江戸期のみさき道 (往路後半)」カテゴリーアーカイブ

三和町内地名のルーツ 夜盗、追剥が出没した?「石コロバカシ」

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三和町内地名のルーツ 夜盗、追剥が出没した?「石コロバカシ」

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。浦里宇喜男さんの「三和町内地名のルーツ」その8 夜盗、追剥が出没した?「石コロバカシ」。
三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」No.219(平成12年8月号)に掲載。「三和町」などは旧町名。

標高243.6mの「石コロバカシ山」は、黒浜の背後にあり目立つ山。私たちは便宜上「黒岳」と呼んでいる。「みさき道」は、東側斜面の山腹を行き、サイクリング道路に出る。徳道の里程道塚があるすぐ手前付近の山である。
字図は、三和町平成7年12月修正「三和町全図」から。写真は現在の「黒岳」山頂。三角点と陸軍省「長崎要塞区域標 第七号」が残る。

三和町内地名のルーツ その8 夜盗、追剥が出没した?「石コロバカシ」  浦里宇喜男

本町の川原と野母崎黒浜との境界をなす尾根に「石コロバカシ」なる字がある。長崎半島の尾根筋に当たり、山の頂上には国土地理院の三角点があり、243mを示している。この石コロバカシ山の東側斜面の下の方に”みさき道(御崎街道)”が通っている。現在この石コロバカシ山から800m位の所に”みさき道”の道標が残っていて”長崎ヨリ五里”の文字が見える。

さて何故に「石コロバカシ」なのだろうか。地形上から見れば、川原側も黒浜側も急峻で、山の上から小石でも転がすと、周辺の土砂を巻き込んで、土砂煙をあげて一気に斜面をころがり”みさき道”に達するであろう。
ここで一つの仮説を立ててみたい。ここは”みさき道”の要路にあたり、また前述のように危険な場所でもあったろう。

三和町郷土誌等によると、江戸時代当初より、この”みさき道”を通って、野母崎脇岬の観音寺参詣が盛んであったという。またこの時代は、オランダ船、唐船(中国船)も盛んに長崎港に入港しており、最盛期だった元禄時代には、年間200隻近くの唐船が入港していたという。
そして、この貿易船のうち何隻かは長崎港外において、密貿易のようなことをやっていたにちがいない。その場所は長崎半島の先の方ではなかったろうか。この闇取引の関係者は、大金を懐にして、早朝か夜陰にまぎれて、この”みさき道”を急いだであろう。

いつの世も悪は悪として存在しており、夜盗追剥の類が、この大金を懐にした商人たちの動きを見逃すはずはなく、この場所が夜盗追剥にとって絶好の仕事場ではなかったろうか。「石コロバカシ」の急傾斜面を利用して、身を隠しながら”石を転がし、また石を投げて”通行の商人たちを窮地に陥れて懐の大金を襲ったのではなかろうか。
今回の地名考は、少し飛躍した感がありますが、一つの仮説としてお読み頂き、御容赦願いたし。

この稿は本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行151頁ですでに紹介している。「石コロバカシ」などは、同1集、「みさき道」のコースに関する素朴な疑問と考察の
73頁において、私たちは次のとおり記しているので、参考として読んでもらいたい。

9 黒岳とはどこか
この南のピークが「黒岳」である。山頂には標高243.6mの三角点と、明治33年6月の陸軍要塞区域標がある。いつか「黒岳」と聞き黒浜の背後にあるので、何とはなしに納得し今も使っているが、明治18年「西彼杵郡村誌」高浜村の地勢の項に「艮位(北東)ヨリ正南ニ亘リ石転シ二ノ嶽及殿隠等高嶺ヲ負ヒ西北傾イテ低ク海ニ瀕ス」とあり、正しい山の名称は「石転シ」(いしころはし)と思われる。目立つ山で端正な姿であるのに、なぜこんな名前なのか。山頂は村境だが、高浜村も蚊焼村もその字名は当時は表れてない。今の字名で三和町にこの山の西斜面に「石コロバカシ」の字名があった。

