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鑑真の里 秋目  南さつま市坊津町秋目

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鑑真の里 秋目  南さつま市坊津町秋目

坊津町秋目は唐招提寺を建てた鑑真大和上が、天平勝宝5年(753)に幾多の困難を乗り越え、日本上陸の第一歩を記したところ。入江が多い美しい海岸線は天然の良港になっている。
秋目浦を望む高台に鑑真大和上の座像と記念館がある。

笠沙美術館展望所と杜氏の里笠沙  南さつま市笠沙町赤生木

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笠沙美術館展望所と杜氏の里笠沙  南さつま市笠沙町赤生木

以下、HP「新焼酎紀行」から一部引用。

笠沙町南岸部は坊野間県立自然公園に指定されており、坊津に着くまで随所でリアス式海岸がみられる。 笠沙南岸は、「古事記」の神代記に、こう書かれている。
「向韓國 眞來通笠紗之御前而 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地詔而」
この地は朝鮮に向かい、笠沙の岬にまっすぐ通じていて、朝日がまっすぐに照り輝く国。夕日が明るく輝る国である。それゆえこの地はまことによいところである。(「現代語で読む歴史文学<古事記>」勉誠出版)。

笠沙美術館展望所は、町の出口に当たる黒瀬にある。笠沙美術館展望所からは、島やその先の唐岬が一望できる。なかでも美術館の中庭からの眺めは、沖秋目島を真ん中に四角く景色が切り取られて一幅の絵画のようだ。沖秋目島は、007映画の秘密基地の舞台となった島である。

黒瀬はまた、焼酎とも縁が深い。ここは各地で活躍する「黒瀬杜氏」の出身地で、町にはその知識と技能を伝承するためにつくられた「杜氏の里笠沙」が美術館のほぼ向かいに建つ。展示場、製造設備、売店を併設して、焼酎を造るときに使った器具などを紹介するとともに、昔ながらの方法で焼酎を実際に製造し、その様子を見学したり製品を売店で購入したりもできる。
ずんぐりとして不思議な形をした瓶に入る「一どん」は、人気が高く地元でもなかなか手に入らない。その蔵元がここになる。

吹上浜と吹上浜海浜公園  南さつま市加世田高橋

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吹上浜と吹上浜海浜公園  南さつま市加世田高橋

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

吹 上 浜

吹上浜(ふきあげはま)は、鹿児島県西部のいちき串木野市・日置市・南さつま市にかけての砂丘海岸。日本三大砂丘の一つとされているほか、日本の渚百選にも選定されている。薩摩半島西岸に位置し東シナ海に面し、長さ約47kmの砂丘は日本一の長さ。吹上浜一帯は、1953年に県立自然公園に指定された。南部に吹上浜海浜公園があり、1987年からほぼ毎年「吹上浜砂の祭典」が開催されている。

地形・地質
北部の砂浜は狭く海岸付近までシラス台地の崖が迫っているが、南部は広大な砂丘となっている。内陸部には砂丘によって海から切り離された薩摩湖や正円池などの海跡湖がある。南部の万之瀬川河口周辺には干潟が広がっている。

吹上浜が長大な砂浜となったのは、薩摩半島北部に浸食されやすいシラスが大量に分布しているためである。北部及び中部では海岸の浸食が進み、南部では堆積が進むことで長い弓形の海岸線が維持されている。南部の砂丘は縄文海進の時代に形成された旧期砂丘と、弥生時代以降に旧期砂丘上に被さるようにして形成された新期砂丘に分けられる。新期砂丘形成には新田開発による流出土砂が関与していると考えられている[1]。

吹上浜海浜公園

所在地  鹿児島県南さつま市加世田高橋
分 類  都市公園(広域公園)
面 積  71.4ha(計画109.9ha)
開 園  1986年(昭和61年)4月17日
運営者  鹿児島県(指定管理者:公益財団法人鹿児島県地域振興公社[1])
設備・遊具  バンガロー レンタサイクル 幼児遊具 プール
駐車場  約1600台

