月別アーカイブ: 2015年10月

初瀬井路  関係市町村 由布市・大分市 ( 大分県 )

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初瀬井路  関係市町村 由布市・大分市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。資料は、水土里ネット初瀬井路から。
私の撮影写真は、由布市については(写真2〜10)、上流部取入口(由布市狭間町櫟木阿南橋下の櫟木ダム)から、JR鬼ヶ瀬駅付近までの初瀬井路の主な現況。
大分市については(写真11〜16)、水土里ネット「初瀬疎水」の撮影場所が、初瀬井路土地改良区へ照会のところ、大分市賀来北の県道601号沿い丑殿古墳あたり上片西地区の水路と判明したため、同地区を訪ね撮影した。

初瀬井路 はつせ
大分市・由布市 大分川・東院川 用水路 総延長36.4㎞ 天正11(1583)、慶安3(1650) 、 元禄7(1694) WEB C改修 賀来・荏隈・笠和の農民のため、天正11、大友義統が東院川(賀来)〜笠和郷間12㎞余の井手(国井手)を開削。しかし、東院川は大分川の支流で水量が少なかったため、慶安3、府内藩主・日根野吉明(無継嗣断絶)が櫟木(由布市庄内町)で大分川左岸から取水し、国井手に結ぶ15㎞半の初瀬川を開削。元禄7、府内藩(大給松平家)2代藩主・松平近陳が向原(由布市挾間町)で大分川左岸から取水し国井手に結ぶ7㎞の新井路を追加開削。明治期になり3本まとめて初瀬井路と呼ばれるようになった 4 A

初瀬井路 はつせ
大分市 大分川 用水路 総延長36.4㎞ 天正年間(1573-92) WEB C改修 天正年間の荏隈郷井手、慶安3(1650)の阿南荘新井手、元禄7(1694)の向原新井手の3つの用水路の集合体 4 A

芹川ダム  大分市今市・竹田市直入町 ( 大分県 )

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芹川ダム  大分市今市・竹田市直入町

大分県HPによる説明は、次のとおり。国道210号由布市庄内町大龍交差点から県道30号に入り、剣龍山トンネルと芹川トンネルを通って行くと、芹川ダム公園への案内標識がある。

芹川ダム(一級河川大分川水系芹川)

芹川ダムは、大分県政史上2番目の河川総合開発事業の一環として、大分川水系に多目的ダムを築造して、戦後における国土復興計画に伴う電力事業の緩和、洪水被害の軽減および、農業用水確保による食糧増産を目的として、昭和28年に着工し、昭和31年3月に完成しました。
このダムの完成により、洪水時には、ダム地点の洪水量のうち半分はダムに貯留し、残りの半分を下流に放流することにより、毎年数回受けていた下流の洪水被害を軽減する大きな役割をはたします。
また、芹川ダム左岸に設けられた取水口から取水し、圧力隧道を通じて、由布市庄内町の芹川第一発電所に導き、最大出力11,000キロワットのピーク発電に供して芹川に放流します。
さらに、芹川第一発電所の直下流に、重力式逆調整池ダムを築造してその左岸から取水し、圧力隧道を通して、庄内町竜原地点の芹川第二発電所に導き、最大出力10,400キロワットのピーク発電に供して芹川に放流し、水の有効利用を図っています。

•ダム概要
右岸 : 大分市今市
左岸 : 竹田市直入町
型式 : 重力式コンクリートダム
堤高 : 52.2m
堤頂長 : 193.0m
総貯水容量 : 27,500千m3
有効貯水容量 : 22,300千m3
洪水調節 : 1,100 → 550 m3/s
竣工 : 昭和31年

提子井手(野津原三渠)  関係市町村 由布市・大分市 ( 大分県 )

