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城 山  鹿児島市城山町

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城 山  鹿児島市城山町

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。写真は麓から照国神社、鶴丸城跡、西郷隆盛洞窟、山頂付近のクスの大木、城山展望台からの眺望。

城 山
【所在地】鹿児島市城山町
【種 別】国指定史跡・国指定天然記念物
【指定年月日】昭和6年6月3日

鹿児島市の中央部で甲突川河口左岸の吉野台地の突端部,シラス丘陵である城山丘陵の先端で,標高約 100m を最高地点とする。南北朝時代(14 世紀)の天平7(1352)年に上山氏が豊後国緒方(現在の大分市付近)から鹿児島に入り,居城として上山城を築城した。当時のものと推定される土塁は,現在も山頂の北西部に残っている。
中世末(16 世紀)に戦国島津氏は上山城の地を使用し,近世初頭(17 世紀)に,島津家久がこの城に加え東麓に居館鹿児島城を築いた。同城は鶴丸城と呼ばれるようになった。後に居館のみが鶴丸城と呼ばれたが,当山地部分も城付の山として立ち入りを禁じられていたため,自然林をよく残すこととなった。明治維新後,鶴丸城は焼失した。
明治 10(1877)年の西南戦争では,西郷軍が当山地にたてこもり,最後の激戦地となったために自然林荒廃がかなりすすんだ。さらに第二次世界大戦の空襲によって主要樹木であるクスの大木が枯死し,林相が変化した。戦後,背後には城山団地が造成され,山頂にホテルが建設されるなど開発がすすんだが,今も自然林の姿を東側に残している。
城山は城跡,古戦場等の遺跡として同じく昭和6(1931)年に史跡に指定された。また,日本南岸の常緑照葉樹林の姿を残しているとして,森林植物相が天然記念物に指定されている。シイ,クスを主要樹とし,バリバリノキ,タブ,ツバキ,モチノキ,アカガシ,イチイガシ,ホルトなどの常緑広葉樹が多く見られる。これらの樹木以外にもシロヤマシダ,シロヤマゼンマイなど特色のあるシダ類も多く,植物の種類は数百種類にも及んでいる。

祇園之洲砲台跡  鹿児島市清水町 祇園之洲公園

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祇園之洲砲台跡  鹿児島市清水町 祇園之洲公園

HP「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域/関連資産」による説明は、次のとおり。石橋記念公園や西南の役官軍戦没者慰霊塔と一体化されている。

祇園之洲砲台跡  鹿児島県鹿児島市   市指定史跡

薩英戦争の記憶をとどめる石垣や砲台跡。

19世紀、薩摩藩や琉球へイギリス、フランスなどの西欧列強の艦船が相次いで来航しました。このような時代の流れの中で、薩摩藩の海防対策は一気に高まりを見せていきました。
祇園之洲一帯は、島津斉興(しまづなりおき)のもとで藩政改革を進めた調所広郷(ずしょひろさと)が稲荷川の浚渫(しゅんせつ)を行って埋め立て、兵士の屯集所にしたといわれています。その後、海防の必要性を感じていた島津斉彬(しまづなりあきら)は、1852(嘉永5)年に沿岸各地の砲台を改造させ、1853年に祇園之洲台場を完成させています。
ここに設置された大砲は、集成館の溶鉱炉で鉄鉱石や海砂鉄を溶かして銑鉄(せんてつ)を造り、その銑鉄を反射炉で再溶解して砲身を鋳造し、それを鑚開台で削って砲口を開けたものでした。日本の近代化の基礎を築いた工業コンビナートである集成館で造られた大砲が、鹿児島の防衛態勢の整備に使われていたのです。

1863(文久3)年6月27日イギリス艦隊7隻が鹿児島湾に入り、七ツ島付近に投錨しました。前年の生麦事件による賠償金を薩摩藩に求めるためです。「薩藩海軍史」によれば、この時、祇園之洲台場には6門の砲が配備されていました。7月2日、薩摩藩とイギリス艦隊との間で砲撃戦が繰り広げられました。薩摩藩の台場はほとんどがイギリス艦隊のアームストロング砲の洗礼を受け苦戦し、斉彬が築いた集成館も炎上しましたが、イギリス艦隊の旗艦にある程度の損傷を与える等の戦果も挙げました。
この戦争で、西欧の軍事力、技術力の凄まじさを見せつけられた薩摩藩の人々は、集成館事業を推進しようとした島津斉彬の考えをようやく理解し、イギリスの文化、科学技術を学ぼうという機運が高まりました。これと並行して集成館の復興も進められました。薩英戦争を契機に、薩摩藩が日本の近代化の牽引役になったのです。

