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近衛屋敷跡・龍巌寺・八坂神社  南さつま市坊津町坊

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近衛屋敷跡・龍巌寺・八坂神社  南さつま市坊津町坊

「近衛屋敷跡と藤」の現地説明板による説明は、次のとおり。説明文は説明板の裏面に記している。記念碑も近くにあるが、写し忘れた。
上の寺は龍巌寺。八坂神社は海岸側にある。

近衛屋敷跡と藤   (昭和37年11月1日市指定)
左大臣近衛信輔(のち信尹)は豊臣秀吉の怒りにふれて、文禄3年5月21日(西暦1594年)坊津に流され、翌年8月28日までこの屋敷に住まわれていた。
当時公は30才で、書画や和歌に長じ、すぐれた京文化をもたらした。
公お手植えと伝えられるこの藤は「近衛藤」と呼ばれている。なお、坊津戸主会は大正14年8月25日(西暦1925年)「関白准三宮近衛信尹公謫居舊址」の記念碑を建立。
題字は裔子近衛文麿の筆跡蹟」である。

一乗院跡  南さつま市坊津町坊

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一乗院跡  南さつま市坊津町坊

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。指定地にあった坊泊学園小学校は移転しているので、順路に従い一乗院跡史跡の見学は、自由にできる。

一乗院跡
【所在地】南さつま市坊津町坊
【種 別】県指定史跡
【指定年月日】昭和 29 年5月 24 日

坊津町坊の集落のほぼ中央部の小高くなった坊泊小学校付近に位置していた。坊泊小学校校庭の前面に残る石垣,校庭の一隅にある石造仁王像等があり,校舎の間には,礎石の一部,遺構の一部が保存されている。また後方の畠地の中には特色ある石棺型の上人墓が多数残っている。
延宝元(1673)年に著された『一乗院来由記』によれば,敏達天皇 12(583)年,百済(来由記では百羅と記す)の僧日羅がこの地に三坊を建て,阿弥陀三尊を手刻して安置し,「鳥越山龍巌寺」と称したのが始まりというが,確証はない。長承2(1138)年,鳥羽上皇は院宣によって同寺を紀州根来寺の末寺とし「如意珠山一乗院」の勅号を授けた。その後一時衰えたが,延文2(1357)年日野良成(成円)が島津氏久の協力をえて再興し,氏久は寺領 3260 町歩を寄せた。以後,島津氏の尊崇は厚く,日秀上人をはじめ名僧が輩出し,当地が中世貿易港として栄えたこととも相まって寺運高まり,近世には三州領内に真
言宗広沢派 122 寺を末寺に持つ大寺となった。廃仏毀釈によって寺は破却され,石造仁王も前の谷川に放棄されていた。
昭和 57(1982)年に発掘調査が行われ,一乗院の客殿,本堂の一部,方丈の礎石,石畳等が『三国名勝図会』のとおり発見されている。出土遺物は青磁,白磁,染付,五彩,三彩,土師器,陶磁器等が多数出土した。

鹿児島県のアーチ式石橋 中坊の太鼓橋  南さつま市坊津町坊

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鹿児島県のアーチ式石橋 中坊の太鼓橋  南さつま市坊津町坊

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。
後ろは「谷川橋」は、中坊の太鼓橋を模したようなコンクリート張り橋。「中坊の太鼓橋」と関係ないが、参考に載せる。一乗院跡の奥ノ院川(現大谷川)上流に架かる。

№1,577  中坊の太鼓橋(復元石橋)

南さつま市坊津町坊 中坊
橋長:3.8m  橋幅:4.0m  径間:3.4m  拱矢:1.9m
坊津町歴史民族資料館から国道226号線を400m南下したところ、道路わきにあります

