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江戸期の観音禅寺 (2)  徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

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江戸期の観音禅寺 (2) 徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎県立美術博物館「長崎県久賀島、野母崎の文化 Ⅱ」昭和57年所収の徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」82〜87頁は次のとおり。野母崎町は現長崎市。
文が長いため、(1)と(2)に分けた。これは(1)からの続き。

(五) 江戸期の観音禅寺

さてこの寺と長崎の町人とを結びつけていたのは、観音信仰と徒歩旅行時代の行楽である。観音信仰そのものからすれば、江戸期に入る少し以前から著名になっていたようであるが、ここの観音詣は特に長崎の町と成立と関係深く、長崎の町の賑わいはこの寺の賑わいにも反映したと思われる。長崎から観音禅寺まではその距離が七里といわれ三十キロ弱である。徒歩旅行時代の参詣にちょうどよい距離だったようで、道筋は長崎から南へ、出雲町を振出し、星取山を経て、尾根づたいに長崎半島を西南へ下っていったといわれる。大正のころまでは朝まだ暗いうちに提灯を手に出発し、観音禅寺で昼食をとり、帰路につくと夕方暗くなってしまったと聞いた。この観音寺詣にたどる道には、道塚が立っていたようで、これは寺の階段脇の石柱銘によって、天明四年(一七八四)長崎勝山町石工山下○○の寄進によることが知られる。「道塚五拾本」とある。
この天明期ころが最も観音寺詣が盛んだったのであろう。観音堂の再建、真鍮水器一対(長崎道賢)、観音寺縁起仮名木版(後興善町坂本庄五郎)、石門の建立、経蔵(唐船方日雇頭中)、水盤(深堀伊王島○○)、中太鼓などの寄進が集中している。時代が少し下るが、天保十五年(一八四四)の寄進になる銅製のカネの多くの寄進者名の中には丸山遊女らの名も見え、その信者の層の広さも感じられる。

江戸期の画家司馬江漢は、絵画修行と名所名物案内本の取材も兼ねて長崎まで旅行したが、彼も長崎の知人に誘われて、一泊宿りのこの観音寺詣を楽しんでいる。彼の『西遊日記』には次のように記し、木版本として出版された『西遊旅譚』では、観音禅寺を少し上方の遠見山近くからの俯瞰図の中に描き込んでいる。
「(天明八年十月)十二日、天気にて、朝早く御崎観音(へ)皆々参ルとて、吾も行ンとし、爰より、七里ノ路ナリ。(稲部)松十郎(おらんだ部屋付役)夫婦、外ニかき(鍵)やと云家の女房、亦壹人男子、五人にして参ル。此地生涯まゆをそらず。夫故わかく亦きり(よ脱ヵ)うも能く見ユ。鍵(カキ)や夫婦ハば(はヵ)だし参リ。皆路山坂ニして平地なし。西南をむいて行ク。右ハ五嶋遥カニ見ユ。左ハあまくさ(天草)、嶋原見ヘ、脇津、深堀、戸町など云処あり、二里半余、山のうへを通ル所、左右海也。脇津ニ三崎観音堂アリ、爰ニ泊ル。
十三日 曇ル。時雨にて折々雨降ル。連レの者は途中に滞留す。我等ハ帰ル。おらんた船亦唐船沖にかゝり居ル。唐人下官(クリン)の者、七八人陸へ水を扱(汲)みにあがる。皆鼠色の木綿の着(キ)物、頭にはダツ帽をかむりたり。初メて唐人を見たり。路々ハマヲモト、コンノ菊、野にあり。脇津は亦長崎より亦(衍ヵ)暖土なり。此辺の土民瑠(琉)球イモを常食とす。長崎にては芋カイ(粥)を喰す。芋至て甘し。白赤の二品(ヒン)アリ。」、(黒田源次・山鹿誠之助校訂『江漢西遊日記』より)

