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オニバス自生地  薩摩川内市寄田町(小比良池)

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オニバス自生地  薩摩川内市寄田町(小比良池)

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。開花写真は、現地近くの観光案内板から。

オニバス自生地

【所在地】薩摩川内市寄田町 885− 39,886 − 3,886 − 6(小比良池)
【種 別】県指定天然記念物
【指定年月日】昭和 30 年1月 14 日

オニバスは本州,四国,九州のやや富栄養化した湖沼やため池,河川等に生育するスイレン科の一年生の水草で,ハスに似ているが,根茎は短くて厚く,多くのひげ根をもち,葉や茎に針のようなするどい刺があることから「オニバス」とよばれる。葉は直径1 m以上にもなり,7月末から8月にかけて水面に姿を現し,9月頃に薄紫色の可憐な花を咲かせる。11 月頃には葉は次第に枯れ,水面から姿を消すが,熟した種子は,仮種皮と種皮の間に空気を含むので水中を移動し,仮種皮が破れた後,水底に沈んで冬を越し,翌年夏に発芽する。なおこの種子は,休眠状態で数十年は生存可能と推定されている。
指定地は薩摩川内市寄田町のため池(小比良池)であるが,薩摩川内市水引町の裸島ため池や種子島の宇宙センター内のため池にも自生が確認されている。池の水位の変動や水質変化が生育に影響を与えるので,保護には注意が必要である。

川内原子力発電所  薩摩川内市久見崎町・寄田町

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川内原子力発電所  薩摩川内市久見崎町・寄田町

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

川内原子力発電所

種 類  原子力発電所
電気事業者  九州電力
所在地  鹿児島県薩摩川内市久見崎町字片平山1765番地3号
1号機
出 力  89.0万 kW
燃 料  低濃縮二酸化ウラン 約 72 t / 年
営業運転開始日  1984年(昭和59年)7月4日
2号機
出 力  89.0万 kW
燃 料  低濃縮二酸化ウラン 約 72 t / 年
営業運転開始日  1985年(昭和60年)11月28日

川内原子力発電所(せんだいげんしりょくはつでんしょ)は、鹿児島県薩摩川内市久見崎町にある九州電力の原子力発電所。なお、 川内川を挟んだ向かい側には火力発電所である川内発電所がある。
九州電力としては玄海原子力発電所に次ぐ2か所目の原子力発電所である。九州電力は現在、3号機の増設に向けた手続きを行っている。
所在地
1、2号機:鹿児島県薩摩川内市久見崎町字片平山1765番地3
3号機計画地:鹿児島県薩摩川内市久見崎町及び寄田町

発電設備
番 号 原子炉形式 定格電気出力 燃料・装荷量 運転開始日 現 況
1号機 加圧水型軽水炉(PWR) 89万kW 低濃縮二酸化ウラン・約72トン 1984年(昭和59年)7月4日 定期点検中
2号機 加圧水型軽水炉(PWR) 89万kW 低濃縮二酸化ウラン・約72トン 1985年(昭和60年)11月28日 定期点検中
3号機 改良型加圧水型軽水炉(APWR) 159万kW 低濃縮二酸化ウラン 2019年度(平成31年度)予定 計画中

久見崎軍港跡  薩摩川内市久見崎町

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久見崎軍港跡  薩摩川内市久見崎町

現地説明板は、次のとおり。川内河口大橋近く。

久見崎軍港跡
薩摩川内市教育委員会  管理者 薩摩川内市

ここは、藩政時代における薩摩藩の軍港で、船手やドックを備えた造船所があった。
船手は藩の直轄で、藩船の造修・管理・交通運搬の取締り、唐船に関する業務のほか、海路による参勤交代の御座船の出入りなどを任務としていた。
戊辰の役に活躍した春日丸はこの久見崎で造られたものである。慶長2年(1597)、秀吉の第二次朝鮮出兵(慶長の役)にあたり、島津義弘1万人、豊久800人の大船団がこの久見崎を出港し、秀吉の死によって翌3年大方の島津勢は再び久見崎港に帰着した模様である。
なお、造船所の大工頭をつとめた樗木(おてき)氏宅に保存されていた大量の造船関係文書などは、藩政時代の造船資料として極めて重要なもので、現在川内歴史資料館が所蔵している。
平成12年3月