10 石コロバカシの字名はなにか
関係資料の浦里氏「三和町内地名のルーツ」は、「石コロバカシ」にふれられているが、定かな内容でない。黒岳は目立つ山で、陸軍要塞区域標があり昔の砦も考えられる。
同じような字名は、茂木田上に「転石」(ころびいし)がある。真鳥氏「地名のルーツを探る 長崎・野母半島」は、茂木「転石」を狩猟に関わりあり、山刀は獣を仕留める武器だけでなく、狩が終ったあと獲物を分配するための尺度として使われた。山刀の幅を物差として「二転ばし」「三転ばし」などと量って獲物の分配を行った。この獲物の分配を行う場所のことを言ったのであろう、とのことである。
しかし、黒岳にいる大型の獣といえば狸しかいない。近くの「熊の岳」の「クマ」は、道や川の折れ曲がっている所或いは奥の引っ込んだ所を言う古語らしい。海で生活するここら辺りに狩猟は考えられない。昔はひょっとすると、現在八郎山系にだけ生息する鹿がここにもいたのか。
推測されるのは、このあたりは最近できた宮崎ダムの源流部である。山が入り組み水が多く湧いて、大雨のとき土砂崩れが起りやすかったのではないか。盗賊の話は、土井首杠葉病院登り口の岩でも聞いた。
「以下宿」も「みさき道」の道中の宿となにか関わりないか調べたが、載っていなかった。

11 徳道の里程を刻んだ道塚はなにか
野母崎徳道の車道三叉路に立つ大型道塚で、「長崎ヨリ五里」「御崎ヨリ二里」とある。古い道塚と思われがちだが、「文政七年(1824)申十一月 今魚町」とある。今魚町系の建立年のある道塚では一番新しく、観音寺の「道塚五拾本」の寄進の約束から40年が経過して立てられた。
なぜここに里程を刻んだ大型道塚が立てられたか。ここはまっすぐに以下宿に下る山道があった地点で、少し手前では黒浜へも分岐する。その道が「みさき道」と交差する。徳道は当時から半島交通の要所であって、字名は「得な道」の意味があるらしい。 

三和町内地名のルーツ 茶屋があった蚊焼の「古茶屋」

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三和町内地名のルーツ 茶屋があった蚊焼の「古茶屋」

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。浦里宇喜男さんの「三和町内地名のルーツ」その5 茶屋があった蚊焼の「古茶屋」。三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」No.216(平成12年5月号)に掲載。「三和町」などは旧町名。

本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行150頁ですでに紹介済み。この項は本ブログの次を参照。
https://misakimichi.com/archives/367
https://misakimichi.com/archives/368
三和町郷土誌392頁に記す「蚊焼茶屋」や「蚊焼峠」の推定は、実際と場所が違うようである。浦里先生の解説が正しいことを、私も字名や水脈などから確認している。

三和町内地名のルーツ その5 茶屋があった蚊焼の「古茶屋」  浦里宇喜男

国道499号線の蚊焼入口バス停の南側一帯の丘陵地が、字「古茶屋」である。昭和30年頃までは、畑地帯であったが、町道蚊焼川原道線の整備により、現在は住宅団地となっている。蚊焼の東の丘の上のグリーンタウンである。
最近、昔の街道歩きがブームとなっているようですが、この「古茶屋」の地も、御崎道街道(みさき道)の要衝にあたり、岬の観音様参りの人達で賑わったとのことである。

本町の蚊焼地区内にも、2本のみさき道の道標(みちしるべ)が残っており、本町の得道のとなりの野母崎町の西徳道には「長崎ヨリ五里、御崎ヨリ二里」「文政七年申十一月今魚町」の立派な道標が残っている。
三和町郷土誌を繙いてみますと、「観音信仰と御崎街道」の中に次のように記してあります。郷土誌より抜粋=文久元年(1861)4月3日から4日にかけて御崎観音に詣でた長崎医学伝習所生、関寛斎という人の日記をもとにして往時の御崎街道をたどってみる。

