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長崎外の古写真考 目録番号:4361 銀座通り(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4361 銀座通り(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4361 銀座通り(1)

目録番号:6693 銀座通り(2)   (掲載略)

■ 確認結果

目録番号:4361「銀座通り(1)」と、目録番号:6693「銀座通り(2)」(掲載略)は、同じ写真。
HP「OLD PHOTOS of JAPAN」に掲載されている。〔撮影者:玉村康三郎〕であろう。同解説は次のとおり。

撮影者: 玉村康三郎
発行元: 玉村康三郎
メディア: 鶏卵紙
写真番号: 71005-0004
1890年代の東京 • 銀座と新橋</a>
1882年から1899年頃(明治20年代)の東京、新橋と銀座の風景。写真師玉村康三郎(1856〜19??)が撮影したもの。汐留川に架かっている木造の橋は、その後1899年(明治32年)4月に鉄製の橋に建て替えられた。

「まぼろしの石橋」が姿現わす(4)  本河内高部貯水池のダム底に眠る

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「まぼろしの石橋」が姿現わす(4)  本河内高部貯水池のダム底に眠る

2011/05/03 17:41 の状況。先日からの雨の流れ込みにより、水位が少し上がっている。宮崎県から4日か5日に来訪予定があり、きょうの状況を報告。
(1)2011/04/17 は、 https://misakimichi.com/archives/2666
(2)2011/04/21 は、 https://misakimichi.com/archives/2671
(3)2011/04/30 は、 https://misakimichi.com/archives/2683

長崎外の古写真考 目録番号:4338 道中姿の侍たち ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4338 道中姿の侍たち ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4338 道中姿の侍たち
〔画像解説〕
十二名の男性が道中姿で刀を腰に帯び、写っている。うち一人は手に編み笠を持ち、僧侶のような坊主頭をしている。左後方で紋付きに山高帽を被った男性やコート姿の男性などが、この道中姿の人たちを見物している。

目録番号:4345 芸奴の勢揃い
〔画像解説〕
勢揃いした芸奴衆は、力強く豪華である。急速な産業の進展による国づくりの反映であろう。明治20年代の写真であろうか。熊本芸妓の「しののめのストライキ」判決は明治33年。

■ 確認結果

目録番号:4338「道中姿の侍たち」と、目録番号:4345「芸奴の勢揃い」は、撮影場所は不明だが、同じ場所で撮影されている。
いずれも、鹿島清兵衛アルバム(2)の作品。

この項は、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2621 
目録番号:4337「大名行列と見物人(1)」と、目録番号:4343「大名行列と見物人(2)」にあるとおり、「明治初めに再現された大名行列 撮影データ不明」における休憩所の風景と思われる。

なお、芸奴を写した目録番号:4351「花笠踊りの女性たち」(掲載略)もあるが、大名行列祭りの関連作品ではないだろうか。

長崎外の古写真考 目録番号:4206 茶畑からの富士山(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4206 茶畑からの富士山(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4206 茶畑からの富士山(2)
〔画像解説〕
富士市鈴川(すずかわ)あたりの砂丘上にある茶畑から北方の富士山を遠望したもの。茅葺きの民家の先で丘陵は終わり、その先には東海道に面した鈴川の町屋(元吉原宿:もとよしわらしゅく)の瓦葺屋根が見える。瓦葺の屋根の先には、浮島ヶ原(うきしまがはら)が広がる。茶園には茶摘みをする4人の女性が見える。

■ 確認結果

目録番号:4206「茶畑からの富士山(2)」は、画像解説どおり「富士市鈴川」から茶畑と北方の富士山を遠望したものだろう。
鈴川倶楽部ブログ記事「古写真と鈴川」に、具体的な撮影場所を富士市鈴川東町「木之元神社南から」と記している。
現在の写真は、HP「神奈川の歴史探索を中心にして全国へ 旧東海道」から。

