隼人塚  霧島市隼人町内山田

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隼人塚  霧島市隼人町内山田

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

隼人塚
【所 在 地】霧島市隼人町内山田 265 − 3
【種  別】国指定史跡
【指定年月日】大正 10 年3月3日

『古事記』,『日本書紀』,『風土記』等に記載されている古代南九州の熊襲・隼人の反乱にちなんだ史跡として指定された。元は高さ3 m の丘の上に,多重石塔3基と四天王石像4体が立っていた。平成8,9(1996,97)年度に塚本体の発掘調査が実施され,平成 10(1998)年度に石塔,11(1999)年度に石像が復元された。
建立の年代には諸説があったが,調査の結果から奈良時代ではなく平安時代に現在地に建てられた可能性が高いことがわかった。建立の目的としては,景行天皇の時代に討たれた熊襲の霊を慰め,災いから逃れるために和銅元(708)年に建立されたという説や,奈良時代の養老4(720)年に隼人が反乱を起こしたため朝廷が大伴旅人に隼人を討たせ,これを慰めるために建立されたという説がある。しかし,目的をはっきり記した文献・考古資料は発見されていない。
江戸時代までは「隼人塚」の名称は見あたらず,明治時代に鹿児島神宮の神官が「隼人塚,一名熊襲塚」と命名し,これ以後,「隼人塚」の名称が定着していった。古くは菩提寺の塚,軍神塚などと呼ばれていたといわれている。
多重石塔3基は,出土した石材をもとに五重の石塔として復元された。また,石像は発掘の結果から,持国天,広目天,増長天,多聞天の四天王石像であることがわかった。四天王とは,仏の世界の東西南北に立って仏法と仏法に帰依する人々を守護する武人像である。
平成 12(2000)年に整備・復元された隼人塚に隣接して「隼人町立隼人塚史跡館」というガイダンス施設が設置された。