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提子井手(野津原三渠)  関係市町村 由布市・大分市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。資料は、大分県農林水産部農村整備計画課発行パンフレット「生涯を井路開発に捧げた郷土の大恩人 工藤三助」提子(ひさご)井路から。
私の撮影写真は、下・中流部から上流部取入口(由布市庄内町五ケ瀬 芹川第一発電所下流)までの主な現況。井路の詳しい説明は省く。
当時の取入口は、河原写真に九電送水管が渡っている地点に堰があった。その先は素掘りトンネルで、現在も九電送水管がこの中を通っている。この区間に一部、廃止された水路があり、石張りが残っている可能性があるが、荒れた山林内で踏査不能。トンネルを出たコンクリート塔は、発電用と農水路の水圧を調整するためらしい。
初めの写真には、由布市狭間町谷小学校内の「工藤三助顕徳碑」や、同町小野の提子公園内「提子井路之碑」を含む。

提子井手 ひさご
由布市・大分市 野津原三渠 用水 宝暦6(1756) WEB 石張りが残る 設計・施工: 肥後藩領谷村手永の惣庄屋・工藤三助、享保の大飢饉で中断し三助死亡後は、孫で三助の養子となった弁助が遺志を継ぎ、佐藤清兵衛・武四郎の協力を得て完成/それまで荒無地だった山間部に用水を引いて水田化した 2

鑰小野井路(野津原三渠)  関係市町村 竹田市・大分市 ( 大分県 )

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鑰小野井路(野津原三渠)  関係市町村 竹田市・大分市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。資料は、大分県農林水産部農村整備計画課発行パンフレット「生涯を井路開発に捧げた郷土の大恩人 工藤三助」鑰小野(かぎおの)井路から。
私の撮影写真は、竹田市については(写真3〜16)、下・中流部から上流部取入口(竹田市直入町長湯 芹川)までの主な現況。
大分市については(写真17〜23)、県道442号大分市湛水の「野津原三渠碑」上、消防団格納庫横から山手へ上がったところを流れる井路である。

鑰小野井路 かぎおの
竹田市・大分市 野津原三渠 用水 長約13.7㎞ 宝永4(1707) WEB C改修 肥後藩領・谷村手永の惣庄屋・工藤三助が41歳の時に発見した水源(朽網川)をもとに、43歳の時に普請奉行となり着工(惣庄屋を嫡男に譲った)、宝永4(1707)47歳で完成た用水/標高が高く畑地の多い野津原手永を水田化した 4 B

鑰小野井路 かぎおの
大分市・竹田市 野津原三渠 用水 長約13.7㎞ 宝永4(1707) WEB C改修 肥後藩領・谷村手永の惣庄屋・工藤三助が41歳の時に発見した水源(朽網川)をもとに、43歳の時に普請奉行となり着工(惣庄屋を嫡男に譲った)、宝永4(1707)47歳で完成た用水/標高が高く畑地の多い野津原手永を水田化した 4 B

大龍井路(大竜井路・野津原三渠)  関係市町村 由布市 ( 大分県 )

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大龍井路(大竜井路・野津原三渠)  関係市町村 由布市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。資料は、大分県農林水産部農村整備計画課発行パンフレット「生涯を井路開発に捧げた郷土の大恩人 工藤三助」大竜井路から。
私の撮影写真は、下・中流部から上流部取入口(由布市庄内町野畑 阿蘇野川)までの主な現況。井路の詳しい説明は省く。取入口に刻まれているという元禄十一年の文字岩(写真提供:大竜井路土地改良区)は草が茂り、どこかわからなかった。

大龍井路(大竜井路) おおたつ
由布市 野津原三渠 用水 長約6.7㎞ 元禄12(1699) WEB C改修 肥後藩領・谷村手永の惣庄屋・工藤三助が26歳の時に発見した水源(熊群山麓)をもとに、38歳の時に普請奉行となり着工、翌元禄12に完成した用水/山がちな谷村手永を水田化した 4 C

野津原三渠碑  大分市湛水 ( 大分県 )

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野津原三渠碑  大分市湛水

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。大分市野津原支所前から国道
442号を今市方面へ行く。途中から県道412号に入り、県道690号の合流点へ出る。ここが湛山地区で公民館横から続く豊後街道の坂道(ここが湛水の石畳)を上がると、民家前に「野津原三渠碑」(工藤三助碑)がある。

