荒籠(あらこ)− 「筑後川の碑」から   大川市中古賀 ( 福岡県 )

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荒籠(あらこ)−「筑後川の碑」から   大川市中古賀

筑後川の「荒籠」を理解してもらうため、大川市教育委員会が設置している「荒籠」説明板と、HP「筑後川の碑」の内容を載せる。
この項は、HP「筑後川の碑」の次を参照。
10 04 治水の碑 荒籠(あらこ) 福岡県大川市 ーーーーー 大川市教育委員会
http://hi.mymy.jp/chikugohi/arako.html

荒籠(あらこ)
碑 銘  荒籠
建立地 福岡県大川市
建立日 —————
建立者 大川市教育委員会

筑後川は御境川とも呼ばれている。上流は天領日田、下って中流右岸は黒田藩、その対岸には久留米藩、なお下って右岸佐賀藩、その対岸には柳河藩にそれぞれ属し、互いに土地争いと水争い絶えなかった。荒籠は筑後川に建設された石積の水制であって、水の勢いを対岸に向わせる役割があり、自国領の護岸守るために築造されたが、他領との争いにもなった。荒籠について、筑後川沿いに碑が、次のように建っていた。

「荒籠
荒籠とは、堤防から川中に向けて石垣を築き出したもので筑後川のこのあたりに多く見られる。
荒籠がいつごろから造られるようになったのかははっきりしないが、江戸中期には久留米市小森野から若津までの二十二キロメートルに二百九十ヵ所近くも築かれている。筑後川の著名な荒籠は久留米藩の百間荒籠(大川市道海島)、柳河藩の永松荒籠(柳川市八ッ家地先)、佐賀藩の千間荒籠(佐賀県大詫間)などがあげられている。とくに道海島の百間荒籠は明暦二年(一六五六)の建設当時全長二百間(約五百六十メートル)あったといわれる。荒籠は陸への昇降場というだけでなく、護岸、川床の浚渫洪水防止干潟の造成などの目的で築かれたようである。
特に各家に井戸を掘っても水質が悪く、飲料水として適しないこの地域では飲料水の汲みあげ場としても利用されていた。しかし荒籠を築くと、そのはね返った水は余勢をかって対岸を削ることもあり、佐賀藩、久留米藩領、柳河藩領が川を隔てて相対している。
大川の地域では荒籠の新設や改修となると相対する藩や村どうしの荒籠騒動が起こったといわれている。
大川市教育委員会」

以上がその内容で、建立地は「福岡県大川市」とし、国土地理院地図に赤丸のある場所である。説明板と荒籠の写真があるが、地図もどうもしっくりしない。2度訪ねてやっと説明板の所在場所と、写真の荒籠がどこなのかわかった。
国道208号大中島の手前、大川橋交差点から筑後川左岸沿いの県道47号に入り、上流に向かう。約1.5kmほど行って、大川家具工業団地前の新橋水門先から船着場の河岸へ下る道がある。大川市設置の荒籠説明板はここにあった。大川市中古賀という地区の河岸である。対岸大中島にもあまり荒籠が確認できないのに、大川市教育委員会はなぜここに設置したのだろうか。下流の馬ノ丞に小さな荒籠はたしかにあるようだが、ここからは見えない。

次は、本調査は「(社)北部九州河川利用協会」からのご支援により実施しました。」という、HP「筑後川の碑」に掲載した荒籠の写真。これは大川市説明板設置のこの場所からではない。次記事とするが、県道47号でさらに青木中津大橋の上流に行って、久留米市城島町江島の荒籠2基の写真(3枚目の写真・説明板とはまったく別の場所)である。そこに混同があり、この荒籠が干潮時にしか見えないため、私は調査に苦労したので、HPには写真説明と地図説明の配慮をお願いしたい。