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黒浜ダムの稜線尾根縦走と草刈り整備  2013年3月

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黒浜ダムの稜線尾根縦走と草刈り整備  2013年3月

2013年3月3日(日)快晴。黒浜ダムの稜線尾根縦走と草刈り整備。参加10人。みさき道歩会の例会。黒岳(標高243.6m)ほか、岳路尾根の2つのピークに登る。
黒浜10:00—尻喰坂峠10:33—市道出合11:21—黒岳12:22(昼食)13:00—みさき道鶴山分岐13:42—サイクリング道路14:07—岳路尾根157.5mピーク—136mピーク
15:03—岳路墓地16:19—黒浜16:35(徒歩距離 約6km)

三和行政センター前集合。黒浜へ車で移動し、10:00から歩き出す。黒浜トンネル手前から岳路みさき道により尻喰坂峠を目指す。峠の分岐で左の尾根道を上がると、黒浜からの市道といったん出合う。さらに登ってサイクリング道路を突っ切り、尾根道が急になると、黒岳山頂へ出る。
標高243.6m三角点と長崎要塞区域標第七号がある。黒岳はわれわれの通称。正式名は「石転シ(コロバカシ)」か。13:00まで昼食。

午後は黒岳からみさき道本道へ下り、旧野母崎・三和町境地点まで戻る。ここからサイクリング道路へ降りると、いよいよ岳路尾根の黒浜ダム稜線縦走となる。地図には5つの高いピークがある。特に157.5mピークと136mピークは展望が良い。稜線の道の踏査と整備しながら歩いたので、黒浜へ16:35戻った。上から黒浜ダムが良く見えなかったので、ダムは帰りに写した。
経験者向きのコース。地図のとおり鶴山往復の加味や、実際は尾根を黒浜ダム駐車場まで歩ける。

長崎の古写真考 長崎古写真 長崎港

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古写真 長崎港

長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI
長崎古写真   1896年長崎港

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古写真の中にある「1896年長崎港」は、長崎港口の風景。左の山は天門峰である。
海上からの撮影と思われそうだが、船は揺れる。当時の写真機ではまだ無理だろう(スケッチはできる)。必ず陸地に撮影できたポイントがある。
長崎大学データベースには、この面で誤って「海上から」などとしているタイトルが多い。

現在の写真は、小ヶ倉埠頭から写してきたが、「1896年長崎港」の撮影地は、長崎市小ヶ倉支所後ろに、現在は埋め立て陸続きとなっている小島の「小ヶ倉神社」高台からか、島の瀬からと思われる。
ここに立たないと、天門峰と背後の山の稲佐山や福田ゴルフ場の稜線の重なりが合わない。
現在は完全に写せる場所が、どうしても限られる。

長崎の古写真考 長崎古写真 自動車

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古写真 自動車

長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI
長崎古写真        自動車 Automobile 1915年(1)

長崎手彩色古写真   長崎港 B-206 HARBOUR NAGASAKI (PART 2)

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古写真の中にある「自動車 Automobile 1915年(1)」に写る十字架の塔は、長崎手彩色古写真にある「中町カトリック教会」であろう。
したがって、自動車が走る通りは、一段上の筑後町との間の交差点と思われる。

長崎の古写真考 長崎手彩色古写真 女神の小島

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎手彩色古写真 女神の小島

長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI
長崎手彩色古写真  69 高鉾島

長崎古えはがき   長崎女神検疫所          

目録番号:3839 女神検疫所
〔画像解説〕 
明治後期から大正初期(1900年前後)の長崎港口の女神検疫所の全景。手彩色の絵葉書である。明治13年(1880)年に、長崎市市街地から遠く離れた、長崎港口の女神に外国船のための検疫所が設置された。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎手彩色古写真の中にある「69 高鉾島」は、写真中央の沖に浮ぶ島が「高鉾島」である。
さて、左手前の小島はどこだろうか。これは、長崎古えはがきの「長崎女神検疫所」や、長崎大学データベースの目録番号:3839「女神検疫所」に写る。
現在の女神大橋交差点、長崎市戸町5丁目「長崎市南部下水処理場」敷地角や国道となったあたりにあった小島であろう。

小島は古絵図の「長崎港警備図」や「長崎港精図」にも表れている。いちばん場所がわかりやすいのは、明治17年測図国土地理院旧版地図である。
島の名前やいつ埋立てられたかは不明である。

長崎の古写真考 長崎手彩色古写真 長崎港

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎手彩色古写真 長崎港

長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎手彩色古写真
長崎港

目録番号: 977 ドンの山から見た長崎港と出島
〔画像解説〕 
中央に出島、手前に新地蔵、梅ケ崎の居留地が写っている。出島の海側の線が鮮明に見える。新地と居留地を結ぶ木橋(梅ケ崎橋)が写っている。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

