投稿者「misakimichi」のアーカイブ

山王岳環状列石  薩摩川内市祁答院町藺牟田

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山王岳環状列石  薩摩川内市祁答院町藺牟田

現地説明板は、次のとおり。藺牟田池一周道路の途中に入口案内板があった。

山王岳環状列石

山王岳山麓の斜面にあり、ひとかかえほどの大きさの自然石の根元を数個の小石で支え、さらにその周囲を環状に直径30〜40センチの自然石を並べて囲んだものである。
直径は1.4メートル〜2メートルくらいで、このような環状列石が上部に1基、中部に2基、下部に3基、計6基ある。
考古学上これを環状列石基あるいは支石基と呼んでいるが、年代や造立意趣は不明である。恐らく古代人の祭祀遺跡と思われる。
平成12年度設置  薩摩川内市 教育委員会

藺牟田池の泥炭形成植物群落  薩摩川内市祁答院町藺牟田

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藺牟田池の泥炭形成植物群落  薩摩川内市祁答院町藺牟田

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

藺牟田池の泥炭形成植物群落
【所在地】薩摩川内市祁答院町藺牟田 1994
【種 別】国指定天然記念物
【指定年月日】大正 10 年3月3日

藺牟田池は,飯盛山や愛宕岳などの外輪山に囲まれた火口湖である。湖面の標高は海抜295m で,池の直径約1 km,周囲約 3.3km のほぼ円形をしていて,深さは最も深い所で約 3.5m ほどである。
この池の西方と北方岸の一帯には低層湿原が発達しており,ジャヤナギやヨシ,マコモ,フトイ,アンペライなどの挺水植物が群生している。これらの植物は枯れると堆積し,炭化して泥炭層を形成する。さらにこの一部が湖底から離れて水面に浮かび上がったのが浮島で,大小無数(約 300)の浮島が各所に点在している。これらの浮島は渇水期には池の底に定着しているが,増水期になると湖面に浮かび,風によって移動する状態を観察することができる。またこれら浮島上には上記の他,サンカクイ,アシカキ,ススキ,ヤマアワ,コブナグサ,カリマタガヤ,ヒトモトススキ等の植物も観察できる。さらに近年,池
の周囲に北アメリカ原産のラクウショウ(ヌマスギ)が数本植栽され増殖している。この木は,水没しても呼吸できる呼吸根が発達している。
浮島は北方の寒冷な高層湿原では普通に見られるが,低層湿原では極めて珍しく,泥炭形成植物群落として天然記念物に指定され,保護されている。またこの池は,ベッコウトンボの生息保護地区としても貴重である。

蒲生のクス  姶良市蒲生町上久徳

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蒲生のクス  姶良市蒲生町上久徳

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。最後の写真は、神社本殿右前のカヤの大木。蒲生のクスは、本ブログ以前の記事も参照。
https://misakimichi.com/archives/2081

蒲生のクス
【所在地】姶良市蒲生町上久徳 2258 蒲生八幡神社
【種 別】国指定特別天然記念物
【指定年月日】昭和 27 年3月 29 日(国指定天然記念物 大正 11 年3月8日)

わが国にはクスノキの巨木が多く,国の天然記念物に指定されたものが 30 本もあり,そのうち3本は県内にある。蒲生町八幡神社境内のクスノキはその中でも最大で,根回り33.57m,目通り周囲 24.22m,高さ約 30m で,昭和 63(1988)年の環境庁(現環境省)の調査で日本最大の巨樹と認められた。また幹の基部は凹凸が多く,内部は直径 4.5m の空洞になっており,枝葉も繁茂して眺めは壮観である。
このクスノキの樹齢は不明であるが,保安4(1123)年蒲生舜清が居を蒲生に定め,同年2月 21 日,この地に八幡神社を建立した当時,すでに神木として取り扱ったことが伝えられているので,少なくとも千数百年を経たものと推定される。
近年,樹勢の衰えが目立ったため,樹木医による診断を受け,薬剤の注入や,根幹の踏みつけ防止等,各種の処置が施され,樹勢の維持・回復を図っている。

