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昔の三和町「陸上の交通」  三和町郷土誌から

昔の三和町「陸上の交通」  三和町郷土誌から

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊455〜459頁の記述は次のとおり。

第一章 交通・運輸  第一節 交  通
二 陸上の交通
大正七年(1918)の『蚊焼村郷土誌』に「本村ハ各種ノ産業、盛ナラズ、殊二、山岳多キ故、陸上ノ交通便ナラズ・・。国県道ノ通ズルナク、里道モ一般ニ不完全ナリ」とあり、
『為石村郷土誌』には「道路ノ主要ナルモノハ、(1)蚊焼道、(2)長崎街道(布巻、平山ノ旧道ヲ通ジテ県道ニ接続)、(3)深堀道、(4)川原—野母脇岬街道、(五)茂木街道トス、何レモ原始時代ニ属シ、茂木街道甚ダシ。村内亦頗ル、不完全ナリ。従ツテ貨客ノ通運不便ヲ極メ貨物ハ牛背ニアラズンバ人頭ニ依ル。」とある。また『川原村郷土誌』には、「本村ハ野母半島ノ裏辺隅ニアリ道路険悪ニシテ車馬通ゼズ、且ツ船舶ノ碇泊スルニ不便ナルヲ以テ、発達セズ。里道ハ為石、高浜、脇岬トノ三方ニ通ズレドモ人馬ノ交通ハ為石方面ノミニシテ他ハ稀ナリ。」と記されており、三村共、長崎への新道開通を念願していたようである。大正三年四月には、大川橋(工費百九拾円)を、完成させ、また大正六年五月までに蚊焼道に三つの橋(工費約百七拾円)を架橋している。何れも、大部分は寄附金を仰いで築造されている。これらはまさしくそれの現れであろう。古人は、皆、自らの手で、この不便さを解消するために努力されたのである。
昔の街道を『橘湾の漁労習俗』(五八・三)には次のように書いている。
(一)川 原 道
年崎のホリ首の丘を通り、川原本郷にでる。えべす坂を越え、モウタレ川(宮崎川)三間ま(?)申の石橋を渡り、宮崎に入る約三・五キロの道をいう。
(ニ)蚊 焼 道
岩崎から三和中学校前の川渕を通り、とんどんの坂を越え、布巻と蚊焼の分かれ道(兵隊の分かれ道という)を通り、ここに祠がある。栄上のま下で大川を渡り(渡し石がある)、中央公民館の下の道を通り、相撲墓の坂を下り、蚊焼の町に入る約四キロの道。
大正の初年、大久保さんのシビ網にかかった一〇〇斤(六〇瓩)のカジキを二人で組んで、女たちが頭上で運搬した。為石の浜から、蚊焼の船着き場まではこび、朝四時から五時ごろの船に積みこんで長崎に送った。日傭賃は一人五〇銭だった。大工が一・二円の日当の時代のことである。
この道は、日用品を牛にウセて為石に運ぶ道で、大切な生活路線であった。
(三)布 巻 道
兵隊の分かれ道から右手の山道に入る。ここから布巻を経て長崎まで約四里(一六キロ)の道程であった。日がえりが出来た。大正の初め野母商船がかようようになるまで、長崎へ行く主要な道であった。
兵隊の分かれ道というのは、この辺まで入営兵を見送っていたところであろう。
(四)藤田尾(とうだお)道
六軒から浜川を渡り、郷方の山の中の山道を越えていく。
(五)干々(ちぢ)道
六軒を通り、干々木場の上に出て干々に下る山道と、布巻から寺岳の麓、二軒家の境を越え、づづやの滝に出て、その辺から干々に下る道とふたつあった。
(六)深 堀 道
蚊焼から大籠に出て深堀に下る道をとおれば約一里(四キロ)。布巻、平山、竿浦をとおり、深堀に出る道は約一里半(六キロ)といっていた。
全住民の念願叶って、長崎への県道(現在の主要地方道、長崎野母港線)が完成したのは昭和七年(1932)である。昭和九年、戸町—為石間にバスの運行が始まった。初めのころは戸町発着で、その先は電鉄の汽船を利用していたが、このバスも、まもなく長崎まで行くようになった。
バスの便数が増え、トラック輸送が盛んに成り、三つの村は急変し、その文化、社会の発展に絶大なる影響を与えた。こうして、長崎半島の幹線道路が開通し、終戦後の復興と、相俟って、昭和二十六年ごろより貨物トラック、三輪車が、町内にも導入され、荷車、リヤカー、牛馬車などが急激に増え始めるにつれて、道路の利便性、必要性を痛感した住民は、道作りに専念するようになっていった。(略)

