松ヶ浦のヘヤッガマ(石灰焼窯) 南九州市知覧町南別府
現地説明板は、次のとおり。指定地の海浜は、「松ヶ浦シーサイドパーク」として整備されている。
南九州市指定文化財(史跡) ヘヤッガマ(石灰焼窯)
菊紋石と呼ばれるサンゴ石を焼いて石灰を生産していた窯で、明治時代後期に自然の岩場をくりぬいて造り、高さ約2.5m、直径約2mあり、窯の内部はろうと状になっている。窯の横には、階段で、作業場とみられる洞?がある(現在は四角場浜の造成により、窯の上部だけを見ることができる)。
松ヶ浦のヘヤッガマ(石灰焼窯) 南九州市知覧町南別府
現地説明板は、次のとおり。指定地の海浜は、「松ヶ浦シーサイドパーク」として整備されている。
南九州市指定文化財(史跡) ヘヤッガマ(石灰焼窯)
菊紋石と呼ばれるサンゴ石を焼いて石灰を生産していた窯で、明治時代後期に自然の岩場をくりぬいて造り、高さ約2.5m、直径約2mあり、窯の内部はろうと状になっている。窯の横には、階段で、作業場とみられる洞?がある(現在は四角場浜の造成により、窯の上部だけを見ることができる)。
竹迫川交易跡 南九州市知覧町南別府
知覧町東塩屋の相之浦湊から少し市道を東へ竹迫橋まで進む。相之浦湊と同じような竹迫川河口を利用した「竹迫川交易跡」史跡説明板があった。
相之浦のめくい(舟繋穴) 南九州市知覧町南別府
サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。後ろは「相之浦」現地説明板から。
相之浦のめくい あいのうら
南九州市 東塩屋 舟繋穴 10数ヶ所 江戸期 市教委(文化財ガイド・知覧p163) 保存状態やや良好 2 B
相之浦(東塩屋の海運業)
東シナ海に面し、硫黄島や遠く屋久島まで望め、河口を利用し陸地へ深く切れ込んだこの港は、相之浦・藍之浦・逢之浦・饗之浦などいくつかの表記を持つ江戸から明治にかけて海上交易で栄えた港です。
わずか4Km余りの知覧町海岸には、古くから交易のあったことを示す史跡が多く残されています。港の岩をくり貫いて、もやい綱を結びつけるための「めくい」、13世紀からの貿易陶磁器の散布地、海運の繁栄を思わせる蔵の並ぶ町並み、交易船の往来を管理した浦役所跡、琉球から伝えられた石敢當、船から荷を揚げるために岩場を掘り下げた掘り割りなどがそうです。
東塩屋で1月3日に歌われる「乗り初め歌」は、中世からの「御船歌」の影響がうかがえるとか、平安時代に僧俊寛が鬼界ケ島(現在の硫黄島)に流された逢之湊は、この湊ではないかという興味深い意見もあります。
鹿児島県のアーチ式石橋 園山橋 南九州市知覧町南別府
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。
№831 園山橋
知覧町南別府
東塩屋川
橋長:5.0m 橋幅:7.8m 径間:4.5m 拱矢:2.2m
架設:不詳
国道226号線、県道262号線との交差点から国道226号線を西進、1Km先左折、100m先右折50m先に架かっています。
御茶屋の場公園 南九州市知覧町塩屋
現地説明板は、次のとおり。一部刻字不明、判読間違いもある。後ろは近くで見た御本陣や浦役所跡碑など。
御茶屋の場記念碑
享保9年(1724)3月29日、藩主島津継豊南薩(さつ)巡視の際、知覧領主島津久豪は、景勝のこの地を選び、茶亭(てい)を設けて歓待した。□に御茶屋の場と称えて遺跡の名を留めている。
昭和39年3月建 知覧町
耳取峠展望所 南さつま市坊津町坊
南さつま市坊津町 観光案内マップ、及び現地説明板による説明は、次のとおり。
⑫耳取峠
薩摩富士「開聞岳」から連なる薩摩半島の海岸を一望できる場所。江戸時代、耳取峠からの絶景は「本藩(薩摩藩)第一」と称されるほどでした。
耳取峠
耳取峠の地名は、この地で罪人の耳を切取っていたという説と、この峠に来た人々が眼下にひろがる眺望のすばらしさに見ほれ、立ちつくしたことから、見ほれが訛って、耳取りになったという説があります。
明治の歌人高崎正風は「玉敷きの都あたりに移しなば世にふたつとなきところならまし」と詠い、ここを絶賛しています。
坊の町並みの石畳 南さつま市坊津町坊
坊の町中には、旧海商の屋敷や、古い石垣、石段、石組造りの古い井川(井戸)などが残り、往時の港町の雰囲気を漂わせている。
古い石段や石畳道は、随所で見たので、主なところをピックアップした。案内板やパンフレットによって、さまざまな場所を書いている。
NPO法人・坊津やまびこ会(観光ボランティア)サイト「坊津へようこそ」景観の案内による説明は、次のとおり。
坊 浦 栄華に築いた歴史の湊町
坊浦は、古来中国・南方貿易等の重要港として繁栄を誇った港でありますが、江戸時代初期の秘密貿易に変わり、享保(西暦1722年)の唐物崩れでついに漁港に転身しました。その間一千数百年もの間、栄華が華咲いた輝かしい歴史が存在しました。
