練習用」タグアーカイブ

小浜町山畑のヤマモモ  雲仙市小浜町山畑

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

小浜町山畑のヤマモモ  雲仙市小浜町山畑

雲仙市小浜町山畑のアーチ石橋「安平橋」を見に行って見かけた木。金浜から上がり諏訪の池へ行く県道30号線途中の北串山中・小学校の少し先から広い道に右折する。まだ先のエネオス給油所側からも行ける。福祉施設「かおり」があり、角を左折すると「下区集会所」と墓地がある。

車道を回り込むと石垣に囲まれた家があり、柳本宅である。入り口両側にかなり大きい2本のヤマモモの木が立つ。主人の話では、”マカゼ”と言っているが、ヤマモモの仲間。100年以上は経っているらしい。
雲仙グリーンロード「山畑大橋」の下流の方角となる。石橋「安平橋」はすぐ先である。

加津佐のエノキ  南島原市加津佐町己

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

加津佐のエノキ  南島原市加津佐町己

加津佐東小学校近くで見かけたエノキ。学校前の橋から河口を眺めると、左川端の住宅地の上にこの木が目立った。奥の家の庭に生えてるようだが、路地が複雑で門に鍵していた。勝手に入るわけにいかない。
周りを回って裏から眺めると、根元に地蔵堂のようなものがある。少し高いところに生えているから大きく見えるのだろう。根元へ行けず幹周りは確認できない。

加津佐を回って、岩戸山樹叢以外は巨木は見あたらなかった。このエノキと岩戸山入口に行く海岸べたのアコウが目についたくらいである。 

岩戸山樹叢  南島原市加津佐町己

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

岩戸山樹叢  南島原市加津佐町己

国道251号線で島原半島の西岸を回る。加津佐に入ると、野田浜海水浴場の先にこの山が見える。海に突き出た陸けい島。山自体が天然の展望台をなしている。山麓に巌吼寺がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

岩戸山樹叢  天然記念物(国指定)

指定年月日 昭和3年3月31日 所在地 南高来郡加津佐町字岩戸山 所有者 加津佐町
岩戸山は凝灰角礫岩からなる海抜100m余の小山である。その地形は,崩積土からなる山麓の傾斜地と母岩がほとんど露出した山頂の岩角地とから成る。
山麓の傾斜地には,タブノキやスダジイを主木とする照葉樹林がある。その樹高は12〜17m,高木の幹径は70cmに達する。イスノキ・ショウベンノキ・オガタマノキ・ヤマモモ・ヤブツバキなどの照葉樹を混じえ,林下にはアオノクマタケラン・ノシラン・ヤブラン・フウトウカズラ・オオイワヒトデなどの常緑草木が密生する。この林相は,島原半島南部の低地の照葉樹林の原形をよく残している。
山頂の岩角地にはクロマツが広く生育しているが,イワシデ・イワガサ・マツバウツギ・キハギが岩角地特有の群落を形成する。ほかにハカマカズラ・ノグルミもここに分布している。

さるいて健康ライフ   寄稿  H.YAMANAKA

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

さるいて健康ライフ   寄稿  H.YAMANAKA

一昨年「退職者の会会報」にみさき道人さんの江戸期のみさき道のこと、東樫山の藩境石塚、大久保山の天明藩境石塚の踏査が3回にわたり掲載されました。歴史のロマンを感じながら興味深く読ませてもらいました。
丁度この頃、公民館講座「町並みの史跡をさるく」が開講されました。この講座は申込者が多く、運よく抽選に当り受講することができました。講師の江越弘人先生(著書「長崎の歴史」などあり)は滑石村とキリシタンの話しから始まります。

さるくのスタートは滑石口道標です。20cm四方、高さ40cm程の石柱が半ば埋もれるように立っています。滑石公民館正門近くにあります。
左へ三重道、右へ時津道の道標です。ここに立てば私たちに何かを語りかけてくるような気がします。当時の行き交う人の話し声、足音、蹄の音、耳を傾け偲ぶ。これより時津方面へ向かえば打坂峠にさしかかる。

今は国道206号線が走り、時津街道最大の難所といわれたそれらしき箇所はなにも見当たらない。その当時の峠の所在は種々の説があるそうです。滑石村が大村藩であったことも、このとき知りました。
滑石の住人になって27年になる。己の無知、無関心に全くあきれるばかりである。滑石地区には30余に及ぶ史跡や由緒ある墓地などがあるそうです。

