九州(鹿児島県)」カテゴリーアーカイブ

志布志の大クス  志布志市志布志町安楽

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志布志の大クス  志布志市志布志町安楽

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

志布志の大クス
【所 在 地】志布志市志布志町安楽 1519 − 2
【種  別】国指定天然記念物
【指定年月日】昭和 16 年 11 月 13 日

志布志町安楽の山宮神社境内の入口右側に,「蒲生のクス」や「塚崎のクス」と並ぶ大きなクスノキがある。樹高 22.0m,目通し周囲 18.6m,根廻り 24.3m で,推定樹齢は約 1,200年といわれる県下を代表するクスノキである。クスノキの基部には大きな空洞があり,根の一部には枯死部分も見られるが,土盛りや枝の支柱の設置など保護の手も加えられ,樹勢は良好である。
樹幹には,ハゼノキ,カクレミノ,ネズミモチ,トベラ等種子植物とシダ植物合わせて 18 科 24 種の着生植物が確認されており,蘚苔類も多く着生している。地上4 m ほどのところで6本の大枝に分かれ,東西約 43m,南北約 33m にわたって樹冠を広げ,樹形の良いことで知られている。
山宮神社の祭神は天智天皇などで,天智天皇行幸の際のお手植えのクスと伝えられる場所に,元明天皇により和銅2(709)年創建されたといわれる。山宮神社の名に改名されたのは明治になってからで,神事として春祭りの「カギヒキ,正月踊」(県指定無形民俗文化財)が有名である。

夏井海岸の火砕流堆積物  志布志市志布志町夏井

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夏井海岸の火砕流堆積物  志布志市志布志町夏井

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

夏井海岸の火砕流堆積物
【所 在 地】志布志市志布志町夏井字前田、字赤丸、字三ツ堀
【種  別】国指定天然記念物(地質)
【指定年月日】昭和24年6月8日

鹿児島県の地表の半分以上は、シラスとよばれる火砕流堆積物に覆われた台地からなり、鹿児島の風土を語る上で欠かせない要素となっている。鹿児島県志布志市夏井海岸沿いの崖には、このシラス台地を構成する入戸火砕流が典型的に分布するとともに、入戸火砕流の堆積以前に堆積していた日南層群、阿多鳥浜火砕流、夏井層、阿多火砕流などシラス台地の形成の歴史を辿る地層がそろっている。
なかでも入戸火砕流は、今から2.2〜2.5万年前、現在の鹿児島湾北部の姶良カルデラから噴出した火砕流で、南九州一帯に分布しており、火山国日本でも有数の巨大カルデラ噴火の堆積物である。同時期に噴出した火山灰はAT火山灰として知られ、遠く北海道でも確認されている。この噴火の際の噴出物総量は450立方kmに達し、平成2年から7年にかけて噴出した雲仙普賢岳の0.25立方kmをはるかにしのぐ。
志布志市夏井の海岸には、この入戸火砕流堆積物が典型的に露出する。歴史的にも石材として利用されるなど、南九州の歴史を辿る上で欠かせない火砕流堆積物として極めて重要である。

塚崎のクス  肝付町野崎字大塚

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塚崎のクス  肝付町野崎字大塚

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

塚崎のクス
【所 在 地】肝属郡肝付町野崎字大塚 2238
【種別】国指定天然記念物
【指定年月日】昭和 15 年2月 10 日

クスノキはクスノキ科の常緑高木で,材質に優れ,また材から樟脳が取れるので古くから植えられ,利用されてきた。日本では本州,四国,九州の暖地に生育しているが,野生のものであるかははっきりしない。
塚崎のクスは,鹿児島県では「蒲生のクス」,「志布志の大クス」に次いで大きなもので,目通り周囲 14m,高さ約 25m,推定樹齢 1,200 〜 1,300 年以上といわれ,塚崎古墳1号墳の上に生えている。現在も樹勢は盛んで,オオタニワタリやハゼノキなどの植物が 50種類以上も着生している。根元から地下にかけて大きな空洞があり,大蛇がすむという言い伝えや,大戦争が勃発する直前に枝が折れて知らせるという伝説も残っている。
所在地の大塚神社は,島津忠久(1179 〜 1227 年)が,薩摩,大隅,日向の守護職に補される際,家臣を薩摩に先行させ,武蔵国秩父権現大菩薩を島津家の守護神として勧請したといわれる。このクスノキは,その当時からの神木といわれ,今なお崇敬を受けている。