※なお、本郷土誌巻末1340頁「郷土誌発刊に当たって」の中に、次の記述があり書き留める。
「長崎半島の尾根沿いに蚊焼から川原へと旧街道(殿さん道)を歩くと、ビックーさんのお墓やみさき道の道標をみることができますが、かって脇岬の観音詣での人々や、検地等で行き来した代官等の様子がしのばれます。」

(注) 明治・大正・昭和前期までの三和町の海上、陸上の交通状況がよくわかる。惜しまれるのは、江戸期の「みさき道」の記述がないことである。そういった記録はないのだろうか。
『川原村郷土誌』にある「高浜」「脇岬」へ通じる道も、推定するだけである。

なお、ここでふれている引用資料「橘湾の漁労習俗」の本は、香焼地区公民館にあった。借り出しがなくすでにお蔵入りしていて、3階の倉庫から探してもらうのに手をわずらわせた。
これは昭和58年3月長崎県教育委員会発行の「長崎県文化財調査報告書第63集」である。文化庁の指導と補助を受け、長崎県における内湾水域の一つである橘湾沿岸の漁村に残存する漁労習俗に関して、記録・保存を図るため調査は実施された。海女(海士)・大村湾につぐ第3回目であった。
諸条件を考慮し、県内4地点が調査対象地域となり、池下など他の3地点とともに「為石・川原・宮崎」地域が選ばれた。第1章民俗環境の「交通」の項で道路が出てくる。地元の故老を話者とし集め、聞きとり調査を中心に、観察と文書調査等をあわせて行った。「為石・川原・宮崎」地域の調査結果は、三和町郷土誌458頁「陸上の交通」にあるとおり、それ以上の道の記述はなかった。

