月別アーカイブ: 2015年4月

肥前国分寺跡  佐賀市大和町大字尼寺 ( 佐賀県 )

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肥前国分寺跡  佐賀市大和町大字尼寺

佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」による説明は、次のとおり。県道263号尼寺上町交差点から佐賀市立春日小学校の方の市道に入り進んで行くと、国分北交差点先の神社のところに史跡説明板がある。

肥前国分寺跡

■所在地佐賀市大和町大字尼寺958(宗龍寺)
■文化財指定状況佐賀市 史跡
■文化財指定日 平成2年5月30日指定
■年代古代
■登録ID2163

西門跡と外溝、西南隅の築地痕跡、東辺で築地と外溝、南辺では外溝が検出されており、その規模は方2町(1辺216m)と推測される。
伽藍は金堂の北側に講堂、南東方には塔を配置し、中門に取り付く回廊がこれらの建物を取り囲んでいたと推測され、塔跡は全国の国分寺のうち最大規模の版築基壇が確認されており、七重塔が想定されている。また寺院の東側では瓦窯4基が発見されている。創建瓦は複弁蓮華文軒丸瓦と均正唐草文軒平瓦の鴻臚館系軒先瓦で、鬼瓦も出土している。   出典:佐賀市のホームページ

大野原遺跡  佐賀市金立町大字金立ほか ( 佐賀県 )

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大野原遺跡  佐賀市金立町大字金立ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。遺跡の場所は分布図(佐賀市教育委員会発行資料から)のとおり。
現地に遺跡説明板はないようである。分布図からこのあたりだろうと付近の水田を写しているから、場所間違いがあるかも知れない。

大野原遺跡の古道・跡
佐賀市 道路 古代 古代官道・西街道肥前路p43 道路痕跡の残りは悪く、現状は水田 4 C

松原遺跡  佐賀市久保泉町大字川久保字松原 ( 佐賀県 )

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松原遺跡  佐賀市久保泉町大字川久保字松原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。遺跡の場所は分布図(佐賀市教育委員会発行資料から)のとおり。
現地に遺跡説明板がある。整肢枝学園前バス停近くの交番を建てるため、遺跡調査が行われたようなので、交番の後ろ側とその前面を写してきた。

松原遺跡の古道・跡
佐賀市 道路 長300m 古代 古代官道・西街道肥前路p38 現状は水田で明瞭な道路痕跡は見えないが、水田の中に道路痕跡として長約300mにわたって帯状窪地が存在 3 C

東古賀遺跡  佐賀市大和町大字久池井字東古賀 ( 佐賀県 )

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東古賀遺跡  佐賀市大和町大字久池井字東古賀

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。遺跡の場所は分布図(佐賀市教育委員会発行資料から)のとおり。
現地に遺跡説明板はないようである。佐賀整肢学園の後ろ側あたりを写してきた。。

東古賀遺跡の古道・跡 ひがしこが
佐賀市 道路 古代 古代官道・西街道肥前路p35 現況は雌竹の繁茂する荒地で道路痕跡は見えないが、低丘陵を東西に分断する切通しや窪地や帯状の水田が見られる 4 C

鍵尼遺跡  佐賀市大和町大字尼寺字鍵尼 ( 佐賀県 )

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鍵尼遺跡  佐賀市大和町大字尼寺字鍵尼

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。遺跡の場所は分布図(佐賀市教育委員会発行資料から)のとおり。
現地に遺跡説明板があり、「肥前西海道跡」という現在の同じところを写してきた。切通し跡は、訪ねていない。

鍵尼遺跡の古道・跡1 かぎあま
佐賀市 道路 長500m 古代 古代官道・西街道肥前路p27 調査地点およびその東西に水田および畑中に直線状の帯状窪地が残る→道路痕跡と推定 3 C

鍵尼遺跡の古道・跡2 かぎあま
佐賀市 道路 幅12.5-16m 古代 古代官道・西街道肥前路p27 鍵尼遺跡の古道跡1の北側に位置する 3 C

鍵尼遺跡の切通し・跡 かぎあま
佐賀市 切通し 比高差0.8-1.0m 古代 古代官道・西街道肥前路p27 鍵尼遺跡の古道跡1の南側に位置する 3 C

旧三潴銀行本店 大川市向島 ( 福岡県 )

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旧三潴銀行本店 大川市向島

大川市HPの「市指定文化財」による説明は、次のとおり。国道208号大川橋交差点から西南に県道767号へ入るとすぐ。現在、三潴銀行記念館、歴史上の貨幣を約3,000点展示する貨幣博物館として公開されている。