『午下がりは殊に峠道ゆへ炎熱蒸すが如く、汗をもって単物を濡らすに至れり、三十丁許にして、蚊焼峠の「茶屋」に至り、清水に咽をうるをして汗を拭ふ。西北は港内にして、その西岸は遥に絶え、香焼島、マゴメ島、伊王島、高島、遥かに松島の瀬戸見ゆ』とある。以下略。

さて、関寛斎が休んだという「茶屋」はどのあたりであろうか。過日、町道蚊焼川原道線を歩いてみた。新道と旧道の合流点の桑原建設作業所から宝和金属の工場の間が一番眺望もよく、寛斎の日記にもあるように、香焼、伊王島、高島は勿論遠く池島まで望むことができる。グリーンタウンの入り口付近の「草積祠」なる石仏も、これまた西北を望んで建ててある。蚊焼峠の「茶屋」もこの辺にあったのだろうと独り呟きながら峠を越えて帰路に着いた次第である。

三和町内地名のルーツ 徳道は得峠(とくどう)では

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三和町内地名のルーツ 徳道は得峠(とくどう)では

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。浦里宇喜男さんの「三和町内地名のルーツ」その2 「徳道」は「得峠」(とくどう)では。三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」No.213(平成12年2月号)に掲載。「三和町」などは旧町名。

この資料は本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行149頁ですでに紹介済み。
真鳥喜三郎著「地名のルーツを探る 長崎・野母半島」昭和59年刊60頁の「ア 徳道」に同じ説明がある。それから引用されたのだろう。

三和町内地名のルーツ その2 徳道は得峠(とくどう)では  浦里宇喜男

徳道地区は、三和町の一番の高地(標高150mから200m)にあり、また、峠に位置する集落である。この地の地名は、本町川原から野母崎町高浜に通じる幹線道(旧道)を挟んで、大字川原字徳道と大字宮崎字得道となっている。
ご案内のとおり、この野母半島には昭和初期まで県道もなく、東の天草側と西の五島灘側との交通手段は徒歩以外の何ものもなく、その要路としてはこの徳道の峠越えの道と、現在の役場の庁舎の前を通っていた為石から蚊焼までの幹線道(旧道)の2本の道路だけであった。

大型荷物は海上輸送が主であったが、一般の荷物輸送は、牛の背、人の背以外に方法はなく、少しでも低い峠道を選ぶのは当然のことであった。
それで、徳道なる地名は、「得をする峠」即ち「得峠」からきたものと考えたい。
山越えに便利な峠「とう」が濁音化して「どう」となったものと思われる。また「とく」は損得の「得」の意味であって、遠回りして骨折り損にならない「得」な道から「通行に便利な峠の道」「得峠」「徳道」となったのだろう。

現在、この地は川原地区、宮崎地区、木場地区からの車道が集中しており、野母崎の黒浜、以下宿、高浜に通じている。このように交通の要所となっていることからも、昔からよく利用されていた峠道であったことがわかる。

新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)  2012年1月

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新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)  2012年1月

2012年1月2日(月)快晴。新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)。参加22人。みさき道歩会の新春例会。記念撮影と準備体操をして出発。
三和行政センター前広場9時40分発ー蚊焼峠−徳道ーサイクリングロード展望地点12時着(昼食)12時40分発ー岬木場同終点ー殿隠山ー遠見山(標高259.0m)ー脇岬小学校尾根ー脇岬観音寺15時30分着(徒歩距離 約15km)

毎年恒例の新春初歩き行事。2009年から2011年は、長崎学さるく行事に掲載しているで参照。今年も快晴。絶好の山歩き日和となった。
「みさき道」の蚊焼峠−徳道間は坦々とした長い尾根歩きコース。途中にあるのは行き倒れ尼さんの墓。中間の休憩ベンチ地点からは、伊王島大橋や軍艦島(端島)が見える。

以下宿の三叉路には、文政七年(1824)の里程道塚がある。水仙畑先には「ゆうこう」の木2本が実をつけていた。徳道上の展望が良いサイクリングロードで昼食。八郎岳が端正に見える。
午後はサイクリング道路を岬木場終点まで行く。さらに県道により風力発電風車が立つモトクロス場まで行き、後ろ側の林道と山道を殿隠山・遠見山へと縦走した。遠見山14時50分着。

