月別アーカイブ: 2015年10月

伊能忠敬測量隊本陣・別宿跡などの碑  杵築市杵築 ( 大分県 )

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伊能忠敬測量隊本陣・別宿跡などの碑  杵築市杵築

杵築市街の中心部、杵築市役所前の通りを東へ進む。途中で見た伊能忠敬測量隊本陣・別宿跡の碑、旧藩時代の町役所跡の碑、杵築驛からの明治里程道標。

入江氏の研究によると、この日の伊能忠敬「測量日記」の原文を解読したものは次のとおり。

文化七年(1810年)
二月七日 朝晴天。先手後手六ッ頃浦下原村出立。後手(あとて)我等(われ、忠敬自身)、青木、永井、上田、長蔵、別手昨日仕越、奈多村字仕口より初、奈多村、狩宿村、野部(野辺)村、守江村 右村々人家海辺に隔る、御茶屋迄測 領主の茶屋。奈多村字仕口より海辺二里一十町四十三間四尺。守江村中食 庄屋兵作。

それより乗船。先手(さきて)坂部、下河辺、梁田、箱田、平介、守江村御茶屋前より初、灘手村、大内山村、字屋木ノ下、同本村、草場村、字塩江崎、それより速見郡木田村 守末村入会へ堤印を残し、字札ノ辻を経て、杵築城下、馬場村尾口門より市中(冨坂町、新町、仲町、谷町)北印迄測(守江村御茶屋前より二里五町五十九間三尺)。
(付箋)二里五町五十九間三尺、内、守江村より堤印迄一里二十二町八間、堤より北印迄一十九町五十一間三尺。

奈多村仕口より杵築谷町迄合四里一十六町四十三間一尺。先手九ッ、後手九ッ半に杵築城下へ着 松平備中守居城。止宿(ししゅく)本陣 中町(仲町)佐伯屋小助。別宿谷町伊予屋兵右衛門。

着後、日出木下主計頭代官有村広作、同所止宿南部屋録十郎、島原御預所庄屋格之丞、同速見郡真那井村庄屋仙助、島原御預所高松御役所付原村庄屋藤兵衛、野田村庄屋逸平、中川修理大夫領三佐浦大庄屋加藤式平、河村仙次郎来る。杵築侯より使者岡田仙三郎出る。宿老塩屋叔蔵、冬木屋金十郎出る。

此夜宵より五ッ頃迄曇る。木星測量、恒星測量共不測。

杵築市の例は、本ブログ次を参照。長崎市も早く設置するよう要望しているが、進展がないので、参考事例として写してきた。
伊能忠敬長崎測量の止宿(ししゅく)は、諏訪神社下の地
https://misakimichi.com/archives/4394

油屋水道  杵築市杵築 ( 大分県 )

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油屋水道  杵築市杵築

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。杵築市街の中心部、杵築市役所前の通りを志保屋の坂まで行く。角に菓子舗松山堂があり、店横の水路を覗くと、本流から北へ分岐する小さな水路口が2つ並んで見える。
右側のが「油屋水道」という素掘りトンネルの呑口のようだが、この方は水門で塞がれ内部は写せなかった。これから道路対面の有名な酢屋の坂地下を行き、高台を越した北浜口番所の坂下に吐口があった。

油屋水道 あぶらや
杵築市 酢屋・坂西〜北浜口番所 素掘トンネル(水路) 長290m 宝永3(1706)頃 WEB(みさき道人)/市教委 写真は吐口/呑口はC水門に改修 油屋孫左衛門がトンネルを掘り抜いて北浜新田を開発→命名の由来 2 C

富 水 池  日出町藤原・南河原 ( 大分県 )

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富 水 池  日出町藤原・南河原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道10号日出町藤原で日出バイパスが交差する高架下手前から町道をひたすら山手へ上がる。赤松・山香の分岐も直進して行くと、片白池脇を通って富水池に着く。鹿鳴越北方の谷間にある。