「長崎手彩色古写真」長崎港の中にある写真は、撮影地の説明がないが、長崎大学データベースの目録番号: 977「ドンの山から見た長崎港と出島」(超高精細画像のタイトル「十人町より」は間違い)のとおり、ドンの山から(手彩色古写真の実際は、まだ下の方。中新町車道終点の墓地あたり?)撮影していると思われる。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/3538

「徳三寺境」の標石  長崎市田上2丁目

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「徳三寺境」の標石  長崎市田上2丁目

田上2丁目の徳三寺右側から祝捷山公園へ坂段を登ると、上の公園のフェンス角にある。公園駐車場からもすぐ行ける。一部欠けているが、「徳三寺境」と刻む古い標石。
2007年2月には、徳三寺からのこの登り口近くで、昭和13年「長崎市史」に記している明治
44年「祝捷山登口」碑が見つかっているので、本ブログ次の記事も参照。
https://misakimichi.com/archives/5435

長崎市立博物館編「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」平成14年発行の86頁は、次のとおり。
141 観音寺跡 (所在地:田上2丁目9・10番 徳三寺)
黄檗宗。元禄年間(1688〜1704)隠元の法孫天洲が開創。維新後廃寺となったが、杉山徳三郎によって徳三寺(臨済宗・大悲山)が明治29年に開創された。島原藩主高力攝津守忠房は大浦に別荘を構えていたが、同寺の楊柳泉で点てた茶を好んだといわれ、忠房が楊柳泉と命名したという。

2−L 深堀城山山頂  (確認 長崎要塞第三?地帯標 第八号)

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2−L 深堀城山山頂  (確認 長崎要塞第三?地帯標 第八号)

深堀城山は、山頂を囲むように円形の石垣城塁が築かれ、中心に八幡神社が祀られている。すぐ近くに三角点標高350mとともに「陸軍省」の標石のあることは人に知られ、「長崎県の山歩き」にも記録されている。
標石「長崎要塞第二地帯標」「第八号」である。
高橋氏は先年、登路を間違え苦労されたが、城山山頂へ登り標石を確認されていた。深堀村と土井首村の村境にあり、略図の地点に間違いない。

この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/214
以上は2007年8月16日の記事であるが、 深堀城山山頂には、この「長崎要塞第二地帯標 第八号」とは別に、50mほど離れた広場にあと1本、同じような要塞標が残っていることがわかった。

先日2月24日(日)、景観まちづくりトーク&ウォーク「俵石城の縄張り構造と深堀氏」の際、配られた講演資料「俵石城縄張り図」(村田修三氏作図 *畝状竪堀群は未調査)に、この標石が表示されている。
これまで存在を知らなかったので、おかしいなと思いながら、深堀城山へ着いてから山頂広場を調べた。確かに50mほど離れて、あと1本があったのである。

標石は、写真のとおり。刻面は「長崎要塞第三地帯標」と違うが、ここは本来「第二地帯標」が立つ区域。「第八号」だから、同じ標石と見てよい。
なぜ2本残ったか。要塞法はしばしば改正があり、標石の転用・改刻も多く、真相は不明。

深堀にもあった「ゆうこう」の木  長崎市深堀5丁目

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深堀にもあった「ゆうこう」の木  長崎市深堀5丁目

2月24日(日)景観まちづくりトーク&ウォーク「俵石城の縄張り構造と深堀氏」の際、参加者の方から「自宅の庭にある」と聞き、ウォーク終了後に訪ねた。
深堀5丁目の「深堀貝塚遺跡資料館」の車道向い側、浦川さん宅の広い庭。幹囲60cm、樹高5mほど。2本あったが、1本は枯れた。
土井首や大籠には多くあるが、深堀の町中で初めて見つかった「ゆうこう」の木である。

長崎市編入50周年記念「茂木今昔」の編集内容

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長崎市編入50周年記念「茂木今昔」の編集内容

このことについて、2013年1月29日に「長崎市市政への提案」をしたところ、2月26日付の長崎市広報広聴課長・茂木支所長・文化財課長の回答は次のとおり。
特に茂木支所管内の住民のみなさんは、よく読んでもらいたい。古写真や古絵葉書の著作権は何も問題はない。要望の件は、地元を愛する気持ちがあれば、すべてクリアできる。
地元の自分たちがしなければならないことをしないで、このような的外れな回答をしている。市費や自治会会費などが、こんな使い方をされたら困るのではないでしょうか。
せっかくの長崎市編入50周年記念事業の汚点となります。

