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斑島玉石甌穴  北松浦郡小値賀町斑島郷

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斑島玉石甌穴  北松浦郡小値賀町斑島郷

小値賀港ターミナルから島内を一周する県道161号線により、島の北西部へ行く。約5分ほど走ると、浜津に「斑島入口」の標識があり、県道225号線へ左折し「斑大橋」を渡る。
玉石鼻は島の北部。漁港の先へ海岸沿いの道を行く。「斑島玉石甌穴」は、海食でできた甌穴としては国内最大であり、世界でも2番目の大きさの甌穴とされる。
玉石様の石祠に同じような玉石が祀られている。これも本物だろうか。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

斑島玉石甌穴  天然記念物(国指定)

指定年月日 昭和33年3月13日  所在地 北松浦郡小値賀町大字斑島郷字斑島
所有者 小値賀町
斑島は、五島列島北部の小値賀島の西方に隣接し、東西・南北ともに約1.5kmの属島で、昭和53年に本島と斑大橋によって結ばれた。島の南西部には成層した火山砕屑岩が分布するが、島の大部分は玄武岩溶岩で構成される。海岸に露出する玄武岩上の波食台には、波食により生じたいくつかの甌穴があるが、北東端の玉石鼻にある甌穴が、国指定の天然記念物となっている。
玄武岩中の亀裂が交差する所が、直径80〜90cmの深い円筒状に刻まれ、深さは2.5mにも達する。穴の底には、直径約40cmの玄武岩の球状の円礫が座る。玉の表面は黒光りをし、土地の人から「玉石様」として信仰されている。満潮時に大しけでもあると、海に通ずる亀裂から侵入するはげしい海水の動きによって、玉石が甌穴の底を転動し、削磨作用を続けているという。

五両ダキ・長崎鼻  北松浦郡小値賀町柳郷

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五両ダキ・長崎鼻  北松浦郡小値賀町柳郷

小値賀港ターミナルから、島内を一周する県道161号線により行く。長崎鼻は島の最北となり、柳郷の交差点から右方の道へ入る。すぐ「柿の浜海水浴場」の下り口があり、そのまま進むと、長崎鼻の牧場で道は行き止まりとなる。

五両ダキの断層は長崎鼻の左湾曲奥部にあり、牧場の柵を開けて中へ入る。牛だけいてなにもないところ。斑島の大橋と島がかすんで見える。五両ダキの近くまで歩いていけず、斑島から写した最後の遠景の断層が五両ダキのようだ。
HP長崎県五島列島小値賀島「観光よかとこ」による説明は次のとおり。

五両ダキ

死火山のクレータが波の海食により湾曲に徐々に、削り取られて段差が出来て、内部に美しい断層が露出する。これをダキと云い、小値賀の海岸付近では、至る所、色取り取りのダキを見ることできる。
中でもこの五両ダキの湾曲奥部は、標高差が60メートルの断崖あります。
その下には、町指定の「はまゆうの」植物が群生し夏場には、あでやかでエキゾチツクな大輪の花が咲き乱れる。その先は真っ白い砂浜に、抜けるような透明な青い海が広がる景勝の地である。

姫の松原  北松浦郡小値賀町笛吹郷・柳郷

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姫の松原  北松浦郡小値賀町笛吹郷・柳郷

小値賀港ターミナルから笛吹大通りを上り、信号のある交差点から右折し島内を一周する県道161号線に入る。小値賀町役場の先は右方に下り小値賀空港の方へ向かうのが県道だが、まっすぐ左方の道へ行き、島の中央を南北に進むと、島の文教地区だ。
「幼稚園前」バス停先に北松西高・小値賀小・小値賀中と続き、この道の両側約450mが「姫の松原」通りとなる。Yahoo!地図には「松香丘」の地名もあった。

昭和58年「日本の名松100選」、平成6年「日本街路樹百景」に選ばれた。名松100選は、(社)日本の松の緑を守る会が全国の名松、松林を選定。長崎県内では野田浜(南島原市)・千々石海岸(雲仙市)・姫の松原(小値賀町)の3ヵ所である。
途中に志々伎神社があり、境内に元軍船の碇石といわれるものがある。
長崎県HP「文化百選 五島編」による説明は次のとおり。

27 姫の松原(小値賀町)