山頂には佐賀藩狼煙台跡が残る。脇岬や樺島の展望が素晴らしい。堂山峠の予定は変更、脇岬小学校尾根を下って脇岬観音寺へ15時30分着いた。正月は4日まで開帳。十一面千手観音立像(国重文)や天井絵が見学できる。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/29089811.html

新春「みさき道」初歩き  岬木場回り山歩きコース

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新春「みさき道」初歩き  岬木場回り山歩きコース

平成20年1月2日(曇)、毎年恒例の「みさき道」初歩き。岬木場回り山歩き約15km、6時間のコース。参加15人。三和行政センター前広場に9時30分集合。
蚊焼峠から永一尾の尾根を行き、徳道に出てゴルフ場裏門の地蔵道塚など見る。みさき道本道の高浜へ下らず、ここからサイクリング道路を歩き、岬木場終点に12時25分着昼食。
午後からは、モトクロス場の風車の脇を行き、林道から山道にかかり殿隠山・遠見山へと尾根を歩く。堂山峠で古里からのみさき道本道と合し、脇岬観音寺15時30分着。
正月は4日まで開帳。十一面千手観音立像(国指定)や川原慶賀などの筆による天井絵(県指定)など見学できる。

古里海岸の埋立地に残る「建岩」(たていわ)  長崎市高浜町  

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古里海岸の埋立地に残る「建岩」(たていわ)  長崎市高浜町

長崎市高浜町となる古里海岸の港となった広い埋立地の中に、大きな岩が立っている。古里バス停のすぐ後ろ。昔の海岸を埋め立て、この岩は海の中にあった岩礁だとすぐわかる。古里は「みさき道」が堂山峠越しにかかる入口だから、よく見る岩だ。

この岩は、地元の人が言う「建岩」(たていわ)または「トンビーセ」の呼び名でなかったか。長崎市高浜公民館の以前の講座資料、松尾秀喜氏作成「たかはまの字名の由来考」27頁に次のとおりあった。

字 名 無し   通称語 建 岩 たていわ
たていわ…は、大古里、小古里の中間の海中に踏ん張って立ち巨岩を中心とした磯場の呼称で地方者はトンビーセと呼び里の象徴化した岩と見る。

熊根の石燈籠とはどんなものか

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熊根の石燈籠とはどんなものか

長崎市脇岬町。南側海岸五島灘から吹きつける荒波を受けとめるよう、西南2kmにわたり熊根という砂丘がある。ここは有名な海水浴場でもある。その裏手、墓地内の中央の高所に、高さ約5mの大石灯籠がある。
この海域は昔から航海の難所で遭難する船が多かった。村人たちが浄財を集めて天明2年(1782年)大石灯籠を建立し、航行する船の目印にしたと言う。「観音寺保存古文書」より。
伝承では「抜け荷灯籠」とも言われ、遠見番所から役人が5日に1回来るので、点灯しているかどうかで合図したらしいが、真偽はまったく不明である。

平成17年脇岬公民館講座資料、達利昭氏作成「ふるさと再発見 岬の神々を訪ねて」の中の説明は次のとおり。

15 熊根石灯篭 常夜燈 (諸町墓所中央部丘)
天明2年(1782)で今から217年前に建立されたもので、発起人は誰であったかさだかでありませんが、おそらく村の人達の間で人命救助のため浄財を出し合って、船の航行に支障がないようにとの願いをこめて観世音菩薩に献燈し碑文を当時の住職に依頼したものであると思われます。

常夜燈碑文
建此燈者古今四方溺死干海中者及爲人所殺鳥獣魚虫属風有血気者皆以祈冥福又以祈是燈願主五福並臻百事如意且四方海舶至於此有闇夜迷惑徃徃不得入港今掲此爲標亦庶其旡爲礁石浅紗所膠也。
天明2年(1782) 観音寺住職第八世 泰 田 宗 耕
此の燈を建てるは古今四方海中に溺死する者及び人の殺す所の鳥獣魚虫属およそ血の気のあるもののために皆以て冥福を祈り、又以てこの燈の願主五福並臻し百事意の如くならんことを祈り且つ四方の海舶ここに至って闇夜迷惑し往々にして入港し得ず今これを掲げ標となし又、礁石浅砂のために膠する所ならんことをこひ願うものなり。