砲台の石垣、護岸の石垣ともに、面もきれいに揃い、目地もきっちりとしています。薩英戦争当時のものが良好に残っています。
祇園之洲砲台跡は、1974(昭和49)年3月15日、鹿児島市指定史跡として指定されています。
薩英戦争で、祇園之洲砲台は破壊されましたが、その後、修復整備がなされたようです。1877(明治10)年に官軍墓地へ転換され、1955(昭和30)年に墓地改葬を行い公園となりました。

鹿児島県のアーチ式石橋 高麗橋  鹿児島市浜町 石橋記念公園内

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鹿児島県のアーチ式石橋 高麗橋  鹿児島市浜町 石橋記念公園内

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。

№266  高麗橋

鹿児島市清水町 石橋記念公園内
(移設後の現況)
橋長:54.95m  橋幅:5.4m  径間:11.15m×2、12.45m×2  拱矢:4.09m、4.82m
架設:オリジナルは弘化4年(1847)
平成11年3月、現地に移設
石工:岩永三五郎

鹿児島県のアーチ式石橋 玉江橋  鹿児島市浜町 石橋記念公園内

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鹿児島県のアーチ式石橋 玉江橋  鹿児島市浜町 石橋記念公園内

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。

№265  玉江橋

鹿児島市清水町  石橋記念公園内
(移設後の現況)
橋長:50.74m  橋幅:4.0m  径間:10.2m、11.55m×2、10.29m  拱矢:3.12m、3.87m、3.94m、3.02m
架設:オリジナルは嘉永2年(1849)
平成11年3月、現地に移設
石工:岩永三五郎

玉江橋
「鹿児島市の中心を流れる甲突川の五石橋(武之橋、高麗橋、西田橋、新上橋、玉江橋)は、薩摩藩家老・調所広郷の財政改革(天保年間)の成功により、城下整備の一環として、肥後(熊本県)から招かれた石工・岩永三五郎によって架橋されました。
しかし、平成5年8月6日の集中豪雨による洪水で武之橋と新上橋は流失しました。残った3橋は河川改修計画に合わせて、祇園之洲地区に一体的に移設復元し、末長く保存し活用することになりました。
玉江橋は五石橋の中では一番上流にあり、最後につくられた4連アーチの石橋でした。城下町郊外で通行量も少ないためか橋幅も一番せまく、また他の石橋に比べると建設費も各段に少なく、造りもやや粗末なことなどから実用橋として利用されていたと考えられます。
玉江橋は他の石橋と違い、調査の結果、比較的近年(昭和30年代後半)に至るまで創建時(1849年)の形状を留めていたと考えられます。壁石、水切り石、護床敷石等の補修は、ほとんどが昭和30年代後半に集中しています。
復元に当たりこれらの改修跡、変状跡については写真や周辺部分、類似部分から推定して創建時の姿に復元しました。」

鹿児島県のアーチ式石橋 西田橋  鹿児島市浜町 石橋記念公園内

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鹿児島県のアーチ式石橋 西田橋  鹿児島市浜町 石橋記念公園内

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。

№264  西田橋

鹿児島市浜町 石橋記念公園内
(移設後現況)
橋長:49.5m  橋幅:6.2m  径間:10.3m×2、11.7m×2  拱矢:3.67m、4.48m
架設:オリジナルは弘化3年(1846)
平成11年9月、現地に移設
石工:岩永三五郎