長崎外の古写真考 目録番号:4134 神戸全景(4)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4134 神戸全景(4)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4134 神戸全景(4)
〔画像解説〕  超高精細画像
現在の新神戸駅の南西高台から神戸市街を望む。明治中期。中央の道路は生田川の川筋を埋め立てて造成され、工事を請け負った和歌山出身の加納宗七(かのうそうしち)にちなんで、明治6年(1873)右(西)側が加納町と名付けられた。現在の新神戸駅から、フラワーロードを経て税関に至るこの道路は、古くから都の貴族や文人墨客が来訪した名所・布引(ぬのびき)の滝に続くので、滝道(たきみち)と呼ばれた。道の両側にはまだ家屋があまり建っていない。左手向こうに見える細長い松林は、居留地の東の境界・旧生田川の土手の名残で、外国人のレクレーション・グランド(現東遊園地)になっていた。このグランドでは、クリケットやフットボール、ローンテニスなどが行われ、外国人たちのスポーツと娯楽、社交の大切な場であった。開港して20年あまりが過ぎ、道路が新しく開かれ整備されていく状況がよくわかる。手前に見える端正な洋風建築はホテルであろう。

■ 確認結果

目録番号:4134「神戸全景(4)」は、同じ写真がHP「OLD PHOTO of JAPAN」に掲載されている。〔撮影者:玉村康三郎〕であろう。同説明は次のとおり。

撮影者: 玉村康三郎
発行元: 玉村康三郎
メディア: 鶏卵紙
写真番号: 70219-0028
1880年代の神戸 • 山手からの眺め</a>
神戸を、現在の新神戸駅に近い山側から撮った写真。中央に見える広い道路は滝道(今はフラワーロード)である。この道は、この写真を撮った場所から少し歩いた所にある布引の滝に通じているので、そう呼ばれていた。この道は、1871年(明治4年)に外国人居留地を水害から守るために付け替えられた、旧生田川の川床に沿っている。この写真が撮られた時は、神戸の町ができて未だ20年ほどしか経っていないが、既に主要な港町に発展しており、外国人も1,000以上住んでいた。その4分の3は中国人だった。

長崎外の古写真考 目録番号:4099 東海道と富士山

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4099 東海道と富士山

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4099 東海道と富士山
〔画像解説〕
富士市鈴川の砂丘の上から北方の富士山を遠望したもの。写真中央を横切る松並木が東海道。左端の背の高い2本の松と茅葺きの小屋の間が河合橋(かわいばし)である。砂丘と東海道の間には水田が広がり、その中を東海道線の線路がのびているため、鉄道の開通した明治22年以後の撮影である。

■ 確認結果

目録番号:4099「東海道と富士山」は、画像解説どおり「富士市鈴川の砂丘の上から北方の富士山を遠望したもの」だろう。
鈴川倶楽部ブログ記事「古写真と鈴川」に、具体的な撮影場所を富士市鈴川本町「鈴川駅南から」と記している。「鈴川駅」の開業は1889年(明治22年)。1956年(昭和31年)4月に「吉原駅」に改称された。
現在の写真は、HP「富士山百景」鈴川(No.70 東部ブロック)から。「鈴川は吉原駅を中心とした地区です。吉原駅南口から少し東に行った所の小高い丘には「六地蔵」があり、そこから富士山が見えます」と説明がある。

長崎外の古写真考 目録番号:4031 備前の灯台

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4031 備前の灯台

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4031 備前の灯台
〔画像解説〕
左下に「BIZEN.」とあるが、伊勢湾入口の菅島 (すがしま 現三重県鳥羽市) 東北端にある菅島灯台。イギリス人技師ブラントン(R.H.Brunton)の設計で築造され、明治6(1873) 年7月1日に初点灯。以来、灯台本体は現役で活躍。付属官舎は博物館明治村に移築復元され、重要文化財に指定。明治10年頃までの早い時期の撮影。