…この松原は小値賀島の中央を南北に走る道路沿いに幅約20メートル、長さ450メートルにわたって広がり「姫の松原」と呼ばれているが、名前の由来はだれも知らない。ただ松原の中ほどにひっそりと、何かいわくありそうな「姫松様」と呼ばれる小祠がある。この松原は古文書によると江戸時代の延宝3年(1675)に小松を植林したのが起源らしい。今から320年も昔の話である。
小値賀島は松の豊かな島である。五島列島で唯一低位平坦な女性的と評される端麗な島姿は、一方で絶えず海風にさらされ、農業生産に影響を受ける宿命を持っている。そこで島民は防風防潮林として長年松を植林し続け、大切に育んできた。その努力は今も続けられ、全島に美しい松林の景観が保たれているのである。

ところで、この記事にある「姫松様」の小祠や、現地説明板にある老松2本のことがよくわからない。役場では道路右側にひとかかえある松の大木2本が今もあると聞いてきたが、それと思われるのは後の方の写真。
根元に地蔵があった。しかし、大した大木でない。これくらいの松なら、島内のあちこちで見る。昭和61年の説明板は「最近までは2本の老松が道を覆い姫松様と呼んで信仰の対象となっていた」と過去形だ。すでに大木の老松は枯れ果てたのか。
地峡埋立地と思われる中村三叉路近くの「御前(?)様」の松も大きいと地元で聞いたが、さほどでない。

今、HPを調べると次の「姫の地蔵さん」という写真と記事があったが、和歌山県太地町だった。古式捕鯨に関連した土地の、同じ名の松原と地蔵の伝わり方と思われる。
私には、「みさき道」と呼ばれる道が和歌山にもあることは知っていたが、ここの地蔵の傍らに「右ハみさきみち」と現実に刻んだ標石が存在し、残っていることがわかったのがなによりも嬉しい。
姫の地蔵さんの伝記

8代将軍徳川吉宗の享保12年(1727年)頃、姫の松原の道端に道しるべの地蔵さんがたてられていたそうです。
その頃のことですが、太地浦の鯨舟が大島沖で捕鯨合戦の末、姫の松原に上陸して一休みしました。その若者たちは、この地蔵さんを鯨に見立てて、銛を投げて突く稽古をしたのだそうです。その翌日、漁に出て大鯨を見つけたので、銛を鯨にいくつも打ち込み、格闘しながら沖へ沖へと引きずられていきました。そしてとうとう行方がわからなくなり、いくら探しても見当りませんでした。

そのときの乗組員は約30人でしたが、村中あげての大騒ぎとなり、神様に無事をお祈りしました。そのとき、祈祷師の話に、姫の地蔵さんのたたりで、若者が命を失ったのだということでした.。それから、太地の人たちは新しく地蔵尊を寄進して、亡き人の冥福を祈ったそうです。
その後、幾度かの道路拡張で座位置をかえられ、現在の所に祠が建てられ祭られています。
この地蔵さんは、今では若いお母さんの乳受けの御利益があるというので、近郷近在はいうにおよばず、遠方からもご利益を受けに祈願に参られます。また、お礼参りの後も絶えません。その折り、地蔵さんに前だれを献納するならわしで、何十枚かの前だれが重ねられています。

なお、地蔵尊の前側には次のことが記されています。
右ハわかやまみち 享保十二丁未
左ハみさきみち  願主 太地浦 澤信坊        (養春小学校100年のあゆみより)

牛ノ塔  北松浦郡小値賀町中村郷

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牛ノ塔  北松浦郡小値賀町中村郷

小値賀港ターミナルから笛吹大通りを上り、信号のある交差点から右折し島内を一周する県道161号線を右回りする。小値賀町役場の先は右方に下り小値賀空港の方へ向かう。
途中に中村郷船瀬海水浴場があり、この手前の海岸の岩礁に「牛ノ塔」は祀られ、堤防で参道が繋がっている。
HP「おぢかの歴史」の資料である小値賀町教育会「小値賀町歴史・文化フィールドワーク」による説明は次のとおり。
2 牛ノ塔 (町指定史跡)

現在一島である小値賀島はその昔,前方地域とその西側の地域の二島に分かれていた。松浦平戸家15代を継承した肥前守源定は鎌倉時代末期,命じてこの両島間を埋め立て田となした。現在神殿と新田と呼ばれている一帯である。
この工事は「潮見様」という人柱の伝説を生むほどの難工事で,使役した牛が多く犠牲になったという。これを哀れんだ源定は工事が竣工した建武元年(1334),これら犠牲となった牛を供養するため舟瀬の海岸に妙典経約七万字を書写した一字一石経を埋納し,その上に供養塔を建立した。
これが『牛ノ塔』である。現在も毎年4月に牛ノ塔祭りが開催されている。

