脇岬観音寺はどういった寺か。脇津の客舎(宿)はどこにあったか
A 脇岬観音寺はどういった寺か
圓通寺観音寺。曹洞宗。正月と毎月18日のみ開帳している。十一面千手観音像・天井絵・梵鐘など国・県・町の文化財あり。行基菩薩が和銅2年(709)創建とされる。寺の寄進物を見ると長崎の商人・町人名と唐人もある。
江戸時代観音信仰が盛んとなり、物見遊山を兼ねた観音詣でで賑わった。その風習は戦後まで残った。この参詣の道が「みさき道」である。天明4年(1784)今魚町の「道塚五拾本」の石柱がある。関寛斎日記に記された清人の書「海天活佛」の額は住職の話では不明である。
B 観音寺に関わる疑問について、どのようなことがあるか
いろいろ本にさまざまな記述がある。例えば「長崎名勝図絵巻之二」圓通山観音寺では「のち切支丹の横行は、この地にも災が及んで、衰滅に瀕した。天文六年(1536)御崎備後守 廣重が再建、僧良圓が財を募って修めた。今寺の前、数百畝の田は、古寺の遺址である。祀るところの千手観音は、行基菩薩が、長良橋の梁木から七体の像を刻んだ。そのうちの一本で、材は榧の木」などである。
観音寺の慶長の頃の切支丹破壊があったか。古寺は前の園(その)の地にあったか。観音像は平安時代の作とされるがどうか。石門も誰の作か。他の近郊観音寺との比較もある。
地元で言う「ひゅうどんやま」は、明治18年「西彼杵郡村誌」脇岬村の陵墓にあった。「古堂 村の字神ノ上ニアリ一ノ小丘タリ古墓七基アリ伝テ平重盛ノ遺族ト云其裔孫今尚ホ存ス館氏ヲ昌ス」。
子孫が館氏とあり、杉家墓碑群らしい。しかし、近くに観音寺歴代住職の墓地がある。
C 関寛斎一行は、何時頃観音寺に着いたか
寛斎一行は深堀を午後出発し、高浜、堂山峠を越え観音寺に着いた。さらに宿の脇津まで三四丁あり、買い求めた鏡鯛は宿で食べたか、「蝉鳴を聞く、七時より時々雨ならんとす」とある。
県立図書館に展示している街道里程図(享和2年肥州長崎図 1802年)に「深堀迄三里」「深堀ヨリ野母迄四里」とある。これを勘案するとやはり観音寺に到着したのは、日没直前の午後6時頃と思われる。
D 脇津の客舎(宿)はどこにあったか
旧樺島通船の桟橋近くが脇津の中心地であった。このあたりに「蒟蒻屋」の屋号が今も残る(原設備工業 原新八方)。
観音寺から参道を行き国道を横切り、浜の墓地脇の道を通り西教寺からこの脇津に至るのが街道のようである。脇津は樺島と同じく風待ちの湊で舟宿が多く、寺と違い新鮮な魚介類が食され、観音詣での客も受け入れたのではないか。