昔の三和町「海上の交通」  三和町郷土誌から

昔の三和町「海上の交通」  三和町郷土誌から

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊455〜459頁の記述は次のとおり。

第一章 交通・運輸  第一節 交  通
一 海上の交通
明治、大正時代までの、三和町の交通は、海上が主であった。長崎港を中心に栄えた長崎市街地との交通を望み、三村共、急傾斜地の多い長崎半島にあって、海辺近くの僅かな平坦地に集落があり、鉄道は無く、道路も里道しかなく、険わしく、遠いとあれば当然である。
長崎港外湾部に位置する蚊焼村は、その地理的条件からか、海上の交通が早く発達し、明治三十年ごろから、蒸気船、帆船が、行き来し、かなり、便利であったようである。三山汽船野母航路の寄港地になっており毎日四往復あり、長崎まで一時間、(帆船では二時間半)で行けた。
野母航路の寄港地は、長崎(大波止)から小ヶ倉、土井ノ首、深堀、香焼、蚊焼、高浜(野々串)、野母であった。蚊焼の場合は、防波堤(現在の西防波堤、明治四十五年に一部築造)が出来た後も、桟橋がなかったため、艀(はしけ)が使われた。艀の発着地は村中の浜で、しけの時は防波堤から出された。また、この汽船も、しけが強くなると香焼どまりとなり、深堀・蚊焼間は、陸路を歩いた。季節風(北西)が吹くころには欠航が多かった。
渡海船は、長崎行きと高島行きが毎日一往復した。前者を「ナガサキガヱー」、後者を「タカシマガヱー」といい、大切な物資の運搬船であった。行きは、農産物が主で、帰りは、長崎行きの場合は、商店に届ける生活用品が運ばれた。この渡海船は村の許可で行われ、営業者は入札で決めた。長崎行きの渡海船は終戦後中止されたが、高島行きの渡海船は現在に至るまで続いている。この渡海船が、動力船になったのは、昭和の初期で、それまでは、風力や人力にたよっていた。便乗の人達も櫓を槽ぐ習わしであり、農作物を販売に行く主婦達も、交代で手伝った。なお、高島・端島(軍艦島)・安保・長浜(香焼)などの炭坑や、工場に行く日雇人夫を運ぶ運搬船も出された。これは「ブカタ舟」といい、午前六時出航し、帰港するのは午後六時ごろであった。
為石村は、現在の役場前から三和中学校を経て、とんとん道の里道を通り蚊焼に出て、前記のような船舶を利用しての、長崎との交易が主であった。他に、五島の富江、女島、天草の富岡、野母の脇岬、樺島との交易もあったが、随時漁船、薪船などが出入りする外は、寂漠としていた。農作物などの出荷に、必要に応じ臨時雇船を利用していた時期もあった。また漁獲物は直接出漁先の五島の富江、天草の富岡などに売さばいていた。川原村も里道を利用し、為石を通り蚊焼に出ての船舶の利用が主であった。外は農産物を樺島、長崎方面に出す為、臨時船を仕立てて運搬していたが、これも稀であり、長崎方面には野母崎回りすることもあった。
昭和九年(1934)に戸町—為石間にバスが通うようになって、海上の交通は、衰えていった。

大村湾の風景(2)  喜々津から伊木力・長与へと行く

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大村湾の風景(2)  喜々津から伊木力・長与へと行く

平成19年9月27日と28日、喜々津から伊木力・長与へと行く。県道207号線沿いの大村湾の風景。のぞみ公園・虚空蔵山・高岩神社・堂崎の鼻・湧井崎公園などから写した。

長崎街道久山茶屋跡の井戸は、竜馬の井戸か?

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長崎街道久山茶屋跡の井戸は、竜馬の井戸か?

ブログ”長崎風来紀行”は、あくまで私が素人目で感じた歴史のおもしろい話題の寄せ集めに過ぎず、別段深い史実の考察をするものでない。この井戸の話も、地元はそうなってほしいかも知れないが、はたしてどうだったか考えさせる指摘があり、紹介してみたい。
松尾卓次著「長崎街道を行く」葦書房1999年刊、30〜31頁の説明は次のとおり。

竜馬の井戸?
井樋尾峠を下ったら久山茶屋跡に出た。途中の道はダム築造ですっかり変わってしまった。茶屋跡には大きな石組みの井戸が残っている。旅人はこの井戸でのどを潤して、元気をつけて歩き通したのか。これだけが当時を語る証人だ。
なんとこの井戸を「竜馬の井戸」という人がいる。坂本竜馬が長崎へ行ったとき、ここで一服したという。これは間違いであろう。竜馬は、この峠道を通ってはいない。
確かに長崎街道を竜馬は行った。元治元(一八六四)年二月二三日と四月四日に往復している。勝海舟が欧米列強の下関砲撃を慰留するために、長崎へ遣わされたときのことである。師として仰ぐ海舟のお供として同行した。
『勝海舟日記』などによって、竜馬たちの足取りを探ろう。
一行は二月一四日、海軍塾生の操艦訓練を兼ねて兵庫を出帆。翌日豊後・佐賀関に着岸し、豊後街道を熊本へ向かう。二〇日に熊本・新町の本陣に止宿。二一日夜、有明海を渡海して翌朝早く島原湊に上陸、城下本陣で一休みして長崎へ急いだ。
「熔岩様交りの悪路を通る」と、日記に書かれているので、島原街道の抜け道である温泉岳の北山麓をつき切る千々石道を通行している。この道は、海沿いの街道にくらべると二里程短く、島原藩主の長崎監視時によく利用されていた。その夜は愛津村庄屋宅に宿泊している。
この年、勝四二歳、竜馬三〇歳と意気盛んな年齢であった。二三日島原領を抜け、諌早領有喜村、田結村を通って矢上宿へ出、長崎街道を行く。長崎へ着いたら、すぐに奉行役宅に出向いている。
愛津村から諌早を通ると大回りになって、急ぎ駆け付けねばならぬ旅であるから、久山茶屋を通過したことはあるまい。また長崎到着は案外早い時刻であったろう。
なお帰路は四月四日に長崎出立。往路と同じ道をたどったと見え、五日島原宿まり、一一日に佐賀関を出帆。翌日には大阪に着いている。
このように島原街道は、長崎街道の脇街道としての役割を果たして、長崎への往復に多くの旅人が利用していた。

