月別アーカイブ: 2015年4月

上見坂公園(上見坂堡塁)(1)  対馬市厳原町北里 ( 長崎県 )

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上見坂公園(上見坂堡塁)(1)  対馬市厳原町北里

長崎観光/旅行ポータルサイト「ながさき旅ネット」による説明は、次のとおり。厳原から国道382号線を北上、厳原中学校前を左折。県道44号線を進み上見坂公園入口を右折。厳原から10km、車で15分。

上見坂公園(上見坂堡塁)

厳原と美津島の町境にある標高358mの展望台です。展望台からは、日本の代表的な溺れ谷、入り江と島々が作り出す浅茅湾のリアス式海岸が箱庭のように眼下に広がります。遠く九州本土や韓国の山々が見えるのも国境の島ならではの眺望です。家族連れで楽しめる行楽地で、夏の夜は暗い海に漁火がきらめきファンタジックな景観は見事です。
遊歩道を奥まで歩くと、明治後期に築かれた砲座跡が姿を現します。口径15センチの火砲が4基据え付けられていましたが、実戦では一度も発射されることはありませんでした。

交通アクセス
対馬空港から車で約20分、厳原港から車で約15分

水崎遺跡  対馬市美津島町大字字仮宿 ( 長崎県 )

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水崎遺跡  対馬市美津島町大字字仮宿

長崎県教育庁学芸文化課HP「長崎県の遺跡大辞典」による説明は、次のとおり。県道24号により美津島町尾崎漁港へ向かう。漁港の先の方、大島の「都々地神社」が対岸となるあたりの畑地に遺跡説明板がある。 

遺跡名
水崎遺跡(みずさきいせき)

所在地 対馬市美津島町大字字仮宿
緯度 北緯34°18′59″ 経度 東経129°13′32″
標高 4m 地形 沖積地
種別 遺物包含地 時代 中世〜近世(12世紀〜17世紀前半)
資料所在地 対馬市教育委員会 指定状況 未指定
参考文献等 『水崎遺跡』 美津島町文化財調査報告書 第8集 1999
『水崎(仮宿)遺跡 』 美津島町文化財保護協会調査報告書 第1集 2001

遺跡・史跡の概略
遺跡は浅茅湾開口部付近の狭小な平坦地に位置する。町道拡幅に伴って1996年美津島町教育委員会によって調査された他、遺跡の重要性に鑑み2000年再度内容確認のための発掘調査が実施された。 当該地は15世紀前半頃、朝鮮王朝や琉球と交易を行っていた海商早田氏の拠点であったとされている。出土遺物は輸入陶磁器が主体を占め、中でも朝鮮王朝陶磁器が70%を占めている。また東南アジア産の陶磁器も5%を占め、琉球を通じて手に入れた状況が看取されている。
遺跡は14世紀後半から15世紀前半頃に一つのピ゜−クがあり、備前・信楽焼の甕の存在から15世紀から16世紀にも遺跡として継続し、以後17世紀前半頃まで連綿として継続している事が確認された。

主な遺構
掘立柱建物
主な遺物
1996年調査:国産陶器(備前・信楽)、中国産・朝鮮王朝陶磁器、ベトナム産陶磁器、石鍋:2000年調査:中国・朝鮮王朝・タイ・ベトナム陶磁器、メノウ製石帯、中国銭貨(含む大元通宝)

長崎の古写真考 目録番号:5869 対馬(2) ( 長崎県 )

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5869 対馬(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5869 対馬(2)

対馬関連作品は、ほかに目録番号:5867(1)、5870(3)、5876(4)、5877(5)、5878(6)がある。

■ 確認結果

目録番号:5869「対馬(2)」は、撮影地が長崎県対馬の6作品の1枚である。画像解説がなく、撮影者・撮影年代とも未詳となっているが、現在の対馬市美津島町尾崎漁港を撮影している。
前記事とした目録番号:5878(6)の、大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)のまだ手前、尾崎漁港入口のバス停あたりからの景色である。
ほかの関連写真も、近辺の集落や海岸と考えられるが、調査時間がなく、まだ確証を得るまでに至らなかった。

目録番号:5878「対馬(6)」は、朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」2009年刊の189頁に掲載があり、撮影者を次のとおり解説している。
目録番号:5869「対馬(2)」もこのとき撮影された湾内の1枚で、撮影者はヘンリー・スチュアートである。

82 都々智神社とイギリス軍艦
対馬の浅茅湾に進入したイギリス海軍ヴァーノン号と都々智神社。1861年にはロシア艦隊がこの湾の一部を半年間占拠した。
ヘンリー・スチュアート撮影、1890年、鶏卵紙、15.2×10.3

1890年、イギリス海軍の軍艦ヴァーノン号が対馬の浅茅湾に停泊しました。この軍艦の見習い将校ヘンリー・スチュアートが撮影した対馬の大島の都々智神社と軍艦の写真です (写真82)。場所は湾の入り口付近で、対馬を撮影した写真としては最古のものでしょう。長崎大学にはこのき撮影された湾内の写真がほかに5枚残されています。…