大川市指定文化財  旧三潴銀行本店

100年の時を刻み、筑後川の雄大な流れを見渡している 明治時代の銀行「旧三潴銀行本店」
今、新たな息吹が吹き込まれ、大川のシンボルとしてよみがえる

文化財及び員数
旧三潴銀行本店 一棟
所在地 大川市大字向島2367
所有者 株式会社 MIZUMA
構 造 煉瓦造モルタル塗り
階 数 2階建(内部吹き抜け)
建築面積 180㎡
指定年月日 平成3年9月19日

建物紹介
この建物は、明治42年(1909年)10月に煉瓦造2階建、建坪54坪、延べ床76坪の明治洋風建築「三潴銀行」として建築されました。設計者及び施工者については不明ですが、棟梁は福岡県指定文化財「旧清力酒造株式会社事務所」(現在の大川市立清力美術館)を建てた中古賀の名工筬島傳太郎、石工は上方から呼んだといわれています。
明治時代の洋風建築が次第に姿を消している今日、建築史上極めて価値の高いこの建築物は、平成3年9月
19日に大川市文化財に指定されました。

現在の所有者である株式会社MIZUMAが事業主体となり、建築後100年が経過する平成21年3月から同年9月にかけて、広く市民に開かれた文化遺産として保存活用を図るため文化財の保存修復工事が実施され、同年10月より「三潴銀行記念館」として開館、隣接建物も展示場としてリニューアルされ九州貨幣博物館として一般公開されています。

この建物の構造は、一見、鉄筋コンクリート造のように見えますが煉瓦造です。外壁は、煉瓦壁の表面を塗下地とするモルタル塗で彫込み水平目地をつけた石造りを模した人造石左官仕上げ、下層部の腰壁には横長矩形の徳山産御影石が積まれています。
屋根は、矩(45度)勾配をつけたマンサード屋根(腰折れ屋根)で、6箇所のドーマー窓、3本の煉瓦造モルタル塗の煙突がバランスよくついています。葺き材は、現在はコロニアル葺きですが、創建当初は天然スレート板(石板)魚鱗葺きで四隅の稜線部等は銅板葺きになっていました。…

楢津地先の荒籠  久留米市城島町楢津 ( 福岡県 )

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楢津地先の荒籠  久留米市城島町楢津

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。青木中津大橋交差点から筑後川左岸沿いの県道711号を、江島地先の荒籠を過ぎ、上流へ六五郎橋近くまで進む。河岸の船着場へ降りる道があり下ると、上流に荒籠があった。上流の橋は六五郎橋。
リストのは、多分これだろうと思うが、そこから下流を眺めると、壊れた小さな石積みが見える。どちらなのだろうか。

楢津地先の荒籠 ならつ、あらこ
久留米市 筑後川(左岸) 石水制 長約20m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(小型) 2 C

補足すると、楢津には3つの荒籠があったと、地元漁師は言う。筑後川の河川工事で壊されたが、六五郎橋近くの元船着場のは、残っているという話で訪ねた。

江島地先の荒籠1・2  久留米市城島町江島 ( 福岡県 )

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江島地先の荒籠1・2  久留米市城島町江島

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。青木中津大橋交差点から筑後川左岸沿いの県道711号を上流へ約600m進む。江島バス停があり、河岸の船着場へ降りる。左右に江島地先の荒籠が確認できる。下流に写るのは青木中津大橋。

(写真 1〜 4)  江島地先の荒籠1 えしま、あらこ
久留米市 筑後川(左岸) 石水制 長約45m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(小型) 2 C

(写真 5〜 9)  江島地先の荒籠2 えしま、あらこ
久留米市 筑後川(左岸) 石水制 長約25m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好(天端をC補強) 筑後川の荒籠群(小型) 3 C

補足すると、荒籠は上流から下流にかけて、1,2…と数えるから、掲載写真もその順とした。そうすると、「江島地先の荒籠2」は、HP「筑紫次郎の伝説紀行」による「おせん荒籠」である。
次を参照。古写真(10枚目)も同HPから載せたが、「頼母荒籠」は旧三潴町ので、「おせん荒籠」と別場所の荒籠のよう。    http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/064arako.html
「夏ですから、少し怖いお話しとまいります。それも江戸の女が久留米で殺される。男の我がままと女の一途が産んだ悲劇の結末は…
時は慶応から明治に移って間もなくの頃でございます。筑後川岸の江島(現城島町)から突き出た荒籠あらこに、若い女の他殺体が引っかかっているのが発見されたのです。…」

伝説は、という話だが、地元で「おせん荒籠」を知っているのは、古い漁業者だけとなった。HP筆者も最近亡くなられたと聞いた。注意するのは、この「江島地先の荒籠1・2」は、干潮時だけしか姿を見せない。私が最初の調査でわからなかったはずである。2回目朝も潮が満ちかけもう確認できず、数日過ぎた旅行帰りに再び寄って、やっと対面することができた。地元漁師が「おせん荒籠」は、ここと言うから、場所は間違いないだろう。

