月別アーカイブ: 2015年4月

小郡市(国道500号)の縣界標  小郡市小郡 ( 福岡県 )

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小郡市(国道500号)の縣界標  小郡市小郡

前記事の佐賀県基山町長野「西海道(西路)の道路遺構」を調査後、甘木鉄道沿いに走っていたら、国道500号福岡県小郡市の「流通センター入口」交差点に出た。この角にあった福岡県設置の縣界標。
HP「筑前 国境石散歩」昭和の縣界標(県界標)に、次の説明があった。

文 字
福岡縣三井郡小郡村
表) 縣界標
佐賀縣三養基郡田代村
右横) 至 田代 ニ粁・至 久留米市 十二粁
左横) 至 飛行隊 八粁・至 甘木町 十三粁
裏)    福岡縣
移設された県界標
場 所
国道500号線上、小郡市と佐賀県鳥栖市の境です。
備 考
この県界標は250m程東の「流通センター入口」交差点に移動しました。70数年の現役を終えモニュメントになってしまいました。

西海道(西路)の道路遺構  基山町長野 ( 佐賀県 )

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西海道(西路)の道路遺構  基山町長野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。出典精査の結果、「航空写真に□印のところ」と、基山町の具体的な場所が示された。
4月23日、現地を再訪。道路痕跡が確定して残る畑地を正対して撮影してきた。航空写真とともに現地写真を載せ、記事を差し替えた。畑地先は工場となり柵囲いがあるため、撮影できない。
基山町教育委員会は先般訪ね、「基山町史」の資料をもらい、調査の協力依頼をしている。

西海道(西路)の道路遺構 さいかいどう
(三養基)基山町 <西海道(西路)> 道路 長約60m 古代(律令期) 木下 良 畑となっており、判別が困難/現在確認できる場所は、甘木鉄道と小郡市との境界線の交差する南側の60m程度のみ 筑後と肥前の国境沿いに西海道西路が通っていた 4 C

資料は、平成21年発行「基山町史 上巻」特説 基肄・養父両郡の官道391頁。青線部分の文と図特説−7 筑後・筑前の直線国境に解説があった。

関屋土塁跡  基山町宮浦 ( 佐賀県 )

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関屋土塁跡  基山町宮浦

基山町HPの「観光・文化」基山山頂(基肄城跡)の中による説明は、次のとおり。県道300号基山町玉虫交差点手前の佐賀銀行角から東へ入る。標柱が基山郵便局前バス停近くの会社敷地に建っていた。関屋土塁跡が正しくはどれか、少しでも残っているかは基山町に未確認だが、付近の現況を写してきた。
同基山町の「とうれぎ土塁」跡は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/4484

基山山頂(基肄城跡)

…基山町役場周辺に目を向けると、現在はわずかにしか残っていませんが、「関屋土塁」と「とうれぎ土塁」の場所を確認することができます。
関屋ととうれぎ土塁想定図
(基山町教育委員会 2012 『ふるさと基山の歴史』より転載) 
この二つの土塁は、基肄城と関連のある防衛施設であったといわれています。
「関屋土塁」は、城ノ上丘陵と千塔山丘陵の間に、「とうれぎ土塁」は千塔山丘陵と向平原丘陵の間に築かれたと考えられています。
太宰府市と大野城市にある水城の小形という意味で、「小水城」とも呼ばれています。

石櫃の追分石  筑前町石櫃 ( 福岡県 )

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石櫃の追分石  筑前町石櫃

筑前町HPの「指定文化財」による説明は、次のとおり。国道386号筑前町石櫃交差点から北側1本上の通りに入る。旧街道の石櫃交差点があり西へ戻ると、すぐ次の角にある。

追分石(おいわけいし)

(資料写真なし)
指定種別 町指定有形民俗文化財
員数 1基
所在地 石櫃(いしびつ)52−6
指定年月日 平成17年3月22日
管理者(所有者) 筑前町
文化財の状況
江戸時代の初め頃の道標で、「右 肥後 薩摩道」(天下道)、「左 豊後 秋月 日田 甘木道」としるされている。
石櫃は、当時山家宿の下宿として賑わい,道標は山家宿の問屋、武作が世話人となって設置したとされる。

元・山家宿大又の追分石  筑紫野市二日市南一丁目 筑紫野市歴史博物館 ( 福岡県 )

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元・山家宿大又の追分石  筑紫野市二日市南一丁目 筑紫野市歴史博物館