■ 確認結果

目録番号:4031「備前の灯台」は、画像解説のとおり、伊勢湾入口の菅島 (すがしま 現三重県鳥羽市) 東北端にある「菅島灯台」に間違いない。
〔撮影地:三重県〕となり、タイトルの変更も必要だろう。
現在の写真は、HP「日本の灯台〜訪問記」から。伊勢湾フェリーの船上から写している。

長崎外の古写真考 目録番号: 326 相撲(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 326 相撲(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 326 相撲(1)
〔画像解説〕
相撲は本来神事と深い関係を持ち、宮廷では、初秋の行事として相撲の節会を行った。これは、東西二手に別れ、何れが豊作であるかを占ったものである。江戸時代、武家で練武として普及した他、草相撲・辻相撲も盛んで、神社での奉納相撲も盛んに行われた。

目録番号: 529 相撲(3)
〔画像解説〕
相撲は、直径4.55mの円形で、40〜60cm盛り土された土俵で行われる。土俵は、東南西北に位置する四方柱(よもばしら)に囲まれ、方屋(かたや)といわれる屋根に覆われる。四方柱は春夏秋冬を表わし、その上部には水ひき幕が張られた。

目録番号:4288 相撲巡業

目録番号:3349 東京大角力協会の巡業

■ 確認結果

目録番号: 326「相撲(1)」、目録番号: 529「相撲(3)」、目録番号:4288 相撲巡業は、小屋掛けの相撲興行である。東京の本所「回向院相撲場」の本場所風景と思われる。資料及び古写真は、HP「森川和夫:廣重の風景版画の研究ー(1) 古写真で読み解く広重の江戸名所」から。

回向院の相撲は江戸時代に限ったことではない。明治42年(1909)両国国技館が完成するまでは、回向院で晴天10日の小屋掛けの本場所が行われていた。2階の桟敷席があり。「角力場は桟敷の梯子持ち回り」と詠まれた梯子が写っているのも興味深い。観客席には屋根がないので、帽子をかぶっている人が多い。

最後の目録番号:3349「東京大角力協会の巡業」は、写真が新しい。観客席には屋根があり、段差がある立派な桝席と変っている。これが明治42年(1909)完成した両国国技館ではないだろうか。「角力」は「相撲」か。

「まぼろしの石橋」が姿現わす(3)  本河内高部貯水池のダム底に眠る

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「まぼろしの石橋」が姿現わす(3)  本河内高部貯水池のダム底に眠る

2011/04/30 10:05 の状況。石橋のアーチがだいぶん見えてきた。きょうは近くで写す。石橋を渡ってきた。
(1)2011/04/17 は、 https://misakimichi.com/archives/2666
(2)2011/04/21 は、 https://misakimichi.com/archives/2671

長崎外の古写真考 目録番号:1110 葬式(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1110 葬式(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1110 葬式(3)
〔画像解説〕
町中を行く葬列。非常にたくさんの人々がカメラの方を見ている。左には僧侶たち、右には人々に担がれた棺が見える。僧侶の近くにあるのぼりには「故石橋老母喜久」と書かれている。 

■ 確認結果

目録番号:1110「葬式(3)」の作品は、HP「OLD PHOTOS of JAPAN」に掲載されている。同説明は次のとおり。〔撮影者:日下部金兵衛〕が正しいのではないだろうか。

撮影者: 日下部金兵衛
発行元: J B Millet Company
メディア: 鶏卵紙
写真番号: 70614-0007
1890年代 • 明治時代の葬儀</a>
霊柩車とその周りに大勢の参列者が写っている。場所は東京か大阪のような都会と思われる。幟には「故石橋老母喜久」の名が読める。明治時代、葬儀には通常大勢の人々が参列し、費用もかかった。短い間に一家に続けて二つの葬儀があると、その家は破産すると言われた。社会評論家からの批判、特に車が増えて人々が道路から押し出されるといった社会の変化などで、これらの派手な行事は結局終わりを迎えることになった。