今からでも遅くない。さるけ、さるけで我が町に強くなろう。せっかく講座で長崎の街のあちこちの史跡を教えてもらいましたので、また、さるいてみようかなと気持ちを掻き立てています。
減退していく脳のリフレッシュのためにも。そして、健康ライフとして、「五快二発」。
一 快眠、二 快食、三 快便、四 快気、五 快動。次に、一 発声、二 発汗。
これを柱に据えてさるきたい。最後に温め酒を少々いただくことを日々是、楽しみにしよう。

(註) 滑石の史跡案内図は、1988年編纂委員会編「長崎滑石郷郷土史誌」156頁から
1 六地蔵と三尊仏石窟
2 岩屋山参道口(旧時津街道遺構)
3 旧萬象園(道の尾ラジューム温泉)
4 岩屋クラブ跡(被爆者仮救護所跡)
5 高谷正蔵墓碑
6 小干の浦殉教者遺骨発見の地(江東家)
7 平宗橋街道道標(川上家)
8 平宗寺跡「庵の木戸」
9 平宗無縁墓碑(重橋家)
10 平宗落武者供養塔(松本家)
11 旧滑石小学校跡
12 横道街道道標(旧時津街道)
13 横道角の庄屋宅(菊池高谷家・現柿田宅)
14 白髭宮と虚空蔵
15 肥塚酒造場跡
16 打坂峠竹林(旧時津街道の難所)
17 仁田尾供養塔残欠墓碑群(市指定有形文化財)
18 元・井手庄屋(井手家)、七つが倉跡
19 岩屋神社(神通寺・神宮寺跡)
20 滑石大神宮・同社叢(市天然記念物) 西浦上小発祥の地・被爆者滑石仮救護所跡
21 まご山(きりしたん寺の跡と伝えられる)
22 大庄屋跡(大村家庄屋屋敷)
23 しょうげん寺跡
24 観音様(残欠墓碑群−山下宅)
25 寺川内稲荷明神
26 庵寺供養塔墓碑群(山田宅裏山)
27 式見追分手熊道入口
28 地蔵様
29 藤の平墓地
30 山ん神様
31 釈迦堂(堂屋敷)と納骨堂 

有喜街道をゆく  諫早市街−小ヶ倉−有喜

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

有喜街道をゆく  諫早市街−小ヶ倉−有喜

平成20年2月23日、有喜街道をゆく。諫早市街−小ヶ倉−有喜。本明川沿いで、眼鏡橋・御書院・時鐘楼など見る。
野中町の長崎刑務所跡は正門のみ残し、更地となっていた。あと諫早中央保健所と諫早幼稚園ができる。この角に旧県道の道標石「←有喜 明治三十三年」がある。
小ヶ倉ダムは鴨が羽を休めていた。石橋など見ながら、有喜から唐比へ回った。

恵の丘入口のスギ  長崎市三ツ山町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

恵の丘入口のスギ  長崎市三ツ山町

平成20年2月24日、帆場岳(三つ山)に登った帰りに、ひとり恵の丘へ下った。バスに乗るため、恵の丘入口のカーブのところに来ると、数本のスギが並んで立っていた。
この中の1本は大きい。幹周りはちょうど3mあった。
巨木の定義は、木の根元から1.3mのところを測って、幹周りが3m以上のものを「巨木」といわれる。このスギも何とかセーフだろう。

「恵の丘」は、帆場岳の中腹高台。原爆のときの純心の疎開地。長崎純心聖母会の本部があり、昭和45年(1970)4月まず、被爆孤老の奉仕のため原爆ホームが開設され、その後、老人ホーム・純心大学がここにできている。

区—G 帆場岳(三つ山)山頂直下 (確認 長崎要塞区域標 第三十六号)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

区—G 帆場岳(三つ山)山頂直下 (確認 長崎要塞区域標 第三十六号)

この山の標石は山頂直下、登山道の尾根道から8mほど外れて下にあり、「長崎県の山歩き」に記述なく、あまり登山者に知られていない。標石があることを教えてくれたのは、平成18年1月2日「みさき道」初歩きに参加した大手町木村氏である。
西山台団地から現川峠に上がり、最左の現川山の神へ行く方向の車道を400mほど行くと、帆場岳造林管理用道路が山へ上がり、一般の車はチェーンを張って通行できないが、歩くのはよい。