野津原三渠碑 のつはるさんきょ
大分市 野津原三渠 石碑(自然石) 嘉永6(1853) 市教委/WEB 移設 (正面)「野津原在萬山中 地勢高而水乏 陸田瘠薄民食艱阻 邑人工藤三/助与小野治兵衛 相繼爲総莊屋 居常思所 以利民者 入山中索/渓流 可引以漑者 凡十餘年 如得條理測度其遠近高低 規畫略/成 乃牒請干官 日郷之西北有熊群川 水多地高 設堰於瀧端而/東注 経境谷灌諸大龍三村 則其田皆可漑也 西有朽網川 水贏/渓狭 設堰於鑰小野 而東北注 経今市湛水及今畑 而行諸片野/猪鹿路兩嶺則阿鉢鬼崎辻原十八村 可得水種也 朽網川下流 並/諸渓出於大龍今畑之間 谷嶮流駛 巨石堰堤灘 而東北注経臺山/小野臺 引諸片野猪鹿路 以助鑰小野之水 則旱熯可無憂也 官/允其請 於是起役於大龍 鏧渠一里二十五町 得新田九十六町/故田得水種二十九町 鑰小野鏧渠五里二十四町 得新田百四十九/町 故田得水種百八十九町 提子渠未成 三助没後十四年 三助/子辨助与佐藤清兵衛佐藤武四郎 繼成其志 通渠一里二十二町/而鑰小野原算之田 得灌漑不乏至 近時総莊屋吉村富作 又与工/藤莊七三助曽孫廉助佐藤清兵衛佐藤文平等 修治鑰小野提子 水/勢加倍 故田益得肥饒 得新田又五十町 三渠之功於是乎完矣/総計渠所経 本流九里十二町 支流三十七里十六町 皆盤旋山谷/陂陀之間 而直低曲直 算測精審 至蓄洩疏淪之法 並極智数/所至成田岡背陵背 嘉禾雲被 沿渠之民舎哺鼓腹 享其利者至今/百餘年矣 初上議事出於常慮所不及 上下皆危 三助与次兵衛/以身自任 期於必成 既而有巨巌当渠 堅緻不受鏧槌 三助智/術窮欲自殺数 適得火攻法 巌砕而渠通 衆以爲至誠所致焉 三/渠之役 起於元禄戊寅 而略成乎安永乙未 次兵衛台役之未畢/擢爲郡奉行 故三助専任其事 功績最盛 其子孫与清兵衛武四郎/子孫 世掌渠事 今茲郡代岩崎元朗河喜多能通 將立石於鑰小野/渠上 以記其功 請餘製文 昔□蜀水鏧離確利其民 鄭国通/溝渠秦国富 史詳載其事伝於天下 後世則三助次兵衛之有功徳於/民安得没而不顯矣哉 因案其状記概略如是/嘉永六年葵丑夏四月 萩昌圀撰 木原盾巨寫」/野津原農業の恩人工藤三助の功績を称えて建立された碑 2 B肥後街道|野津原|

HP「肥後街道」野津原による説明は、次のとおり。

◎湛水の石畳
県道412号と690号の合流点から北西に約100m。野津原三渠碑のそばで、現在は舗装されてはいるが、その下には石畳が残っている。

◎野津原三渠碑(工藤三助碑)
野津原農業の恩人工藤三助の功績を称えて建立された碑。
工藤三助は寛文元年(1661)、肥後藩谷村手永惣庄屋谷村理衛門の孫として生まれ、元禄11年(1698)から享保9年(1724)にかけて大龍井路(おおたついろ)、かぎ(金偏に侖)小野井路(かぎおのいろ)、堤子井路(ひさごいろ)の3井路を掘削し、それまで荒蕪地だった山間部に水田を切り開き、今でも豊かな実りをもたらしています。地元の人々は、親しみと感謝を込めて「三助さん」と呼んでいます。
この三渠碑は当初別の場所にあり、勝海舟も見たと言われます。