富水池 とみず
(速見)日出町 (藤原・南河原) 溜池 堤長約90m 正徳5(1715) 町教委 何度も改修→平成初年に大規模改修 (当初の石材を使用) 第3代日出藩主・木下俊長が築造/日出藩最大の溜池 2 C

藤原の猪垣  日出町藤原 ( 大分県 )

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藤原の猪垣  日出町藤原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道10号日出町豊岡あたりから古城山中腹を行く広域農道まで上がると、「ようこそ殿様道路へ」の標識があり、日出バイパス高架下を直進する。道が交差する広場に「殿様道」の史跡案内板があり、ここが「東鹿鳴道」山道入口となる。
万全を期してこの古道を登ったが、今は歩く人が少なく荒れてて、歩行は困難となっている。石切り場跡や駕籠立て場跡を見ながら、東鹿鳴越の鞍部まで1時間以上を要した。山香側に左へ平坦な道へしばらく進むと、七ツ石山・西鹿鳴越方面への尾根縦走コース入口がある。すぐ先には、山香側から農道が上がっていたので、少しガックリときた。

植林地内の縦走コースに入り登って行くと、左側にかつて大友氏の山城が築かれたという古城山(こじょうのやま 標高557.8m)へ往復する道案内がある。猪垣(石塁)は、リストでは最初「古城山山頂付近」と記しているが、山頂付近には何も見当たらない。
「猪垣(石塁)」とは写真のとおり、この縦走コース中の古城山分岐道入口あたり左右に見られた長さ約50mほどの石積みのことではないかと判断した。

藤原の猪垣 ふじわら
(速見)日出町 鹿鳴越尾根縦走路の古城山分岐道付近 猪垣(石塁) 長約50m 江戸期? 町教委/WEB(みだき道人) 部分的に保存状態良好だが高1m以下であり、猪垣である保証はない 2 C      

ひじナビ[日出町観光協会]による鹿鳴越道の説明は、次のとおり。

鹿鳴越道

【かつてにぎわった山岳道】
波穏やかな別府湾に面する豊岡の背後には、大空に向けて突き出すようにそびえる鹿鳴越(かなごえ)の険しい山々が連なります。豊前と豊後を往来する道は、古くから鹿鳴越の山々を越えるのが通例であったといわれます。
東鹿鳴越を越える道は通称「東鹿鳴越道」「豊前道」と呼ばれ、日出藩主も利用していたことから、地元では「殿様道」と呼ばれてきました。
一方の西鹿鳴越を越える道は通称「西鹿鳴越道」「宇佐道」と呼ばれた。西鹿鳴越道は、1551年9月にキリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルが大友宗麟の招きを受け、山口より大分に向かう途中陸路を歩いたといわれている峠道でもあります。

[アクセス]JR豊岡駅より徒歩90分
(車)国道10号線松屋寺入口交差点を山手へ10分
[駐車場]登山の場合は山田湧水駐車場をご利用ください。

照湯遺構1・2  別府市小倉町 ( 大分県 )

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照湯遺構1・2  別府市小倉町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道10号別府港前から国道
500号九州横断道路に入り、山手高台へ上がる。坊主地獄先交差点から右折、すぐ次の左角に共同湯「照湯温泉」の入口案内標識がある。
遺構は「殿様の湯」の方に残る。この浴槽は男女日替わり湯となるから留意する。当時の石垣は「殿様の湯」建物の後ろ側、及びえんま坂左側広場の奥に確認できる。