この終点に標石「長崎要塞区域標」「第三十六号」はある。現川峠に道の案内板がある。帆場岳まで尾根登山道は約1.5kmである。どちらを通ってもよいが30分はかかる。
アンテナ塔がある山頂直下、最後の登りにかかる鞍部の道脇下の植林内に標石はある。林道終点のUターン広場が見え、気をつけて見るとわかる。この山が市内・市外のほとんどから眺められるように、山頂標高506mからの展望は抜群である。

諌早市に残るアーチ石橋

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

諌早市に残るアーチ石橋

諌早市に残るアーチ石橋は、5橋である。このうち多良見町幸仏橋はすでに紹介済(下記参照)。少ないのは度重なる大水害のためと思われる。
昭和32年(1957)7月25日の「諫早大水害」は記憶に新しい。本明川に架かっていたさしもに堅固な諫早眼鏡橋は、諫早公園内の池に移築された。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真 1  第  2 番  諫早眼鏡橋    諫早市 諫早公園内
天保十年(1839年)8月12日竣工 国指定重要文化財(石橋第一号)
日本百名橋  長さ49.2m 幅員5.5m
諫早の旧市街の中央に諫早公園があり、この中の池に「眼鏡橋」が架かっている。
長崎の眼鏡橋は中島川に架かっているが、諫早の眼鏡橋はこの公園内に移築されている。実際に目で見てみると長崎の石橋に比べて一回り大きくまた、堅固であることが実感できる。
この堅固さ故に諫早大水害の折に流木等がこの橋で留まり堰となって、大きな市街地の水害を引き起こすことになってしまったために、現在地に移転したのは皮肉と言える。

写真 2  第 10 番  諫早市役所の小ヶ倉橋  諫早市役所の東側の掘割に架かる。
大正12(1923)年 昭和62年現在地へ移築  長さ4.2m 幅員3.7m
現在の諫早市役所の敷地は藩政時代から続き、維新後は郡役場や学校の敷地になったりした歴史のある場所。その東側、裏小路側に架かるこの橋は、小ぶりだが端正で落着きを感じる。昔から此処に架かっていた様な雰囲気だが、元々は小ヶ倉川に架かっていた。
石碑の記載に寄れば架橋の請負人は、徳永勘三、陣野久太郎、村川清一、東八重助、横田鹿之助、村川徳太郎、前田善一と思われる。また当初の架橋時には欄干は無かった。
次の写真は、小ヶ倉橋が架かっていた場所だ。この河川改修の時に現在の場所に移築されました。

写真 3  第 46 番  小 川 橋    諌早市小川町
明治43(1910)年  長さ3.5m 幅員1.8m
小ヶ倉川に架かる。小川の団地前の田の中になる。
現在は農業関係の人しか通らないが、もとは諌早の中心街と有喜を結ぶ幹線道路に架かっていた橋。

写真 4  第 63 番  大渕橋(倉渕橋) 諌早市小川町(小ヶ倉ダム堤防下)
大正15(1926)年  長さ 約7.0m 幅員 約4.0m
既に廃道になっており、石橋自体もコンクリートで覆われてしまっている。
最初は無くなってしまったのかと思っていたら、コンクリートで覆われていました。補修の様子から見るとアーチ石自体に変形があったようにも思えます。

なお、多良見町幸仏橋は次を参照。https://misakimichi.com/archives/291

諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚を現地に見る

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚を現地に見る

平成17年春、長崎市の大久保山から戸町岳に残る大村藩と佐賀藩の藩境石塚を、私たちが調査した。結果は、研究レポート第2集やこのブログ先項に載せている。
この時、最近調査された近郊の藩境塚で、「森山町郷土誌」から諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚の例を、概略で次のとおり紹介していた。