(註)五福 五つの望ましい幸せで、長寿、富裕、無病息災、道徳を楽しむ、天命を全うする。
並臻 臻は集まって来ると云う意味で、五福がいっしょになって集まって来る。
海舶 船舶のこと。
迷惑 まよいまどうと云う意味
礁石 岩礁のこと。
浅砂 砂
膠  固定して動かないこと。

脇岬観音寺はどういった寺か。脇津の客舎(宿)はどこにあったか

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脇岬観音寺はどういった寺か。脇津の客舎(宿)はどこにあったか

A 脇岬観音寺はどういった寺か

圓通寺観音寺。曹洞宗。正月と毎月18日のみ開帳している。十一面千手観音像・天井絵・梵鐘など国・県・町の文化財あり。行基菩薩が和銅2年(709)創建とされる。寺の寄進物を見ると長崎の商人・町人名と唐人もある。
江戸時代観音信仰が盛んとなり、物見遊山を兼ねた観音詣でで賑わった。その風習は戦後まで残った。この参詣の道が「みさき道」である。天明4年(1784)今魚町の「道塚五拾本」の石柱がある。関寛斎日記に記された清人の書「海天活佛」の額は住職の話では不明である。

B 観音寺に関わる疑問について、どのようなことがあるか

いろいろ本にさまざまな記述がある。例えば「長崎名勝図絵巻之二」圓通山観音寺では「のち切支丹の横行は、この地にも災が及んで、衰滅に瀕した。天文六年(1536)御崎備後守 廣重が再建、僧良圓が財を募って修めた。今寺の前、数百畝の田は、古寺の遺址である。祀るところの千手観音は、行基菩薩が、長良橋の梁木から七体の像を刻んだ。そのうちの一本で、材は榧の木」などである。
観音寺の慶長の頃の切支丹破壊があったか。古寺は前の園(その)の地にあったか。観音像は平安時代の作とされるがどうか。石門も誰の作か。他の近郊観音寺との比較もある。
地元で言う「ひゅうどんやま」は、明治18年「西彼杵郡村誌」脇岬村の陵墓にあった。「古堂 村の字神ノ上ニアリ一ノ小丘タリ古墓七基アリ伝テ平重盛ノ遺族ト云其裔孫今尚ホ存ス館氏ヲ昌ス」。
子孫が館氏とあり、杉家墓碑群らしい。しかし、近くに観音寺歴代住職の墓地がある。

C 関寛斎一行は、何時頃観音寺に着いたか

寛斎一行は深堀を午後出発し、高浜、堂山峠を越え観音寺に着いた。さらに宿の脇津まで三四丁あり、買い求めた鏡鯛は宿で食べたか、「蝉鳴を聞く、七時より時々雨ならんとす」とある。
県立図書館に展示している街道里程図(享和2年肥州長崎図 1802年)に「深堀迄三里」「深堀ヨリ野母迄四里」とある。これを勘案するとやはり観音寺に到着したのは、日没直前の午後6時頃と思われる。

D 脇津の客舎(宿)はどこにあったか

旧樺島通船の桟橋近くが脇津の中心地であった。このあたりに「蒟蒻屋」の屋号が今も残る(原設備工業 原新八方)。
観音寺から参道を行き国道を横切り、浜の墓地脇の道を通り西教寺からこの脇津に至るのが街道のようである。脇津は樺島と同じく風待ちの湊で舟宿が多く、寺と違い新鮮な魚介類が食され、観音詣での客も受け入れたのではないか。

古里から堂山峠越えはどんな道だったか。堂山という山があるのか

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古里から堂山峠越えはどんな道だったか。堂山という山があるのか

A 古里から堂山峠越えはどんな道だったか

今は次の南古里バス停から町営住宅裏を通り、堂山峠のすぐ近くまで農道が上っており、車で行けるのでこの道は誰も歩かない。農道で寸断されたところは、長年荒れるに任されていた。上部の農道の脇にいかにも街道らしい道が残っていたので、この際切り開いて復元することにした。脇岬に行くのには、この峠道が戦後まで大いに利用され、有名な峠であり地元で懐かしむ人が多い。関寛斎が言う「此峠此道路中第一の嶮なり(略)困苦言ふべからず」は本当か。試してみることにした。