また寛政六年出版の『西遊旅譚』には、
「十月十二日長崎より七里西南乃方、脇津と云所阿り。戸町、深堀など云所を通りて、其路、山をめぐり、岩石を踏(ふみ)て行事、二里半余(ヨ)、山乃頂(ウヘ)人家なし。右の方遥(ハルカ)に五島見(ミル)是ヨリ四十八里。左の方天草島(アマクサジマ)、又島原(シマハラ)、肥後の国見(ミエ)て、向所(ムカウトコロ)比国無(ナク)、日本乃絶地(ゼッチ)なり。脇津、人家百軒余、此辺琉球芋(ヘンリュウキュウイモ)を食(ショク)とす。風土暖地にして雪不降(フラズ)。ザボン、橙其(ダイダイ)外奇草を見る。」
江漢らが宿泊したのは多分本堂ではなかろうか(現在のものは再建)、ここはつい最近まで宿泊所として開放されていた。絵画家と関連して、観音堂の天井絵について触れておきたい。この有名な天井は、その落款に次のようにあることが知られている。
「長崎画史鑑賞家七十九翁、禁衣画師石崎融思敬写、同石崎融済謹写、補助石崎融吉敬写」
石崎融思は当時の唐絵目利の長老格であり、七十九才といえば彼の没年であり、弘化三年(一八四六)にあたり、二月に没している。この天井絵にはシーボルトの絵師であった慶賀の名に成るものもある。慶賀はこの時六十一才で、それより少し前の天保三年(一八四二)にはオランダ人のために国禁に触れるような図書を描いたとして、二回目の江戸、長崎の所払いを命じられている。石崎融思は慶賀の父、川原香山とも親しく慶賀の出版物に序文すら寄せていて、この不遇の出島出入の画家であった慶賀を引き立てている。この天井絵もまた、所払いの身であった慶賀を引き立てて仕事を与えたのかも知れない。

江戸時代のこの寺は、以上見てきたように長崎の人々の行楽と観音信仰によって支えられたようで、余り曹洞宗の禅寺としての姿はみえない。ただ明治に入ってからは長崎の文人墨客がここによく逗留しており、画冊の寄せ描きも残っているし、書道界に名の知れた川村驥山も、若いころかなり永いことこの寺に寄宿し、多数の書を残している。

(注  本稿は、会の研究レポート「江戸期のみさき道」第3集35〜38頁に掲載している。「みさき道」の道筋が「長崎から南へ、出雲町を振出し、星取山を経て、尾根づたいに長崎半島を西南へ下っていったといわれる。大正のころまでは朝まだ暗いうちに提灯を手に出発し、観音禅寺で昼食をとり、帰路につくと夕方暗くなってしまったと聞いた」とする部分は、一般的でなく疑問があろう。「道塚五拾本」は「今魚町」の寄進である。また、長崎医学伝習所生だった関寛斎「長崎在学日記」に、「みさき道」研究の第一級の史料、御崎紀行があるのに、取り上げられていない)

江戸期の観音禅寺 (1)  徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

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江戸期の観音禅寺 (1) 徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎県立美術博物館「長崎県久賀島、野母崎の文化 Ⅱ」昭和57年所収の徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」82〜87頁は次のとおり。野母崎町は現長崎市。
文が長いため、(1)と(2)に分けた。続きは(2)へ。

(五) 江戸期の観音禅寺

前年度と今年度の報告として紹介した、この寺の資料からも知られるように、この寺に現存する資料の中には、江戸期より前のこの寺の状態を知るうえでの直接的な資料は、観音堂に安置する千手観音像と縁起を除けば一点もない。しかも千手観音像単独での存在であることから、当初からこの寺にあったかどうかについて疑問をもつ人もあり、したがって江戸期より前のこの寺について知るうえでの資料としては、縁起と深堀家文書がほとんどであり、この点から考えられる事柄は先の(四)で述べた。
即ち、歴史上、「肥御崎寺」が存在したことは明確な事実であり、仁和寺の末寺であったことまではわかっている。平安末期から中世にかけて、この寺が存在していたとすれば、その伽藍があった場所には当然、石碑類が存在しているはずであるが、現在の境内にはそのように古い時代のものは一点も発見できない。したがって口伝でいわれるように、現在の境内は近世またはそれに近い時代になって新たに興されたのではないかと想像できる。
旧寺蹟の存在を知るためには、この石碑類の発見や古瓦の発見が重要であるが、その土地らしいといわれる、もっと奥の小高い場所へは、現在ではそこへ通じる山道の通行者がなく、立入りが不可能になっていて、今回の調査では現地の実見ができなかった。冬場の草枯れの時期に調査せねばならない。

