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仙巌園附花倉御仮屋庭園(2)  鹿児島市吉野町磯

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仙巌園附花倉御仮屋庭園(2)  鹿児島市吉野町磯

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。旧集成館(史跡)、旧集成館機械工場(建造物 現在の尚古集成館)も、国指定文化財である。

仙巌園附花倉御仮屋庭園
【所在地】鹿児島市吉野町磯
【種 別】国指定名勝
【指定年月日】昭和 33 年5月 15 日

仙巌園は,万治元(1658)年,島津光久が別邸として造営したもの。姶良カルデラ(シラス台地)の絶壁を後背地としているため奇岩奇石が多く,その景観が中国竜虎山の仙巌に似ているところから「仙巌園」と名付けられた。桜島や鹿児島(錦江)湾を庭の主観に取り入れた借景庭園で,その雄大さは類例をみない。
また島津吉貴は曲水の庭を築き,琉球経由で中国産の孟宗竹を取り寄せて元文元(1736)年に裏山に移植させた。19 世紀には斉興が,海岸部を埋め立てて庭地を拡大し,裏山の岩に「千尋巌」の文字を彫らせた。曲水庭・孟宗竹林・千尋巌,琉球王から贈られた望嶽楼等,中国庭園の影響を受けたものが数多く存在する。
また,現存する御殿は,明治 17(1884)年に建てられたものである。幕末・明治時代は,鹿児島の迎賓館的存在で,イギリス公使パークスやロシアのニコライ二世などの外国の要人もここを訪れた。
花倉御仮屋は,弘化4(1847)年ごろ,斉興が製薬所の敷地となった中村御茶屋の代わりに築かせたものである。建物は,文久3(1863)年の薩英戦争の後,姫たちの避難所とするため国分仮屋に移され,維新後,花倉に戻すため鹿児島築地の倉庫に搬入されたが,明治 10(1877)年の西南戦争で焼失した。現在は石垣・石橋等が遺されている。

仙巌園附花倉御仮屋庭園(1)  鹿児島市吉野町磯

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仙巌園附花倉御仮屋庭園(1)  鹿児島市吉野町磯

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。旧集成館(史跡)、旧集成館機械工場(建造物 現在の尚古集成館)も、国指定文化財である。

仙巌園附花倉御仮屋庭園
【所在地】鹿児島市吉野町磯
【種 別】国指定名勝
【指定年月日】昭和 33 年5月 15 日

仙巌園は,万治元(1658)年,島津光久が別邸として造営したもの。姶良カルデラ(シラス台地)の絶壁を後背地としているため奇岩奇石が多く,その景観が中国竜虎山の仙巌に似ているところから「仙巌園」と名付けられた。桜島や鹿児島(錦江)湾を庭の主観に取り入れた借景庭園で,その雄大さは類例をみない。
また島津吉貴は曲水の庭を築き,琉球経由で中国産の孟宗竹を取り寄せて元文元(1736)年に裏山に移植させた。19 世紀には斉興が,海岸部を埋め立てて庭地を拡大し,裏山の岩に「千尋巌」の文字を彫らせた。曲水庭・孟宗竹林・千尋巌,琉球王から贈られた望嶽楼等,中国庭園の影響を受けたものが数多く存在する。
また,現存する御殿は,明治 17(1884)年に建てられたものである。幕末・明治時代は,鹿児島の迎賓館的存在で,イギリス公使パークスやロシアのニコライ二世などの外国の要人もここを訪れた。
花倉御仮屋は,弘化4(1847)年ごろ,斉興が製薬所の敷地となった中村御茶屋の代わりに築かせたものである。建物は,文久3(1863)年の薩英戦争の後,姫たちの避難所とするため国分仮屋に移され,維新後,花倉に戻すため鹿児島築地の倉庫に搬入されたが,明治 10(1877)年の西南戦争で焼失した。現在は石垣・石橋等が遺されている。

