月別アーカイブ: 2015年10月

金刀比羅八幡宮の石階段  国東市武蔵町吉広 ( 大分県 )

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金刀比羅八幡宮の石階段  国東市武蔵町吉広

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。武蔵町の中心から県道55号により西へ向かう。オレンジロードは横断して直進、県道をそのまま進む。楽庭八幡神社の先に西光寺があり、その先すぐ右手に金刀比羅八幡宮がある。

金刀比羅八幡宮の石階段 ことひら、はちまん
国東市 (吉広)金刀比羅八幡宮・参道 石階段 105段 享保17(1732) 武蔵町の石造物・続 保存状態良好 途中に鳥居のある2段構造/石段頂部に年号入りの石柱 1 C

楽庭八幡神社  国東市武蔵町吉広 ( 大分県 )

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楽庭八幡神社  国東市武蔵町吉広

国東市HPの文化財による説明は、次のとおり。武蔵町の中心から県道55号により西へ向かう。オレンジロードは横断して直進、県道をそのまま進むと、楽庭(がくてい)八幡神社前を通る。

MA1001 吉弘楽

南北朝の頃 広村に入封した 広正堅楽定八幡神社の神前に楽を奉納してより凡そ200年間 弘氏の厚い保護を受けたが、八代氏直居域を都甲荘屋山に移すに至り、漸次衰微した。
元禄初年古広村にあっては数年の長きにり農作物の虫害が甚だしく、その惨状は時の藩主松平公の上聞に達し、遂に五穀豊穣虫祈祷の為 広楽取立の御沙汰があり、庄屋高原氏は村役人と計り吉弘氏ゆかりの都甲荘に行き 弘の伝習を受け再び吉広村でも楽打ちが行われるようになった。
現在は7月第4日曜日、楽庭八幡神社で行われる。楽打ちは総て49人で行われ、その構成は本頭音頭1人、鉦2人、笛3人、念悌申2人、端楽15人、中頭音頭1入、 鉦2人、末頭音頭1人、鉦2人、笛3入、念佛申2人、端楽15人の計49人である。
この内、本頭音頭には庄屋自ら当り、他は各々家柄格式に応じて世襲していたが現在では保存会が中心となっている。

MC1006 楽庭八幡社仁王形石燈籠

楽庭八幡社正面鳥居前に一対の石灯籠があるが、これは仁王が灯籠を持った形をしており珍しいものである。
顔の表情は見る者を威圧する厳めくしさではなく丸顔の童子の様に見え、なごやかな親しさがある。大きさは
◎阿形(向かって右)総高210cm、像高84cm
◎うん形(向かって左) 総高210cm、像高82.5cm
であり、製作年代は江戸時代と推定される。阿形(向かって右)の灯籠火袋の背面には「初秋建之」の銘が刻まれている。

法釈寺の石階段  国東市武蔵町麻田 ( 大分県 )

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法釈寺の石階段  国東市武蔵町麻田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。武蔵町の中心から県道55号によりオレンジロードの麻田まで行くと、北の高台に法釈寺と石階段が見える。

法釈寺の石階段 ほうしゃく
国東市 (麻田)法釈寺・参道 石階段 114段 宝暦3(1753) 武蔵町の石造物p7 保存状態良好 石段登り口の両脇に宝珠付きの石柱 1 C

美濃崎台場・跡  杵築市狩宿 ( 大分県 )

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美濃崎台場・跡  杵築市狩宿

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道213号により杵築市の東部へ向かう。奈多海岸の手前から狩宿への案内標識により広い道路を南下し、白石鼻灯台へ行く。入口に何の案内板がなくわかりにくいが、市道が大カーブする地点。
美濃崎漁協の海浜立入禁止の看板があり、チェーンで柵止めをしている。このすぐ奥が「美濃崎台場・跡」で、史跡説明板がある。海岸へ向かうと、小さな白石鼻灯台が立っていた。
私は美濃崎漁港から向かったが、場所がわからず前記国道まで出て、やっと間違いに気付き、慌てて戻った。

美濃崎台場・跡 みのざき
杵築市 (狩宿) 台場 石塁 嘉永3(1850) 現地解説板/市教委 杵築藩台場の中では最も保存状態がよい→石塁が僅かに残る程度 杵築藩が領内の7ヶ所に設けた台場の1つ 3 C

尾 払 池  国東市安岐町大添 ( 大分県 )

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尾 払 池  国東市安岐町大添

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道213号により杵築市の東部へ向かう。守江港に天村川が流れ、橋手前から天村川を遡ると「鍋倉ダム」に着く。堰堤上の車道を渡り、右側の谷間を上がって行くと、やがて2段となった尾払池が見える。
上の大池は国東市域となり、リストの対象はこの池だろう(堰堤部分は杵築市域に入る)。

尾払池 おばらい
国東市・杵築市 (安岐町大添) 溜池 堤長約80m 万治元(1658) 市教委/WEB 溜池部分は国東市に、堤体のみ杵築市に属する 安岐郷の大庄屋・片山平兵衛と大添村庄屋・笠置正弘の請願を受けて杵築藩初代藩主・松平英親が築造 2 C

尾 払 池  杵築市守江 ( 大分県 )

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尾 払 池  杵築市守江

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道213号により杵築市の東部へ向かう。守江港に天村川が流れ、橋手前から天村川を遡ると「鍋倉ダム」に着く。堰堤上の車道を渡り、右側の谷間を上がって行くと、やがて2段となった尾払池が見える。
下の小池は杵築市域となり、リストの対象はこの池だろう(上の大池も堰堤部分が杵築市域に入る)。最後の写真は、大池から見た下の小池。