観音堂そのものの実際の移建は前章で述べたように、観音信仰と同時に、村民の寺としての存在という関係からも、江戸期に入るより少し前に行われたと考えられるし、現存する観音堂の堂内の構成が、密教寺院の様式をそのままうけついでいて、この堂はこの寺が曹洞宗の禅院として再興される以前に、この地に建立されたと考えられる。そしてこの観音禅寺が実際に寺名を「観音禅寺」としたのは、江戸期に入り深堀の曹洞宗の菩提寺の末寺に組み入れられてからの名称であり、この野母一帯が佐賀鍋島領となってからのことであることを示している。
観音堂はこの寺が禅寺に変る以前に、再建されたことは縁起からも知られたし、観音信仰の力に守られていたものと考えられ、幕府の政策に関係して曹洞宗への転宗が行われても、この寺のそれ以前の信仰形態を完全に断ち切ることができなかったことが、この寺の観音堂を中心とした伽藍や、観音堂内に残る密教様式から判断できる。
ただ前述のように、この寺に現在存在する絵画資料をはじめとする寄進の様々や、境内の石碑物などは、江戸期に入っての寄進によるものであり、それもほとんどは長崎の町人によるものである。このことは実際にこの寺を江戸期に支えたものが、長崎の町人の観音信仰が主であったことを如実に物語っている。この寺の再興と現実の繁栄は、実に長崎の開港、江戸期を通じてのわが国唯一の開港地として栄えた町人によるところが大きかったのである。

先に引用したこの寺の最も古い縁起には裏書きがある。しかしこれは巻子装であるため、すれて消え、判読不明の部分もあるが、この縁起の表装が商取引のため長崎を訪れた、京都の萬屋徳兵衛の喜捨によることが記されている。これはこの表装が成った宝永年間頃には長崎への外来者さえも訪れるくらいに著名な寺となっていたのである。
また観音像の脇待の造法を見ると、長崎の黄檗寺院で見られる中国様式による木寄法を用いていて、中国人との何らかの関係も考えることができる。ただ中国人の直接のこの寺への参詣は許されていなかったようで、この寺にある丁運鵬筆の羅漢渡海図巻に対する、中国人十三人による讃文巻子への揮毫は、唐通事へこの寺の住職が依頼することによって成ったものである。唐通事のうちの数人は、かなりこの寺と密接な関係があったようで、来舶画人であった費漢源に学んだ楊利藤太はこの寺の寄進目録に名が見えるし、頻川氏によっては、十八羅漢図などが寄進されている。

この寺の所蔵品の中で注目すべきものの一つに、先に引いた丁雲鵬作の羅漢渡海図巻とその讃文巻子そろいの二巻がある。図巻の方は多分、天明年間に寄進されたものであろう。丁雲鵬は中国明代の画家で、白猫の仏画を善くしたといわれる。その羅漢図巻の真贋を問うこともあってか、観音禅寺第八代の泰田が唐通事に預け、中国より来舶していた中国人から画讃をうけたものである。これらの中国人の中には、費晴湖の名も見える。この当時、長崎に来舶した清人の名称と足蹟が知られる点でも興味深く、これらの画讃が記されたのは後に記す司馬江漢が長崎に来たころとも近い時期で、彼の西遊旅譚にも当時長崎に来ていた中国人名が知られ、その中にも費晴湖の名が見える。このころの長崎での中国人との交流の一端が知られる。
次に注目すべきものとして「常陽寿昌沙門東海拝画」の款をもつ達磨大師半身像がある。これは紙に太筆によって大描きした大作で力作である。沙門東海は長崎東海禅寺(不明)に住し、のちに水戸祗園寺の住職になった。常州那珂郡石神村鈴木直右衛門の男、画法は桜井山興に学び、花鳥人物に工、よく河豚魚を写す。世に東海の河豚と称されるという。享和二年(一八〇二)十月三日寂す。年八十三という。
東海禅寺は不明だが、あるいは中国人東海の墓のある長崎市内の春徳寺のことを指しているかもしれない。どのような経過でこの作品がこの寺に入ったか不明だが貴重な作品と思われる。