照湯遺構1 てるゆ
別府市 (照湯) 温泉 浴槽まわりの敷石、湯のそそぎ口 天保15(1844)? WEB(みさき道人)/WEB 嘉永2(1849)洪水で流失/かつての湯屋の1つ「小浴場」が、照湯温泉の男湯に移築されている 第8代森藩主・久留島通嘉が小倉の佐藤中左衛門らの要望を聞き、天保14(1843)6月に照湯御普請所を開設、翌年10月に温泉施設群が完成→一の湯・二の湯・三の湯・蒸湯・飛泉などの湯屋が立ち並んでいた(弘化4(1847)の「鶴見七湯の記」の絵図より)/薬効のある明礬温泉/大温泉地・別府の原点 2 A

照湯遺構2 てるゆ
別府市 (照湯) 温泉 石垣 天保15(1844) 市史跡 市教委/WEB 嘉永2(1849)洪水で流失/石垣が一部残る 同上 4 A

上人ケ浜町の道標  別府市上人ヶ浜町 ( 大分県 )

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上人ケ浜町の道標  別府市上人ケ浜町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道10号により別府港先の上人ヶ浜町「別府市美術館」まで行く。玄関前の国道側植え込みに移設展示されている。

上人ケ浜町の道標 しょうにんがはま
別府市 市美術館・庭<日暮庵> 石道標 (尖頭角柱) 高110㎝,25㎝角 安政7(1860) WEB(みさき道人) 移設 (正面)「(右指差し)右、日出/杵築、道」、(左面)「(左指差し) 左 能うバる道」(=能原)/幕府より指示され、大庄屋・堀助之丞と有力者・油屋順策が建立した道標の1つ 2 C

神崎の道標  大分市高崎(城ノ腰) ( 大分県 )

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神崎の道標  大分市高崎(城ノ腰)

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。高崎山の後ろ側中腹にあるので、国道10号田ノ浦交差点から左の山手へ上がる。高崎山南登山口の標識により進み、身代わり不動尊清心寺上の林道をなお登ると、登り切った峠のような所の右側斜面上にこの道標が立つ。
私は柞原八幡宮から山手の道を越して行ったが、国道田ノ浦入口からもかなり登り、時間を要する。

神崎の里塚石 かんざき
大分市 (城ノ腰)高崎山・山麓 一里石 高180㎝,幅30㎝,厚25㎝ 江戸期 市教委/WEB(みさき道人) 原位置 (正面)「府中より 弐里」/府内〜豊前の街道沿い 1 B

柞原八幡宮のホルトノキ  大分市八幡 ( 大分県 )

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柞原八幡宮のホルトノキ  大分市八幡

HP「樹々山坊」九州の巨木 大分県リストによる説明は、次のとおり。JR西大分駅近くから県道696号へ入る。柞原バス停が柞原八幡宮の参道口で、坂段を少し登った広場にこのホルトノキはある。南大門のまだ手前。
柞原八幡宮の森は、特別保護樹林地域である。前記事の大クス、このホルトノキのほか、後ろの写真は、境内の森で見たスギなどの大木。

柞原八幡宮のホルトノキ

県指定特別保護樹木・市指定名木
所在地 :大分県大分市大字八幡

この柞原八幡宮の森は大分地方有史以前の自然の姿を良くとどめ、多様な動物も現存する学術的 にも貴重な森だといわれている。そんな森とは別に柞原神社境内にも多数の大スギやクスが鬱蒼と 茂り、歴史の長い神社であることを物語っている。表参道の石段を上っていくと「南大門」の少し 手前の右側に目立って立派な樹が聳えている。「柞原八幡宮のホルトノキ」は樹齢450年、樹高 25m、目通り幹周4.8mと記される県指定特別保護樹木である。主幹は6m辺りから三本に分 岐して、そこから多数の枝を出して大きな樹冠を広げている。 現地の解説板にはホルトノキを南蛮貿易ゆかりの渡来種としてポルトガル人が植えたと記されてい るが、たとえそのようにして植えられたものであっても、ホルトノキは日本の中部以南に自生して いる木で、和名でいうモガシである。決してポルトガルの木ではない。

柞原八幡宮のクス  大分市八幡 ( 大分県 )