鹿児島市西佐多町の吉田貝化石層 鹿児島市西佐多町

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鹿児島市西佐多町の吉田貝化石層 鹿児島市西佐多町

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

鹿児島市西佐多町の吉田貝化石層
【所在地】鹿児島市西佐多町4281(指定地はこの一部)
【種 別】県指定天然記念物
【指定年月日】平成20年4月22日

吉田貝化石層は,琉球列島に分布する琉球層群(石灰岩)の分布最北部の地層である。
化石は,おもにフジツボの破片からなり,二枚貝,巻貝,サメの歯,カメの甲羅等が見つかっているが,このような化石構成種は珍しく,日本では他に報告されておらず学術上貴重である。

指定地場所がわかりにくいが、鹿児島市の北西部。県道20号と合流する県道40号桑之丸交差点のだいぶん手前、永盛温泉前バス停の橋のところから東側の谷間へ入る。
すぐ「ガイアテック吉田工場」が見える。ここが西佐多浦鉱山吉田貝化石の加工場である。化石層は工場敷地内で立ち入り禁止。操業中は見学できないだろう。駐車場内にそれらしき鉱物を展示していたので、写してきた。会社HPによると、次のとおり紹介していた。

ガイアテック吉田工場 貝化石工場

吉田工場アラゴナイト天然貝化石
鹿児島市西佐多町に広がる山稜の一隅に厚い火砕流堆積物に覆われた地層の下部に、昔から吉田貝層として知られた鉱物で約10万年〜40万年前の堆積鉱床です。当工場はこの貝化石を農業、水産業、畜産業、養鶏業の健全な経営にお役に立てねばならない思いこの度、生産、販売に着手致しました。

●貝化石事業部
■面積 約3ヘクタール
■生産量 5,000T/年
■生産品目 貝化石
アラゴマリーン(水産飼料)
アラゴマリーン(水質・底質改良材)
アラゴファーム(農業用肥料)
アラゴフィード(畜産飼料)
アラゴフィード(養鶏飼料)
■吉田工場 住所 鹿児島県鹿児島市西佐多町4364

明治35年建「鹿児島県里程元標」  鹿児島市東千石町

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明治35年建「鹿児島県里程元標」  鹿児島市東千石町

この標石は、中央公園(元鹿児島県庁跡)の東側、西本願寺別院角に残る。HP「かごしまデジタルミュージアム」による説明は、次のとおり。大正8年の道路法制定による「道路元標」とは違う。

資料名:県里程元標
分 類:文化財−史跡等
制作年:明治
地 域:鹿児島市東千石町
キーワード:明治三五年 基点 
解 説:(本情報は、「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」から掲載しています。下記のとおり)

県里程元標   所在地 東千石町西本願寺別院角
1902(明治35)年10月にたてられたもので、ここを起点にして県内各地へ至る距離がしるされています。

明治6年の太政官布告などによる建立の経過は、次ブログを参照。鹿児島市立美術館(元鹿児島市役所跡)角にも、里程標があるとのこと。 
http://blogs.yahoo.co.jp/naidraugopak/24106120.html
私が見たのは、後ろの写真どおり志布志市志布志町関屋口あたりの市街地。古江港(鹿屋港)や宮崎県境までの距離を示す里程標があった。場所はもう思い出せない。

世界で初めて精子が発見されたソテツ  鹿児島市城山町

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世界で初めて精子が発見されたソテツ  鹿児島市城山町

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。後ろの写真は、手前の鹿児島県立博物館正門脇の屋外展示化石など。
なお、鹿児島県立博物館考古資料館の石造建築も、国登録有形文化財である。

世界で初めて精子が発見されたソテツ
【所在地】鹿児島市城山町1-1
【種 別】県指定天然記念物
【指定年月日】平成20年4月22日

植物細胞学者,遺伝学者の池野成一郎は,ソテツの受精した胚珠を観察して精子を発見した。これは世界で初めてソテツの雄の生殖細胞が精子であることを発見した偉業である。
このとき,池野に観察材料となる胚珠を提供したソテツが,現在,鹿児島県立博物館の旧考古資料館前に植栽されているソテツ群である。

