高浜の「しのぶ」の丘越えと、古里まで海岸を行ったか

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高浜の「しのぶ」の丘越えと、古里まで海岸を行ったか

関寛斎日記は、高浜から古里まで「水際の奇岩上を通る凡そ二十丁」と記して、高浜から堂山峠の登り口である大古里まで海岸を行ったように感じるが、そうではない。岩を巻きながらきちんとした山道の街道がある。
高浜海水浴場から正面の墓地の脇を越し、埋立て前の海岸線を行き内野自動車手前から家の間の道に入る。先で畑道となり上に続くが、そこには行かず右へ竹薮をかき分け横に入ると、高浜温泉の小屋跡上で料亭「松実」の裏に出る。この赤道は長崎大水害のとき土砂崩れした。
後はきちんとした道で、古里部落の中を通って龍田神社前を行き古里公民館前に出る。この先の小店の前などは距離が短く波がひどい日も、大古里まで海岸を行かれたようである。

現在の料亭「松美」のあたりが、地名「しのぶ」という。駐車場奥に「忍の地蔵」がある。ここは海岸に突出した岩場で老松が茂り丘越えとなった。先の高浜公民館講座資料「たかはまの字名の考察考」28〜29頁は、次のとおり説明している。
字名 無し  通称語 しのぶ
しのぶ…は、本村名の西江下の海に突出した丘の呼称で、此の丘を降って海辺を南への通りみち、又海辺から上って本村への道とゆう場処の丘に数多くの老松の茂った高所利用した魚見やぐらを構えて日々辛抱づよく絶え忍んで見張りを続けたとゆう意味で「忍ぶの丘」と呼ばれたとのこと。それがいつの日か「しのぶ」の愛称となる。

「忍ぶの地蔵」については、すでに前の項で次のとおり写真とも紹介している。このあたりは、潮の満干によって山手の道と砂浜の道があったことが偲ばれる場所の地蔵である。

高浜の「忍の地蔵」とは、どこにある地蔵か

野母崎町「のもざき漫歩」高浜海岸の今と昔の中に『野母方面へ行くのに、浜添から「忍(しのぶ)の地ぞう」の下を通り、その浜へ出ると、なだらかな砂の道となっていました。そこは満潮時になると、潮がガンブリ満ちて通れませんでした』とある。
この地蔵は高浜海水浴場前を過ぎ、今、少しカーブとなっている料亭「松美」国道左の建物の駐車場奥にある地蔵である。名前がゆかしく、いわれと場所を訪ねたが、地蔵は新しくなってガラス張りのサッシの中に安置されていた。
この手前には鉱泉が湧いて海にそそいでいた。料亭「松美」が手を加え、自家用とするとともに、「高浜温泉」として看板を掲げ10数年前までは、鉱泉を蛇口で売っていた。