なお、HP”小値賀風土記”に、古記録や絵図に基づいた詳しい「牛ノ塔建設物語」があるので参照。
http://www.yosimoto-ojika.jp/usinotou.html

佐藤家住宅主屋外4棟(国登録有形文化財)  長崎市西泊町

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佐藤家住宅主屋外4棟(国登録有形文化財)  長崎市西泊町

明治初期から中期に造られた煉瓦外壁を配した木造家屋と石造倉庫など。再現することが容易でないものとして「佐藤家住宅主屋」外4棟が国登録有形文化財となっている。
長崎市の西部、西泊町バス停のすぐ裏手にある。現地説明板の概要は以下のとおり。

西泊は幕府の鎖国時代、長崎港警固のため戸町番所に相対する西泊千人番所があった港口の浦。古い町並みの名残りがまだある。
後の5枚は、近くで見た井戸、三角溝、石段手摺、海底電線倉庫。

登録有形文化財 佐藤家住宅主屋外4棟  登録年月日 平成9年11月5日

この佐藤家住宅は、主屋、木造別棟、木造附属屋、石造倉庫A、石造倉庫Bの5棟からなる。幕末から明治中期にかけて外国人居留地で多く建てられた石造倉庫と、町屋風の主屋や数寄屋風の木造別棟などが共存して全体をなす姿は極めて貴重であり、平成8年10月に文化庁が導入した登録文化財制度により、県内では2番目に登録された。

神崎神社から天門峰・西泊ヶ丘へ  平成20年7月

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神崎神社から天門峰・西泊ヶ丘へ  平成20年7月

平成20年7月28日(日)晴。長崎港口の神崎神社から天門峰・西泊ヶ丘へ。参加7人。飽の浦峠手前から岩瀬道へ下る予定が、あまりの暑さに西泊中までで止めた。
西泊9時半発ー神崎神社ー神崎台場ー天門峰ー鞍部(昼食)ー西泊ヶ丘ー西泊中ー西泊13時着。

天門峰は標高167.7m。昔は「しらと」と呼ばれ、海図に「鰯見岳」(いわせんだけ)とある。頂上から女神大橋などの景観がよく、「明治九年第四月 地理局測点」と刻んだ貴重な岩がある。
( 参照  https://misakimichi.com/archives/81 )
障子岩山は標高160.0m。戦時中高射砲陣地構築のため、山容を代えた。今は「西泊ヶ丘」という。兵舎跡や水槽が残る。

阿弥陀寺万日堂  北松浦郡小値賀町笛吹郷

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阿弥陀寺万日堂  北松浦郡小値賀町笛吹郷

小値賀港ターミナルから笛吹大通りを行き、親和銀行小値賀支店の1つ手前の角から左方の道に入ると小値賀町歴史民俗資料館前に出る。ここから左手に阿弥陀寺が見えるので、車はまっすぐに、徒歩では坂道へ下って寺を目指す。

堂内は本尊佛阿弥陀佛像が安置され(現在は阿弥陀寺に移設)、その周囲を小田家歴代当主の塑像坐像が安置されていた(現在歴史民族資料館展示)。
毎月25日及び見学希望者あった場合、内部公開。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

阿弥陀寺万日堂  県指定有形文化財・建造物

指定年月日 平成12年2月22日  所在地 北松浦郡小値賀町笛吹郷1512番地イ
所有者 阿弥陀寺
万日堂は、江戸時代初期から小値賀を根拠地として鯨組(捕鯨業)等を展開した小田家の、二代目当主・小田伝次兵衛重利(1671〜1724)が自家の私堂として正徳6年(1716)に建立した念仏堂である。記録等により建立年が明確なもので県内に現存する木造建築物としては、五島列島で最古の木造建築物である。幸いにも火災に免れて現代に伝えられ、昭和36年に小田家から阿弥陀寺に寄進された。
方三間の念仏堂であり、堂内全体の空間構成はよく引き締まっていて秀逸である。床は畳を敷き、正面両脇は半蔀(はじとみ)を建て込み、その上半は室内側に吊り上げて開く。中央の須弥壇(しゅみだん)に安置されている阿弥陀仏座像は、正徳5年(1715)、泉州堺の仏師・村田與三兵衛の作であることが墨書によって判明している。
当初の部材の残存率が高く、内外観とも意匠的・空間的に優れており、建築史上の価値が高い。

