祇園之洲砲台跡  鹿児島市清水町 祇園之洲公園

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祇園之洲砲台跡  鹿児島市清水町 祇園之洲公園

HP「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域/関連資産」による説明は、次のとおり。石橋記念公園や西南の役官軍戦没者慰霊塔と一体化されている。

祇園之洲砲台跡  鹿児島県鹿児島市   市指定史跡

薩英戦争の記憶をとどめる石垣や砲台跡。

19世紀、薩摩藩や琉球へイギリス、フランスなどの西欧列強の艦船が相次いで来航しました。このような時代の流れの中で、薩摩藩の海防対策は一気に高まりを見せていきました。
祇園之洲一帯は、島津斉興(しまづなりおき)のもとで藩政改革を進めた調所広郷(ずしょひろさと)が稲荷川の浚渫(しゅんせつ)を行って埋め立て、兵士の屯集所にしたといわれています。その後、海防の必要性を感じていた島津斉彬(しまづなりあきら)は、1852(嘉永5)年に沿岸各地の砲台を改造させ、1853年に祇園之洲台場を完成させています。
ここに設置された大砲は、集成館の溶鉱炉で鉄鉱石や海砂鉄を溶かして銑鉄(せんてつ)を造り、その銑鉄を反射炉で再溶解して砲身を鋳造し、それを鑚開台で削って砲口を開けたものでした。日本の近代化の基礎を築いた工業コンビナートである集成館で造られた大砲が、鹿児島の防衛態勢の整備に使われていたのです。

1863(文久3)年6月27日イギリス艦隊7隻が鹿児島湾に入り、七ツ島付近に投錨しました。前年の生麦事件による賠償金を薩摩藩に求めるためです。「薩藩海軍史」によれば、この時、祇園之洲台場には6門の砲が配備されていました。7月2日、薩摩藩とイギリス艦隊との間で砲撃戦が繰り広げられました。薩摩藩の台場はほとんどがイギリス艦隊のアームストロング砲の洗礼を受け苦戦し、斉彬が築いた集成館も炎上しましたが、イギリス艦隊の旗艦にある程度の損傷を与える等の戦果も挙げました。
この戦争で、西欧の軍事力、技術力の凄まじさを見せつけられた薩摩藩の人々は、集成館事業を推進しようとした島津斉彬の考えをようやく理解し、イギリスの文化、科学技術を学ぼうという機運が高まりました。これと並行して集成館の復興も進められました。薩英戦争を契機に、薩摩藩が日本の近代化の牽引役になったのです。

砲台の石垣、護岸の石垣ともに、面もきれいに揃い、目地もきっちりとしています。薩英戦争当時のものが良好に残っています。
祇園之洲砲台跡は、1974(昭和49)年3月15日、鹿児島市指定史跡として指定されています。
薩英戦争で、祇園之洲砲台は破壊されましたが、その後、修復整備がなされたようです。1877(明治10)年に官軍墓地へ転換され、1955(昭和30)年に墓地改葬を行い公園となりました。