鹿児島県のアーチ式石橋 金山橋ほか  姶良市加治木町小山田井出向

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鹿児島県のアーチ式石橋 金山橋ほか  姶良市加治木町小山田井出向

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。金山橋のすぐ上流にあるのは、「板井手の滝」。高さ8m,幅15mほどの滝。

№220  金山橋

姶良市加治木町
市指定文化財
橋長:23m  橋幅:4.2m  川床からの高さ:10m
架設:明治13年頃
東九州自動車道、加治木インターより県道55号線へ、「龍門滝」案内板に従って進みます。

金山橋
「金山(きんざん)橋は、その名のとおり鉱山で採掘する金鉱石や物資を加治木港に運搬した金山道路に架けられた石橋で、この橋を第一金山橋とし、溝辺町には山ヶ野金山に向けて第二、第三金山橋が架設されました。
この橋は、円弧の美しいアーチ形で、橋の長さは23メートル、橋の幅は4.2メートル、現存しませんが欄干跡が残り、通行部の幅は3.4メートル、川床からの高さは約10メートルあります。
円弧の大きさ、高さなど石橋造りの高い技術水準とこの道が当時の重要な産業道路であったことが窺い知れます。
金山橋は、島津家が金山経営のために明治13年頃造ったといわれていますが、残念なことに築造に関する詳しい資料は残っていません。
また、上流の滝は「板井手の滝」「金山滝」と呼ばれていて、滝と石橋の組み合わせの絶妙な景観は、独特の風情を醸し出しています。」   姶良市教育委員会

№579  金山橋横太鼓橋

姶良市加治木町 井手向
橋長:2.0m  橋幅:5.5m  径間:1.9m  拱矢:0.8m
架橋:明治
金山橋を渡った横の水路に架かる。

さえずりの森高倉展望台  姶良市加治木町西別府

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さえずりの森高倉展望台  姶良市加治木町西別府

HP「マーチ〜ドライブステーション〜」鹿児島県による記事は、次のとおり。龍門司坂上部の車道を左へ進むと、高倉展望台に着く。

高倉展望台

鹿児島湾の北にある姶良市の加治木の街から北の山間部にあるさえずりの森に高倉展望台があります。
加治木ICからは先ず竜門滝へと進みます。県道55号(栗野加治木線)を北へ400m程進み、九州自動車道を潜った先で左へ曲がる。その後は網掛川の手前で北側に曲がって500m位で竜門滝駐車場に辿り着きます。
竜門滝駐車場手前で西へ網掛川を渡ります。突き当たりのT字路にて右折し北へ進む。森の中に入り坂道を登っていくと、さえずりの森への案内のある分岐があります。分岐に左折して西に進む。その後は案内を頼りに進めば高倉展望台の駐車場に辿り着きます。

駐車場から少し登ると直ぐに展望台です。眺望案内図の先に景色が開けて南方面を見渡せます。眼下に田畑、その先に加治木の町並み、鹿児島湾(錦江湾)、桜島。素晴らしい絶景です。なにより正面にある桜島が絵になります。

龍門司坂  姶良市加治木町木田高井田

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龍門司坂  姶良市加治木町木田高井田

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。
平成8年に文化庁より「歴史の道百選」に選定された。 大河ドラマ「篤姫」のロケ地としても有名。

大口筋 白銀坂 龍門司坂
【所在地】白銀坂 鹿児島市宮之浦,姶良市姶良町大字脇元,大字平松
龍門司坂 姶良市加治木町木田
【種 別】国指定史跡
【指定年月日】平成18年7月28日