琴の尾岳のもう1つの烽火台跡  山頂北側山腹

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琴の尾岳のもう1つの烽火台跡  山頂北側山腹

諌早市多良見町と西彼杵郡長与町の境にある琴の尾岳は、標高451.4m。四方の眺望よく大村湾と長崎空港を眼下に望み、公園として整備されている。山頂の展望台には琴尾神社があり、鎖国時代、長崎烽火山から烽火の知らせを受ける重要な中継地点となり、烽火台跡がある。その跡は無線中継所下の駐車場側にあり(別項ですでに紹介している)、一般の人にはここしか知られていない。

しかし、琴の尾岳にはあと1つ、別の場所に同じような烽火台跡があった。別項の引用文末尾にあったが、多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊の「二、琴ノ尾岳狼煙台跡」の項195頁の記しているのは次のとおりである。

狼煙場跡は、この地から約一キロメートル北側にも一基ある。これは『郷村記』には記されていない。位置にしても「長崎狼火山の狼煙」と直接には、「請継」ぐことはできないところにある。どのような意味をもち、働きをするものか容易には断定できない。本来の「狼煙場」がなんらかの事故により狼煙を上げえなかった時、その補助的意味をもつものであろうか、という見方もある。

この一基はどこにあり、どんなものか、私も知らなかったから、さっそく行ってみた。現地は多良見町佐瀬。琴の尾岳の北側山腹となり、車で行く以外はわかりにくいところにある。伊木力から長与へ至る県道207号線で五十石公民館まで行く。この先に入口案内標識があり、標識に従い10分ほど勢女集落を過ぎ林道をひたすら登る。畑地の奥にやっと烽火台跡が見える。
写真のとおりの見事な烽火台跡である。郷土誌が記す疑問がよくわかる。不思議な烽火台跡であった。
場所は、別項の琴尾神社一の鳥居(勢女道)があったとされる近くであるので、その地図を見てもらいたい。道路マップにも表示されている本がある。

琴尾神社の一の鳥居はどこにあるか

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琴尾神社の一の鳥居はどこにあるか

諌早市多良見町と西彼杵郡長与町の境にある琴の尾岳は、標高451.4m。山頂に琴尾神社が祀られている。多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊785頁の説明は次のとおり。

1.琴尾神社一の鳥居
明治三十一年四月、村長川津藤十の時に建てた。往時の琴尾神社参道をまたいでいる。

2.琴尾神社一の鳥居(勢女道)
当時の参道は廃道となり、雑木林の中にある。額は琴尾神社、昭和三十二年、五十石中とある。もとはもっと下方にあったが、台風で倒壊、側の石垣にはめこまれている。