次ぎに石塔の中には豪潮の名を記した宝篋印塔がある。名を寛海律師といい、八万三千煩悩主人と号す。肥後州玉名郡に生れ、比叡山に学び、仏乗および儒教に長じ、かたわら書画をよくし、近世の名僧といわれる。一時玉名郡の寿福寺をついだが、八万四千の宝篋印塔の建立を発願して西日本から名古屋に渉って建立している。文化元年(一八〇四)には長崎に滞在したことが知られており、この際にこの脇岬もおとずれ建立の機会を持ったものと思われる。他に長崎市内の本河内やその他、また平戸最教寺にも同様の塔が存在している。この寺の塔も豪潮の足蹟を知る上で貴重な資料である。
また観音堂の左脇にせまっている斜面に、かなりの数の石仏が存在しており、またさらに上方にも数体散在しているが、その中には享保年銘をもったものがあり、これらは力強い彫を見せ、中国系仏像の流れによる表現をもっていて、長崎を中心に行われていた中国系の仏像彫刻の作例として貴重であろう。
その他に江戸期の仏器と明確にわかるものであり、近世の仏器関係、特に中国系の仏器の様式的基準を示すものとしての重要性もあると見られている。

以下、(2)に続く。

(注  本稿は、会の研究レポート「江戸期のみさき道」第3集35〜38頁に掲載している。「みさき道」の道筋が「長崎から南へ、出雲町を振出し、星取山を経て、尾根づたいに長崎半島を西南へ下っていったといわれる。大正のころまでは朝まだ暗いうちに提灯を手に出発し、観音禅寺で昼食をとり、帰路につくと夕方暗くなってしまったと聞いた」とする部分は、一般的でなく疑問があろう。「道塚五拾本」は「今魚町」の寄進である。また、長崎医学伝習所生だった関寛斎「長崎在学日記」に、「みさき道」研究の第一級の史料、御崎紀行があるのに、取り上げられていない)

長崎の古写真考 「幕末 写真の時代」 138:飽ノ浦より長崎港を望む

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  長崎の幕末・明治期古写真考 「幕末 写真の時代」 138:飽ノ浦より長崎港を望む

「幕末 写真の時代(第2版)」筑摩書房 2010年3月発行から、気付いた作品を取り上げる。

133頁  作品 138:飽ノ浦より長崎港を望む 
F・ベアト撮影 慶応年間(1865〜68)後半〜明治初期 鶏卵紙(横浜開港資料館所蔵)
〔画像解説〕
文久元年(1861)長崎の対岸飽ノ浦の地に幕府はオランダの指導援助をうけ長崎製鉄所を完成している。この写真はその製鉄所の上の丘より港の入口、戸町・女神方面を撮し、遠景の山は長崎半島である。港内の軍艦はイギリスのバロッサ号であるという。

■ 確認結果

133頁の作品 138 は、「長崎製鉄所の上の丘より港の入口」を撮しとあるが、飽の浦の恵美須神社付近の高台からは、長崎港内の地形上、港の入口戸町・女神方面は見えない。海に落ちる山の傾斜も急である。
この作品は、港のまったく反対側、居留地造成中の「松ヶ枝海岸埋立地」高台から、長崎港の奥を向いて撮影されていると思われる。写真右側の集落が写る岬は、現在の稲佐橋が架かる「鵬ヶ崎」だろう。同写真集53頁に、同じような光景がある。

53頁  作品 39:長崎港全景
ロシエ撮影 万延元年(1860) 鶏卵紙 (イギリス国立公文書館所蔵)
〔画像解説〕
この組写真は現在グラバー邸のある丘の上に写真機を据え360度の角度で長崎市域全景を撮影したもの。… ⑤は飽ノ浦より続いている丘で鵬ヶ崎。その岬の先端は浦上川の河口。…