長崎の古写真考 目録番号:5878 対馬(6) ( 長崎県 )

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5878 対馬(6)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5878 対馬(6)

対馬関連作品は、目録番号:5867(1)、5869(2)、5870(3)、5876(4)、5877(5)がある。

■ 確認結果

目録番号:5878「対馬(6)」は、撮影地が長崎県対馬の6作品の1枚である。画像解説がなく、撮影者・撮影年代とも未詳となっているが、現在の対馬市美津島町尾崎漁港の大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)を撮影している。関連写真は、近辺の集落や海岸であろう。

この作品は、朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」2009年刊の189頁に掲載があり、画像解説は次のとおり。186〜187頁に詳しい解説がある。

82 都々智神社とイギリス軍艦
対馬の浅茅湾に進入したイギリス海軍ヴァーノン号と都々智神社。1861年にはロシア艦隊がこの湾の一部を半年間占拠した。
ヘンリー・スチュアート撮影、1890年、鶏卵紙、15.2×10.3

この項は、再掲。本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2390
今般、遺産リストで対馬を訪れる機会があり、古写真の現地確認も行った。目録番号:5878「対馬(6)」は、現在の対馬市美津島町尾崎漁港の大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)を撮影しているのは間違いないので、現在の写真を載せる。

豊玉の猪垣  対馬市豊玉町横浦字白子ほか ( 長崎県 )

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豊玉の猪垣  対馬市豊玉町横浦字白子ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。唐津から壱岐へ渡り、博多からの深夜便フェリーに乗り継ぎ対馬厳原港へ着いた。国道382号で万関橋を渡って北上。豊玉町横浦から塩浜の方へ向かうと山手鞍部に、「豊玉の猪垣」入口案内板がある。

豊玉の猪垣 とよたま、いがき
対馬市 横浦<長崎牧?> 野馬土手(石垣) 長145+96m,高1.1m 中世〜江戸期 県有形民俗 WEB/市教委 残存部の保存状態良好 対馬の農事業で有名な儒者・陶山訥庵の猪鹿追詰の際に築かれた石垣と伝承されてきた/近年の研究では、中世から近世元禄の頃まで設置されていた宗氏の馬牧場の一つ長崎牧の石垣であった可能性が指摘 2 B

HP「長崎県の文化財」による説明は、次のとおり。

豊玉の猪垣

有形民俗文化財(県指定) 
よみがな とよたまのいがき
指定年月日 1973年02月06日
所在地 対馬市豊玉町横浦字白子ほか

豊玉町塩浜の西南の尾根に,東西約240mにわたり,高さ1.1m,上幅0.6m,下幅1.2mの石垣が築いてある。対馬全島に類例がない。元禄の野猪狩りは,対馬藩政史上画期的な事業であったので,その遺構ともいう。ほかに山城説,斎垣(いがき)説もある。ただ西彼杵半島や五島各地に現存する猪垣に,構造がよく似ていること,ししがきは一般に鹿垣と書き,猪のみが対象でないことなど,村の共同防災用・狩猟用も加え,まだ考察の余地もある。

東山代の明星桜  伊万里市東山代町浦川内字浦川内 ( 佐賀県 )

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東山代の明星桜  伊万里市東山代町浦川内字浦川内

佐賀県HPの「佐賀県の文化財紹介」による説明は、次のとおり。伊万里市東山代町の国道204号から「明星桜」案内板により浦川内公民館へ向かう。公民館先の観音堂高台に「明星桜」はある。
この項は再掲。本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/780
開花写真は、ブログ”gonbeyaの部屋”氏(私の先輩)が2014年3月27日撮影。

佐賀県天然記念物 東山代の明星桜(ひがしやましろのみょうじょうざくら)

平成5年3月31日指定
伊万里市東山代町浦川内字浦川内 観音堂
植物

東山代の明星桜
明星桜は、伊万里市東山代町浦川内の観音堂境内にある。根回り付近は石垣で囲まれ、根回り5m、樹高13m、枝張り東西約21m・南北15mの巨木である。地面直上から幹回り2mの主幹4本が分岐し、一部空洞が見られるものの、樹勢は旺盛で、3月末〜4月初めに新葉とともに薄紅色の花が咲く。
サクラは陽樹に属し、九州海岸付近の暖帯林、特に照葉樹林の郷土樹種の中で育ち、その寿命は100年前後といわれる。明星桜は、主幹の状況などから100年をかなり上まわる樹齢が推定でき、県内のサクラの中では代表的古木である。
由来としては、今から820年ほど前、松浦2代党祖の源直公の臣浦内淡路守が、東山代町脇野地区を開拓した際、望郷の念にかられ京都の壬生寺からサクラを持ち帰り同地に植えたとの伝承がある。開花期に、夜間、同樹の下で火を焚いて眺めると、花びらが火に映え、明星の趣きがあるところから、明星桜と名付けられたといわれる。

白蛇山岩陰遺跡  伊万里市東山代町大字脇野 ( 佐賀県 )