吹上浜海浜公園(ふきあげはまかいひんこうえん)は鹿児島県南さつま市加世田高橋にある鹿児島県立の都市公園(広域公園)である[2]。指定管理者制度に基づき鹿児島県地域振興公社が管理・運営している海浜公園である。
吹上浜の南部に位置し、近辺の加世田ドームで吹上浜砂の祭典が行われる。

概要
万之瀬川河口の南側にスポーツ公園、お祭り広場、プール、キャンプ場などがあり、河口の北側には野鳥観察施設、フィールドアスレチック場、南薩少年自然の家などがある。南北の地区は吹上浜サンセットブリッジで結ばれている。この橋は全長405メートル、幅6メートルの歩行者・自転車専用斜張橋であり、1993年(平成5年)7月に完成した。
公園はサイクリングロード鹿児島県道加世田日吉自転車道線(吹上浜砂丘自転車道)の途中にあたる。公園内にも短距離のサイクリングコースがあり、レンタサイクルを利用することができる。

万之瀬川河口域のハマボウ群落及び干潟生物群集  南さつま市加世田益山

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万之瀬川河口域のハマボウ群落及び干潟生物群集  南さつま市加世田益山

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。吹上海浜公園の東側となる万之瀬川河口域に説明板がある。

万之瀬川河口域のハマボウ群落及び干潟生物群集
【所在地】南さつま市加世田益山字川原田,字上川原田,字吉田,字千寄地
【種 別】国指定天然記念物(植物・動物)
【指定年月日】平成19年2月6日

南さつま市北部に位置する万之瀬川は薩摩半島最大の河川で,南九州で最大規模の河口干潟が発達している。河口から約1.5km上流の左岸,準用河川荒田川が万之瀬川に注ぐ合流地点から上流にかけて泥質や砂泥質の干潟がよく発達し,1km以上にわたり1000株以上に及ぶハマボウの大群落が成立している。砂泥質の干潟付近では,アイアシやナガミノオニシバなどからなる塩沼地植生,砂質の部分ではハマゴウやコウボウムギなどの砂丘植生も発達している。
ハマボウ群落周辺の砂泥干潟には,日本最大規模の生息地として知られるハクセンシオマネキをはじめとしたカニ類が群生し,河口付近では,自然分布のハマグリの南限個体群を含む各種二枚貝,多毛類・貧毛類などの環形動物,紐形動物,甲殻類など多くの干潟生物が生息している。
これらの干潟動物を餌として,渡り鳥などの重要な生息地にもなっており,クロツラヘラサギなどの希少種を含め多くの野鳥が確認されている。最大規模のハマボウ群落及びハクセンシオマネキ群集を含む多様な干潟生物生育する地域として学術的価値が高い。

鹿児島県のアーチ式石橋 毘沙門橋梁  日置市日吉町日置 毘沙門

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鹿児島県のアーチ式石橋 毘沙門橋梁  日置市日吉町日置 毘沙門

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。後ろは毘沙門天の史跡写真。

№6,785  毘沙門橋梁

日置市日吉町日置 毘沙門
橋幅:27.0m  径間:1.2m  拱矢:0.6m  基礎4段H:1.3m
架設:大正3年(1914)
鹿児島交通枕崎線(南薩線)跡 1984年廃止

毘沙門天への途中に煉瓦アーチ、何故こんなところに
1984年に廃止された鹿児島交通枕崎線(南薩線)跡のようです。
遺構は吹上町の浜田橋下流の橋脚など。

毘沙門天
「寿永文治年間伊集院に壱宇治城を築き権勢をふるっていた時の郡司・紀時清公(藤原氏支族)は城の守り本尊として本丸に毘沙門天、観音、春日明神薬師如来などを安置して、四方を守護していた。紀氏は伊集院氏に追い払われ、やがて戦国末期の天文十九年(1550年)に島津貴久が父日新公と共にこの城を攻め落とした。その時、貴久は毘沙門天を日置の五丁田へ遷座し、後現在地に移し祭られるようになったが、その年代は不明である。」      昭和六十年三月  日置市教育委員会