塚崎古墳群  肝付町野崎

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塚崎古墳群  肝付町野崎

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

塚崎古墳群
【所 在 地】肝属郡肝付町野崎 2238 他
【種別】国指定史跡
【指定年月日】昭和 20 年2月 22 日

高山町市街地から波見方面にいたる県道を約 2.3kmほど行った畑の中に点在する古墳群である。
古墳群は,塚崎と花牟礼の両地区にまたがり,前方後円墳4基,円墳 39 基の合計 43 基で構成される。最大のものは第 40 号の前方後円墳で,全長 66.5m,後円部の高さ9 m,墳丘には葺石が認められる。円墳で最大のものは第 43 号墳で,直径40m,高さ 6.5m である。また,第1号墳は直径 15m,高さ 3.3m の円墳で,墳丘のクスの大木は,国の天然記念物に指定されている。
畑の中の古墳の中には,永年の耕作などによって周囲が削り取られて方墳のようになったものがあるが,もともとは円墳である。この付近には,吾平・高山地方に多く分布する地下式横穴墓も点在しており,塚崎古墳群内だけでも 10 基程度あるといわれる。北薩地方に見られる地下式板石積石室墓などとは全く異なった形式で,明らかに異なる文化圏に属している。
塚崎古墳群は古墳時代前期・中期・後期の各時期を網羅しているといわれている。古墳時代は,3世紀後半から7世紀までである。しかし,南九州の畿内型の古墳は大和地方からすると約1世紀のずれがあり,南九州の前期の古墳は5世紀頃のものといわれている。
古墳は高塚古墳(墳丘をもつもの)と地下式古墳に大別され,高塚古墳は形状により,前方後円墳,前方後方墳,円墳,方墳,上円下方墳,その他に分けられる。南九州では前方後円墳と円墳だけが分布している。

二階堂家住宅おもてなかえ  肝付町大字新富

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二階堂家住宅おもてなかえ  肝付町大字新富

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

二階堂家住宅おもてなかえ
【所 在 地】肝属郡肝付町大字新富 5595
【種別】国指定有形文化財(建造物)
【指定年月日】昭和 50 年6月 23 日

一部変形はあるが典型的な二棟造りの家といえよう。建築年代ははっきりしないが同家の伝えによると文化7(1810)年ごろ建てられたとのことである。「なかえ」の一棟はその後,建てなおしたものという。
特徴としては茅葺きであること,「おもて」の縁側は南面して棟は東西に,「なかえ」の棟は南北にと,直角に交った雁行型に配し,樋で接した寄棟造りであることがあげられる。「おもて」の間取りは「とこん間」8畳,「おもてな」15畳,「なんど」4畳で外縁側,「おもて座敷」は「なかえ」より 18cm高く,庇は竹葺きである。
門は元文5(1740)年造立の記録があるとのこと。美しいカヤ屋根,風格ある武家門などとともに江戸時代郷士の住居のおもかげをよく残している。

岩渕上の隧道  肝付町新富神之市

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岩渕上の隧道  肝付町新富神之市

肝付町HPの「町指定文化財」による説明は、次のとおり。

岩渕上の隧道(昭和59年8月23日指定)

肝付町新富神之市、二階堂屋敷の西側を流れる用水路に隧道があります。
江戸時代初期、米作りの振興増産が奨励され、第19代島津光久(みつひさ)の命により、治水工事、新田開発、地籍などの農政に力が注がれました。
高山郷の地頭に宮之城島津家第4代図書久通(ずしよひさみち)が任命され、高山用水路や用水池を完成させ、新富、野崎の両村にわたり、高2000石の開田を成し遂げました。工事は、寛文元年(1661年)に起工、寛文
11年(1671年)に完成しました。

完成までにおよそ10年の歳月を要した大工事で、永山井手の取入れ口から池之園に至る約10キロメートルの予定地には、ところどころに堅い岩盤があり、工事は困難を極めたといいます。
第一次産業が盛んな肝付町にとって、その基礎を築いた工事であったと言っても過言ではありません。
岩渕上の随道の近くに「高山新溝記」(寛文11年建立)の石碑があります。