”坊津千軒いらかのまちも 出船千艘(せんぞう)の帆にかくる” と唄われたのは、この時代をたとえて表現されています。
しかし、唐の港と呼ばれ、また鶴の港とも呼ばれた坊の港も、今は大きな歴史の流れの中で、沿岸漁業の小型船が浮かび、静かな漁港になっています。
なお、景観はエメラルドブルーをたたえた美しい入江が、華やかな栄華の昔を静かに物語っているかの様であります。折り重なった瓦屋根の家々や荒削りの石垣・石畳には、古き良き時代のたたずみが残されており、港の内外には国名勝指定の 「双剣石」 などの奇岩怪石が風景にアクセントを加え、海底は白砂清澄で訪れる旅人の目を奪うほど感動させられます。
現在、夏場を中心に 「瀬渡し船」 が、釣り場やレジャー用に、それぞれのポイントに気軽に案内するサービスが盛んで好評を博しています。
秘密貿易屋敷跡 南さつま市坊津町坊
NPO法人・坊津やまびこ会(観光ボランティア)サイト「坊津へようこそ」史跡の案内による説明は、次のとおり。
秘密貿易屋敷跡 幕末の豪商「森家」
坊津で秘密貿易屋敷(官許貿易に対して)として公開されていた森家は現在八代目にあたります。坊津では享保(西暦1716年)以降も、規模はともかく商いに従事していた者も多かったが、その中でも坊の森家は、幕末の豪商として知られています。
森家は鰹漁業と販売を営み、かたわら海運業者であり島津藩の御用船としても活躍したと言われています。 四代目森吉兵衛が記録した 「坊津拾遣史」 によると初代は安永元年(西暦1772年)からで、当初は海産物である塩漬けや魚の販売で、二代目から屋久島のサンゴ採取をしたり、坊津での金山試掘などを行い、幕末まで巨額の富を蓄えていきます。
尚、森家以外にも坊津では多くの豪商たちが存在していましたが、歴史の流れの中で、江戸時代の建物は老朽化のため大規模に改造されたり、建て替えられたりして現存している建造物は数少なくなりました。
これらの豪商たちが保管していた中国を中心とする輸入品など貴重なものは、現在、南さつま市の歴史資料 「輝津館(きしんかん)」 等に展示されていますので、是非訪れて見て、素晴らしい繁栄の時代を振り返っては如何でしょう。
船戸神社と庚申塔 南さつま市坊津町坊
NPO法人・坊津やまびこ会(観光ボランティア)サイト「坊津へようこそ」史跡の案内による説明は、次のとおり。
こさっどん 船戸神社
下浜の県道の南側突き当りに船戸神社があります。祭神は猿田彦命ですが、これは中国の岐神(くなど)道祖神で、もともとは道路の神様でしたが、日本へ渡って狩猟や農業の神、地元では漁業の神として祭られてきました。
また、この辺りを「こさっどん」と言う所から高札の場所(法度などを記した立札を立てていた場所)であったと言う説と、沖縄県の石垣島にある崎原御岳(さきはらうたき)の伝説の白髪の老人が、八重山から坊津に鍬、鋤、鎌などの農具を求めに来、開けてはならない「櫃(ひつ)」を授けたと言う話が、沖縄の琉球国由来記の14に伝えられています。 これらから推定しますと「こさっどん」は「耕作」つまり農業の神として祭っていたことも想定されます。
現在でも石垣島の大浜村に有名なヒルマクイ、幸地玉ガネ兄弟が坊津へ渡った話と、その時の「櫃」の中の神を崎原御岳に新神と称して祭ってあるとのことです。
庚 申 塔 市指定文化財
下浜集落の船戸神社の上手の細い道の脇にあります。指宿市山川町でしかとれない黄色っぽい山川石と称する石で出来た三重層の塔で、県下でも二番目に珍しいものである。
下層正面に青面金剛(しょうめんこんごう・病魔や病鬼を追い払う菩薩)を中心に鶏、三匹の猿が彫ってあり左側に奉寄進庚申結衆中、右側に宝永8年(西暦1711年)などの文字が鮮明に判読できます。 道教の影響を受けた庚申講(こうしんこう)と関連があると言われています。
これは平安時代以降盛んだった民間信仰組織で、干支(えと)の庚申(かのえさる)にあたる夜は徹夜して、会食・談合を行う信仰があり、後に社交の場として継続されて来たようではありますが、現在では以前の様な習慣は途絶えているおります。
下浜公園の下浜滝磨崖仏・石管水道 南さつま市坊津町坊
現地説明板は、次のとおり。下浜滝磨崖仏は、説明板表示の場所に近かずけず、確認できなかった。
下浜公園案内図
●下浜滝磨崖仏
御身丈約75cm「地蔵菩薩」と思われる。由来ははっきりしないが一説には、この滝まで海だった頃、船の艫から彫ったものと考えられる。町内では数少ない磨崖仏である。
●石管水道
築路の鰹節製造納屋まで水を引くために造られたものという。約40cmの石管を滝の水源から岐神社下の井川(用水兼用)までつなぎ合わせた水道管である。築造については、江戸末期と明治初頭の二説があるが詳かでない。当初は現在の対岸にあったものである。なお、石管水道の流末水は橋の中央部より流水されていた。