筑紫野市歴史博物館(ふるさと館ちくしの)に展示の追分石。展示説明文は、次のとおり。ほかの写真は、その他の展示品。

追 分 石

(表) 右 肥前  太宰府・長崎  原田   左 肥後  久留米・柳川  松崎
(裏) 改野重五郎  世話人  問屋武作
山家宿の西搆口を300メートルほど下った「大又」(長崎街道と日田街道の交差点)付近に建っていたと思われる追分石です。裏面に刻まれている「問屋武作」は、山家宿の人馬の継立を商いにしていた人です。店の屋号を「御笠屋」といい、この追分石を建てるために力を尽くしました。建設されたのは江戸時代の終わりごろですが、国道200号線の建設(昭和4年)のときに撤去されたようです。その後は農家の納屋の基礎石として使われていましたが、納屋を解体したときに新たに発見されました。
銘文は異体字が用いられていますが、右の翻刻では正字に直しています。

天神山小水城・跡  春日市天神山ほか ( 福岡県 )

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天神山小水城・跡  春日市天神山ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによる説明は、次のとおり。春日市の「天神山小水城・跡」は、あまり紹介がなく場所がわかりにくいが、「大土居小水城・跡」の近く。
県道505号大土居交差点から西の市道へ入り、天神山バス停先の牧うどん角から右折する。天神大神を祀った天神山を周回する車道があり、史跡説明板が3箇所にあった。
大野城市の「上大利小水城・跡」は、すでに載せた。

天神山小水城・跡 てんじんやま、しょうみずき
春日市 天神山1丁目 土塁、自然丘陵 土塁部: 長85m,幅25m 天智3(664)? 国特別史跡 市教委/WEB/現地解説板 自然丘陵部分と、その東に伸びる土塁部分からなる写真は、手前が土塁、遠くの山が自然丘陵部分 水城(太宰府市・大野城市)の西側に位置する小水城/土塁が比較的明瞭に残された小水城/発掘調査により盛土の土留めとしての木の杭を打ち込まれた状況などが確認/水城と同時期の築造と推定されている 2 B

九州国立博物館サイト「西都 太宰府」古代大宰府関連遺跡による説明は、次のとおり。

天神山水城・上大利水城
水城跡の西方約3.8kmの場所にある春日市の天神山水城や水城跡から一番近くにあたる小水城である上大利水城も、大土居水城同様、土塁が比較的明瞭に残された小水城です。
特に、上大利土塁は、昭和54年(1979年)に発掘調査が行われ、土塁下から、盛土の土留めとしての木の杭を打ち込まれた状況などが確認されました。

大土居小水城・跡  春日市昇町 ( 福岡県 )

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大土居小水城・跡  春日市昇町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによる説明は、次のとおり。対馬厳原港から博多港へ渡り、熊本県玉名市まで南下した。以下はその報告。
春日市の「大土居小水城・跡」は、県道505号大土居交差点近く県道沿い左右にある。

大土居小水城・跡 おおどい、しょうみずき
春日市昇町7丁目(土塁) 昇町8丁目(自然丘陵) 土塁、自然丘陵 土塁部: 長75m,幅40m,高8m 天智3(664)? 国特別史跡 市教委/WEB/現地解説板 自然丘陵部分と、その東に伸びる土塁部分からなる/写真は土塁部分 水城(太宰府市・大野城市)の西側に位置する小水城/発掘調査により版築工法の使用が確認/導水の役割を果たす木樋も、取水部で木樋本体、吐水部で木樋下層の石敷遺構が確認がされた/水城と同時期の築造と推定されている 2 B

九州国立博物館サイト「西都 太宰府」古代大宰府関連遺跡による説明は、次のとおり。

大土居おおどい水城
小水城の中で、本格的な発掘調査が行われたのは、春日市昇町の大土居水城です。大土居水城の発掘調査の結果、土塁の推定高は約8m、基底部の推定幅は約40mで、水城大堤と同じく版築により土が積まれていました。
また、導水の役割を果たす木樋の調査も行われ、取水部では長さ約8mにわたって木樋本体が残存することが確認され、吐水部では木樋本体は残存していなかったものの、その下層の石敷遺構が確認され、木樋の規模が土塁と同じく、水城大堤の約1/2であることなども分かりました。

元・耶良埼の遠見台  対馬市厳原町東里 ( 長崎県 )

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元・耶良埼の遠見台  対馬市厳原町東里

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによる説明は、次のとおり。厳原港の東端にあるのが耶良埼(屋良崎)。フェリーターミナル手前からいずはら病院の高台に上がると、病院奥から屋良崎灯台へ下る山道がある。「元・耶良埼の遠見台」とされる石組み(写真4〜7)は、灯台上部の山頂三角点手前にある。

元・耶良埼の遠見台 やらざき
対馬市 厳原港 石望楼(四角錐) 高3.5m,頂辺1.9m,底辺3m 江戸末期? WEB/市教委 耶良埼山頂付近にあったものを移設(復元の程度は良くない)/乗船客しか入れない 「灯台役人が見張りに使用していた望楼の土台石組跡」と推定されている/粗加工の石材を布積崩し風に積み上げる 3 C