太鼓橋(てこばし)
「昔、奥ノ院川(現大谷川)には橋がなく石伝いに渡っていたので大水がでたときには、里人たちは大変難儀をしていた。それを見かねた坊ノ浜の豪商・蒲地曽左衛門が、享保6年(1721)の10月に架けた橋である。その後、大正5年(1916)10月の県道工事で土台を残し架け替えられた。この橋は、唐(中国)の石積みの形式によったもので県内でも貴重な橋であり、形が太鼓のようになっていたところから太鼓橋(てこばし)と呼ばれた。また橋に使われた石は奥ノ院川から採ったものと伝えられている。
現太鼓橋は国道改良工事に伴い、平成13年(2001)1月鹿児島県により現在地に移設復元されたものです。」

谷川橋(新設橋)

南さつま市坊津町坊
中坊の太鼓橋を模したものでしょうか。

輝津館から見る双剣石周辺  南さつま市坊津町坊

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輝津館から見る双剣石周辺  南さつま市坊津町坊

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」、及び現地説明板の説明は、次のとおり。「六十余州名所図会」(東京国立博物館所蔵)の図と現代の双剣石写真は、南さつま市パンフレットから。坊津観光マップも載せる。

坊 津
【所在地】南さつま市坊津町大字坊字御崎
【種 別】国指定名勝
【指定年月日】平成 13 年1月 29 日

坊津は薩摩半島の西南端に発達したリアス式海岸である。古くは遣唐使の寄港地であったが,近世以降は美しい海岸の景勝地として有名となった。文禄3(1594)年に豊臣秀吉と対立して坊津に配流された近衛信輔は,坊津海岸の八つの景勝地からなる「坊津八景」を選んで和歌を残した。そのうちのひとつが屹立する巨大な二石からなる双剣石で,江戸時代の浮世絵師歌川広重の『六十余州名所図会』にも主景として描かれている。坊津は近世を通じて薩摩地方独特の海岸風景として喧伝され,その文化的背景を有する風景の価値は極めて高い。

南さつま海道八景  7 輝津館から見る双剣石周辺

輝津館からは、天に向かって剣のようにそそり立つ双剣石を見ることができます。穏やかな波間に対峙するようにそそり立ち、それぞれの高さは27メートルと21メートル。坊津入口網代湾近くに位置します。
また、双剣石一帯は、その景観に加え、歴史・文化的風景が評価され、国の名勝「坊津」として指定されています。
浮世絵で有名な歌川(安藤)広重が画題に用いるなど、江戸時代から著名な地で、周辺の網代湾で行われる漁の様子は、遠方から見物客が訪れるなど、漁業観光のはしりであったと言われています。

坊津歴史資料センター輝津館  南さつま市坊津町坊

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坊津歴史資料センター輝津館  南さつま市坊津町坊

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。長崎県大村市や最近、生月島でも発見されている薩摩塔の展示品を確認したかったが、館内は撮影禁止のため、屋外の展示物を写した。薩摩塔の写真は同館パンフレットから。

坊津歴史資料センター輝津館

事業主体  南さつま市
管理運営  南さつま市
所在地   〒898-0101 鹿児島県南さつま市坊津町坊9424番地1
アクセス  鹿児島市から車90分

坊津歴史資料センター輝津館(ぼうのつれきししりょうせんたーきしんかん)は、鹿児島県南さつま市にある博物館。

概要
日本三津の一つに数えられた坊津の交易資料、仏教資料、漁具などの民俗資料を所蔵・展示している。
主な展示品
・絹本著色八相涅槃図 – 龍巌寺(南さつま市坊津町坊)から寄託。国の重要文化財に指定。
利用情報
・休館日:館内燻蒸日、館内整理日  ・開館時間:9時〜17時
・入館料:大人300円(小中学生100円、幼児無料)、20名以上の団体大人210円(小中学生70円)

海印寺磨崖文字  南さつま市坊津町泊

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海印寺磨崖文字  南さつま市坊津町泊

ブログ「坊津遺産」史跡めぐり記事による説明は、次のとおり。国道226号から南さつま農協坊津支所の方へ入り攝光寺先の橋を渡る。水道事務所前にある大きな岩の磨崖遺跡。