3.琴尾神社
祠の前に二の鳥居。祠の中に厨子二基がある。右は大きく、光背をそなえた普賢菩薩を安置する。左の厨子は小さく中に「琴尾大神」を納める。明治廾□年九月吉日の奉造である。祠の脇に「伊木力村中 佐瀬村中 乙夘三月吉日建立」の小さな碑がある。乙夘は寛政七年である。この年正月廾三日「普賢菩薩の御神体と祠を建立したい」と願い出たことが、前出稲毛文書に書かれている。鳥居の傍に「寛政八年丙辰八月吉日 佐瀬村 崎邊田 大浦 氏子中」の他五名の氏名を刻んだ石柱がある。何を寄進したのか不明。辺りは公園として整備され、眺望もすばらしい。

山頂にある鳥居は、二の鳥居である。長崎から行くと一の鳥居はお目にかからず、どこにあるのか、地図を見て探しに行ってみた。1に記した一の鳥居は、松ノ頭トンネル入口から「琴の尾公園」の標識に従い、車で登ると山頂との中間くらいに琴ノ尾集落があり、琴ノ尾公民館がある。大きくカーブしている地点で、この下の作業所下の農道を少し下ると三叉路に鳥居があった。ここが伊木力からの往時の参詣道である。

問題は、伊木力の先、佐瀬の勢女(せめ)集落というところから上がった参詣道である。今は廃道となったが、かつてこの勢女道にも2に記すとおり、五十石中が奉造した一の鳥居があった。台風で倒壊して石垣にされているが、それを探しに行ってみた。
地図から見ると、佐瀬は五十石バス停先から入る。琴の尾岳のもう一つの烽火台跡に行く道で、案内標識に従って登った。佐瀬勢女集落の一番上の家とその上の高台の墓地の間あたりにあったようだと、地元から話を聞いたが、探してもまだわからずにいる。

「多良見町郷土誌」平成7年刊のこの調査は、中里名にお住まいの田中秀穂先生の稿である。掲載写真では鳥居が完全に建っていて、記されていることと写真が違うので、先生の自宅をお訪ねし聞いてみた。先生が言うには、勢女ないし佐瀬道には鳥居が2つあった。台風で壊れたのと、その先の山頂への道をたどって行ったら、雑木林の中に完全に立っていた鳥居があり、自分もびっくりしてこの写真を撮って、郷土誌に載せたとおっしゃる。年月が経ち、場所をよく聞いてもはっきりしない。

高齢となられ同行は願えず、先生の話の聞き違いと思われず、今3度通ってこの辺りを探している。地元の人の話もはっきりしない。まことに不思議な佐瀬一の鳥居の話である。できれば地元でよく調査をし、記録してもらえればと思う。私は地図12「琴の尾」を見ると、まったく別の場所を探しているように感じる。

多良見町西園の「十六善神社」と元釜虚空蔵さんの「浮」の額片

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多良見町西園の「十六善神社」と元釜虚空蔵さんの「浮」の額片

旧喜々津村と大草村の境、立石峠に残る「十六善神道」の標石(別項)から「十六善神社」を調べねばならないこととなった。立石峠が十六善神に参詣する多くの人たちが通った道だったからである。
多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊710〜711頁は次のとおり「十六善神社」を記している。現在の所在地は、多良見町西園にあり、東西園公民館の上に神社はある。

十六善神社 由緒及び沿革
この神社は、もとは元釜名字浮津にあって、浮津大明神(神社)といった。浮津は琴海中学校の校門前一帯の地名で、むかしの海岸である。
延宝三年(一六七五)のこと、疱瘡(天然痘)が流行したとき、神のお告げにより現在地に遷して祀ったところ、疱瘡の流行が止んだという。専務神官をおいたのは寛文十六年(一六六一)というから、浮津宮時代からの神官ということになる。以来一二代に亘って高以良氏が奉仕されたが、現在は神官不在である。
寛永六年に描かれた絵図・大草村図には、十六善神社と浮津大明神も記載されているところを見ると、浮津宮を全て遷したのではなく、浮津宮から十六善神のみ分けて遷したものと考えられる。
ともあれ、十六善神は疱瘡の神様としてひろく崇敬され、遠来の参詣者もあったらしく、立石峠には「十六善神道 木下又平」の道標が建っている。諌早家においても、その年中行事暦「神社祭礼と仕来り」に「九月十七日 大草村十六善神社祭 御代参」と書き留めて、毎年代参を遣わし、米一二俵が供進されたのであった。
天保十四年、藩主鍋島家の若君勇太郎が疱瘡にかかった時は、喜々津村の村役も十六善神社(惣百姓は氏神社)に参詣するようお達しがあっている。
一の鳥居は安永五年(一七七六)の建立で、高井良□□、その他数行の氏名が刻んである。馬場には泉水があって石の太鼓橋が架かっている。寛政元年(一七八九)に寄進されたものである。泉水もこの時造られたものであろう。二の鳥居右柱には、當村領主、三村□□□門と刻まれている。…

