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裏雲仙の舞岳坂段登りとみずほの森 (2)  平成20年12月

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裏雲仙の舞岳坂段登りとみずほの森 (2)  平成20年12月

平成20年12月7日(日)晴れ。裏雲仙の舞岳坂段登りとみずほの森へ。参加11人。
舞岳山荘10時発ー舞岳坂段登り往復ー舞岳山荘(昼食)ー田代原ーみずほの森遊歩道を一周 15時半解散

舞岳(標高703m)は、島原市有明町の百花台公園の背後にある山。左にすぐ平成新山がそびえる。舞岳山荘(体験学習研修施設)から山頂まで「舞岳ふれあいロード」という8888段の坂段登りがあり、両脇にツツジが植えられている。
日本一の段数というが段差は低く、楽に1時間半で登れる。ツツジの頃が良いようだ。

舞岳山荘へ戻って昼食。午後からは国道389号線により田代原へ上がり、「みずほの森公園」へ。タブ原のタブノキ大木2本(大きい方は幹囲7.25m)を見てから、公園内の遊歩道を1時間かけて一周した。
前日の寒波で平成新山は雪化粧。裏雲仙のすぐ近くからその姿を眺めた。
(1)は、舞岳坂段登り。(2)は、みずほの森一周の写真。

裏雲仙の舞岳坂段登りとみずほの森 (1)  平成20年12月

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裏雲仙の舞岳坂段登りとみずほの森 (1)  平成20年12月

平成20年12月7日(日)晴れ。裏雲仙の舞岳坂段登りとみずほの森へ。参加11人。
舞岳山荘10時発ー舞岳坂段登り往復ー舞岳山荘(昼食)ー田代原ーみずほの森遊歩道を一周 15時半解散

舞岳(標高703m)は、島原市有明町の百花台公園の背後にある山。左にすぐ平成新山がそびえる。舞岳山荘(体験学習研修施設)から山頂まで「舞岳ふれあいロード」という8888段の坂段登りがあり、両脇にツツジが植えられている。
日本一の段数というが段差は低く、楽に1時間半で登れる。ツツジの頃が良いようだ。

舞岳山荘へ戻って昼食。午後からは国道389号線により田代原へ上がり、「みずほの森公園」へ。タブ原のタブノキ大木2本(大きい方は幹囲7.25m)を見てから、公園内の遊歩道を1時間かけて一周した。
前日の寒波で平成新山は雪化粧。裏雲仙のすぐ近くからその姿を眺めた。
(1)は、舞岳坂段登り。(2)は、みずほの森一周の写真。

長崎の古写真考 目録番号: 982 中島川と編笠橋(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 982 中島川と編笠橋(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 982 中島川と編笠橋(1)

■ 確認結果

タイトルは、以前から「目録番号: 982 中島川と編笠橋(1)」。背景の山を前は「烽火山」と説明していた。平成19年4月指摘し、「健山」と訂正された。その際に「編笠橋」のはずなのに、「伊勢の宮の前に架かっている橋」と「高麗橋」の説明に変わっている。単純な間違いでないか。

古写真の撮影地点は、あくまで長崎市桶屋町「光永寺」の前である。中島川に架かる「古町橋」の左岸下にカメラを置き、中島川の1つ上流の石橋「編笠橋」を写している。
背景の山は、ビルの後ろとなるため、山が見える長崎市民会館手前の「魚市橋」から写した写真のとおり、(1)については、「金比羅山」や「烽火山」でなく、「健山」(たてやま)であろう。
現地説明板にある当時の「編笠橋」の姿も、古写真と同じようである。

説明をいつ修正されたか。大正4年(1915)橋の上部を鉄筋コンクリートで拡幅、長崎大水害後に解体された石橋「高麗橋」は、平成5年にすでに西山ダム下の公園に移築復元されている。「編笠橋」は、昭和61年に昭和の石橋として再建されている。
「高麗橋」や「阿弥陀橋」の背景に見えるのは、姿がまったく違う豊前坊や武功山の山である。

「関連する作品の一覧」によると「編笠橋」は7点、「高麗橋」は17点の古写真がある。これら写真から判断し、適切な説明をお願いしたい。
特に「目録番号:5633 中島川と編笠橋(6)」と説明文を参照。左から張り出した松は、編笠橋のたもとにあった「太平寺」(現・浪の平)の跡地、松寿軒のものと思われる。
最後の写真は、松寿軒側の「編笠橋」親柱の上に見えた「健山」のかすかな姿。

宮地嶽八幡神社陶器製鳥居  長崎市八幡町

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宮地嶽八幡神社陶器製鳥居  長崎市八幡町

宮地嶽八幡神社は、長崎市八幡町8番6号にある。普段、通らない通り。神社と鳥居の存在があまり知られていない。中島川に架かる伊勢宮神社前「高麗橋」の1つ上流の橋「阿弥陀橋」から右方の八幡町通りへ入ると、すぐである。この辺りは一方通行が複雑なので歩いて行く。