江戸時代の鹿児島藩では,街道のことを「筋」と呼称し,「出水筋」や「大口筋」,「加久藤筋」,「日向筋」などがあった。
「大口筋」は,鹿児島 城 下・吉野・吉田を経て白銀坂を下り,重富・ 帖 佐・加治木・龍門司坂・溝辺・横川・菱刈・大口・小川内関所から亀坂を越え,熊本県境の亀嶺峠を石坂に下り水俣に通じる,全長約70km 余りの街道のことである。この街道の中で,「白銀坂」と「龍門司坂」はそれぞれ石畳が敷かれて整備されており,現在も良好に保存されている。
「白銀坂」は,姶良町から鹿児島市宮之浦町までの街道で,指定距離は2,867m で,約3分の2で石畳が残っている。この峠道の山並みは,古代以来薩摩国(鹿児島市側)と大隅国(姶良町側)との国境であった。
「龍門司坂」は,加治木から溝辺につながる大口筋の一部で,全長は約1,500mのうち,現存する石畳部分の
486.8m が指定された。石畳は平均幅4m,広いところでは7m を測る。
「大口筋」は江戸時代に参勤交代のルートとしても用いられた。また,「龍門司坂」は明治10年2月に,大勢の人々に見送られ,西南戦争で熊本方面を目指した総数6000名とも言われる薩軍兵士がこの坂道を登って進軍して行ったとされる。                      

龍門滝  姶良市加治木町木田高井田

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龍門滝  姶良市加治木町木田高井田

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。後ろの3枚は、滝上部の滝見展望所から。

龍門滝
所在地 鹿児島県姶良市加治木町
落差 46m  滝幅 43m
水系 網掛川

龍門滝(りゅうもんだき、りゅうもんのたき)は、九州南部を流れる網掛川中流にある高さ46メートル、幅43メートルの滝であり鹿児島県姶良市加治木町に位置する。日本の滝百選に選ばれている。
網掛川がシラス台地から姶良平野へ流下する出口にあたり、比較的開けた場所にあるため、九州自動車道を走行する車内からなど、遠方から眺めることもできる。上流から農業用水が取水されるため季節や天候によって水量が大きく変動する。特に5月末から9月にかけての農繁期に少雨が重なると滝の流れはほとんどなくなることがある[1]。滝の近くに龍門滝温泉がある。龍門滝北方上流にある板井手の滝までの渓流沿いや、西方にある石畳道の龍門司坂までの地域は「龍門滝の森」と名付けられている。
龍門滝の岩盤は更新世に国分層群と呼ばれる地層へ貫入したマグマが冷えて固まった安山岩であり、柱状節理が発達している。龍門滝の南東約1キロメートルに聳える蔵王岳も同様なマグマの貫入によってできた火山岩頸である[2][3]。

歴史
中国の龍門瀑に似ていることから龍門滝と名付けられた[4]。藩主島津忠恒の和歌に詠まれたり、橘南谿の『西遊記』において賞賛を受けるなど薩摩藩内随一の名滝として知られ、儒者の安井息軒もここを訪れている。加治木城主の島津久徴が滝近くの丘に建てさせた観音像が今も残されている。
かつて滝が森に囲まれていた頃、老婆が滝壺で洗濯をしていると大波が起こり大蛇が現れたという伝説があり、それ以降滝壺で洗濯する者はなくなったといわれる。また、全長4-5尺(1.2-1.5メートル)の亀が生息していたともいわれる[4]。
1989年(平成元年)、周辺に遊歩道やツツジ園などが整備された。1990年(平成2年)4月12日、日本の滝百選に選ばれた。

参考文献
・加治木町郷土誌編さん委員会編 『加治木町郷土誌』 加治木町長宇都宮明人、1992年
・加治木町による現地看板

旧田中家別邸附棟札1枚と庭園  霧島市福山町福山

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旧田中家別邸附棟札1枚と庭園  霧島市福山町福山

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。庭園は、霧島市指定文化財(名勝地)。

旧田中家別邸附棟札1枚
【所在地】霧島市福山町福山2926番地
【種別】県指定有形文化財(建造物)
【指定年月日】平成18年4月21日

霧島市福山町出身で関西財界の重鎮となった田中省三(たなかしょうぞう)が大正11(1922)年に建てた別荘である。
伝統的な和風住宅を基本としながらも,各所に数寄屋風や意匠を表現している。洋間の漆喰工事は見事で,特に天井の花文様はすばらしい。マントルピースや窓の形態も独特である。この和風住宅部と洋間の融合が見事であり,大正時代の特徴をよく表している。
建設時期,施主及び施工者がわかる棟札も貴重である。