永平橋記念碑  日置市伊集院町下谷口

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永平橋記念碑  日置市伊集院町下谷口

日置市HPの「指定文化財一覧」伊集院地域 市指定による説明は、次のとおり。
伊集院町の市街地にある。この記念碑の文字は西郷隆盛が郡方書役の時に書いたといわれている。橋は石造りの眼鏡橋で岩永三五郎によって架橋されたものであった。

25 歴史資料
永平橋記念碑(エイヘイバシキネンヒ)
下谷口1926-1前  嘉永3年(1850)11月29日に着工、翌年1月20日竣工した石造眼鏡橋に伴って作られた碑である。碑に刻まれた文字は西郷隆盛のものと伝えられている。

大渡橋記念碑  日置市伊集院町寺脇

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大渡橋記念碑  日置市伊集院町寺脇

日置市HPの「指定文化財一覧」伊集院地域 市指定による説明は、次のとおり。
太田発電所近くにある。この記念碑の文字は西郷隆盛が郡方書役の時に書いたといわれている。橋は石造りの眼鏡橋で岩永三五郎によって架橋されたものであった。

24 歴史資料
大渡橋記念碑(オオワタリバシキネンヒ)
寺脇54-3近く  嘉永3年(1850)11月20日に着工、翌年2月8日竣工した石造眼鏡橋に伴って作られた碑である。刻まれた文字は西郷隆盛のものと伝えられている。

ヤッコソウ発生地  日置市東市来町湯田

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ヤッコソウ発生地  日置市東市来町湯田

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。開花写真は現地説明板から。
場所がわかりにくいが、国道3号湯田市街手前からJR鹿児島本線北側沿いの道へ入ると、向湯田に入口案内板がある。奥の星原宅裏山が指定地である。

ヤッコソウ発生地
【所 在 地】日置市東市来町湯田 4008 − 4
【種  別】国指定天然記念物
【指定年月日】大正 11 年3月8日

ヤッコソウは世界最大の花を咲かせるラフレシアと同じラフレシア科の植物で,シイ属の植物の根に寄生する1年生の種子植物である。10 月から 11 月に高さ約7 cm の鱗片葉のついた花茎を出し,頂端に白色の花を1個つける雌雄同体の植物で,花には蜜があり小鳥などが吸いに来ることもある。
ヤッコソウの名は,その形が江戸時代の「奴」の姿に似ていることから,明治 41(1908)年に牧野富太郎によって命名発表された。嘉永年間(1848 〜 53 年)には,奄美大島に配流された名越左源太が『南島雑話』の中で,珍しい植物があるとこの植物を図入りで説明している。
ヤッコソウの分布は四国,九州南部,種子島・屋久島,奄美,沖縄であるが,各自生地での発生個体は少なく,産地も減少している。東市来町湯田の指定地は,稲荷神社境内の右横約 100m2 であるが,指定地以外では,神社の裏山一帯,付近の民有林,遠くは,皆田,市来町大里の宇都,串木野市冠岳,吹上町などにも見られる。

萬 福 池  いちき串木野市羽島

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萬 福 池  いちき串木野市羽島

現地説明板は、次のとおり。水神の石碑裏は「弘化五年」と記されている。案内板等と一緒に,西郷隆盛の足跡と言われている「石」がある。サイズ?は、かなり大きい。
後ろの写真は、県道43号その先、串木野サンセットパークからの夕日。