後ろの写真は、厳原港二号岸壁(厳原港湾合同庁舎裏。現在はジェットホイル乗船場内となっている)に移設された旧耶良崎灯明台(写真9〜13)と、厳原市街八幡神社境内にある春日灯籠(写真15〜17)

これら石組み、灯明台などの詳しい推察は、対馬海上保安部HPの次を参照。
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その1」
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/yara1/yomo3.html
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その2」 対馬藩設置の耶良埼灯明台について
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/yara2/yomo4.html
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その3」 対馬藩設置の灯明台は、寛永年代に設置されたのか?
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/kodairoman3/kodairoman3.html
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その4」 耶良埼山頂付近の石組みは、何の跡か?
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/yomoyama6/yomoyama6.html
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その6」 幻の古絵地図から
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/yomoyama8/yomoyama8.html

阿須川の開削と桟原城跡  対馬市厳原町桟原 ( 長崎県 )

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阿須川の開削と桟原城跡  対馬市厳原町桟原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによる説明は、次のとおり。厳原市街から国道382号を厳原中学校まで北上。この一帯が桟原で、現在桟原城(桟原屋形)跡には陸上自衛隊対馬駐屯地が置かれている。
「阿須川の開削」とは、尾根の鞍部を掘り割って人口の川を通し、桟原屋形の濠となったというから、阿須川のこのあたりの話だろう。川面には降りられなかったので、桟原トンネル手前の橋上から写した。

阿須川の開削 あずがわ
対馬市 阿須川 付替え 万治2(1659) WEB/市教委 一部C護岸 対馬藩「中興の英主」と言われる第3代藩主(第21代宗氏当主)宗 義真が行った大事業の1つ/府中(現厳原)を水害から防ぐ目的で、府中の北にある振袖山から東の後山に連なる丘陵の鞍部を開削し、阿須川を新たに開削した 2 B

平成9年発行「厳原町誌」106頁の記録は、次のとおり。

阿 須 川
厳原の北西砥石淵から東に流れ、阿須湾に注ぐ川をいう。これは近世、寛文から延宝の間(およそ320年前)、桟原屋形(府中城)の築城に際し、袖振山から後山に続いていた尾根の鞍部を掘り割って、人口の川を通したもので、上流の知首川と砥石淵川が合流した水勢を、阿須湾に放水したわけである。
これは桟原屋形の濠であることはいうまでもなく、それに府中の水害を解消する機能があった。

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

桟原城

桟原城(さじきはらじょう)または桟原屋形(さじきばるやかた)は、長崎県対馬市厳原町桟原にあった城郭で、対馬府中藩3代藩主宗義真が金石城を拡張整備したのと同時期に新築された藩主の屋形。金石城からは市街をはさんで北東隣に位置する。

概要
万治3年(1660年)3月に着工し、延宝6年(1678年)に完成した。金石城に代わって新しく府城となった。対州府城または府中城とも称した。明治2年(1869年)に対馬府中を厳原と改称してからは厳原城(いずはらじょう)とも呼称する。現在城跡には陸上自衛隊対馬駐屯地が置かれている。
対馬府中の整備
着工と同時に府中城下町の町割と水利工事が行われている。1663年(寛文3年)には藩営ドックである「お船江」が完成し、1669年(寛文9年)には金石館に櫓門が築かれた。また、1685年(貞享2年)には桟原の南に子弟教育のための学校「小学校」が建てられた。厳原は、現在もこの時期の城下整備による街並みのようすをとどめている。
遺構
遺構としては、第三門であった高麗門が県立対馬歴史民俗資料館付近に復元されている(注 現在は厳原保育園の門柱に再移築されていた。写真13,14)。また、石垣の一部が現存しており、標柱(注 桟原屋形跡 写真2)で案内がなされている。

上見坂公園(上見坂堡塁)(2)  対馬市厳原町北里 ( 長崎県 )

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上見坂公園(上見坂堡塁)(2)  対馬市厳原町北里

長崎観光/旅行ポータルサイト「ながさき旅ネット」による説明は、次のとおり。厳原から国道382号線を北上、厳原中学校前を左折。県道44号線を進み上見坂公園入口を右折。厳原から10km、車で15分。

上見坂公園(上見坂堡塁)

厳原と美津島の町境にある標高358mの展望台です。展望台からは、日本の代表的な溺れ谷、入り江と島々が作り出す浅茅湾のリアス式海岸が箱庭のように眼下に広がります。遠く九州本土や韓国の山々が見えるのも国境の島ならではの眺望です。家族連れで楽しめる行楽地で、夏の夜は暗い海に漁火がきらめきファンタジックな景観は見事です。
遊歩道を奥まで歩くと、明治後期に築かれた砲座跡が姿を現します。口径15センチの火砲が4基据え付けられていましたが、実戦では一度も発射されることはありませんでした。

交通アクセス
対馬空港から車で約20分、厳原港から車で約15分