小値賀町歴史民俗資料館  北松浦郡小値賀町笛吹郷

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小値賀町歴史民俗資料館  北松浦郡小値賀町笛吹郷

小値賀港ターミナルから笛吹大通りに行き、親和銀行小値賀支店の1つ手前の角から左方へ入ると小値賀町歴史民俗資料館に出る。
築山の奥にエノキが大木があった。火山弾(大島の項で後掲)が通りの石垣上に並べられている。大きなものが道路工事で撤去され、裏庭にまとめられてあった。
HP「観光よかとこ」による説明は次のとおり。

小値賀町歴史民俗資料館

江戸時代、西海捕鯨に活躍した旧小田家の母屋、土蔵、を修復し、鉄筋二階建新館、江戸時代に造園された石州流庭園、屋外展示場等を有し平成2年に開館した。五島列島唯一の歴史民俗資料館で、考古資料を中心に歴史、民俗、地質など約30万点を収蔵している。
特に小値賀島は古事記や肥前風土記に記載された『値嘉島』の中心地と目され、数々の豊富な考古資料や捕鯨関係等の近世古文書等が注目されている。
新館一階では、年1回展示内容の総入れ替えをおこなっている。

小値賀町に残る桁石橋  北松浦郡小値賀町

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小値賀町に残る桁石橋  北松浦郡小値賀町

小値賀町に残る桁石橋。石板橋と牛渡橋は小値賀港ターミナルの観光案内所で聞いた。

写真   1   石  板  橋              笛吹郷字笛吹
小値賀港ターミナルのすぐ裏手の路地にある。
古い町並みの名残りがあり、格子戸のある家がまだ残る。小値賀港バス停から笛吹本通りを行き、すぐの食品店「エイダン」先角から右手路地に入ると、その奥に石板橋はある。
6本ほど板石を渡した桁橋。両脇は人家で溝下に潜れない。
この橋は、観光案内所でもらえる「勇魚捕り加子達の名残 漁師町レトロ案内図」に次のとおり説明と写真があった。中、上の橋は、人家が建て込み上流の溝(柳田水道)を確認できない。「上橋」はあるようだが、「中橋」は上面をアスファルト舗装されているらしい。
② 板石橋  江戸時代の享保3年(1718)に完成した。上、中、下の石橋の内の下の橋。

写真   2   小値賀町歴史民俗資料館の中庭池の橋    笛吹郷字木ノ下
笛吹本通りの親和銀行小値賀支店1つ手前の路地を左方へ入る。
資料館は鯨組小田家の住居跡。鯨捕り関する資料、小値賀の民俗資料が展示されている。
その前の石畳坂は「長崎県まちづくり景観資産」に指定されている。
中庭の池に2つの石橋があった。築庭は小田家の以前といわれている。

写真   3   牛  渡  橋              前方郷字牛渡
HP「おぢかの歴史」の資料である小値賀町教育会「小値賀町歴史・文化フィールドワーク」によると次のとおり、
2 牛ノ塔(町指定史跡)
現在一島である小値賀島はその昔,前方地域とその西側の地域の二島に分かれていた。松浦平戸家15代を継承した肥前守源定は鎌倉時代末期,命じてこの両島間を埋め立て田となした。現在神殿と新田と呼ばれている一帯である。
この工事は「潮見様」という人柱の伝説を生むほどの難工事で,使役した牛が多く犠牲になったという。これを哀れんだ源定は工事が竣工した建武元年(1334),これら犠牲となった牛を供養するため舟瀬の海岸に妙典経約七万字を書写した一字一石経を埋納し,その上に供養塔を建立した。
これが『牛ノ塔』である。現在も毎年4月に牛ノ塔祭りが開催されている。

以上は現在、中村郷船瀬海岸に残る「牛ノ塔」の話だか、船瀬から島の北東部へ県道161号線で回ると、今も地峡をなすような前方郷に「牛渡」の地名と集落があり、現在の県道路肩下の溝のような小川に桁石橋の「牛渡橋」が残っている。
HP資料のとおり、昔、小値賀がまだ2島であった頃、この「牛渡橋」は両島へ牛を渡すための貴重な石橋だったとも考えられるが、考証文献は不明。「牛渡橋」と言われる橋のすぐ上にも、あと1つ桁橋があった。「牛渡」バス停のすぐ先の県道下に「牛渡橋」はすぐ確認できる。