古里から堂山峠越えはどんな道だったか。堂山という山があるのか

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古里から堂山峠越えはどんな道だったか。堂山という山があるのか

A 古里から堂山峠越えはどんな道だったか

今は次の南古里バス停から町営住宅裏を通り、堂山峠のすぐ近くまで農道が上っており、車で行けるのでこの道は誰も歩かない。農道で寸断されたところは、長年荒れるに任されていた。上部の農道の脇にいかにも街道らしい道が残っていたので、この際切り開いて復元することにした。脇岬に行くのには、この峠道が戦後まで大いに利用され、有名な峠であり地元で懐かしむ人が多い。関寛斎が言う「此峠此道路中第一の嶮なり(略)困苦言ふべからず」は本当か。試してみることにした。

ルートは予想と少し違ったが、切り開きにそんな手間はかからなかった。大古里の登り口から堂山峠まで通して歩いてみたが、直線的にゆっくり上っており、そんなにきつく感じない。寛斎一行は長崎から一日の長旅の最後の登りとなり、疲れていたのではないか。堂山峠は標高約160m。この間の距離は車道を歩き1.5kmであるから、山道は1.3km位と思われる。
原田氏稿によれば、堂山峠にも道塚があったらしい。どんな道塚であっただろうか。ここは帰路の際なら重要な分岐となる。高浜に下るのと遠見山へ上るのと両方とも指していただろうか。

B 堂山という山があるのか

地元の話では、「堂山峠」を堂山という。明治18年「西彼杵郡村誌」脇岬村の項で「山」として堂山は記述がある。他の資料に「銅山」ともある。遠見山も「鷹鳥山」や「高遠見山」とかあり、どれがどの山か不明である。
佐賀藩が作成した脇津村地図には、「堂山」の字を峠をはさみ記している。