横浜開港資料館所蔵には、別の組写真「長崎居留地パノラマ(4枚続き)」もある。
3点の作品とも、松ヶ枝付近から、長崎港の奥、鵬ヶ崎・浦上川河口方面を撮影していることがわかるだろう。
2010年3月15日発行の写真集(第2版)最新版である。そのままの画像解説ではどうかと思われるので、検証をお願いしたい。

この写真は、2010年6月18日すでに指摘済だったので、次の記事も参照。
https://misakimichi.com/archives/2360

長崎の古写真考 「甦る幕末」 154:長崎・大浦外人居留地

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      長崎の幕末・明治期古写真考 「甦る幕末」 154:長崎・大浦外人居留地

「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年発行から、気付いた作品の4点目。

138頁  作品 154:長崎・大浦外人居留地
〔画像解説〕
飽の浦より大浦居留地を望んでいる。海岸に近い左手の森は現在活水大学のある東山手の丘、そこから左手の町並みが旧長崎市街、左端の寺は筑後町の本蓮寺である。後方の大きな山は彦山。

■ 確認結果

「甦る幕末」の作品 154 と同じような光景の写真は、長崎大学データベース目録番号:3239「飽の浦からの長崎港(6)」がある。対岸飽の浦の恵美須神社付近から長崎市街を写したパノラマ写真の一部。明治天皇西国・九州巡幸に随行した内田九一の撮影とされる。

一見「甦る幕末」の作品も、撮影場所は同じ飽の浦の恵美須神社付近からと思われそうだが、彦山・愛宕山などの山の姿と重なりから、飽の浦の先、現在岩瀬道町の三菱重工長崎造船所本社ビル下、占勝閣(迎賓館)がある身投崎あたりから撮影されたのではないだろうか。

写真の正面は大浦海岸通りの居留地で、左は出島となる。その後ろの低い山並みは風頭山一帯であろう。したがって、左端の寺は立山下の筑後町「本蓮寺」でなく、風頭山下の鍛冶屋町「大音寺」と、右は「大光寺」ではないかと思われる。
現在の大音寺と、寺上墓地から長崎港(高いビルのため見えない)を挟んだ対岸岩瀬道町の三菱重工長崎造船所本社ビルを写してきた。

式見蝶ヶ崎から舞岳の尾根道整備  平成22年12月

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式見蝶ヶ崎から舞岳の尾根道整備  平成22年12月

平成22年12月5日(日)快晴。式見蝶ヶ崎から舞岳(標高252m)の尾根道整備。参加11人。新しい山歩きルート。蝶ヶ崎展望岩がすばらしい。みさき道歩会の例会。
淡島神社9時30分発ー蝶ヶ崎展望岩ー式見トンネル上12時10分着(昼食)ー舞岳ー式見ダムー式見16時10分着(徒歩距離 約10km)

10月31日に十郎岳から舞岳へ登ったとき、舞岳からテープを伝って下ると、向町の新道へ出た。無理して作った急斜面な道と感じた。私たちが下りたいのは、式見トンネル上の尾根。式見トンネル上から尾根はさらに蝶ヶ崎まで続き、蝶ヶ崎トンネル右上の淡島神社へ出る。

ルートは私が事前踏査していたので、逆にきょうは淡島神社から、全員で尾根道の整備をしながら舞岳へ登り、テープと道標プレートを付けた。舞岳は中世期の山城跡。舞岳からは九州自然歩道により式見ダムへ下った。
国道蝶ヶ崎トンネル上の蝶ヶ崎展望岩は標高120mほど。尾根道のピークで海の展望が良い。ここが式見郷土史238頁に記す「賀衆ヶ峯」だろうか。狼煙場跡はわからなかった。郷土史の説明は次のとおり。

34 賀衆ヶ峯
手熊峠の西方の高い山をいう。文化6年(1809年)狼煙場の事として、当村鶚岳賀衆ヶ峯に在り長崎異変の時、こゝでのろしをあげて異変を村の中に知らせる。また福田岳ののろしをこゝで受けて、この火を三重岳に受継ぐなりと、文化6年始めてこの法を定めたとしるされている。

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/26704659.html
淡島神社の近海丸殉難者之碑像は  https://misakimichi.com/archives/2449