矢貫の石橋  大分市(旧野津原町)竹矢 ( 大分県 )

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矢貫の石橋  大分市(旧野津原町)竹矢

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。大分市野津原支所前から国道
442号を今市方面へ行く。坂を登り切った野津原中学校前交差点を右折、次の竹の内交差点も右折する。次の矢貫バス停角に豊後街道「矢貫石橋」の案内板があり、右側の街道の道へ入ると、すぐ矢貫川に架かる。この道は「井塚の石畳」に続く。

矢貫の石橋(橋本橋) やぬき
大分市 <肥後街道>/矢貫川 石桁橋 長3.0m,S2.9m(G) 江戸期 WEB(石橋)/WEB/市教委 保存状態良好 4本の石梁で橋幅2.9m 1 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,277 橋本橋(矢貫の石橋)
大分市(旧野津原町)大字竹矢 矢貫
矢貫川
橋長:3.0m  橋幅:2.9m  径間:2.9m
架設:江戸期
単径間桁橋
法泉寺橋を渡り、150m先交差点を右折、300m先右手「矢貫の石橋」の小さな看板から右折したところに架かっています。

赤坂の石畳・伊塚の石畳  大分市竹矢 ( 大分県 )

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赤坂の石畳・伊塚の石畳  大分市竹矢

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。大分市野津原支所前から国道
442号を今市方面へ行く。一の瀬橋脇のバス停先に「肥後(豊後)街道 赤坂石畳・伊塚石畳・矢貫石橋」の案内板があり、この街道の道を上がる。
写真1〜6が「赤坂の石畳」、写真7〜12が「井塚の石畳」。「井塚の石畳」は山手反対側の下りにあるので、私は矢貫バス停側から矢貫石橋を渡って訪ねた。 

赤坂の石畳 あかさか
大分市 <肥後街道> 石畳道 長100m以上 江戸期 WEB 保存状態良好(放置に近い) 2 C

伊塚の石畳 いづか
大分市 <肥後街道> 石畳道 長50m前後 江戸期 市教委/WEB 保存状態良好 1 C

ブログ「ぐんさん 物見遊山記 : 豊後街道を歩く 野津原〜今市」2012年3月による記録は、次のとおり。

今回の豊後街道歩きは野津原宿から今市宿までの約10km超。七瀬川の一の瀬橋からスタートし、坂道を登っていく。
国道442号の坂道を登ってすぐ、消防署の向かいあたりに野津原町商工会が立てた案内標識があり、これにしたがってUターンし小道を登っていく。ひと登りですぐにまた折り返し、山道へと入る。
山道に入って少しのぼると、「赤坂の石畳」が現れる。街道中のこのような坂は雨水による洗い掘りを避けるために石畳が整備された。今では通る人も稀なこの山中の道を、かつては村人や旅人が行き交ったのだろう。

石畳の道を登って平坦な道となって少し先の丘の上に、「夜泣き止め地蔵」が祀られている。お堂の中には穏やかなやさしい顔をしたお地蔵さま。お堂の背後には岩窟が掘られており、いくつか小さな石仏が並んでいる。お堂の中のお地蔵さまももとはこの岩窟に祀られていたのだろうか。
夜泣き止め地蔵の前は切り通しになっているが、そこに水路橋が架かっている。大正j拾四年の銘がある。

夜泣き止め地蔵から降るとすぐに三差路となり、これを右に行くと 「伊塚の石畳」 が現れる。距離は短いが保存状態が良く歩きやすい。逆方向(矢貫側)から登ってくると石畳を登ったところで三差路となり、夜泣き止め地蔵へは左へ曲がることになるが、案内板がなく分かりにくい。松尾卓次氏著、弦書房出版の『豊後街道を行く』という本では、伊塚の石畳の先は藪で行き止まり となっており、夜泣き止め地蔵へも行っていない。著者が歩いた時は整備されていなかったようだ。野津原町商工会発行の地図では夜泣き止め地蔵を通るルートになっている。

