛行場はまったく役に立たなかった 飛行場跡の開拓・開放は昭和26年に完了し、戦争の傷痕いえて再び肥沃の耕地にもどった。
昭和20年11月から滑走路のコンクリートは堀りおこされていったが、廃棄されることはなく、水路の石積み代わりや橋として、また屋敷の擁壁などにも使用され現在もかなり残っている。当時の人達の工夫による究極のリサイクルである。

「兵庫県内の主な軍事遺跡 – 神戸・兵庫の郷土史Web研究館」には、次のとおり記している。

施設名 榎列(えなみ)基地跡
所在地 南あわじ市榎列、松帆、志知、神代、市村、八木
施設年 1945年
概 要 淡路島の三原平野に、陸軍が密かに阪神地方の防空用に建設した。当時は、陸軍の名称では由良飛行場だが、機密扱いで単に「〇〇(まるまる)」と称した。滑走路は東西幅30m、長さ1,000m。終戦直前の昭和20年7月頃に完成し、10月から飛行大隊が到着。しかし有効に活用される期間は無かった。直後に取壊されて農地に戻されたが、コンクリート塊などは、他に転用されて散見される。

御原橋「瓦橋」  兵庫県南あわじ市湊

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御原橋「瓦橋」  兵庫県南あわじ市湊

南あわじ市HPの観光情報による説明は、次のとおり。
西淡路ICから県道31号により北へ進む。湊港の大日川河口に架かる橋の古代瓦と鬼面。

淡路瓦
淡路には良質な粘土が豊富にあります。この土を高温でしっかり焼き上げて作られるのが淡路瓦。特徴はあくまでも美しく、強く、伝統と技術で住まいに命を吹き込みます。
御原橋「瓦橋」
欄干に古代瓦や鬼瓦を貼り付け、夜間のライトアップが特産瓦と橋の美しさを川面に投じており、旅人に幻想的なロマンを抱かせます。

慶野松原  兵庫県南あわじ市松帆慶野

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慶野松原  兵庫県南あわじ市松帆慶野

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は、次のとおり。
淡路島南西の海岸。西淡三原ICから県道31号を北へ車で10分。

慶野松原

慶野松原(けいのまつばら)は、淡路島の西側、播磨灘に面した兵庫県南あわじ市松帆古津路から松帆慶野‎にある松原である[1]。国指定の名勝。

概要
三原川河口北側の砂浜、約2.5kmに渡って約5万本のクロマツ林が広がる景勝地である。様々な枝ぶりを見せる松林内には、1997年(平成9年)に地域特産の淡路瓦をふんだんに用いた「プロポーズ街道」の名の散策路が整備されている。また、播磨灘に沈む夕陽や遥か沖合に浮かぶ小豆島の姿が美しい[1]。さらに北には、兵庫県の郷土記念物に指定された5色の小石が美しい五色浜が続いている[2]。

1928年(昭和3年)に国の名勝に指定。1955年(昭和30年)に瀬戸内海国立公園(指定区域)に指定されている。また、日本の白砂青松100選、日本の渚百選、日本の夕陽百選に選ばれている[3]。
古くは柿本人麻呂によってこの地が『万葉集』に詠まれている。国民宿舎慶野松原荘の北側にはこの歌碑が建てられている。
「飼飯(けひ)の海の 庭よくあらし刈薦(かりごも)の 乱れ出づ見ゆ 海人(あま)の釣船 」
江戸時代には徳島藩が所有して松林を育成していたが、第二次世界大戦時に食糧増産のために一部が開墾されて、往時の規模は失われている[4]。

慶野松原海水浴場
後背地に松林を抱えた海水浴場は環境省により、2001年(平成13年)に日本の水浴場88選、
2006年(平成18年)に快水浴場百選の特選に選ばれている。7月下旬には花火大会が開催される[5]。 松林内にはキャンプ場も設けられている。

理詳院の石橋  兵庫県南あわじ市八木新庄

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理詳院の石橋  兵庫県南あわじ市八木新庄

呑み処”味幸”が写っているから、県道478号橋西詰交差点の東側あたりだろう。不思議な一角があった。山門前のは、昭和年代の石橋である。親柱に「理詳院」とある。近くにある「理詳院 尼が寺」の分院と聞いた。淡路国分寺に関係する史跡のようでもある。
境内のほかの橋は、コンクリート橋だった。

八 幡 橋・賀集八幡八坂神社参道橋  兵庫県南あわじ市賀集八幡

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八 幡 橋・賀集八幡八坂神社参道橋  兵庫県南あわじ市賀集八幡

現地説明板、及びHP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。
国道28号八幡交差点から北へ県道31号に入る。すぐ先に賀集八幡西交差点があり、新八幡橋と八幡神社参道がある。昭和45年、ここに架かっていた石橋を、神社左側の川へ移築している。
八坂神社参道橋も、同境内左側にある。

八 幡 橋  管理者 賀集八幡神社

橋柱なしのこのアーチ式の橋は、側面両側に鶴と亀を陽刻してあるので鶴亀橋とも呼ばれており、八幡村の豪農印部喜与門によって造立寄贈された。
当時重要官道に架かっていた八幡橋が出水の度に破損、交通の途絶する事を憂い、私財を投じて播磨の家島と小豆島から石を運び、津名都の井高政吉を石匠として明治10年9月1日着工、エ事日数137日、工数延べ1326人を要し明治11年1月17日落成した。
諸経費のうち、県からの下付金は67円91銭3厘で、印部喜与門の負担は619円40銭5厘(当時の米価、1石4円80銭)を要した。
この八幡橋も竣工後93年の昭和45年の改修で現在地に移転、明治の文化遺産として保存されている。
※総御影石造り太鼓橋(めがね橋)
石工 江井浦井高政吉・井高金蔵
長さ 4間半(8.15m)
高さ 2間2合5厘(4.07m)
幅 2間半(4.53m)
(三原郡史より)」
平成11年3月   南あわじ市教育委員会

№5,551  八 幡 橋

南あわじ市賀集八幡
橋幅:4.19m  径間:6.5m  拱矢:3.2m  環厚:36cm  輪石:29列
賀集八幡神社に移設され、ひっそりと佇んでいます。
上流側の要石には鶴の陽刻。上流左岸側輪石には亀の陽刻。
要石は細長で、特徴的です。

№5,552  賀集八幡八坂神社参道橋

南あわじ市賀集八幡
橋長:1.4m  橋幅:3.4m
架設:明治  単径間桁橋
八坂神社前に架かっています。

八幡神社本殿及び拝殿  兵庫県南あわじ市賀集八幡

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八幡神社本殿及び拝殿  兵庫県南あわじ市賀集八幡

南あわじ市HPの「県指定文化財」による説明は、次のとおり。現在、改築中であった。
国道28号八幡交差点から北へ県道31号に入る。すぐ賀集八幡西交差点の対岸に八幡神社の参道がある。 

八幡神社本殿及び拝殿

賀集八幡神社の本殿は、現存する棟札から寛永8年(1631年)に藩主蜂須賀氏によって建てられたことがわかっています。
建築様式は和様を基調として、それに唐様を混用した建物ですが全体としての調和をよく保っています。蟇股(社寺建築で荷重を支えるための部材)や脇障子欄間の彫刻、向拝の手挟み等細部の手法にも江戸時代初期の特徴がよく表われています。拝殿は本殿に続いて造営された一連の建築と見られています。内部を柱列で三分し、中央間を除き四周を腰羽目板張りとした構成は国重文の広峰神社拝殿(註 姫路市か)に通ずるものがあり、重要遺構とされています。昭和49年に兵庫県指定重要文化財に指定されました。