荒籠(あらこ)− 「筑後川の碑」から   大川市中古賀 ( 福岡県 )

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荒籠(あらこ)−「筑後川の碑」から   大川市中古賀

筑後川の「荒籠」を理解してもらうため、大川市教育委員会が設置している「荒籠」説明板と、HP「筑後川の碑」の内容を載せる。
この項は、HP「筑後川の碑」の次を参照。
10 04 治水の碑 荒籠(あらこ) 福岡県大川市 ーーーーー 大川市教育委員会
http://hi.mymy.jp/chikugohi/arako.html

荒籠(あらこ)
碑 銘  荒籠
建立地 福岡県大川市
建立日 —————
建立者 大川市教育委員会

筑後川は御境川とも呼ばれている。上流は天領日田、下って中流右岸は黒田藩、その対岸には久留米藩、なお下って右岸佐賀藩、その対岸には柳河藩にそれぞれ属し、互いに土地争いと水争い絶えなかった。荒籠は筑後川に建設された石積の水制であって、水の勢いを対岸に向わせる役割があり、自国領の護岸守るために築造されたが、他領との争いにもなった。荒籠について、筑後川沿いに碑が、次のように建っていた。

「荒籠
荒籠とは、堤防から川中に向けて石垣を築き出したもので筑後川のこのあたりに多く見られる。
荒籠がいつごろから造られるようになったのかははっきりしないが、江戸中期には久留米市小森野から若津までの二十二キロメートルに二百九十ヵ所近くも築かれている。筑後川の著名な荒籠は久留米藩の百間荒籠(大川市道海島)、柳河藩の永松荒籠(柳川市八ッ家地先)、佐賀藩の千間荒籠(佐賀県大詫間)などがあげられている。とくに道海島の百間荒籠は明暦二年(一六五六)の建設当時全長二百間(約五百六十メートル)あったといわれる。荒籠は陸への昇降場というだけでなく、護岸、川床の浚渫洪水防止干潟の造成などの目的で築かれたようである。
特に各家に井戸を掘っても水質が悪く、飲料水として適しないこの地域では飲料水の汲みあげ場としても利用されていた。しかし荒籠を築くと、そのはね返った水は余勢をかって対岸を削ることもあり、佐賀藩、久留米藩領、柳河藩領が川を隔てて相対している。
大川の地域では荒籠の新設や改修となると相対する藩や村どうしの荒籠騒動が起こったといわれている。
大川市教育委員会」

以上がその内容で、建立地は「福岡県大川市」とし、国土地理院地図に赤丸のある場所である。説明板と荒籠の写真があるが、地図もどうもしっくりしない。2度訪ねてやっと説明板の所在場所と、写真の荒籠がどこなのかわかった。
国道208号大中島の手前、大川橋交差点から筑後川左岸沿いの県道47号に入り、上流に向かう。約1.5kmほど行って、大川家具工業団地前の新橋水門先から船着場の河岸へ下る道がある。大川市設置の荒籠説明板はここにあった。大川市中古賀という地区の河岸である。対岸大中島にもあまり荒籠が確認できないのに、大川市教育委員会はなぜここに設置したのだろうか。下流の馬ノ丞に小さな荒籠はたしかにあるようだが、ここからは見えない。

次は、本調査は「(社)北部九州河川利用協会」からのご支援により実施しました。」という、HP「筑後川の碑」に掲載した荒籠の写真。これは大川市説明板設置のこの場所からではない。次記事とするが、県道47号でさらに青木中津大橋の上流に行って、久留米市城島町江島の荒籠2基の写真(3枚目の写真・説明板とはまったく別の場所)である。そこに混同があり、この荒籠が干潮時にしか見えないため、私は調査に苦労したので、HPには写真説明と地図説明の配慮をお願いしたい。

菰田船継所跡  和水町下津原 ( 熊本県 )

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菰田船継所跡  和水町下津原

現地説明板は、次のおり。県道6号和水町下津原の菊池川を渡る菰田橋の右岸にある。

菰田船継所跡    所在地  和水町下津原字菰田

安政2年(1855)の「菊池川全図」で、岩村川と菊池川の合流点すぐ下流に66間の石積みが記されています。ここが菰田船継所跡で、近世の水上交通の要所にも数えられる一方、船着場としても活用されてきました。以前は4階建ての商家が建っており、往時が偲ばれます。
寛永期(1624〜43)においては、菊池川中流から高瀬蔵納の拠点3箇所のうちの1箇所として繁栄しました。…(中略)…
明治になると、10年(1877)の西南戦争の際、菰田での渡河を記していることから、陸上交通の上でも重要な位置を占めていたことがうかがえますが、船継所の機能は次第に失われていき、鉄道の発達により物資輸送は陸上運送へと推移していきました。
平成21年3月    和水町教育委員会