西田橋
「西田橋は、江戸時代、鶴丸城から九州街道ヘ至る島津家参勤交代の道筋にあり、城下の玄関口としての役割がありました。この橋はかつて木造の橋でしたが、城下整備の一環として、甲突川改修と合わせて弘化3年(1846)に石橋に架け替えられたものです。
西田橋は、石橋への架け替えの際にも木橋時代の青銅擬宝珠をそのまま使い、丸柱の精巧な高欄とするなど藩の威光を誇示した橋で、また、橋の側面に踏ん張りを持たせ、側面の石積み(壁石)を扇状にするとともに、二重アーチに見せる技法も西田橋から用いるなど岩永三五郎の技法的特徴が十分に発揮された生涯の傑作といえます。甲突川の五石橋を代表する橋として、昭和28年(1953)県指定有形文化財(建造物)に指定されています。
西田橋は、創建以来150年間、交通手段など社会環境の変化に対応して幾つかの改変を受けながら、現役の橋として使用されてきましたが、平成5年(1993)の8.6水害後の甲突川抜本改修に合わせて、この地に移設して保存することになりました。
移設に当たっては、改変など歴史的事実を踏まえ、現場に残された痕跡などを調査した結果、おおむね創建時の状況が把握できたことから、復元は、当時の技術水準や経済事情を反映しながら、構造的、美的意図が最もよく現れた創建時の姿を基本に行いました。」

西田橋御門
「西田橋の左岸側にはかつて御門があり、城下の武士や町人、領内を通過する旅人は、御門脇の番所で改めを受けて通行していました。御門は、明治5年(1872)の天皇行幸際に撮られた写真に写っていますが、その後西南戦争で焼失したと思われます。西田橋解体時に行った取付道路の発掘調査では、その礎石の根石が一部発見されました。
なお、明六ツ(午前6時頃)に開門し暮六ツ(午後6時頃)に閉門していたそうです。
整備の考え方
御門は、城下の玄関口にあった西田橋の性格を表す重要な施設です。そこで、発掘調査で確認された橋との位置関係を保って、写真や遺構、市内の仙巌園門などを参考に復元的に整備しました。」

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

西田橋
【所在地】鹿児島市浜町
【種 別】県指定有形文化財(建造物)
【指定年月日】昭和 28 年9月7日

西田橋は,甲突川にかけられていた五大石橋の一つで,弘化3(1846)年9月に肥後の石工岩永三五郎の手により施工されたアーチ式石橋であったが,平成5年8月6日市街地の約1万2千戸が浸水した集中豪雨による洪水の発生を契機に,平成 12 年に鹿児島市祇園之洲の石橋公園内に移設されている。
橋の長さは49.5m,通行部の幅は 6.2m,高さ(橋脚袴石上外角から耳石頂部まで)5.6m,アーチは4連で,側面下部が広がり,重量感と安定感がある。橋上の両側には和様(日本の伝統的な様式)の高欄が,柱には青銅の擬宝珠がつけられていた。
この橋は,かつては城下町鹿児島の玄関口にあたり,参勤交代の通路であったため,他の石橋に比して堅固優美で,橋の渡り口には楼門が付けられていた。
〈参考〉
●五大石橋鹿児島市を流れる甲突川に,上流から玉江橋,新上橋,西田橋,高麗橋,武之橋の順に石橋が架けられていた。武之橋は五連,他は4連のアーチ橋である。
●岩永三五郎 寛政4(1792)年〜嘉永4(1851)年ごろの肥後(熊本)の石工で,天保 11(1840)年ごろから嘉永2(1849)年まで 10 年間鹿児島藩に滞在し,石橋を含む土木工事全般の技術者として活躍した。肥後に帰国後 59 歳で死んだ。墓は熊本県八代郡鏡町字芝口にある。

長崎外の古写真考 目録番号:6102 鹿児島紡績所(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6102 鹿児島紡績所(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6102 鹿児島紡績所(1)

目録番号:6107 鹿児島紡績所(2)

内田九一の西国・九州巡幸写真「鹿児島 磯の別邸 側に製鉄所、紡績所アリ」

■ 確認結果

以上の3点。特に疑問というわけではないが、鹿児島市仙巌園へ行ったついでに、付近の現地確認をした。
この項は、本ブログ次を参照。「旧鹿児島紡績所技師館・鹿児島紡績所跡  鹿児島市吉野町磯」
https://misakimichi.com/archives/4115

いずれも、鹿児島市街から仙巌園へ向かう磯街道という現在の国道10号鳥越トンネル上あたりの旧街道下りや、磯海水浴場あたりから撮影された鹿児島紡績所や磯の別邸「仙巌園」の光景であろう。
明治5年(1872)明治天皇の西国・九州巡幸に随行した内田九一撮影「鹿児島 磯の別邸 側に製鉄所、紡績所アリ」は、同じ写真が仙巌園に「尚古集成館所蔵」としても展示されていた。