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白蛇山岩陰遺跡  伊万里市東山代町大字脇野

佐賀県HPの「佐賀県の文化財紹介」による説明は、次のとおり。伊万里市東山代町の国道204号から「明星桜」案内板により浦川内公民館へ向かう。「明星桜」前に「白蛇山岩陰遺跡 700m」の表示があり、細く荒れた車道を山手へそのまま進み、入口から100m歩く。

佐賀県史跡 白蛇山岩陰遺跡(しろへびやまいわかげいせき)

昭和59年3月21日指定
伊万里市東山代町大字脇野
岩陰遺跡

白蛇山岩陰遺跡
本遺跡は、国見山麓に位置し、石器製作に必要な黒曜石が豊富に露出する腰岳に近い。旧石器〜縄文時代の岩陰遺跡で、砂岩が風化作用により浸食してできた上洞と下洞からなる。上洞は最大奥行6m、間口40m、下洞は奥行7m、間口8mで、いずれも南東方向に開口する。昭和46・48年に佐賀県立博物館により発掘調査が実施され、旧石器時代から縄文時代晩期の遺跡であることが判明した。岩陰の土は堆積により地表から約3.5mほどあり、13層に分けられる。各層より土器・石器が出土しており、編年研究の上で重要な遺跡である。

前平の鯨供養碑  平戸市的山大島 ( 長崎県 )

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前平の鯨供養碑  平戸市的山大島

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。的山大島(あづちおおしま)は、長崎県の平戸島の北方にある島。全島が長崎県平戸市に属する(2005年10月1日の現平戸市発足以前は北松浦郡大島村)。 通称で「大島」と呼ばれることも多い。
平戸島の平戸港や薄香港から平戸市営・美咲海送のフェリーが、的山大島の神浦(こうのうら)港と的山(あづち)港まで運航されている。一部の便は旧田平町の田平港(平戸口桟橋)にも寄港する。
画像提供は、平戸市教育教育委員会大島分室。

前平の鯨供養碑 まえひら
平戸市(的山大島) 真教寺 (鯨組井元氏の墓域) 石碑(駒型) 高122㎝,幅45㎝ 元禄5(1692) 市有形 市教委 /松崎憲三 原位置/中央で水平に折損→修復 (正面)「(梵字)鯨鯢三十三 死生」/西海捕鯨発祥の地とされる度島(旧・多久嶋)に近い的山大島に残る鯨供養碑/建立されている井元氏は寛文4(1664)〜享保(1726)の間捕鯨に携わった家系/捕鯨遺産 2 B

佐世保市黒島・高島で見つけた「海軍用地」石 ( 長崎県 )

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佐世保市黒島・高島で見つけた「海軍用地」石

佐世保市の高橋輝吉氏から送ってきた資料。「海軍用地」石を、黒島の田代地区で民家正門横に移設した2本、高島では港地区の当時、軍資材置き場で1本を見つけたという報告と実物写真。

高橋輝吉氏稿 「佐世保市黒島・高島で見つけた「海軍用地」石」

黒島の海軍用地は、古老の方が「用地石は有ります」と。他の方は「有りません」と?。元々、この石の意味を知らないですかなー。
田代地区。元の発電所兵舎近くに有ったそうです。1本は立っていて、1本は埋まっていたそうです。1本40kgあります。コンクリート製です。

高島の海軍用地は、港地区。70年前の軍資材置場に建てたのかなー。山の上にはなし。ここでも知らないと言う。さわらぬ神と決め込んでいます。
私はぐるぐると廻り廻って見つけてきました。「海軍用地」「二二〇号」。白いみかげ石。60kg位かなー。

築山古墳  佐賀市大和町尼寺東 ( 佐賀県 )

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築山古墳  佐賀市大和町尼寺東

佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」による説明は、次のとおり。県道263号尼寺上町交差点から佐賀市立春日小学校の方の市道に入ると、学校先に古墳跡の築山児童公園がある。

築山古墳

■所在地佐賀市大和町尼寺東
■文化財指定状況国 重要文化財
■文化財指定日 瓦経のみ平成11年6月7日指定
■登録ID2223

春日小学校東方の平地に築かれており、封土上に葺石や埴輪が認められた。埴輪は円筒埴輪の外に鎧をかたどった器材埴輪の破片が発見されている。明治年間に盗掘され、その時に勾玉・管玉・直刀などが出土し、内部主体は横穴式石室といわれている。
昭和43年(1968)に築山一帯が尼寺の児童遊園地造成のため前方部がけずられ、前方後円墳の面影は見られない。
出土遺物として、瓦経229枚がある。内容は妙法蓮華経、無量義経、観普賢経、阿弥陀経、般若心経、法華せん法の5経典と奥書、仏画等である。奥書から平安時代の天養元年(1144)に在地有力者によって製作されたことが判明している。この時期の仏画は九州でも少なく、また瓦経の埋納状況が考古学的に明らかにされた例は全国で2例目である。現在は県立博物館に保管されている。    出典:大和町史P64佐賀県大和町文化財