関連リンク:
湛水院の供養塔(平成22年3月16日町指定)  (宮之城島津家第4代図書久通の供養塔)

近くにある「高山新溝記」(寛文11年建立)の石碑は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/4234

内之浦宇宙空間観測所(2 宇宙科学資料館分)  肝付町南方

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内之浦宇宙空間観測所(2 宇宙科学資料館分)  肝付町南方

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。(2)は、主な施設の「宇宙科学資料館」展示品を掲げる。

内之浦宇宙空間観測所

内之浦宇宙空間観測所(うちのうらうちゅうくうかんかんそくしょ、Uchinoura Space Center 、略称USC)は、日本の宇宙空間観測施設・ロケット打ち上げ施設である。世界でも珍しい山地に立つロケット発射場である。
2007年にDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれた。

主な概要
内之浦宇宙空間観測所は、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の施設の一つで、科学観測用衛星の打ち上げと追跡・管制を行っている。日本国内のロケット打ち上げ施設としては種子島宇宙センターと並ぶ存在である。立地条件が、市街地から離れ、物資輸送が便利で、東側が開け、国内で地表の自転速度が速い地域ということで、種子島とともに選ばれた。

前身は文部省宇宙科学研究所(ISAS)付属の鹿児島宇宙空間観測所で、JAXA統合後に現在の名称に改められた。秋田ロケット実験場に続く日本で2番目のロケット打ち上げ施設として1962年に起工され、1963年12月9日に開所された。旧名称の英略はKSCでケネディ宇宙センターと同じであった。しかし、命名はこちらの方が先であるという経緯もあり、かつては元祖KSCを名乗っていた。

日本最初の人工衛星である「おおすみ」(内之浦のある大隅半島にちなんで名づけられた)の打ち上げなど、ISASが独自に開発した固体燃料ロケットであるカッパ、ラムダ、ミューなどを用いての宇宙観測や技術試験、天文観測衛星・惑星探査機の打ち上げ、また、それらの追跡・管制を行っている。

内之浦では大型ロケットの打ち上げとしては世界的に珍しい傾斜発射を行うことを特徴としていた。これは、ロケットを早く海上に放出することで、万一事故が発生した場合の被害を少なくするためである。この傾斜発射台はイプシロンロケットでは不要な為、通常の垂直発射台に改造された。

主なロケット打ち上げ実績
・カッパロケット – K-8, K-9M, K-10 他 全100機以上
・ラムダロケット – L-2, L-3, L-4S, 他 全25機
・ミューロケット – M-4S, M-3SII, M-V 他 全32機
・イプシロンロケット – 1機
・観測ロケット等の多種多様な小型ロケット 全200機以上
計約400機が打ち上げられている。

主な施設
・Mセンター(ミューセンター)
・KSセンター
・打ち上げ管制センター
・レーダーセンター
・テレメーターセンター
・10メートルアンテナ
・20メートルアンテナ
・34メートルアンテナ
・宇宙科学資料館
ロケットや科学衛星、科学機器のモデルなどが展示されている。開館時間 08:30〜16:30、原則として年中無休、入館料無料。

所在地
鹿児島県肝属郡肝付町南方1791-13  三州自動車内之浦バス停からタクシーで約5分

内之浦宇宙空間観測所(1)  肝付町南方

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内之浦宇宙空間観測所(1)  肝付町南方

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

内之浦宇宙空間観測所

内之浦宇宙空間観測所(うちのうらうちゅうくうかんかんそくしょ、Uchinoura Space Center 、略称USC)は、日本の宇宙空間観測施設・ロケット打ち上げ施設である。世界でも珍しい山地に立つロケット発射場である。
2007年にDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれた。

主な概要
内之浦宇宙空間観測所は、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の施設の一つで、科学観測用衛星の打ち上げと追跡・管制を行っている。日本国内のロケット打ち上げ施設としては種子島宇宙センターと並ぶ存在である。立地条件が、市街地から離れ、物資輸送が便利で、東側が開け、国内で地表の自転速度が速い地域ということで、種子島とともに選ばれた。