海印寺磨崖文字
由来ははっきりしないが、土地の昔からの言い伝えでは、船の「とも」(船の後部)から掘ったものと伝えられる。磨崖文字からして海印寺の住職が、生きている時に、自分の冥福を祈るために掘ったものと思われます。
また、文字の他に地蔵の彫刻や祠なども海印寺橋を挟んだ両側にあります。なお、海印寺は、伊集院広済寺の末寺で臨済宗であったと伝えられます。

まっどくんかわ(弘法の井川)  南さつま市坊津町泊

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まっどくんかわ(弘法の井川)  南さつま市坊津町泊

現地説明板は、次のとおり。泊・宇都集落の中央部にあり、海岸通り国道226号沿いに見える。
地元では「まっどくんかわ」と呼んでいる。近くに東光寺末堂があったところから、この一帯を「まっどう」と呼んだことから、こう呼ぶようになったと推定されている。

まっどくんかわ(弘法の井川)
南さつま市指定有形民俗文化財  指定年月日 昭和62年8月20日
凝灰岩の切石を組んで造られた井川(井戸)で、かつてこのような井川が坊津地区に数多くみられたが、今日ではその多くが姿を消していることから、貴重なものである。
この井川の水は年中枯れることなく、付近の人々の生活用水、鰹漁業等の産業用水として使われてきた。
昔、弘法大師が西国行脚の途中、のどの渇きを覚え、この浜に杖をさしたところ、水が湧き出たという伝説が残されている。
以前は箱型だったが大正13年に現在の姿に改造された。
南さつま市教育委員会

丸木崎展望所  南さつま市坊津町泊

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丸木崎展望所  南さつま市坊津町泊

現地説明板は、次のとおり。新しいトンネルを通らず、前国道の道を上へ上がって行く。

南さつま海道八景  6 丸木崎展望所から見る泊浦一帯
丸木崎展望所からは、史と景のまち「坊津」を代表する泊浦をはじめ、風車が立つ番場山や丸木浜の景観を見ることができます。沖合には、瀬と呼ばれる小島もあり、松島や蒲鉾瀬、双子瀬、山島、人形瀬など美しいリアス式海岸の自然美が広がっています。
水平線の彼方に沈む夕日の光景は神秘的で、しばし見とれるほどの美しさです。

久志湾のアコウ  南さつま市坊津町久志

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久志湾のアコウ  南さつま市坊津町久志

現地説明板は、次のとおり。

久志湾のアコウ
科名 クワ科  樹樹 300年  幹周り 7.0m〜8.0m  齢高 19.8m〜22.0m
この2本のアコウは南薩地区を代表する巨樹です。
アコウは元来、樹勢の強い木ですがこれほどの巨樹は少なく貴重な木です。かつて、密貿易が盛んな頃には、貿易船の係留や目印に使われていたと言われています。地域の方々とともに大切に保護していきたい木です。
調査 平成22年2月  特定非営利活動法人 縄文の森をつくろう会  南薩地域振興局

落水展望所から見る亀ヶ丘岩壁  南さつま市坊津町秋目

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落水展望所から見る亀ヶ丘岩壁  南さつま市坊津町秋目

鹿児島県HPの南薩の観光ルート(坊野間風景街道)による説明は、次のとおり。

落水からは,亀の形に切り立った崖の亀ヶ丘岩壁を見ることができます。亀ヶ丘は標高387m,山頂が亀の形に見える山で,その頂には展望所・休憩所・トイレ・遊歩道が整備され,牧場にはなだらかなスロープが広がり,放牧された牛がのんびり草をはむ様子を見ることができます。山頂からは,雄大な東シナ海や起伏に富んだリアス式海岸,広大な大浦干拓や日本三大砂丘の吹上浜,快晴の日には桜島,開聞岳までが一望できます。