萬 福 池
萬福池は、弘化4年(1847)11月14日薩摩藩直営の工事として始められました。
当時24歳の西郷隆盛は、薩摩藩の河川土木方の書役助として萬福池の工事に加わっています。工事は順調に進み、弘化5年(1848)3月2日に竣工し、その後、今日まで地域農業の発展に大きく寄与しています。(昭和37年には老朽化のため堤等を改修し、現在に至っています。)当時、西郷は、特に農民に理解を示し、嘉永4年(1851)には農政建向を出し、農政改善の方策ついて説いています。
西郷隆盛の農政への熱烈な魂が、この静かな池面を通して伝わってくるようです。
平成15年3月  いちき串木野市教育委員会

HP「さつまの国の言い伝え」によると、次のとおり。

2013年09月22日 萬福の池 いちき串木野市
いちき串木野市は羽島から山のほうに行くと、萬福という集落がでてきます。そこに周囲2キロほどの池があります。今回は、萬福の池にまつわる話です。
むかし、この村で何年にもわたって飢饉が起こりました。村人たちは、毎日天を仰いでは雨が降ることを祈っていました。飢饉が続くたびに、村を出て行く者が出てきました。

そこで村の人たちは、皆で氏神様に心を込めて願掛けを行いました。それから、七日目に不思議なことが起こりました。社の方から、神様の声が聞こえてきました。村人たちは、その声を聞き逃すまいと耳をすませました。
「みなの者、よく聞くがよい。明日の朝早く、この村から二キロほど北に行くがよい。そこに池を作った」
神の声を聞いた村人たちは、大喜びして朝が来るのを今か今かと待っていました。

次の日の朝早く、村人たちは神様のお告げのあった所に行ってみました。そこには、広々とした池が出来ていました。池から一筋の水があふれ出て、村の田んぼに注がれていました。そうして半日もたたぬうちに、すべての田んぼは甦りました。村人たちの喜びようといったら、ありませんでした。

不思議な事に、池の水はどんな時も水が減るということがありませんでした。それからというもの、幸福に恵まれた村の人たちは、池を「萬福の池」と呼ぶようになりました。やがて、池の近くに人が住むようになりました。そこが今の萬福なのだそうです。

天狗鼻海軍望楼台跡  薩摩川内市寄田町

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天狗鼻海軍望楼台跡  薩摩川内市寄田町

現地説明板は、次のとおり。県道43号寄田新田に入口案内板が2か所ある。狭く藪で荒れたコンクリート車道を約1.5kmか2km入り(離合・Uターンは難しい。駐車場なし)、あと山道を500m歩く。
望楼台に着く手前の雑木林内平地が営舎跡と思われる。

薩摩川内市指定文化財
天狗鼻海軍望楼台   昭和60年3月27日指定

ここ天狗鼻は、北は天草、南は野間岬、西は甑島が望める見晴らしの良い場所で、江戸時代にも見張り台が置かれていたと言われています。
明治28年(1895)の日清戦争終了後に日本海軍は国内の要所に沿岸防備のために望楼台を設けました。ここ天狗鼻に設置されたのもそのひとつで 日露戦争時には海軍兵が常駐し、ロシアのバルチック艦隊の北上を監視していました。
鹿児島県内にはここ天狗鼻(常設)、下甑島の釣掛崎(仮設)、佐多岬(常設)の3か所設置され、現存するのはこの天狗鼻のみです。また、国内で現存するのは、北海道宗谷岬の大岬旧海軍望楼台とここ天狗鼻海軍望楼台の2か所のみです。

天狗鼻海軍望楼台の概要
竣  工 明治33年(1900)3月30日
運用開始 明治33年(1900)8月20日
業務廃止 明治38年10月19日 日露戦争終結による
種  別 常設海軍望楼台(佐世保鎮守府所属)
設  備 無線通信(艦船との交信設備)
任  務 海上監視、通信、気象観測
配置人員 望楼手ほか計4人(戦時中、適宜増員)

天狗鼻海軍望楼台図 (写真図のとおり)

平成22年2月  薩摩川内市教育委員会