旧鹿児島紡績所技師館の石橋  鹿児島市吉野町磯

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旧鹿児島紡績所技師館の石橋  鹿児島市吉野町磯

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。旧鹿児島紡績所技師館(建造物)の周囲の溝に、同じような造りの階段橋の石橋が5橋見られた。

旧鹿児島紡績所技師館(建造物)・鹿児島紡績所跡(史跡)
【所在地】鹿児島市吉野町磯9685−15
【種 別】国指定重要文化財(建造物),国指定史跡
【指定年月日】昭和37年6月21日建造物指定,昭和34年2月25日史跡指定

旧鹿児島紡績所技師館は,鹿児島藩が建設した鹿児島紡績所(日本最初の洋式紡績工場)に招かれたイギリス人技師7名の宿舎として,慶應3(1867)年に建設された。幕末から明治初期における洋館として貴重な建造物である。通称「異人館」と呼ばれている。…

旧鹿児島紡績所技師館・鹿児島紡績所跡  鹿児島市吉野町磯

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旧鹿児島紡績所技師館・鹿児島紡績所跡  鹿児島市吉野町磯

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

旧鹿児島紡績所技師館(建造物)・鹿児島紡績所跡(史跡)
【所在地】鹿児島市吉野町磯9685−15
【種 別】国指定重要文化財(建造物),国指定史跡
【指定年月日】昭和37年6月21日建造物指定,昭和34年2月25日史跡指定

旧鹿児島紡績所技師館は,鹿児島藩が建設した鹿児島紡績所(日本最初の洋式紡績工場)に招かれたイギリス人技師7名の宿舎として,慶應3(1867)年に建設された。幕末から明治初期における洋館として貴重な建造物である。通称「異人館」と呼ばれている。
建物は,木造2階建て,桁行18.18m,梁間18.18m,建築面積342.778m,延床面積685.556㎡,屋根は方形造りで瓦葺き,白ペンキ塗りであった。玄関は,正面中央部に突出した八角形(半分)で,内部はホールになっている。間取りは,1階が南北中廊下となり,中央に階段があり2階へ通じる。1階は周囲に石畳のベランダをめぐらすアーケードとなり,内側に4室がある。2階は,中廊下をはさんで3室となっており,周囲は窓付きの回廊がある。
明治17(1884)年に,鶴丸城跡に鹿児島県立中学造士館が建設されたときに,校舎の一部として移築されたが,昭和11(1936)年に現地に再移築されている。
また,平成22(2010)年に隣接地の発掘調査を行ったところ,鹿児島紡績所本体の基礎となる部分が遺構として確認された。そこで,平成25(2013)年に史跡の範囲を拡張し,名称を「鹿児島紡績所技師館(異人館)」から「鹿児島紡績所跡」に変更した。

<参考> 「鹿児島紡績所」
慶應3(1867)年,島津忠義が磯に設立し,イギリスから購入した精紡機, 開綿機,打綿機,梳綿機などをおき,当時職工は男女200人,一日10時間就業して1日,約48貫の綿糸を紡ぎ,白木綿,縞類を
織った。その後, この機械の一部は泉州堺の島津綿糸場に移され,やがて大阪を中心とする紡績業発展の基礎となった。鹿児島紡績所は,明治4(1871)年に商通社と変わり,その後,様々な変転を経て,明治30(1897)年に閉鎖された。

仙巌園附花倉御仮屋庭園の石橋(2)  鹿児島市吉野町磯

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仙巌園附花倉御仮屋庭園の石橋(2)  鹿児島市吉野町磯

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。私の撮影写真は順不同。目についた石橋を写しているので、重複や新規もある。

№2,641  水道橋 (復元 アーチ式石橋)
鹿児島市吉野町 仙巌園
保津川
橋長:8.2m  橋幅:3.1m  径間:6.4m  環厚:55cm
架設:弘化年間
復元:平成7年10月
竹徑亭の前に架かっています。

№2,642  曲水庭園桁橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:4.7m
曲水の庭
「元禄十五年(1702)、二十一代島津吉貴の御数寄屋ひらきと相前後して築造されたと推定されるこの曲水の庭は、昭和三十四年(1959)に発掘されたものです。
曲水の庭は古代中国で発達した庭園で、我が国でも宮中時代より曲水の宴が盛んに催されました。曲水の宴とは、曲がりくねった流れに沿って所々に席を作り、上流から流した酒盃が前を流れ過ぎないうちに詩歌を作り、盃を取り上げて酒を飲むという宴です。現在では、当園の曲水の庭だけが原型を残す唯一の庭になっています。」
曲水庭園の東端に架かっています。