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柞原八幡宮のクス  大分市八幡

HP「樹々山坊」九州の巨木 大分県リストによる説明は、次のとおり。JR西大分駅近くから県道696号へ入る。柞原バス停が柞原八幡宮の参道口で、坂段を少し登った南大門左にこの大クスが立つ。

柞原八幡宮のクス

国指定天然記念物
所在地 :大分県大分市八幡

大分自動車道・大分ICを下りると、裏道ではあるが5kmほどで柞原(ゆすはら)八幡宮に通じる道 がある。「柞原八幡宮」は836年に八幡宮総本社・宇佐神宮より勧請創建された古社で、豊後国の 一の宮と称する由緒ある神社だ。参道の長い階段を上っていくと、道半ばに通称「日暮し門」と呼ば れる素晴らしい建造物「南大門」があり、その左手に「柞原八幡宮のクス」が辺りを威圧するかのよ うに聳え立っている。
苔や蔦を着生させた岩壁のような巨大な幹が7〜8mほど立ち上がり、そこか ら分岐したような形の幹が垂直に伸び上がっている。主幹であったと思われる反対側の幹は切断した ような形になって失っているが、その部分から芽吹き育ったと思われる小型の幹がもう一本立ち上が っていて、この樹を特徴づけるような姿を作りあげている。根元には空洞が開いているが、樹齢から 見ればそれ程に枯損は進んでいないようだ。樹齢3000年、樹高30.0m、幹周18.5mと記 される国指定天然記念物で、巨木10傑に名を連ねるほどの超巨木である。

柞原八幡宮  大分市大字八幡 ( 大分県 )

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柞原八幡宮  大分市大字八幡

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。JR西大分駅先から県道696号へ入る。柞原バス停から柞原八幡宮の参道を上がるか、上の駐車場まで行く。
柞原八幡宮の裏参道石畳は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/4956

柞原八幡宮

柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)は、大分県大分市にある神社。豊後国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
「いすはら」・「ゆすばる」とも読み、由原八幡宮とも表記する。

歴史
鎌倉時代に書かれた社伝には、創建の由来が以下のように記されている。
天長4年(827年)、延暦寺の僧・金亀(こんき)が宇佐八幡に千日間籠り、「天長7年3月3日に八幡神が豊前国に垂迹する」との神託を得た。天長7年7月7日、大分郡賀来郷に白幡が飛び渡った。金亀はこのことを朝廷に奉上し、承和3年(836年)、仁明天皇の命により豊後国司・大江宇久が社殿を造営した。
上記の内容の全てが史実であるかどうかはわからないが、当社が宇佐八幡の豊後国における分祀であるのは間違いなく、宇佐八幡の別宮の一つとして崇敬を受けた。長徳4年(998年)からは宇佐八幡と同様に33年ごとの社殿の造営(式年遷宮)が行われるようになった。…

境内・社殿
大分市街地西方の二葉山(八幡柞原山とも)山麓に鎮座する。境内入口の長い階段を上ると南大門が南東向きに建つ。この門を過ぎると、道は正面方向と右斜め方向の二手に分かれる。正面の道は西門(参拝入口)へ向かう参道、右斜め方向の道は勅使道と呼ばれ、石段を経て神域南正面の楼門へ至る。本殿は八幡造と呼ばれる特異な建築形式になる。本殿手前には申殿、その手前に接して拝殿が建ち、拝殿手前に前述の楼門がある。このほか、楼門左右に東西回廊、本殿左右に東西宝殿、本殿西方に宝蔵と八王子社、申殿西方に前述の西門が建つ。本殿、申殿、拝殿、楼門、東西宝殿、東西回廊、西門、南大門の10棟は2011年、国の重要文化財に指定された(他に宝蔵と八王子社が重要文化財の「附」(つけたり)指定となっている)[2][3]。以上の社殿はいずれも寛延2年(1749年)焼失後に順次再建されたものである。[4]…