ルートは予想と少し違ったが、切り開きにそんな手間はかからなかった。大古里の登り口から堂山峠まで通して歩いてみたが、直線的にゆっくり上っており、そんなにきつく感じない。寛斎一行は長崎から一日の長旅の最後の登りとなり、疲れていたのではないか。堂山峠は標高約160m。この間の距離は車道を歩き1.5kmであるから、山道は1.3km位と思われる。
原田氏稿によれば、堂山峠にも道塚があったらしい。どんな道塚であっただろうか。ここは帰路の際なら重要な分岐となる。高浜に下るのと遠見山へ上るのと両方とも指していただろうか。

B 堂山という山があるのか

地元の話では、「堂山峠」を堂山という。明治18年「西彼杵郡村誌」脇岬村の項で「山」として堂山は記述がある。他の資料に「銅山」ともある。遠見山も「鷹鳥山」や「高遠見山」とかあり、どれがどの山か不明である。
佐賀藩が作成した脇津村地図には、「堂山」の字を峠をはさみ記している。

高浜の「しのぶ」の丘越えと、古里まで海岸を行ったか

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高浜の「しのぶ」の丘越えと、古里まで海岸を行ったか

関寛斎日記は、高浜から古里まで「水際の奇岩上を通る凡そ二十丁」と記して、高浜から堂山峠の登り口である大古里まで海岸を行ったように感じるが、そうではない。岩を巻きながらきちんとした山道の街道がある。
高浜海水浴場から正面の墓地の脇を越し、埋立て前の海岸線を行き内野自動車手前から家の間の道に入る。先で畑道となり上に続くが、そこには行かず右へ竹薮をかき分け横に入ると、高浜温泉の小屋跡上で料亭「松実」の裏に出る。この赤道は長崎大水害のとき土砂崩れした。
後はきちんとした道で、古里部落の中を通って龍田神社前を行き古里公民館前に出る。この先の小店の前などは距離が短く波がひどい日も、大古里まで海岸を行かれたようである。

現在の料亭「松美」のあたりが、地名「しのぶ」という。駐車場奥に「忍の地蔵」がある。ここは海岸に突出した岩場で老松が茂り丘越えとなった。先の高浜公民館講座資料「たかはまの字名の考察考」28〜29頁は、次のとおり説明している。
字名 無し  通称語 しのぶ
しのぶ…は、本村名の西江下の海に突出した丘の呼称で、此の丘を降って海辺を南への通りみち、又海辺から上って本村への道とゆう場処の丘に数多くの老松の茂った高所利用した魚見やぐらを構えて日々辛抱づよく絶え忍んで見張りを続けたとゆう意味で「忍ぶの丘」と呼ばれたとのこと。それがいつの日か「しのぶ」の愛称となる。

「忍ぶの地蔵」については、すでに前の項で次のとおり写真とも紹介している。このあたりは、潮の満干によって山手の道と砂浜の道があったことが偲ばれる場所の地蔵である。

高浜の「忍の地蔵」とは、どこにある地蔵か

野母崎町「のもざき漫歩」高浜海岸の今と昔の中に『野母方面へ行くのに、浜添から「忍(しのぶ)の地ぞう」の下を通り、その浜へ出ると、なだらかな砂の道となっていました。そこは満潮時になると、潮がガンブリ満ちて通れませんでした』とある。
この地蔵は高浜海水浴場前を過ぎ、今、少しカーブとなっている料亭「松美」国道左の建物の駐車場奥にある地蔵である。名前がゆかしく、いわれと場所を訪ねたが、地蔵は新しくなってガラス張りのサッシの中に安置されていた。
この手前には鉱泉が湧いて海にそそいでいた。料亭「松美」が手を加え、自家用とするとともに、「高浜温泉」として看板を掲げ10数年前までは、鉱泉を蛇口で売っていた。