投稿者「misakimichi」のアーカイブ

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (15)〜(22)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (15)〜(22)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(15)〜(22)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (9)〜(14)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (9)〜(14)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。
参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(9)〜(14)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石? B  梅本宅下の売家の井戸脇。裏面に「乙 三拾…」のような刻字がある。「居留地地番標」?。
標石  (9) 宮崎宅。隣家との境土手上に2本あったよう。1本を庭溝に裏返し蓋にしている。
標石? C  標石(10)の擁壁の中段。降りると「岡部所有…」のような刻字あり不明。
標石? D  標石(11)近く下。これは新しい標石で「電話局」のようである。
標石? E  標石(12)ガレージ上奥の家角。これは「水神」の古い標石を放置している。

(追記 平成20年12月24日)
標石(9)について、どじょう会リストは「居留地境」とあるが、23日に宮崎安美氏宅に再び寄り標石をよく見たら、最後に写真を追加したとおり、「岡部所有」の刻みであった。
(10)の下段の「標石?C」も「岡部」の刻みである。双方とも居留地を示す標石と思われないが、参考のため、掲載はそのままとしておく。

(2015年7月4日 追 記)
標石(9)について再調査を要し、7月2日に東琴平1丁目25−8の宮崎安美氏宅(どじょう会リストは旧番地であった)を訪ねた。家人不在だったが、庭の溝蓋にした石柱を確認した。
追加写真のとおり、「岡部所有」の刻みのある石の上にあと1本、石柱らしいものがある。これが「居留地境」標石の可能性があるが、コンクリート固めして裏返しできないため、実情は以前として不明。家人は前回そのような話はしてなかった。
「東山手地区町並み保存会」が、平成18年9月5日現在で調査した標石の所在マップと写真パネルがあるが、この場所の標石はまったく表れていない。「長崎市東山手地区町並み保存センター」2階展示。

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (1)〜(8)

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)  (1)〜(8)

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が報告されている。 参 照  https://misakimichi.com/archives/1483
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した。(1)〜(8)の標石は上の写真のとおり。
どじょう会の報告に表われていない境石・地番標とも思える標石も参考のため掲げる。

標石  (2) 風化した標石(2)の左後ろにあと1本。「居留地境」と刻んだ新しい標石が据付けられている。史跡境の標柱?
標石  (5) 十八銀行南山手寮の敷地内。外側の坂段道からフェンス越しに見られる。
標石? A  標石(6)の上角。近所の人の話で「居留地境」と刻まれていたと聞く。史跡境の標柱?

長崎学さるく”三ツ山と六枚板の史跡をさるく” (2)  平成20年11月

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長崎学さるく”三ツ山と六枚板の史跡をさるく” (2)  平成20年11月

平成20年11月17日(月)くもりのち晴。長崎学さるく行事で「三ツ山と六枚板の史跡をさるく」。
講師は「《トピックスで読む》長崎の歴史」著者江越弘人先生。参加・スタッフとも43人。

恵の丘10時発ー純心大学ー帆場岳(三ツ山 標高506m)ー虚空蔵菩薩ー兵底南山グランド(昼食)ー天竺山坑口跡ー六枚板の川平金山跡ー金湯温泉跡(斎藤茂吉湯治の地)ー小谷橋(石橋)ー金山坑口(出口)跡ー三ツ山教会(犬継)ー永井隆博士三つ山救護所跡ー大村藩殿様の道(西山街道)ーキリシタンのチシャの木ー難河原殉教跡15時着解散。

コースは約13km。帆場岳山頂まではきつい登りだが、後は下りと一般道で楽なコースである。昼食後、六枚板へ下り、川平金山の現存する2か所の坑口跡を見る。
斎藤茂吉が大正10年、湯治に訪れた金湯温泉は、原爆症のやけどに効く。永井隆博士が三つ山救護所で被爆者の温泉治療を行っている。
小谷橋は隠れた場所のアーチ式石橋。長崎大水害にも流されず残った。キリシタン史跡として、三ツ山教会・チシャの木の切株・今は川底となった難河原殉教跡の岩を見た。

