「まぼろしの石橋」が姿現わす(2) 本河内高部貯水池のダム底に眠る
2011/04/21 10:48 の状況。石橋のアーチが浮きかけている。水位目盛板をアップ。
(1)は、 https://misakimichi.com/archives/2666
「まぼろしの石橋」が姿現わす(2) 本河内高部貯水池のダム底に眠る
2011/04/21 10:48 の状況。石橋のアーチが浮きかけている。水位目盛板をアップ。
(1)は、 https://misakimichi.com/archives/2666
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:なし 長崎港遠景
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:なし 長崎港遠景 〔撮影者:F.ベアト〕
■ 確認結果
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1−幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊124頁に掲載されている「159.長崎港遠景」。長崎大学のデータベースには収録されていない。
写真集の解説も、長崎港の歴史だけふれ、撮影場所を説明していない。
この作品について先日、古写真考のある記事に、次のコメントによる質問を受けている。
ベアト写真集「159.長崎港遠景」で、手間側の陸地はどの辺りでしょうか? 2011/4/14(木) 午前 8:11 [ 恵夢 ]
遠くの山は、高いのが烽火山、低いのが武功山である。右端は風頭山の一部だろう。
それら山の稜線と、手前の三菱重工長崎造船所側の当時の岬を合せると、現在の岩瀬道町八軒家バス停の上部あたりから撮影した写真と思われる。
この岬に三菱重工本社ビルと迎賓館占勝閣場ができ、下の入り江に第二ドックができている。
最後の写真は、西立神町の「NTTドコモ西立神基地局」近くへ行って写したが、ここでは少し違うようである。
長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2110 山間の民家
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:2110 山間の民家
目録番号:5044 箱根街道(3)
〔画像解説〕
現在の小田原市入生田並びに箱根町山崎辺りから湯本方向を眺めた写真である。中央の道は東海道(現在の国道一号線)で、道の両側の民家には荷車や人力車・桶等が見える。兄弟らしき子供3人も写っている。右端に電信柱が見え、明治6年(1873)の東京・長崎間の電信敷設後のものと分る。
■ 確認結果
目録番号:2110「山間の民家」は、次の目録番号:5044「箱根街道(3)」のとおり、松並木の街道で、背景の山の重なりと特徴的な大萱葺の家から、神奈川県足柄下郡箱根町湯本山崎の風景と思われる。
長崎大学のデータベースには見当たらないが、ベアト撮影の「view on the tokaido」もあるので、次の記事も参照。資料は前のを再掲。 https://misakimichi.com/archives/2623
実はこの古写真は、HP「OLD PHOTOS of JAPAN」に掲載されていた。〔撮影者:江南信國〕となる。同解説は次のとおり。
1890年代の箱根 • 田舎道
タグ: 江南信國 • 明治 • 箱根 • 田舎 • 眺望
箱根の湯本にある三枚橋の辺りの田舎道の美しい眺め。道路に立っている子供達、女達、農夫たちや旅人達の関心が、この写真を撮った榎波信国に集まっている。皆明らかに興味深々である。箱根は神奈川県にあって横浜から遠くなく、当時も今も温泉保養地として人気がある。三枚橋は早川にかかる木の橋で、小田原と箱根の間の東海道上の重要な宿場だった。
この写真は、江南信國が箱根一帯で撮影した約40枚の写真の内の一枚。テリー・ベネットの
「Old Japanese Photographs: Collectors’ Data Guide」によると、榎波が撮った三枚橋という題名の写真はもう一枚あり、その番号は21番である。
この細部を見ると、この田舎道に色々な人々がいるのがわかる。
グーグルの地図では、現在の三枚橋の場所はわかるが、この写真を撮った正確な場所を確かめることは未だできていないので、確かな情報をいただければ大歓迎である。
長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1893 川遊びをする娘たち
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:1893 川遊びをする娘たち
〔画像解説〕