神社の現地説明板によると、全国で他に陶製鳥居があるのは、有田の「陶山神社」、佐賀の「松原神社」、愛知県の「瀬戸神社」。
有田の「陶山神社」(有田町大樽2−5−1、有田陶磁美術館前の車道反対側) の鳥居は製作者が3人とも同一で、陶製狛犬もある。写真は次を参照。 http://saraimac.sagafan.jp/t58205
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。
最後の写真は、出島和蘭商館跡にある陶製の門柱。

宮地嶽八幡神社陶器製鳥居  登録有形文化財(国指定)

登録年月日 平成9年7月15日  所在地 長崎市八幡町8−6  年代 明治21年
登録基準 三 再現することが容易でないもの
有田磁窯による大型細工でつくられた鳥居。親柱部分に残る銘によって製造人が岩尾久吉、角者細工人が金ヶ江長作、丸物細工人が峰熊一であることが判明する。
有田に製作者が同一のものが一つあるが、他に類例がない稀少的な存在である。

南山手居留地界隈  長崎市南山手町ほか

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南山手居留地界隈  長崎市南山手町ほか

長崎・南山手居留地界隈の風景。
煉瓦造の廃ビル、四海楼の前庭像、妙行寺と大浦天主堂、南山手レストハウス、建設中の大浦小学校、グラバースカイロードから市街遠望、居留地の井戸、大楠の通り、ドンドン坂、荒木家住宅、馬渡外科医院、居留地の小川、南山手地区町並み保存センター、同前の通りなど。

東山手居留地・出島和蘭商館跡・唐人屋敷跡・大浦天主堂・長崎グラバー園・居留地標石(境石・地番標)は別項。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

長崎市東山手・長崎市南山手  重要伝統的建造物群保存地区(国指定)

指定年月日 昭和3年4月30日  所在地 長崎市東山手町ほか  管理団体 長崎市
長崎市東山手・南山手地区は、安政5年(1858)の5カ国修好通商条約により設けられた長崎の開港場の旧居留地内にあり、東山手地区は、大浦の商館と港を見下ろす高台に位置し、領事館や礼拝堂、住宅などが立ち、現在は、これらの跡地にミッション系の学校が建てられている。南山手の居留地は、主として住宅用地として使われていたもので、明治時代初期から中期にかけての洋館住宅、教会などが良好に残っている。
東山手・南山手の町並みは、旧居留地の地割りを示す歴史的風致と洋館群や石畳・側溝など土木遺構を今日に伝えている。
東山手 約7.5ヘクタール  南山手 約17ヘクタール

大浦天主堂  長崎市南山手町

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大浦天主堂  長崎市南山手町

長崎市南山手町にある国宝(国指定)・建造物の「大浦天主堂」
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

大浦天主堂  国宝(国指定)・建造物  

指定年月日 昭和28年3月31日  所在地 長崎市南山手町乙1
所有者 カトリック長崎大司教区
安政の開国後、長崎に渡来する多くの西洋人のために必要という理由で、幕府もその建立を認めざるを得なかったカトリック教会堂で、フランス人フューレ神父と、その志を継いだプチジャン神父の努力によって完成した。横浜に次ぐ天主堂であるが、横浜天主堂が関東大震災で焼失したため、現存日本最古の天主堂となった。
元治元年(1864)末竣工。献堂式は翌2年の正月24日(1865.2.19)。26人の殉教者に捧げられたもので、「日本26聖人殉教者天主堂」という。大小三つの塔を持つ不思議な外観であったが、手まぜとなったので、明治11〜12年、前後左右に増築し、外壁木造漆喰塗は煉瓦造へ、3廊式は5廊となって、外観も現在のように大きく変わった。この時、創建時の内部造作はそのまま保存取入れられたものと思われる。数少ない洋風の国宝建造物である。

東山手居留地界隈  長崎市東山手町ほか

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東山手居留地界隈  長崎市東山手町ほか

長崎・東山手居留地界隈の風景。
十善会病院(籠町)とオランダ坂入口のモニュメント、東山手十三番館と活水学院前のオランダ坂、東山手十二番館(私学歴史資料館)、昭和会病院、池上家住宅、孔子廟、東山手洋館群と紅葉、南山手からの遠望など。

南山手居留地・出島和蘭商館跡・唐人屋敷跡・大浦天主堂・長崎グラバー園・居留地標石(境石・地番標)は別項。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

長崎市東山手・長崎市南山手  重要伝統的建造物群保存地区(国指定)

指定年月日 昭和3年4月30日  所在地 長崎市東山手町ほか  管理団体 長崎市
長崎市東山手・南山手地区は、安政5年(1858)の5カ国修好通商条約により設けられた長崎の開港場の旧居留地内にあり、東山手地区は、大浦の商館と港を見下ろす高台に位置し、領事館や礼拝堂、住宅などが立ち、現在は、これらの跡地にミッション系の学校が建てられている。南山手の居留地は、主として住宅用地として使われていたもので、明治時代初期から中期にかけての洋館住宅、教会などが良好に残っている。
東山手・南山手の町並みは、旧居留地の地割りを示す歴史的風致と洋館群や石畳・側溝など土木遺構を今日に伝えている。
東山手 約7.5ヘクタール  南山手 約17ヘクタール