写真を(1)(2)と分けた。(2)は小谷橋から。
お宮さんのブログ記事も参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/3649507.html

長崎学さるく”三ツ山と六枚板の史跡をさるく” (1)  平成20年11月

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長崎学さるく”三ツ山と六枚板の史跡をさるく” (1)  平成20年11月

平成20年11月17日(月)くもりのち晴。長崎学さるく行事で「三ツ山と六枚板の史跡をさるく」。
講師は「《トピックスで読む》長崎の歴史」著者江越弘人先生。参加・スタッフとも43人。

恵の丘10時発ー純心大学ー帆場岳(三ツ山 標高506m)ー虚空蔵菩薩ー兵底南山グランド(昼食)ー天竺山坑口跡ー六枚板の川平金山跡ー金湯温泉跡(斎藤茂吉湯治の地)ー小谷橋(石橋)ー金山坑口(出口)跡ー三ツ山教会(犬継)ー永井隆博士三つ山救護所跡ー大村藩殿様の道(西山街道)ーキリシタンのチシャの木ー難河原殉教跡15時着解散。

コースは約13km。帆場岳山頂まではきつい登りだが、後は下りと一般道で楽なコースである。昼食後、六枚板へ下り、川平金山の現存する2か所の坑口跡を見る。
斎藤茂吉が大正10年、湯治に訪れた金湯温泉は、原爆症のやけどに効く。永井隆博士が三つ山救護所で被爆者の温泉治療を行っている。
小谷橋は隠れた場所のアーチ式石橋。長崎大水害にも流されず残った。キリシタン史跡として、三ツ山教会・チシャの木の切株・今は川底となった難河原殉教跡の岩を見た。

写真を(1)(2)と分けた。(2)は小谷橋から。
お宮さんのブログ記事も参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/3649507.html

長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の現況調査

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長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の現況調査

平成6年7月1日発行「長崎の碑(いしぶみ) 第2集」129〜142頁に、長崎市南公民館の研究グループ「どじょう会」が行った長崎の外国人居留地跡標石(境石・地番標)の調査結果が、上記のとおり報告されている。
現地の主な標石には、長崎市教育委員会がその後、小さな陶板プレートを標石脇に埋め込んでいる。

これら標石の1つ1つを、現在の時点で再確認した結果を、以下、カラー写真で紹介する。どじょう会の報告に表われていない標石も、少し見つかっている。

(チ)牧島のツバキ  長崎市牧島町

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(チ)牧島のツバキ  長崎市牧島町

国道251号線により矢上大橋を渡り、戸石入口交差点から右へ入り、牧島に向かう。
大久保病院手前から右折。「牧戸橋」を渡ると、牧島である。修学旅行のペーロン体験施設前を通り、曲崎古墳群の方へ案内標識により進む。
外の海へ出て、曲崎が見える丘の自販機のある三叉路は右方へ。池の神神社へと下りかける。大きな石垣の家がすぐある。
牧島修宅(牧島町237番地)で、前庭に「牧島のツバキ」がある。

ツバキの大木は、前三和町藤田尾のツバキが、幹囲1.48mなど。長崎市指定天然記念物となっている。 https://misakimichi.com/archives/220 を参照。
牧島のツバキが、幹囲2.3mとあり訪ねたが、根元が2つの幹に分かれていた。
大戦中、牧島は特攻艇「震洋」の基地。本部や宿舎が置かれた山本造船所上の高台に、シイやクスノキなどの大木が見られた。

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(チ)でツバキを記している。同写真説明は次のとおり。
牧島 ツバキ(幹囲2.3m)。