振り袖姿の3人の女性が平船にのって舟遊びをしようとしている。岸と船との間は一枚の板が渡されている。恐る恐る板の上を渡る女性。
目録番号:2610 鴨川の床の夕涼み(3)
〔画像解説〕
鴨川四条大橋西詰南側の床の上で夕涼みに興じる舞妓・芸妓を撮影する。舞妓・芸妓のうち、左側の2人は盃で酒を酌み交わし、右の2人は拳遊に興じている。床の上には行灯や煙草盆が置かれる。背後には鴨川東岸の町並みが続き、五条大橋が見える。写真は京都の観光絵葉書のために撮影されたものであろうか。玉村康三郎撮影。
■ 確認結果
目録番号:1893「川遊びをする娘たち」は、どう見ても京都鴨川の光景だろう。次の目録番号:
2610「鴨川の床の夕涼み(3)」のとおり、奥に見えるのは「五条大橋」ではないだろうか。大橋中央後方の立木?や背景の山並みが似ている。
なお、目録番号:2610「鴨川の床の夕涼み(3)」は、〔撮影者:玉村康三郎〕となろう。
轟の滝上流のヒメシャラ見学と多良岳へ 平成23年4月
平成23年4月17日(日)曇り。轟の滝上流のヒメシャラ見学と多良岳(標高996m)へ。参加
10人。みさき道歩会の例会。
轟の滝上流大渡橋9時発ー奥地原生林ー小松尾公園ー金泉寺11時着ー多良岳12時着(昼食)−前岳13時着ー六体地蔵ー金泉寺14時20分着ー大渡橋15時着(徒歩距離 約12km)
諫早市高来町、轟の滝奥地原生林のヒメシャラ・イロハモミジなどは、本年1月の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/2486
長崎を車2台で7時30分発。諫早の長田バイパスを通って轟の滝へ。上流の林道終点「大渡橋」に車を置いて、多良岳一周コースにかかる。すぐ左の沢のヒメシャラ橋を渡った一帯が奥地原生林。5分ほどで本日の目的、幹囲1.75mのヒメシャラ(推定樹齢150年)と対面する。
奥の登山道を40分登ると、小松尾公園の多良岳グリーンロードへ出る。金泉寺までさらに1時間、浄財で新装なった金泉寺と県営山小屋に11時に着いた。「多良岳」(標高996m)山頂にちょうど12時着昼食。登山者は多かったが、春霞みで景観がきかない。
午後は、前方のピーク「前岳」(標高983m)へ向かう。途中、座禅石と鬼の岩屋がある。前岳からも有明海は望めなかった。鞍部へ戻り、山腹道へ急下り。右へ行くと太良町重要文化財「石造 地蔵菩薩立像六体」が大崖の下にある。
山腹道は多良岳登り口鳥居の分岐に出る。金泉寺の水を汲み、轟の滝沢沿いの別な道を下山する。下りはグリーンロードまで10分、大渡橋までは30分かかって、車へ戻った。
いこいの村経由で小長井へ出、諫早湾干拓直線道路7kmを通り、愛野から長崎へ帰った。
「まぼろしの石橋」が姿現わす(1) 本河内高部貯水池のダム底に眠る
長崎市本河内町にある。ダムの底から渇水期にだけ姿を現していた「まぼろしの石橋」。長崎市指定有形文化財に指定された。この石橋も平成18年春の新ダム完成により、ほとんど見ることはできなくなった。
その名のとおり「まぼろし」となった石橋。しかし、今までもこれからも、貯水池の中にたしかに存在する。石橋のHPによると、長さ8.0m、幅員2.8mの橋。
季刊「Web旅ムック」2007晩秋号 Ⅴol.7の16〜17頁の特集「石橋の旅 第4回」の記事は、 https://misakimichi.com/archives/405
何とこの「まぼろしの石橋」が、本河内高部貯水池できょう、上部だけではあるが写真のとおり見えていた。低部貯水池の改修工事が完成したため水を抜きはじめたのではない。ただ渇水のためとのことである。本河内高部貯水池の水位が今、非常に低くなっている。
石橋に関心がある方は、めったにない撮影のチャンスだろう。国道34号線「妙相寺入口」から入る。新日見トンネル高架橋の下あたりに石橋はある。
「長崎市の文化財」による説明は次のとおり。
本河内高部貯水池内石橋 市指定有形文化財
指定年月日:昭和53年12月20日 所在地:長崎市本河内3丁目 本河内高部貯水池内
一の瀬川の上流、妙相寺川には、自然石で築いたアーチ石橋が数多く見られた。これはその一つで、明治22年(1890)に造成された水源地にそのまま水没し、現在まで遺ったものである。石の隙間には小石を充填(じゅうてん)し、橋面には土かぶりを施したと思われるが、水没中に洗い流され、現在は骨格的石組だけとなっている。平時は水中に没し、渇水時にだけ姿を現わす。架橋の年代は不詳であるが、明治2〜3年(1869〜70)頃現川の住民が、本河内の野石造りアーチ石橋を真似て、現川にも架けたという記録があるから、恐らく幕末期のものであろう。
長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 793 長崎の庭園