鹿児島県立博物館考古資料館
【所在地】鹿児島市城山町 1− 1
【種 別】登録有形文化財
【登録年月日】平成 10 年 12 月 11 日

明治 16(1883)年,県の興業館として建設され鹿児島の産業振興に大きな役割を果たした。その後市役所,県立博物館,県立博物館考古資料館として使われてきた。現存する鹿児島の石造建築としては,尚古集成館(重要文化財)についで2番目に古い。
石造アーチ橋の文化圏にある鹿児島ならではの石造建築で,左右対称を重視し,両側端に入口を設け,洋風を基調としながら,随所に和風モチーフの細部,それにインドのスツーパ風の高欄の擬宝珠を混在させた特異な建造物として知られる。

城 山  鹿児島市城山町

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城 山  鹿児島市城山町

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。写真は麓から照国神社、鶴丸城跡、西郷隆盛洞窟、山頂付近のクスの大木、城山展望台からの眺望。

城 山
【所在地】鹿児島市城山町
【種 別】国指定史跡・国指定天然記念物
【指定年月日】昭和6年6月3日

鹿児島市の中央部で甲突川河口左岸の吉野台地の突端部,シラス丘陵である城山丘陵の先端で,標高約 100m を最高地点とする。南北朝時代(14 世紀)の天平7(1352)年に上山氏が豊後国緒方(現在の大分市付近)から鹿児島に入り,居城として上山城を築城した。当時のものと推定される土塁は,現在も山頂の北西部に残っている。
中世末(16 世紀)に戦国島津氏は上山城の地を使用し,近世初頭(17 世紀)に,島津家久がこの城に加え東麓に居館鹿児島城を築いた。同城は鶴丸城と呼ばれるようになった。後に居館のみが鶴丸城と呼ばれたが,当山地部分も城付の山として立ち入りを禁じられていたため,自然林をよく残すこととなった。明治維新後,鶴丸城は焼失した。
明治 10(1877)年の西南戦争では,西郷軍が当山地にたてこもり,最後の激戦地となったために自然林荒廃がかなりすすんだ。さらに第二次世界大戦の空襲によって主要樹木であるクスの大木が枯死し,林相が変化した。戦後,背後には城山団地が造成され,山頂にホテルが建設されるなど開発がすすんだが,今も自然林の姿を東側に残している。
城山は城跡,古戦場等の遺跡として同じく昭和6(1931)年に史跡に指定された。また,日本南岸の常緑照葉樹林の姿を残しているとして,森林植物相が天然記念物に指定されている。シイ,クスを主要樹とし,バリバリノキ,タブ,ツバキ,モチノキ,アカガシ,イチイガシ,ホルトなどの常緑広葉樹が多く見られる。これらの樹木以外にもシロヤマシダ,シロヤマゼンマイなど特色のあるシダ類も多く,植物の種類は数百種類にも及んでいる。

祇園之洲砲台跡  鹿児島市清水町 祇園之洲公園

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祇園之洲砲台跡  鹿児島市清水町 祇園之洲公園

HP「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域/関連資産」による説明は、次のとおり。石橋記念公園や西南の役官軍戦没者慰霊塔と一体化されている。

祇園之洲砲台跡  鹿児島県鹿児島市   市指定史跡

薩英戦争の記憶をとどめる石垣や砲台跡。

19世紀、薩摩藩や琉球へイギリス、フランスなどの西欧列強の艦船が相次いで来航しました。このような時代の流れの中で、薩摩藩の海防対策は一気に高まりを見せていきました。
祇園之洲一帯は、島津斉興(しまづなりおき)のもとで藩政改革を進めた調所広郷(ずしょひろさと)が稲荷川の浚渫(しゅんせつ)を行って埋め立て、兵士の屯集所にしたといわれています。その後、海防の必要性を感じていた島津斉彬(しまづなりあきら)は、1852(嘉永5)年に沿岸各地の砲台を改造させ、1853年に祇園之洲台場を完成させています。
ここに設置された大砲は、集成館の溶鉱炉で鉄鉱石や海砂鉄を溶かして銑鉄(せんてつ)を造り、その銑鉄を反射炉で再溶解して砲身を鋳造し、それを鑚開台で削って砲口を開けたものでした。日本の近代化の基礎を築いた工業コンビナートである集成館で造られた大砲が、鹿児島の防衛態勢の整備に使われていたのです。