前身は文部省宇宙科学研究所(ISAS)付属の鹿児島宇宙空間観測所で、JAXA統合後に現在の名称に改められた。秋田ロケット実験場に続く日本で2番目のロケット打ち上げ施設として1962年に起工され、1963年12月9日に開所された。旧名称の英略はKSCでケネディ宇宙センターと同じであった。しかし、命名はこちらの方が先であるという経緯もあり、かつては元祖KSCを名乗っていた。

日本最初の人工衛星である「おおすみ」(内之浦のある大隅半島にちなんで名づけられた)の打ち上げなど、ISASが独自に開発した固体燃料ロケットであるカッパ、ラムダ、ミューなどを用いての宇宙観測や技術試験、天文観測衛星・惑星探査機の打ち上げ、また、それらの追跡・管制を行っている。

内之浦では大型ロケットの打ち上げとしては世界的に珍しい傾斜発射を行うことを特徴としていた。これは、ロケットを早く海上に放出することで、万一事故が発生した場合の被害を少なくするためである。この傾斜発射台はイプシロンロケットでは不要な為、通常の垂直発射台に改造された。

主なロケット打ち上げ実績
・カッパロケット – K-8, K-9M, K-10 他 全100機以上
・ラムダロケット – L-2, L-3, L-4S, 他 全25機
・ミューロケット – M-4S, M-3SII, M-V 他 全32機
・イプシロンロケット – 1機
・観測ロケット等の多種多様な小型ロケット 全200機以上
計約400機が打ち上げられている。

主な施設
・Mセンター(ミューセンター)
ミューロケットの発射台地(打ち上げ施設)で、ロケット組立、打ち上げ管制、発射装置(発射塔とランチャー)などの機能を持つ。固体燃料ロケットとしては世界最大級のM-Vロケットの打ち上げに使用されていた。M-Vロケット廃止に伴いイプシロンロケット打ち上げ用に改修が行われた。2001年までは2基目のラムダ発射台が設置されており、ロケットセンターがKSセンターに改修された後のラムダロケットの打ち上げに使用されていた。
・KSセンター
小型のS-520ロケット、S-310ロケット、MT-135型観測ロケットの発射台地で、ロケット組立、打ち上げ管制のコントロールセンター、ランチャーなどの機能を持つ。ラムダ発射台(国立科学博物館前に展示がある)等の設備を有していたロケットセンターの跡地に建設されたものである。ランチャーは高さ約17mの鉄筋コンクリート製ランチャードームの屋内に設置されている。打ち上げ時には天井が開く仕組みとなっており、ロケットはドーム内で打ち上げ態勢に入り、そのまま打ち上げられる。
・打ち上げ管制センター
内之浦宇宙空間観測所で打ち上げられるロケットの打ち上げ管制を行う施設。最悪の場合の爆破指令もここで行う。ロケットの最終段燃焼終了後、衛星・探査機の管制は宇宙科学研究所(神奈川県相模原市)内の管制センターに引き継がれる。
・レーダーセンター
60cm反射式天体望遠鏡及びシュミットカメラ – 主として、打ち上げた衛星の追跡を行う望遠鏡。
・テレメーターセンター
・10メートルアンテナ
地球周回軌道の科学衛星との交信を行うアンテナ。UHF帯及びS帯に対応している。2010年現在あけぼのの運用のみに使用されている。
・20メートルアンテナ
主に地球周回軌道の科学衛星との交信を行うアンテナ。S帯の送受信及びX帯の受信に対応している。宇宙探査機の電波捕捉用として用いられる場合もある。1989年度に完成した。
・34メートルアンテナ
地球周回軌道の科学衛星及び宇宙探査機との交信を行うアンテナ。S帯及びX帯の送受信に対応し、Ka帯の受信にも対応している(受信装置は未整備)。1998年度に完成した。臼田宇宙空間観測所64mアンテナのバックアップとしても位置づけられている。
・宇宙科学資料館
ロケットや科学衛星、科学機器のモデルなどが展示されている。開館時間 08:30〜16:30、原則として年中無休、入館料無料。