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号: 793 長崎の庭園
〔画像解説〕
ベアト撮影。「長崎近くの森の飛び石と橋、66年1月」と書かれているが、これは
■ 確認結果
目録番号: 793「長崎の庭園」は、画像解説が「これは」で書きかけ終わっている。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2−外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊の40頁には、タイトル「55.江戸の庭園」としてある。
上記の画像解説は、これを書きかけて終ったのだろう。横浜開港資料館編のタイトル「江戸の庭園」が正しいと思われる。ベアトのメモが記憶違いか、写真が入れ替わっていたのではないか。
長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1764 大法要の人出
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:1764 大法要の人出
〔画像解説〕
大規模な法要である。中央に2列に並んだ僧侶の長い列が続く。周囲に溢れた人々がひしめいている。
■ 確認結果
目録番号:1764「大法要の人出」は、東京の池上本門寺で明治14年に行われた、「日蓮入滅後600年遠忌」の模様だと言われる。
石黒敬章編「明治・大正・昭和 東京写真大集成」新潮社2001年刊の285頁に、次のとおり解説している。HP「石黒コレクション」にも同じ写真が掲載されている。
【日蓮上人遠忌】Ⅱ16−13
本門寺は日蓮宗開祖日蓮の入滅の地である。日蓮は療養のため身延山を出立し常陸へ向かう途次、池上の領主で本門寺の創立者でもある池上宗仲の屋敷で、弘安5年(1282)10月13日に入滅。この写真は明治14年に池上本門寺で行われた、日蓮入滅後600年遠忌の模様だと言われる。
多くの僧侶と見物人が写っている。明治14年は日本に乾板はまだ伝わっていないので、湿板写真法で撮られた筈だ。しかし、これ程多くの人がいて、殆どブレていないのが不思議だ。写真師は不詳だが、相当の技術をもった人に違いない。場所は、経蔵背後の古くからある車坂だろうか。六切大。〔Y〕
長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1202 和船(2)
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:1202 和船(2)
〔画像解説〕
港に停泊している5艘の和船であるが、皆同型のようである。整理番号6-27「和船(1)」は帆を上げているが、同じ型である。これらの船は江戸中期から明治半ばまで活躍した北前船である。
■ 確認結果
目録番号:1202「和船(2)」は、東京の佃島前の風景である。石黒敬章編「明治・大正・昭和 東京写真大集成」新潮社2001年刊の261頁に、次のとおり解説している。
【大川に停泊中の荷船】Ⅱ12−10
同じ写真を大阪としている写真集があり惑わされたが、これは東京である。Ⅱ12−06と背景の家並みが同じであるし、帆柱の間に住吉神社の屋根も垣間見えるから、バックは佃島である。
一見したところ石川島灯台がないように思えるが、手前の弁財船の船尾の上部に、チラリと小さく見える屋根が灯台らしい。随分低い灯台だった。Ⅱ12−07の右に見える白い倉庫が、灯台より少し右手にあるから位置関係は合っている。〔Y〕
長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1793 都踊り(1) ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:1793 都踊り(1)
〔画像解説〕
都踊りは京都祇園の芸妓の踊り。毎年4月1日から30日まで京都祇園の歌舞練場で催される。明治5年(1872)に始まる。したがって整理番号42-27、47-28、47-29の写真はこれ以後の撮影。
目録番号:1794 都踊り(2) (掲載略)
〔画像解説〕
京都祇園で毎年開かれる都踊りの写真。鼓、三味線の伴奏で、芸妓が一人扇を開いて踊っている。背後は大きな屏風。
目録番号:1795 都踊り(3) (掲載略)
〔画像解説〕
京都祇園で毎年4月に開かれる都踊りの写真。屏風を背に華やかな集団の踊り。「毎年踊り子と演奏者はもっとも有名な踊り子と歌い手である。」という意味の英語が付されている。
■ 確認結果
目録番号:1793「都踊り(1)」の左下キャプションを拡大すると、「IN KYOTO」のような英字が見える。〔撮影地域:京都〕で良いのではないか。
関連作品の目録番号:1794「都踊り(2)」、目録番号:1795「都踊り(3)」も同じ。