一乗院跡  南さつま市坊津町坊

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一乗院跡  南さつま市坊津町坊

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。指定地にあった坊泊学園小学校は移転しているので、順路に従い一乗院跡史跡の見学は、自由にできる。

一乗院跡
【所在地】南さつま市坊津町坊
【種 別】県指定史跡
【指定年月日】昭和 29 年5月 24 日

坊津町坊の集落のほぼ中央部の小高くなった坊泊小学校付近に位置していた。坊泊小学校校庭の前面に残る石垣,校庭の一隅にある石造仁王像等があり,校舎の間には,礎石の一部,遺構の一部が保存されている。また後方の畠地の中には特色ある石棺型の上人墓が多数残っている。
延宝元(1673)年に著された『一乗院来由記』によれば,敏達天皇 12(583)年,百済(来由記では百羅と記す)の僧日羅がこの地に三坊を建て,阿弥陀三尊を手刻して安置し,「鳥越山龍巌寺」と称したのが始まりというが,確証はない。長承2(1138)年,鳥羽上皇は院宣によって同寺を紀州根来寺の末寺とし「如意珠山一乗院」の勅号を授けた。その後一時衰えたが,延文2(1357)年日野良成(成円)が島津氏久の協力をえて再興し,氏久は寺領 3260 町歩を寄せた。以後,島津氏の尊崇は厚く,日秀上人をはじめ名僧が輩出し,当地が中世貿易港として栄えたこととも相まって寺運高まり,近世には三州領内に真
言宗広沢派 122 寺を末寺に持つ大寺となった。廃仏毀釈によって寺は破却され,石造仁王も前の谷川に放棄されていた。
昭和 57(1982)年に発掘調査が行われ,一乗院の客殿,本堂の一部,方丈の礎石,石畳等が『三国名勝図会』のとおり発見されている。出土遺物は青磁,白磁,染付,五彩,三彩,土師器,陶磁器等が多数出土した。