尾払池 おばらい
杵築市・国東市 (守江) 溜池 堤長約80m 万治元(1658) WEB/国東市教育委員会 溜池部分は国東市に、堤体のみ杵築市に属する 安岐郷の大庄屋・片山平兵衛と大添村庄屋・笠置正弘の請願を受けて杵築藩初代藩主・松平英親が築造 2 C

(2015年10月20日 追 記)
遺産サイトから連絡があり、尾払池の下にある池が元々2段になっていたのか、別の時期に造られたのか不明なため、サイトでは次記事の国東市のと同じのを対象とし、画像を掲載するということである。

鍋倉ダム  杵築市守江 ( 大分県 )

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鍋倉ダム  杵築市守江

ダム便覧 – 日本ダム協会による説明は、次のとおり。国道213号により杵築市の東部の方へ向かう。守江港に天村川が流れ、橋手前から天村川を遡ると鍋倉ダムがある。

鍋倉ダム[大分県]

左岸所在 大分県杵築市大字守江
位置 北緯33度25分47秒,東経131度40分18秒 [近くのダム]  安岐(8km)  石山(8km)
河川 天村川水系天村川
目的/型式 A/ロックフィル
堤高/堤頂長/堤体積 43.5m/170m/321千m3
流域面積/湛水面積 4.1km2 ( 全て直接流域 ) /10ha
総貯水容量/有効貯水容量 1135千m3/1050千m3
ダム事業者 大分県
本体施工者 間組・さとうベネック
着手/竣工 1981/1995
参考資料
■鍋倉ダムの経緯と用地対策について:小野陽一郎・杉田勇
【ダム日本 No.474(S59.4)】
諸元等データの変遷 【05最終→06当初】竣工[1991→1995]
【08最終→09当初】堤高[43.5→44]
【09当初→09最終】堤高[44→43.5]

石 山 池  杵築市船部 ( 大分県 )

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石 山 池  杵築市船部

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。杵築高校近くから県道49号により大分空港道路の杵築ICの方へ向かう。白水池、ICを過ぎた県道をなお山手へ進むと、「石山池」(石山ダム)がある。
石山ダム上の架橋工事は、大分空港道路に繋ぐ大分県の工事と聞いた。

この池については、水土里レポーターの「改良区に関係する池の紹介」(Adobe PDF)を参照。
http://www.inakajin.or.jp/Portals/0/01jigyoukankei/kikaku/midorireportar/0909rekisiteki.pdf#search=’%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E6%B1%A0%E6%9D%B5%E7%AF%89%E5%B8%82′ 杵築市 (船部) 溜池 堤長約130m 延宝年間(1673-81) WEB 昭和51に石山池を取り込む形で石山ダムとなる 杵築藩初代藩主・松平英親の命により築造された溜池 5 C

白 水 池  杵築市馬場尾 ( 大分県 )

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白 水 池  杵築市馬場尾

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。杵築高校近くから県道49号により大分空港道路の杵築ICに向かうと、杵築ICの手前にあるのが「白水池」である。

この池については、水土里レポーターの「改良区に関係する池の紹介」(Adobe PDF)を参照。
http://www.inakajin.or.jp/Portals/0/01jigyoukankei/kikaku/midorireportar/0613rekisi.pdf#search=’%E7%99%BD%E6%B0%B4%E6%B1%A0%E6%9D%B5%E7%AF%89%E5%B8%

白水池 しろみず
杵築市 (馬場尾) 溜池 堤長約200m 延宝年間(1673-81) WEB 大改修 杵築藩初代藩主・松平英親の命により築造された最大の溜池(ただし、松平英親が藩主だった頃の名称は木付藩、以下略) 4 B   

迫 池・西迫池  杵築市南杵築 ( 大分県 )

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迫 池・西迫池  杵築市南杵築

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。杵築市街の中心部、杵築市役所前の通りを西へ進み、新道バス停から住宅地の中を道なりに南に行くと、2つの池がある。地図によっては、「東谷池」「西谷池」と表記するのもある。

この両池については、水土里レポーターの「改良区に関係する池の紹介」(Adobe PDF)を参照。
http://www.inakajin.or.jp/Portals/0/01jigyoukankei/kikaku/midorireportar/0826ooita1.pdf#search=’%E8%BF%AB%E6%B1%A0%E6%9D%B5%E7%AF%89%E5%B8%82′ 私の撮影写真は、写真1〜4が迫池(東下司溜池)、写真5〜13が西迫池(西下司溜池)。後ろの写真14〜16は、新道ロータリーに残る(移設?)この付近の井路紀念碑。関連が不明だが、「迫池」の文字も刻む。

迫池 さこ
杵築市 (南杵築・東下司) 溜池 堤長約60m 延宝年間(1673-81)?、 文久2(1862) WEB 杵築藩初代藩主・松平英親の命により築造された溜池/文久2、白水池の余り水を補給する目的で、中溝〜下原間540mを地下水路に設けて迫池と西迫池に引水/両池で26haを灌漑 2 C

西迫池 にしさこ
杵築市 (南杵築・西下司) 溜池 堤長約50m 延宝年間(1673-81)?、 文久2(1862) WEB 杵築藩初代藩主・松平英親の命により築造された溜池/文久2、白水池の余り水を補給する目的で、中溝〜下原間540mを地下水路に設けて迫池と西迫池に引水/両池で26haを灌漑 2 C