伊木力にあった神社を神のお告げにより、古くから大草に移転したので疱瘡の流行が止んだと記している。もともとの神社の地がどこだったか。これは同じくあった浮津宮の鳥居の額片が、琴海中学校あたりの畑から出土したので、場所がわかった。
この貴重な額片は、現在、高岩神社と谷を隔てたもう一方の高台の山中にある元釜虚空蔵さん仏石座の真ん中に据えられてある。同「多良見町郷土誌」774頁の説明は次のとおり。
2.虚空蔵(こくんぞ)さん 自然石に菩薩像を浮き彫りしてあり、神々しい趣がある。中央の鳥居の額片は浮津神社の跡地から出土したもので「浮」の字がよめる。

立石峠の「立石」と「十六善神道」の標石  多良見町喜々津・大草境

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立石峠の「立石」と「十六善神道」の標石  多良見町喜々津・大草境

別項の『多良見町で見る「立石」と「石仏」』において、④「立石峠」は次のように紹介していた。

最後の④は、まだ現地に行ってないので写真はない。②にも記している多良見町木床・東園境の立石峠にある。同「多良見町郷土誌」757頁に次のとおり記している。
3.立石峠 旧喜々津村・大草村の村境の峠。傍らに大きな石が立ててある。道端に「十六善神道 木下又平」の標石がある。ここは喜々津・大草を結ぶ道筋であり十六善神へ参詣する人が通った道であった。
郷土誌には大きな石の写真はない。道端の標石はある。ここは東園の小字「上西ノ浦」か、すぐ下に「立石ノ下」なる小字がある。

この「立石峠」の名の由来になった「立石」とは、はたしてどんな石だろうか。「多良見町郷土誌」に写真はなく、実際に峠の現地を探してみた。地図では赤点の位置である。林道が大きく尾根を曲るところで、目印は角の多良見町防災無線中継局。のぞみ公園の県道先から入れるし、西川内から虚空蔵公園へ上らず林道をずっとたどっても行ける。

中継局の反対、林道上手の山中の尾根筋を探すとすぐ見つかる。ここが「立石峠」で昔の旧道跡が三叉路に残る。石を立てているのでなく、大岩が立っている。自然のものとも考えられる立石である。苔むして高さ1.9m、横1.2m位。上への道は虚空蔵山の方へ上り、当時の諌江八十八所巡りの道とも考えられる。
「十六善神道 木下又平」は、道を隔てた小さな自然石に浅く彫られ、字は消えかかっている。高さ50cm、横23cm、巾20cmほど。立石峠は当時の集落を結ぶ重要な要路。十六善神の参詣路でもあったが、今、そのことと位置を知る人は、地元でもほとんどいなくなって、忘れられた存在となっている。

「十六善神神社」については、いろいろいきさつがあり、次項で紹介する。

多良見町にもあった2つの「龍宮(じゅうご)さん」祠

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多良見町にもあった2つの「龍宮(じゅうご)さん」祠

天草の漁民信仰「十五様」(じゅうごさん)祠は、長崎にも小浜富津弁天山公園と茂木赤崎鼻にあることを別項で紹介していたが、大村湾の奥部、多良見町にも同じ呼び方の「龍宮(じゅうご)さん」が2つあることが、最近わかった。