所在地
鹿児島県肝属郡肝付町南方1791-13  三州自動車内之浦バス停からタクシーで約5分

岸良浜と久保田川  肝付町内之浦

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岸良浜と久保田川  肝付町内之浦

ふるさと元気風ネットによる説明は、次のとおり。私は田代から国道448号を逆に北上、内之浦岸良浜を通って宇宙空間観測所へ向かっている。

岸良の風景 肝付町内之浦

高田の滝 岸良浜 久保田川 湯の谷温泉
自然が豊かな岸良の町は内之浦宇宙空間観測所入り口地点から約8km離れた場所にある。国道448号線を岸良地区に南下し、「女石」「根性の松」を過ぎ、更に進むと国道右手道路沿いに「高田の滝」と書かれた看板が目に付く。周辺にはハイビスカスが赤い花を付け南国の情緒を漂わせている。滝近くの国道沿いから眺める岸良の海岸と砂丘の景色は絶景である。「高田の滝」から少し下り進んだ地点に岸良の海と町がある。岸良は大隅半島の南東部に位置し,三方を大隅山系に囲まれ,東南には太平洋を臨み、美しい自然と温暖な気候に恵まれた風光明媚な地域である。町の中心部を久保田川が流れる。久保田川に沿って県道542号線を進むと「湯ノ谷温泉」があり、近くを流れる久保田川の渓流が美しい。

岸良浜海岸と砂丘
国道448号線を車で南下しながら太平洋を望む。眼下には断崖の絶壁と巨岩・奇岩の織りなす絶景の海岸線が続く。久保田川河口から南側海岸線一帯は一変して白い砂丘が続く。
岸良海岸と久保田川河口。この地点より南側海岸線は美しい白い砂丘が続く。
真夏の岸良の浜は白く輝き、まぶしい。砂浜と海、空の色のコントラストが強烈である。

岸良の浜と国見山系
国道448号線沿いの木々の間から岸良の浜と海を眺める。

花瀬自然公園  錦江町田代川原

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花瀬自然公園  錦江町田代川原

ふるさと元気風ネットによる説明は、次のとおり。

花瀬自然公園・花瀬公園まつり錦江町(旧田代町)

大隅南部県立自然公園内の花瀬川の川床は、指宿カルデラからの溶結凝灰岩が、幅約100m、距離約2kmにわたってちょうど石畳を敷き詰めたようになっている。そのため、そこを流れる水がさざ波を立てて、まるで白い花が流れているかのような文様を作り出し美しい景観をなす。雄川のこの一帯を花瀬川と呼ぶのは、この美しい景観にちなんでのことだそうだ。清流に沿って遊歩道が整備され、四季折々の景観を楽しむことができる。春は桜・藤の花の名所としても知られ、江戸時代には島津斉彬公も訪れ、景を愛し、曲水の宴を楽しんだ記録が残る。花瀬公園にはキャンプ場、花瀬バンガロー村、花瀬オートキャンプ場、花瀬でんしろう館等の施設があり、公園全体がレクレーション村として整備され、毎年4月の第一日曜日に花瀬公園まつりが盛大に開催される。

石畳の間をぬって流れる花瀬川
バンガロー村の遊歩道上流点には幾段にも連なる絶景の滝があり、清生しい空気を滝と一緒に満喫できる。

花瀬でんしろう館・オートキャンプ場
田代の新名所。車がそのまま横付けできる手軽さが好評で夏は大にぎわい。

花瀬の史跡「お茶亭跡」「花瀬神社」
花瀬は、三国名勝図会にも記されるほどの景勝地で、島津18代久光・二十四代重年・二十八代斉彬も来遊し、14個の釜を湯わかし・煮炊きに利用したとされる。その釜跡が「お茶亭跡」として保存されている。
幕末の頃の花瀬の風景 薩摩藩編集の「三国名勝図会」より
三国名勝図会には「流七町56間 横三十余間」と記してある。ちなみに尺貫法で1町は60間(約109m)、1間は6尺(約1.82m)。

※大隅南部県立自然公園は,南大隅町外之浦から肝付町火崎に至る太平洋に面した海岸部分と,雄川及び花瀬川流域の一部が指定されている。
※注;「でんしろう館」の「でんしろう」は地名の「田代」を「でんしろ」と読めることに由来するそうだ。多目的ホール、パネル展示室、特産品展示販売コーナーなどを備え、地域の交流の拠点になっている。