長崎堤防  薩摩川内市高江町

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長崎堤防  薩摩川内市高江町

土木学会HP「選奨土木遺産」による説明は、次のとおり。現地説明板は写真のとおり。

名 称 長崎堤防 ながさきていぼう
所在地 鹿児島県/薩摩川内市
竣工年 貞享4年(1687年)
選奨年 2011年 平成23年度
選奨理由
暴れ川であった川内川左岸に位置する高江町に300haの水田を誕生させた土木工事の輝かしい成果を誇る堤防で、その形状は鋸の歯型というユニークさが際立っている江戸時代の土木遺産であります。

薩摩街道渡唐口  薩摩川内市向田町

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薩摩街道渡唐口  薩摩川内市向田町

HP「ふるさと薩摩川内」による説明は、次のとおり。現地説明板は写真のとおり。

薩摩街道を歩く会  (2010.8・1)

8月1日、日曜日、午前7時。薩摩川内市向田の川内川渡唐口には、約120人の人々が集まっていました。
太平橋近くの向田渡唐口を中心とする上・下流約1.1kmの堤防では、このほど従来の堤防を補強して大きな洪水にも耐えるための工事が行われました。渡唐口は、古くから川内川の渡し船や海からの船の船着場であったため、その頃をイメージするものに復元されたのです。

この日は、この堤防の完成を記念して、薩摩街道保存会の主催による川内川以北の「薩摩街道出水筋を歩く会」が開催されました。

渡唐口は薩摩街道出水筋の重要な拠点のひとつで、ここから対岸の渡瀬口に船で渡り、大小路町、上川内町を経て現在の高城町、陽成町、湯田町、西方町から阿久根市へと北上していました。

ここ渡唐口河畔の向田町(むこうだまち)には、江戸時代薩摩藩の地頭仮屋(御仮屋)が置かれ、参勤交代時の藩主の宿泊所のほか通常は隈之城郷(当時は隈之城郷であった。)の郷士の行政執務役場となっていました。残念ながら地頭仮屋があったとされる場所は、現在のこの河川敷の場所で、当時は川が今よりもかなり狭く、川沿いに直接堤防というか高い石垣の波止場があったようです。明治以降の度々の堤防工事で堤防が次第に陸側に拡張されたようです。

御仮屋の前には、御仮屋馬場が通り、その周辺には上納米を保管するための倉庫が置かれ、商業の中心地であったため、旅館や問屋、小間物屋などもおかれ、現在の薩摩川内市地域最大の商店街(野町)として繁栄していたといいます。

▲完成した太平橋上流の堤防。渡唐口の部分だけは昔のイメージの石を使っています。

▲7時30分頃新しい堤防から太平橋を渡り大小路へ いざ出発 ここから西方町へおよそ16km
川内川のこの付近に橋が出来たのは、明治8年のことで、これが初代の太平橋です。ですからそれまでは、向田と大小路との往来は船で行っていました。この近くには相当の船だまりが出来ていたことでしょう。

耳切坂と石畳  薩摩川内市陽成町

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耳切坂と石畳  薩摩川内市陽成町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。画像を撮影するため、現地を訪ねた。
「さつま街道(出水筋) 江戸時代参勤交代の道路」図は、薩摩川内市陽成地区コミュニティセンターからの入手資料。「耳切坂」の表示がないが、「西郷腰掛石」のすぐ南側の坂である。
車だと県道340号妙徳寺の少し手前から車道奥の川に見えるポンプ小屋を目指すと、その背後あたりとなる。

耳切坂と石畳 みんきい
薩摩川内市 <出水筋(薩摩街道)> 道路、石畳道 江戸期 WEB 旧道の雰囲気がよく残り、石畳の保存状態も良好

陽成町の石敢当と田の神  薩摩川内市陽成町

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陽成町の石敢当と田の神  薩摩川内市陽成町

「陽成小学校百周年記念誌」昭和56年3月発行の186頁の説明は、次のとおり。所在図3も同173頁から。
石敢当については、記念誌に当時の写真を掲載する7「宮小平の石敢当」は、薩摩川内市陽成地区コミュニティセンターにも調べてもらったが、所在がわからなかった。16「本川の石敢当」のみ載せる。
田の神については、順に17「本川の田の神」、8「妙徳寺前の田の神」、6「宮小平麦之浦川土手の田の神」の写真。いずれも一石双体。年代不詳。