多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊新版の「三、野の仏たち」の中、地図1〔化屋・元釜・船津〕723〜724頁は、同町化屋の化屋公園近くに「龍宮(じゅうご)さん」があることを次のとおり記している。
6.龍宮(じゅうご)さん
堂に龍王ほか観世音など数体の尊像を安置する。堂の左側には立派な石塔がある。『塔施 弟 中』の四文字が読める。これら尊像も塔も、部落の丘の上にあった「大島庵」にあったものと、近所の老人は語っている。堂右脇の蛭子神は喜々津駅前の「シマヤ」の庭先にあったものを持って来たという。

また、地図5〔先木床〕758頁は、同町木床の白岩鼻近くの海岸部に「龍宮(じゅうご)さん」があることを次のとおり記している。
7.龍宮(じゅうご)さん 
龍宮さんは大島(うしま)にもあるので、行って話をしてみると、大島でも「ジュウゴサン」といっている。柱状節理の発達した安山岩の崖に抱かれるようにして、龍宮神の祠がある。龍宮神は海を鎮め、豊かな漁をもたらす<釣>の神であるが、ツリが攣(痙攣 けいれん)に転じて、子供のひきつけを封じる<攣神さん>ともされ、まっくろく焦がした大豆を供えて「この豆が芽を出すまでお守り下さい」と祈願したものだという。
ピャーロン開始に先だって関係者は必ず参詣する。干潮時には「のぞみ公園」から行ける。(潮の満ちていたため、祠はまだ未確認)

虚空蔵山系の飯盛山と歌舞多山頂にある「鑛福」の標石

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虚空蔵山系の飯盛山と歌舞多山頂にある「鑛福」の標石

京都市上西勝也氏は、測量標石から見た近代測量史の研究家。インターネットサイト「三角点の探訪」を作成されている。氏のもとに鹿児島の測量業の方から、同県内で「鑛福」と刻字のある標石が見つかったので素性を知りたい、と相談があった。
氏が調べると、戦前、九州全体の鉱山を統括する福岡鉱山監督署またはその関係によって設置された鉱区の境界を示す標石のようで、鹿児島だけではなく、長崎や他県にもあることがわかったそうである。
長崎県では、山歩きをする人のHPに虚空蔵山系の飯盛山と歌舞多山にこの標石があることが記録として出ており、現地へすぐに行けないので、私に調査依頼があった。

平成19年9月26日、車で調査に行く。東そのぎインターで降りて北を見ると、飯盛の形そっくりの山がすぐわかる。国道34号線嬉野へ下る俵坂峠手前から左の「広域基幹林道虚空蔵線」へ入る。5分ほど走ると飯盛山への尾根を越すところがあり、ここから植林地の尾根の踏み跡を伝うと15分で飯盛山の山頂へ着いた。四等三角点009 426。標高362.4m。
この傍らに53cm離れて「鑛福」の標石があった。15cm角、高さは低く、地面から14cm。赤茶けた色をしており花崗岩のよう。刻面は正面の「鑛福」と上面に方角を示した「+」のみ。「鑛福」は横書きで左から読めばそうだが、右からは「福鑛」と読め、これが正しいのでないだろうか。

虚空蔵山の奇岩鋒下を回り込み、波佐見に続く広域林道をさらに20分ほど行く。岩屋・木場の両登山口を過ぎ、木場林道分岐から石木ダム建設に揺れる川棚町木場の集落へ降りた。歌舞多山は、岩屋川と木場川に挟まれた山。集落の背後にそびえるコニーデ状の山で、山城跡である。
中木場バス停に車を置き、上に見える山頂を目指した。植林地の中は右手尾根沿いに道跡があり、谷間をつき上げると後は大石の岩場の稜線を頂上へ10分ほど急登した。歌舞多山は現行地形図に山名はないが、標高343.0mの山。中木場は150m位だから標高差200mほど登ったこととなる。山頂近くに境塚らしきものを10基ほど見、その写真を撮りながらであったから、約50分を要した。
植林の山頂は、歌舞多城跡の表示あり、四等三角点009 412がある。この傍らに74cm離れて「鑛福」の標石があった。飯盛山のとまったく同じもので苔むしていた。