長崎の西の空の夕日  その15

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長崎の西の空の夕日  その15

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔。以下続く。

写真 1〜 3  平成20年11月17日の17時10分頃
写真 4〜 6  平成20年11月18日の17時03分頃
写真 7〜 9  平成20年12月 2日の17時08分頃

金 鍔 谷  長崎市戸町4丁目

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金 鍔 谷  長崎市戸町4丁目

約370年前、西坂の地で殉教し、先週の11月24日に行われた列福式で、福者に列せられたトマス金鍔次兵衛。禁教の時代にあって、キリシタン迫害の中、人々の救いのために命を捧げた。
次兵衛神父が潜伏した外海・神浦扇山町の「次兵衛岩」洞窟は、長崎さるくガイド山崎政行氏が、25年前に奥深い山中で発見した、列福式にあわせた探訪会と現地記念ミサの様子が、全国にテレビで流れ、山崎氏は朝日新聞「ひと」欄に紹介された。
12月6日には、長崎学さるくでも「次兵衛岩」洞窟を訪ねる行事がある(空き人員少々)。

ところで長崎市戸町にある「金鍔谷」。知っている人は多いが、洞窟内部はあまり写真により紹介されていない。自宅へ帰る途中の国道499号線脇なので、寄ってみた。
女神大橋の手前に「金鍔」バス停があり、信号機のあるところから左の坂段を登るとすぐである。
長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」平成14年刊、108頁による説明は次のとおり。
後ろの写真は、夫婦川町・片渕2丁目の城ノ古址。「不動堂」と龍頭岩左の窪地、「金鍔谷」と呼ばれるのはこの一帯か?。
西坂町の日本二十六聖人記念館の庭には、武士姿の金鍔次兵衛像がある。

227 金 鍔 谷  (所在地:長崎市戸町4丁目30番)

金鍔谷は、金鍔次兵衛が潜伏した所と伝えられる。次兵衛は大村の生まれで、最初、有馬のセミナリョで教育を受け、さらにマニラのコレジョに進み、アウグスチノ会の修道士となり、トマス・デ・サン・アウグスチノと称し、後に神父に叙階された。
寛永8年(1631)頃、密かに帰国、以後、キリシタンの指導にあたった。次兵衛は長崎奉行所の馬丁などいろいろな者に変装したが、特に武士に変装、金鍔の脇差を帯びていたので、金鍔次兵衛と呼ばれた。次兵衛の探索は日増しに厳しくなり、同11年(1634)には佐賀、平戸、島原、大村の4藩に命じて、西彼杵半島全域で山関と呼ばれる大掛かりな山狩りが行われたが、次兵衛の行方はわからなかった。
しかし、同13年(1636)ついに捕らえられ、苛酷な拷問の後、西坂で穴吊りの刑で殉教した。現在、次兵衛が潜伏とした所は、金鍔谷とか次兵衛岩とか呼ばれ、この金鍔谷の他、琴海町の次兵衛岩や城ノ古址の金鍔谷なども著名であるが、特に城ノ古址の金鍔谷は、次兵衛が志賀親朋によって逮捕された所という。

唐人屋敷跡の石橋と石門  長崎市館内町

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唐人屋敷跡の石橋と石門  長崎市館内町

長崎市館内町にある鎖国時代の唐人屋敷跡。一帯で見る石橋と石門。
「土神堂」と「観音堂」に石橋と石門がある。石橋は近年、再建?された桁石橋である。
後の方は、地元の富豪森伊三次氏が寄贈した天后堂裏の堀にある「榮橋」(階段橋)、「森伊橋」(桁石橋)と、少し下流のアーチ式石橋「森橋」。
次も参照。  https://misakimichi.com/archives/614
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による「森橋」の説明は次のとおり。

第 85 番    森        橋   長崎市館内町18〜十人町11
明治25年   長 さ 約2.5m  幅 員 約2.0m  森伊三次氏が寄贈した橋
地元出身の森伊三次氏が寄贈した橋は、同じ川の上流に、もう2橋ある。アーチ橋ではないのだが、これも石橋。榮(さかえ)橋と森伊橋。

森伊三次氏とは、とんな人?
明治3年、火災で焼失した唐人屋敷の払い下げを受けて道路・橋を整備した地元の富豪。
浦上駅の市内中心地側、現在の茂里町地区は、当時「浦上村里郷」と呼ばれていた。ここは浦上川からの土砂の堆積が進み、湾の奥から浦上川河口にかけて干潟が現れていた。森伊三次氏は、浦上川の埋立てに私財を投じ土地の新田開発に尽力し、この地の大半に及ぶ広大な土地を拓き所有していた。
開発当初は「森町」と呼ばれていたが、大正2年、長崎市域すべての郷名を町名に変える事業が始められたとき、自らの名前から里が茂(森)る(栄える)ようにという意味を込め茂里町が生まれた。
明治30年、現在の浦上駅(旧長崎駅)〜長与駅まで九州鉄道が開通し、森伊三次氏は駅舎用地など約15,000坪を寄付している。