(ト)あやめ東幼稚園のアコウ  長崎市戸石町

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(ト)あやめ東幼稚園のアコウ  長崎市戸石町

国道251号線により矢上大橋を渡り、戸石入口交差点から右折して戸石へ向かう。大久保病院前を過ぎた戸石漁港の方から幼稚園へ入る道があり、案内標識により進むと「あやめ東幼稚園」に着く。
アコウは、幼稚園の正門広場と、中へ入った園庭に大木2本がある。園庭のは牧島へ渡る牧戸橋の方から、川岸に眺められる。
次の樹木の再掲。  https://misakimichi.com/archives/809

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(ト)でアコウを記している。同写真説明は次のとおり。
戸石あこうの木。幼稚園の玄関前。

東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊、巨木・名木93頁の説明は次のとおり。
◇あこうの大木  戸石のあこうの木

戸石バス停留所から牧戸橋方向へ300m行って左に折れると、あやめ東幼稚園が見える。この幼稚園の玄関前の広場に、この「あこうの大木」がある。昭和30年ころまでは、ここは海であったが埋め立てられ、今はこの辺り住宅地となった。100m手前までが海岸であったそこに自然木として生え、かなりの年月を経て大木に成長したものである。
それを幼稚園の開園と併せ、今の位置に移植に成功し現在は青葉を茂らせている。数百年の年月を思わせる大きな根回りが生きる厳しさ、また、力強さを感じさせる。
なお、これよりひと回り大きかった「あこう」が、400m東の方向にあったが、台風で根元から倒され、今は枯死している。

(ヘ)西陵高校東長崎分校跡のクルギ・バショウ  長崎市古賀町

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(ヘ)西陵高校東長崎分校跡のクルギ・バショウ  長崎市古賀町

国道34号線の古賀町交差点の手前となる左手に、長崎県立西陵高校の東長崎分校跡がある。同校は平成19年3月に閉校した。
校舎は現在、長崎市役所古賀地区事務所と長崎市古賀地区市民センターとなっている。
マップは「分校」としか記していない。場所から見るとここだが、写真のクルギ(クヌギ?)・バショウは、よくわからなかった。

平成6年4月、長崎県立諫早農業高校東長崎分校を改編、西陵高校東長崎分校となった。敷地の北側に枯れた池や木立が残るが、大木は見当たらない。
大木がかえってあったのは、正門あたりと中へ入って左側の植栽地である。樹木札をつけていて、「スイリュウヒバ(イトヒバ)」と「コイヤ」(メタセコイア?)の大木が目立った。

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(ヘ)でクルギ・バショウを記している。同写真説明は次のとおり。
分校のクルギ(幹周り2.61m)、バショウ(12本)。

(ホ)清藤のセンダン  長崎市東町

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(ホ)清藤のセンダン  長崎市東町

国道34号線が矢上を過ぎて、長崎木材市場前の交差点から右折する。八郎橋を渡って業務ストア前から左の長崎街道の道へ入る。彩が丘団地の先の方の入口まで行き、まっすぐ進むのは明治道である。
「清藤のセンダン」は、この明治道の途中にある。街道の右道脇にセンダンの古木が2本あったが、1本は枯れて伐られていた。

2001年7月開催「第15回 ながさき巨樹・巨木を見る集い(東長崎地域)」の「東長崎巨樹マップ」に、(ホ)でセンダンを記している。同写真説明は次のとおり。
清藤のセンダンの木。昔長崎街道を行き来する人たちの休憩場所となったところである。

東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊、巨木・名木94頁の説明は次のとおり。
◇センダンの古木  清藤のセンダンの木

国道34号線、滝の観音入口から分かれ、細い道を東へ200m程行くと、旧長崎街道である。そこからさらに200m北上すると、右手に2本のセンダンの木が並んで立っている。ここはセンダン茶屋と言われ、昔長崎街道を行き来する人たちの休憩場所となったところである。
初夏には青葉が茂り、その枝先にはかれんな花をつけ、そして、樹木の下には格好の日陰を与え、旅人の疲れを癒す憩いの場として最適なところであった。
今ではこの通りは、車の往来が激しいところから、交通事故に遭わないように、黄色いボードでしっかり守られてたたずんでいる。