4 校区の歴史  3 記念碑や石像

(7)石敢当
陽成町には石敢当が2か所あります。中国にならったもので、魔よけとして造りました。当地ではツッキャタイドンといって、三叉路の突き当りに置いてある石塔です。
宮小平の石には「石敢当」と彫りこみ「元年」と「酉」とがわかりますから、文久元年(1861)の作のようです。本川の石には「石敢當」と彫り、年代はないが同じ頃の作のようです。
昔中国に石敢当という豪傑がいたので、石にその名を彫刻して、ここには石敢当が居るから来てはいけないと悪魔の侵入を防ぐために作ったものだそうです。

西郷隆盛愛好の湯川内高城温泉郷  薩摩川内市湯田町

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西郷隆盛愛好の湯川内高城温泉郷  薩摩川内市湯田町

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

川内高城温泉

川内高城温泉(せんだいたきおんせん)は、鹿児島県薩摩川内市湯田町(旧・薩摩国高城郡高城郷湯田村)にある温泉。
近年までは川内温泉、あるいは高城温泉と呼ばれていたが1967年に統一。また湯川内(ゆごうち)温泉と呼ばれていた時期もある。鹿児島県最古の温泉であるとされている[1]。

歴史
歴史は非常に古く、鎌倉時代にまで遡るといわれるが、発見者も外国人宣教師、近郷の住人「大谷某」など諸説紛々としている。明治時代には西郷隆盛が狩りの途中に何度も立ち寄ったといわれ、隆盛ゆかりのエピソードが多い。
泉質
単純硫黄泉 pH9.8とアルカリ度は高い。
温泉街
海岸線沿いの山間にあり、素朴な温泉宿と昔懐かしい土産物屋が軒を並べ、まさに鄙びた温泉といえる。名湯百選にも選ばれたことで有名になり、この昔ながらの温泉情緒に惹かれて訪れるリピーターも多い。宿泊施設の半数は自炊宿で、湯治、保養向けである。

鹿児島県のアーチ式石橋 上湯田橋  薩摩川内市湯田町

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鹿児島県のアーチ式石橋 上湯田橋  薩摩川内市湯田町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。

№1,119  上湯田橋

薩摩川内市湯田町
湯田川
橋長:12.6m  橋幅:4.1m  径間:10.9m  拱矢:3.6m
架設:大正8年
国道3号線佐山トンネルを出て、1.1Km北、湯田小学校入口から右折。3.6Km先に架かっています。

菅原神社と御神木(「しろたぶ」の木)の由来  薩摩川内市湯田町

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菅原神社と御神木(「しろたぶ」の木)の由来  薩摩川内市湯田町

現地説明板は、次のとおり。多分、この幼木だろう。

菅原神社とご神木(「しろたぶ」の木)の由来

菅原神社は、菅原道真公の御徳を偲び、貞治3年(正平19年)今から650年程前、この地に当時の城主高城左衛門尉重躬が神社を創建し、菅公の銅像を安置して之を祀り、別に銅像50体を設けて公の従行の人を配祀する外、田2町6反を配祀料にすると高城村沿革誌に記され、湯田では最も古い神社です。
菅原神社の「しろたぶ」の木は、その御神木として地域の盛衰を見守ってきましたが、老樹ゆえ樹勢が衰え、平成5年ついに600年余りの天寿を全うしました。
この「しろたぶ」の木は、これを惜しまれた松下末治氏が、根に生えてきた芽を大事に育てられていた幼木を、平成7年11月吉日高城西中PTA会長切通幸生氏外会員の手で当地に移植されました。菅原神社は明治14年他の2社と共に諏訪神社に合祀されましたが、この御神木(「しろたぶ」の木)は、神社創建のこの地で、御神木2世としていつまでも地域の幸せを見守りつづけてもらいたいと思います。
高城西中学校長  高城西中学校PTA  湯田地区きらめき事業