人面岩?  長崎市本河内2丁目

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人面岩?  長崎市本河内2丁目

国道34号線。本河内2丁目の「妙相寺通」バス停から、本河内低部ダムの対岸山腹を見る。人面っぽい岩がある。
長崎古今集覧、長崎市史などに記す烽火山山頂東の「人面岩」は、
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/57917643.html

本河内低部ダムは、水を抜いて大規模な改修工事が長く行われている。長崎県ダム室HPによると、長崎水害緊急ダム事業として高部ダムに続き、低部ダムは既設ダムの上流側にコンクリートを貼り付け、新たにトンネル洪水吐きを設置する工事。
平成18年から行っており、平成22年度完成となっている。

坂本龍馬ゆかりの料亭「玉川亭」の写真 初確認される

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坂本龍馬ゆかりの料亭「玉川亭」の写真 初確認される

朝日新聞長崎地域版2010年11月27日付の記事。現在の長崎市八幡町、中島川の大井手橋近くにあった坂本龍馬らが倒幕議論したとされる料亭「玉川亭」の写真が初確認された。
写真は、英国の写真家F・ベアトが1864〜66年に撮影。横浜開港資料館に所蔵され、ベアトの写真集にも掲載されている。写真集を見た市職員が10月末頃、姫野教授に分析を依頼。現存するお堂が写っている位置などから、玉川亭と確認したと、読売新聞にはある。

現地を訪ねる。地図は上のとおり。桃渓橋の伊勢町側から中島川の下流を向き、大井手橋付近を写しているのは間違いないだろう。右手前のお堂は「出来大工町不動堂」として現存する。下流に「大井手橋」の昔のアーチ式石橋が、当時の姿どおり写っている。
写真左岸の料亭「玉川亭」跡は、現在「キリスト教友愛社会館 友愛八幡町保育園」となっている。このあたりは、中島川の本流と西山川が合流し、「二股」と呼ばれる所。「玉川亭」は川魚料理が有名で、多くの会談に利用されたようだ。

最後の古写真は、長崎大学データベース目録番号:5305「中島川と桃渓橋(2)」と目録番号:6050「二股と桃渓橋」。上野彦馬撮影。逆に大井手橋側から桃渓橋を写している。お堂と傾いた松が同じとわかるだろう。
長崎の古写真については、私も他の写真集などから、珍しい数点を確認している。次の記事ほか参照。
https://misakimichi.com/archives/2348
https://misakimichi.com/archives/2218

長崎市の紅葉 (2)  若宮稲荷神社・市民会館通り・大音寺・小ヶ倉水苑

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長崎市の紅葉 (2)  若宮稲荷神社・市民会館通り・大音寺・小ヶ倉水苑

12月と思えない小春日和。陽気に誘われ長崎市内の紅葉名所めぐり。長崎の紅葉は今が見ごろ。所によっては盛りを過ぎ、葉が散りかけている。

写真  1 〜  3   若宮稲荷神社 (伊良林3丁目)
写真  4 〜  5   長崎市民会館横の通り (魚の町)
写真  6 〜  8   大音寺 (鍛冶屋町)
写真  9 〜 14   小ヶ倉水苑 (上戸町)

長崎市の紅葉 (1)  長崎公園・金比羅神社・七面山・妙相寺

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長崎市の紅葉 (1)  長崎公園・金比羅神社・七面山・妙相寺

12月と思えない小春日和。陽気に誘われ長崎市内の紅葉名所めぐり。長崎の紅葉は今が見ごろ。所によっては盛りを過ぎ、葉が散りかけている。

写真  1 〜  3   長崎公園 (上西山町)
写真  4 〜  6   金比羅神社 (西山1丁目)
写真  7 〜 12   七面山 (鳴滝3丁目)
写真 13 〜 16   妙相寺 (本河内4丁目)

長崎の西空の夕日  10−15

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長崎の西空の夕日  10−15

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 4  平成22年10月27日の17時27分頃
写真  5〜 6  平成22年10月31日の17時32分頃
写真  7〜 9  平成22年11月 3日の17時26分頃
写真 10〜11  平成22年11月14日の17時18分頃
写真 12〜14  平成22年11月24日の17時13分頃