長崎市編入50周年記念「茂木今昔」の編集内容 (2013年1月29日提案)

旧茂木町の長崎市編入50周年を記念して、茂木地区の古写真と現在の写真を対比した「茂木今昔」が編集され、市茂木支所に展示し、DVDを公開しています。先日はNBC報道センターのニュースもありました。

長崎市茂木支所の苦労作ですが、その割には研究が足りず、茂木地区の貴重な古写真が、まだ眠っています。次は私が長崎大学古写真データベースなどから見つけている作品で、ブログ記事を参照ください。これほか多くの記事を載せています。
https://misakimichi.com/archives/2218
https://misakimichi.com/archives/2084
https://misakimichi.com/archives/3127
https://misakimichi.com/archives/5429
ブライアン・バークガフニ氏の研究紀要「古写真と絵葉書に見る茂木街道」もありますから、参照ください。
https://misakimichi.com/archives/2795

以上をふまえ、次のことを検討されるようお願いします。
1 上記の新しく見つかった古写真や絵葉書は、現地再確認を地元支所・史談会としてくれぐれもお願いします。
2 茂木地区の関係作品と判明したら、それを含めこの際「茂木今昔」を再編集することはできませんか。
3 このままでは、地元の期待に沿える内容となってなく、不完全な資料です。公開はどうかと考えます。
4 「茂木今昔」編集の話を聞き、事前にこのことを情報提供しょうとしたら返答ありません。茂木支所の対応は問題があります。
5 長崎大学古写真データベースの改善について、長崎市長として強く申し入れてください。長崎学とはなっていません。
6 市長の要望書は、ふるさと再生事業の古写真でもお願いしました。他人事のような回答は、もう結構です。
7 研究は、茂木地区の中心地域だけではなく、管内全体にも広げてください。
8 不完全な研究は、市費の無駄遣いととられます。茂木支所は十分に心して研究してください。
9 昭和33年「茂木町郷土史」以来の、後世に残る立派な内容の「茂木今昔」が完成するよう期待しています。

平成25年2月26日
ご投稿者 様
広報広聴課長・茂木支所長・文化財課長  

回答が遅くなりましたことをお詫びします。
ご投稿いただきありがとうございます。ご提案について、次のとおり回答いたします。
長崎市編入50周年記念「茂木今昔」となっていますが、「茂木をたずねて」のことではないかと思います。長崎市編入50周年記念誌は、旧茂木町編入50周年記念事業実行委員会から発行予定となっております。
「茂木をたずねて」は、作製のための事業予算を組まずに、支所業務の合間や休日等を利用して作製したもので、無料で著作権がクリアしたものを使用しています。また、全ての古写真等を使用したものでもありません。
個別の検討事項については、次のとおり回答いたします。
1の古写真や絵葉書については、上記理由により使用していません。また、現地確認を行う予定もございません。
2については、現在、再編集を行う予定はありません。
3については、ご意見としてうかがいます。
4については、長崎大学の古写真の撮影地についての内容でしたので、こちらからお答えできるものではないと判断し、お尋ねしませんでした。
7については、茂木をたずねてに掲載している写真は、田上から茂木港周辺を除いた地区は少ないものの、茂木地区全体を対象としています。
8、9については、茂木をたずねての作製のための事業予算を組まずに作製しており一定の成果を出せていると考えます。
【提案内容 5、6について】
長崎大学附属図書館所蔵の「幕末・明治期日本古写真コレクション」につきましては前回の回答のとおり、長崎大学附属図書館において調査研究をされ、現在のホームページによる公開を行われていると理解しておりますので、今回のご提案内容につきましても、附属図書館に対して、直接ご提案されてはいかがかと存じます。

長崎の古写真考 長崎手彩色古写真 一の瀬橋

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎手彩色古写真 一の瀬橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI 長崎手彩色古写真
a   (一の瀬橋)

目録番号:5635 蛍茶屋と一の瀬橋(2)
〔画像解説〕 
一の瀬橋と蛍茶屋。このあたりを一の瀬といい、蛍の名所で「市瀬晴嵐」として崎陽八景に数えられている。蛍茶屋は長崎を訪問する旅人が市街地に入る入口であり、長崎を発つ人々が別れを惜しんだ場所でもある。橋は承応2年(1653)、唐通事の陳道隆が私財を投じて架設した。これまで崩落の記録はない。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

「長崎手彩色古写真」aの中にある石橋は、タイトルがないが、長崎大学データベースの目録番号:5635「蛍茶屋と一の瀬橋(2)」のとおり、蛍茶屋の「一の瀬橋」である。