野津原三渠碑  大分市湛水 ( 大分県 )

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野津原三渠碑  大分市湛水

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。大分市野津原支所前から国道
442号を今市方面へ行く。途中から県道412号に入り、県道690号の合流点へ出る。ここが湛山地区で公民館横から続く豊後街道の坂道(ここが湛水の石畳)を上がると、民家前に「野津原三渠碑」(工藤三助碑)がある。

野津原三渠碑 のつはるさんきょ
大分市 野津原三渠 石碑(自然石) 嘉永6(1853) 市教委/WEB 移設 (正面)「野津原在萬山中 地勢高而水乏 陸田瘠薄民食艱阻 邑人工藤三/助与小野治兵衛 相繼爲総莊屋 居常思所 以利民者 入山中索/渓流 可引以漑者 凡十餘年 如得條理測度其遠近高低 規畫略/成 乃牒請干官 日郷之西北有熊群川 水多地高 設堰於瀧端而/東注 経境谷灌諸大龍三村 則其田皆可漑也 西有朽網川 水贏/渓狭 設堰於鑰小野 而東北注 経今市湛水及今畑 而行諸片野/猪鹿路兩嶺則阿鉢鬼崎辻原十八村 可得水種也 朽網川下流 並/諸渓出於大龍今畑之間 谷嶮流駛 巨石堰堤灘 而東北注経臺山/小野臺 引諸片野猪鹿路 以助鑰小野之水 則旱熯可無憂也 官/允其請 於是起役於大龍 鏧渠一里二十五町 得新田九十六町/故田得水種二十九町 鑰小野鏧渠五里二十四町 得新田百四十九/町 故田得水種百八十九町 提子渠未成 三助没後十四年 三助/子辨助与佐藤清兵衛佐藤武四郎 繼成其志 通渠一里二十二町/而鑰小野原算之田 得灌漑不乏至 近時総莊屋吉村富作 又与工/藤莊七三助曽孫廉助佐藤清兵衛佐藤文平等 修治鑰小野提子 水/勢加倍 故田益得肥饒 得新田又五十町 三渠之功於是乎完矣/総計渠所経 本流九里十二町 支流三十七里十六町 皆盤旋山谷/陂陀之間 而直低曲直 算測精審 至蓄洩疏淪之法 並極智数/所至成田岡背陵背 嘉禾雲被 沿渠之民舎哺鼓腹 享其利者至今/百餘年矣 初上議事出於常慮所不及 上下皆危 三助与次兵衛/以身自任 期於必成 既而有巨巌当渠 堅緻不受鏧槌 三助智/術窮欲自殺数 適得火攻法 巌砕而渠通 衆以爲至誠所致焉 三/渠之役 起於元禄戊寅 而略成乎安永乙未 次兵衛台役之未畢/擢爲郡奉行 故三助専任其事 功績最盛 其子孫与清兵衛武四郎/子孫 世掌渠事 今茲郡代岩崎元朗河喜多能通 將立石於鑰小野/渠上 以記其功 請餘製文 昔□蜀水鏧離確利其民 鄭国通/溝渠秦国富 史詳載其事伝於天下 後世則三助次兵衛之有功徳於/民安得没而不顯矣哉 因案其状記概略如是/嘉永六年葵丑夏四月 萩昌圀撰 木原盾巨寫」/野津原農業の恩人工藤三助の功績を称えて建立された碑 2 B肥後街道|野津原|

HP「肥後街道」野津原による説明は、次のとおり。

◎湛水の石畳
県道412号と690号の合流点から北西に約100m。野津原三渠碑のそばで、現在は舗装されてはいるが、その下には石畳が残っている。

◎野津原三渠碑(工藤三助碑)
野津原農業の恩人工藤三助の功績を称えて建立された碑。
工藤三助は寛文元年(1661)、肥後藩谷村手永惣庄屋谷村理衛門の孫として生まれ、元禄11年(1698)から享保9年(1724)にかけて大龍井路(おおたついろ)、かぎ(金偏に侖)小野井路(かぎおのいろ)、堤子井路(ひさごいろ)の3井路を掘削し、それまで荒蕪地だった山間部に水田を切り開き、今でも豊かな実りをもたらしています。地元の人々は、親しみと感謝を込めて「三助さん」と呼んでいます。
この三渠碑は当初別の場所にあり、勝海舟も見たと言われます。