伊塚の石畳を下ると開けた田園地帯へ。道は川を渡るが、ここに 「矢貫の石橋」 が架かっている。アーチ橋ではなく、平らな岩を架けた”桁橋”。橋本橋とも呼ばれているようだ。参勤交代の列もこの橋の上を通って行ったそうだ。…

猪牟田霊水(猪牟田ダム調査横抗の跡)  九重町町田 ( 大分県 )

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猪牟田霊水(猪牟田ダム調査横抗の跡)  九重町町田

現地説明板は、次のとおり。国道210号豊後中村駅入口交差点から九重高原の方の県道40号に入る。町田発電所先に「猪牟田霊水」の案内板がある。おおいた名水200選。猪牟田ダム調査横抗跡の湧水である。

猪牟田ダム調査横抗の跡

この横抗は猪牟田ダム建設予定地の地質を調査するため、昭和四十六年に最初に掘削された横抗で、その長さは約四十メートルありました。
この水は、ここから約三十七メートル先の岩盤の割れ目から湧水しており、掘削当時から今日まで枯れることなく流れていたものを残したものです。
この周辺には、このような地質調査のための横抗がニ十本掘られ、その延長は約二千メートルに達していましたが、猪牟田ダム建設中止により全ての横抗がコンクリートにより埋め戻されました。
当横抗は、猪牟田ダムの計画がこの地にあったことを後世に伝えるために、この横抗の地権者である瀬戸基彦氏(日田市在住)のご協力を得て「猪牟田ダム調査横抗の跡」として設置したものです。
平成十四年三月吉日

吉野社のスギとケヤキ  九重町後野上(猪牟田) ( 大分県 )

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吉野社のスギとケヤキ  九重町後野上(猪牟田)

HP「人里の巨木たち」全国巨樹探訪記大分県によるデータは、次のとおり。国道210号豊後中村駅入口交差点から九重高原の方の県道40号へ入る。町田発電所先の猪牟田霊水のところから左の橋を渡り、猪牟田集落まで行く。集落の北はずれに「吉野社」がある。
拝殿の左に2本の大木が立つ。左がスギ、右のがケヤキのようだ。私が見たのは後ろの写真どおり、参道の右側茂みの中にも何かの大木があったが、近寄って確認できない。

名称 吉野社のスギ (よしのしゃのすぎ)
名称の典拠 なし
樹種 スギ
樹高 30m(注1)
目通り幹囲 5.7m(注1)
推定樹齢 300年以上(注1)
天然記念物指定 なし
注1)環境庁「日本の巨樹・巨木林 九州・沖縄版」による

吉野川右岸高台に猪牟田集落がある。
水平面がほとんどない地形なのだが、先人が苦労して耕地を作り、そして今も維持されている。
家々の北端、山を背にして吉野社が鎮座する。
あたりはひっそりしている。集落に住む人以外、ほとんど訪れることもないだろう。
境内にスギとケヤキの巨木が見える。
スギは拝殿の右手(向かって左)に2本。
小雨に霞んで立っていた。

名称 吉野社のケヤキ (よしのしゃのけやき)
名称の典拠 なし
樹種 ケヤキ
樹高 25m(注1)
目通り幹囲 5.5m(注1)
推定樹齢 300年以上(注1)
天然記念物指定 なし
注1)環境庁「日本の巨樹・巨木林 九州・沖縄版」による

鳴子川沿いに走る県道40号(飯田高原中村線)の「一軒家」バス停近くで橋を渡って東に山道を辿ると、猪牟田集落に達する。家々が斜面に肩を寄せ合って集落ができた、といった印象。
北のはずれに吉野社があり、拝殿に向かって右奥、一段高い位置に大ケヤキが立っている。
御神木とされているらしく、幹には細い注連縄が巻かれていた。
ケヤキの反対側には大杉。ケヤキの近くにも大きな切株が朽ちかけている。
いまも巨木が残る鎮守の森である。