№2,643  発電用ダム上橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:2.0m  橋幅:0.9m  桁厚:30cm
単径間桁橋
曲水庭園からさらに東へ進んだところに架かっています。

№2,644  秀成荘前庭園橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:7.8m  橋幅:0.9m  桁厚:40cm
2径間桁橋
秀成荘前の庭園に架かっています。

№2,645  秀成荘前庭園小橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:2.2m  橋幅:0.6m  桁厚:20cm
単径間桁橋
秀成荘前の庭園、山手への小径に架かっています。

№2,646  秀成荘前橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:3.9m  橋幅:1.6m  桁厚:30cm
単径間桁橋
秀成荘前に架かっています。

№2,647  望嶽楼前桁橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:4.3m×2  橋幅:0.7m  桁厚:30cm
2径間桁橋
望嶽楼前の池に架かっています。

№2,648  磯御殿裏太鼓橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:2.7m  橋幅:0.6m  桁厚:18cm
単径間円弧桁橋
磯御殿の裏に円弧桁橋が架かっています。

№2,649  望嶽楼前太鼓橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:3.9m  橋幅:1.1m  桁厚:30cm
単径間円弧桁橋
望嶽楼前の池に架かっています。

№2,650  獅子乗大石燈籠下橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:3.1m  橋幅:0.9m  桁厚:30cm
単径間桁橋
獅子乗大石燈籠の左下に架かっています。

仙巌園附花倉御仮屋庭園の石橋(1)  鹿児島市吉野町磯

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仙巌園附花倉御仮屋庭園の石橋(1)  鹿児島市吉野町磯

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。私の撮影写真は順不同。目についた石橋を写しているので、重複や新規もある。

№2,641  水道橋 (復元 アーチ式石橋)
鹿児島市吉野町 仙巌園
保津川
橋長:8.2m  橋幅:3.1m  径間:6.4m  環厚:55cm
架設:弘化年間
復元:平成7年10月
竹徑亭の前に架かっています。

№2,642  曲水庭園桁橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:4.7m
曲水の庭
「元禄十五年(1702)、二十一代島津吉貴の御数寄屋ひらきと相前後して築造されたと推定されるこの曲水の庭は、昭和三十四年(1959)に発掘されたものです。
曲水の庭は古代中国で発達した庭園で、我が国でも宮中時代より曲水の宴が盛んに催されました。曲水の宴とは、曲がりくねった流れに沿って所々に席を作り、上流から流した酒盃が前を流れ過ぎないうちに詩歌を作り、盃を取り上げて酒を飲むという宴です。現在では、当園の曲水の庭だけが原型を残す唯一の庭になっています。」
曲水庭園の東端に架かっています。

№2,643  発電用ダム上橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:2.0m  橋幅:0.9m  桁厚:30cm
単径間桁橋
曲水庭園からさらに東へ進んだところに架かっています。

№2,644  秀成荘前庭園橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:7.8m  橋幅:0.9m  桁厚:40cm
2径間桁橋
秀成荘前の庭園に架かっています。

№2,645  秀成荘前庭園小橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:2.2m  橋幅:0.6m  桁厚:20cm
単径間桁橋
秀成荘前の庭園、山手への小径に架かっています。

№2,646  秀成荘前橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:3.9m  橋幅:1.6m  桁厚:30cm
単径間桁橋
秀成荘前に架かっています。

№2,647  望嶽楼前桁橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:4.3m×2  橋幅:0.7m  桁厚:30cm
2径間桁橋
望嶽楼前の池に架かっています。

№2,648  磯御殿裏太鼓橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:2.7m  橋幅:0.6m  桁厚:18cm
単径間円弧桁橋
磯御殿の裏に円弧桁橋が架かっています。

№2,649  望嶽楼前太鼓橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:3.9m  橋幅:1.1m  桁厚:30cm
単径間円弧桁橋
望嶽楼前の池に架かっています。

№2,650  獅子乗大石燈籠下橋
鹿児島市吉野町 仙巌園
橋長:3.1m  橋幅:0.9m  桁厚:30cm
単径間桁橋
獅子乗大石燈籠の左下に架かっています。