(資料4) 森山町郷土誌 光富 博氏稿「諫早史談会 森山探訪資料」 平成16年  185〜188頁
(3)諫早領唐比村と島原領愛津村の御境塚
藩境に石で築かれた御境塚が森山町・愛野町合同調査(註1)により、諫早領唐比村と島原領愛津村の藩境に存在することが確認された。合同調査によると御境塚は日吉神社の鳥居わきの山中に南東の方向へ五七五mに渡って分布している。諫早領の御境塚は円形で十八基、島原藩の塚は四角形で十三基、合計三十一基の御境塚が残されている。この外に潰れた四角形の御境塚ニ基が残っている。
この御境塚はいつ築かれたのか不明であるが、安永八年(1879)、双方の境に諫早領と島原領より御境塚ニヶ所を新規に築き、道の終点に双方より石を一つ宛埋めて中心の目印とした。この塚ニヶ所の上に杉壱本宛植えて双方の境目とした。(註2)
この御境塚に関係する記事が『日記』(註3)の安政四年(1857)六月十一日の条にみえる。この記事を読み下しに直して次に掲げておく。(略)
註(1)平成十五年四月九日、「藩境石塚」について、森山町教育委員会,森山町郷土誌編纂歴史部会及び愛野町教育委員会、愛野町郷土誌学習会による合同調査を実施した。
(2)『日記』安永八年九月ニ十一日の条。(諫早市立諫早図書館蔵)
(3)『日記』安政四年丁巳五月ヨリ七月迄。(諫早市立諫早図書館蔵)

ここの藩境石塚は、一度は見ておきたかった。思い立って平成20年2月23日、愛野町の現地を訪ねた。国道251号線唐比交差点から愛野の方へ左折し、ほどなく行くと小原バス停がある。右前方の小山に日吉神社があり、山王自然公園として整備されていた。巨石が多いのには驚いた。神体も石である。頂上広場に展望台があった。

藩境石塚は、ここにはない。公園入口の鳥居のところからすぐ右方へ分岐する広い車道があり、行くと「NER PLUS ナイロン(株)」の正門でつき当たり。この会社の敷地外周の山中に藩境石塚が残る。公園には、入口にも何の案内図や藩境石塚の道標はない。場所を探すのに苦労した。諌早市で何とかしてほしい。
現地の「藩境石塚」説明板は次のとおり。このあたりで確認されている13基の石塚が、連続して見られる。町の指定文化財。史跡石柱があった。

藩 境 石 塚     愛野町乙字山王2番18

島原藩と諫早藩の境の印として積まれた石塚です。古い記録によると、南北一・五キロに四十二ヵ所となっていますが、今は三十一ヵ所現存しています。
島原藩は、一辺二メートルの□形で十八ヵ所、諫早藩は、一辺二・二メートルの○形で十三ヵ所確認されています。
石積みの高さは、六十〜七十センチメートル、一個の雑石の長さは三十センチメートル前後です。塚間の距離はまちまちで、同間隔ではありません。
このような藩境石塚は、諫早藩と大村藩の藩境である鈴田峠近くの風観岳の山中にもわずかに残っています。
この石塚は、島原藩・有馬晴信の頃、諫早藩・初代龍造寺家晴が諫早に入部後、約四百余年前の天正年間に積まれたものと考えられています。
平成十七年二月一日   愛野町教育委員会

中尾峠から木場峠・現川峠・帆場岳の縦走  平成20年2月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

中尾峠から木場峠・現川峠・帆場岳の縦走  平成20年2月

平成20年2月24日(日)曇ときどき晴。山では少し小雪舞う。中尾峠から木場峠・現川峠・帆場岳の縦走。参加16人。行き先と集合場所を間違え、私は3回立て続けのドジ。罰金を言い渡された。
従って、蛍茶屋を9時45分発。妙相寺から中尾峠への道は、「長崎県の山歩き」林正康先生の推奨コース。敷き石をした坂道は、昔のいかにも街道を偲ばせ、情緒がある。中尾峠11時着。
木場峠グランド上の普賢祠まで行き、11時30分だったが、早い昼食とした。木場峠近くには、「カトリック長崎中央墓地」が完成していた。

昼からは、車道を出たり入ったり。現川峠からは、完全山道である。帆場岳まで1.5Km。コブが続き、登りは厳しい。山頂すぐ手前の木道にかかる取り付きの下道脇に「長崎要塞区域標」「第三十六号」があるのは知られていない。
山頂13時着。帆場岳は、いわゆる「三つ山」。標高506m。航海の船からの目標となったように、眺望がどの方向もよい。写真は一部。皆は元気過ぎ、六枚板へ向かった。私は道の下見にかこつけ、恵の丘へ下った。お蔭でバス停近くでスギの巨木を見つけた。