福山のイチョウ  霧島市福山町福山

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福山のイチョウ  霧島市福山町福山

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

福山のイチョウ
【所 在 地】霧島市福山町福山 2437
【種  別】県指定天然記念物
【指定年月日】昭和 39 年6月5日

福山町宮浦宮の社殿の両側に,2本のほぼ同じ大きさのイチョウが生えている。向かって右側のものは樹高
38m,胸高周囲 7.55m,左側のものは樹高 38.6m,胸高周囲 7.68m とほぼ同じ大きさで,樹齢はどちらも1,000 年以上といわれるが,木の大きさからすると600年ぐらいと思われる。右側の木には,寛政3(1791)年の大火による傷痕があり,左側の木には,明治 10(1877)年の西南戦争の際に政府軍の砲撃を受けた弾痕が残っており,歴史の重みを感じさせる。
イチョウは裸子植物イチョウ科の落葉高木で,原産地の中国から導入され,室町時代頃からよく植栽されるようになったといわれる。病害虫に強く,火や熱によく耐え,長命であるため,昔から各地の神社仏閣に植えられ,巨木となって残っているものが多い。また,種子のぎんなんは食用としてもよく利用される。
このイチョウは全国的にはそれほど大きいものではないが,鹿児島県では最大級のものであり,しかも上記のように由緒ある木であることから天然記念物として指定された。

鹿児島県のアーチ式石橋 野久美田橋  霧島市隼人町野久美田

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鹿児島県のアーチ式石橋 野久美田橋  霧島市隼人町野久美田

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。

№263  野久美田橋

霧島市隼人町野久美田(のくみだ)
清水川
橋長:13.4m  橋幅:4.60m  拱矢:2.74m  径間:5.48m
架橋:明治4年9月

国道10号線を西進し、隼人道路をくぐる約300m手前、右手旧道に架かっています。

隼人塚  霧島市隼人町内山田

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隼人塚  霧島市隼人町内山田

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

隼人塚
【所 在 地】霧島市隼人町内山田 265 − 3
【種  別】国指定史跡
【指定年月日】大正 10 年3月3日

『古事記』,『日本書紀』,『風土記』等に記載されている古代南九州の熊襲・隼人の反乱にちなんだ史跡として指定された。元は高さ3 m の丘の上に,多重石塔3基と四天王石像4体が立っていた。平成8,9(1996,97)年度に塚本体の発掘調査が実施され,平成 10(1998)年度に石塔,11(1999)年度に石像が復元された。
建立の年代には諸説があったが,調査の結果から奈良時代ではなく平安時代に現在地に建てられた可能性が高いことがわかった。建立の目的としては,景行天皇の時代に討たれた熊襲の霊を慰め,災いから逃れるために和銅元(708)年に建立されたという説や,奈良時代の養老4(720)年に隼人が反乱を起こしたため朝廷が大伴旅人に隼人を討たせ,これを慰めるために建立されたという説がある。しかし,目的をはっきり記した文献・考古資料は発見されていない。
江戸時代までは「隼人塚」の名称は見あたらず,明治時代に鹿児島神宮の神官が「隼人塚,一名熊襲塚」と命名し,これ以後,「隼人塚」の名称が定着していった。古くは菩提寺の塚,軍神塚などと呼ばれていたといわれている。
多重石塔3基は,出土した石材をもとに五重の石塔として復元された。また,石像は発掘の結果から,持国天,広目天,増長天,多聞天の四天王石像であることがわかった。四天王とは,仏の世界の東西南北に立って仏法と仏法に帰依する人々を守護する武人像である。
平成 12(2000)年に整備・復元された隼人塚に隣接して「隼人町立隼人塚史跡館」というガイダンス施設が設置された。