1863(文久3)年6月27日イギリス艦隊7隻が鹿児島湾に入り、七ツ島付近に投錨しました。前年の生麦事件による賠償金を薩摩藩に求めるためです。「薩藩海軍史」によれば、この時、祇園之洲台場には6門の砲が配備されていました。7月2日、薩摩藩とイギリス艦隊との間で砲撃戦が繰り広げられました。薩摩藩の台場はほとんどがイギリス艦隊のアームストロング砲の洗礼を受け苦戦し、斉彬が築いた集成館も炎上しましたが、イギリス艦隊の旗艦にある程度の損傷を与える等の戦果も挙げました。
この戦争で、西欧の軍事力、技術力の凄まじさを見せつけられた薩摩藩の人々は、集成館事業を推進しようとした島津斉彬の考えをようやく理解し、イギリスの文化、科学技術を学ぼうという機運が高まりました。これと並行して集成館の復興も進められました。薩英戦争を契機に、薩摩藩が日本の近代化の牽引役になったのです。

砲台の石垣、護岸の石垣ともに、面もきれいに揃い、目地もきっちりとしています。薩英戦争当時のものが良好に残っています。
祇園之洲砲台跡は、1974(昭和49)年3月15日、鹿児島市指定史跡として指定されています。
薩英戦争で、祇園之洲砲台は破壊されましたが、その後、修復整備がなされたようです。1877(明治10)年に官軍墓地へ転換され、1955(昭和30)年に墓地改葬を行い公園となりました。

鹿児島県のアーチ式石橋 高麗橋  鹿児島市浜町 石橋記念公園内

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鹿児島県のアーチ式石橋 高麗橋  鹿児島市浜町 石橋記念公園内

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。

№266  高麗橋

鹿児島市清水町 石橋記念公園内
(移設後の現況)
橋長:54.95m  橋幅:5.4m  径間:11.15m×2、12.45m×2  拱矢:4.09m、4.82m
架設:オリジナルは弘化4年(1847)
平成11年3月、現地に移設
石工:岩永三五郎

鹿児島県のアーチ式石橋 玉江橋  鹿児島市浜町 石橋記念公園内

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鹿児島県のアーチ式石橋 玉江橋  鹿児島市浜町 石橋記念公園内

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。

№265  玉江橋

鹿児島市清水町  石橋記念公園内
(移設後の現況)
橋長:50.74m  橋幅:4.0m  径間:10.2m、11.55m×2、10.29m  拱矢:3.12m、3.87m、3.94m、3.02m
架設:オリジナルは嘉永2年(1849)
平成11年3月、現地に移設
石工:岩永三五郎

玉江橋
「鹿児島市の中心を流れる甲突川の五石橋(武之橋、高麗橋、西田橋、新上橋、玉江橋)は、薩摩藩家老・調所広郷の財政改革(天保年間)の成功により、城下整備の一環として、肥後(熊本県)から招かれた石工・岩永三五郎によって架橋されました。
しかし、平成5年8月6日の集中豪雨による洪水で武之橋と新上橋は流失しました。残った3橋は河川改修計画に合わせて、祇園之洲地区に一体的に移設復元し、末長く保存し活用することになりました。
玉江橋は五石橋の中では一番上流にあり、最後につくられた4連アーチの石橋でした。城下町郊外で通行量も少ないためか橋幅も一番せまく、また他の石橋に比べると建設費も各段に少なく、造りもやや粗末なことなどから実用橋として利用されていたと考えられます。
玉江橋は他の石橋と違い、調査の結果、比較的近年(昭和30年代後半)に至るまで創建時(1849年)の形状を留めていたと考えられます。壁石、水切り石、護床敷石等の補修は、ほとんどが昭和30年代後半に集中しています。
復元に当たりこれらの改修跡、変状跡については写真や周辺部分、類似部分から推定して創建時の姿に復元しました。」