帰りは虚空蔵山の方へ尾根が続き、道がはっきりしていたので辿ってみた。頂上直下はロープが長く張られた岩場の急斜面を降下する。ここにも木場へ下る道があるようだ。あとは雑木林の尾根道がたんたんと続き、頂上からは30分ほどして「木場へ」の標識あり、下ると林道となり、すぐ木場の水汲み場のところへ出た。この尾根縦走路は、平成15年県体コースで整備されているようで、広域林道の木場登山口に出て虚空蔵山へと続いている。
なお、後日虚空蔵山へ行った時、上木場の橋脇に「歌舞多城址登り口」の案内標石を見た(最後の写真)。この道から登るのがいいようだが、もう荒れているのではないか。

「彼杵鉄鉱山跡」と「歌舞多古城」の史料

山歩きの人のHPは、「鑛福」で検索すると標石の記録と写真が出てくる。これを参考に現地の標石を確認したわけであるが、帰ってから史料など少し当ってみた。
標石の設置史料はまだ見出しえないが、その背景となる史料類。まず「彼杵鉄鉱山跡」は、大村史談会「大村史談 第十二号」昭和52年3月発行に掲載されている。東彼杵教育委員会「東彼杵町史跡あんないー探訪のしおりー」中の113頁に以下のとおり説明がある。
虚空蔵火山が造り出した各種鉱石の鉱脈は、山系周辺の各地に見られた。明治以後、波佐見では大金山が採鉱された。嬉野温泉センターの泉源も石炭試掘の恩恵とのことである(波佐見史下巻)。また、川棚史談会松崎会長にお聞きすると、飯盛山の標石はご存じなく、歌舞多山のは見ている。山の持ち主標石と思っていた。他にある所は調べられてないということであった。

彼杵鉄鉱山跡
飯盛山のふもとに川内郷木場前からと飯盛側から何本かの坑道が掘られ鉄鉱山の跡が残っている。この鉄鉱山から産出する鉄鉱石は褐鉄鉱という黄褐色の鉱石で鉄の含有量は三〇〜四〇%の貧鉱であり、鉄の生産には余り適当とはいえない。この鉄鉱石がいつの頃発見され、利用され始めたかは不明である。大正の初期この鉱石を製鉄のためでなく顔料(ペンキなどの着色剤)の原料として採掘したことがあったが収益上らず廃鉱となった。
昭和に入り、戦争が激しくなると、重要鉱山として指定され、昭和十三年から三和工業所(本社・大阪 社長倉本徳一氏、鉱長野田寛治氏)の手で製鉄のための鉱石採掘が再開され一〇〇名ぐらいの人が就労し、鉱石は八幡製鉄所に送られた。採鉱は敗戦の時まで続いたが廃鉱となり現在は全く放置されている。

次は藤野保編「大村郷村記 第三巻」昭和57年刊、川棚村の項224頁の「歌舞多古城」の古記録。
一 歌舞多古城
東川棚村木場と云ふ所にあり、此城至て嶮岨にて、東北の方は鳥も翻りかたき難所也、西の方追手と見へ少しの平易あり、北の方山の八合目の所に樵夫の通ふ細き横道あり、此道より頂上まで五拾七間、手の裏を立たるか如し、天和の記曰、本丸東西壱町、南北拾弐間、石垣高四間、長拾五間、西の方にありと云、今は石垣の形ちのみ残れり、此所より小峰の城酉の七度に當る、二の丸南の方堅六間、横三間、石垣高三尺五寸、長九間、今は雑木山にて其跡分明ならす、水の手弐間程下にあり…