月別アーカイブ: 2014年8月

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 50P 亀山社中の建物

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 50P 亀山社中の建物

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

50P 亀山社中の建物。 1875年撮影の写真に写り込んでいた

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

50P 亀山社中の建物。 1875年撮影の写真に写り込んでいた
●亀山社中
次頁左上の写真は坂本龍馬が創設した日本初の商社(カンパニー)とされる亀山社中だった建物です。これまで社中の昔の写真は無いと思われていたのですが、2009(平成21)年12月11日の朝日新聞の紙面で初めて公開しました。1875(明治8)年に撮影された長崎奉行所立山役所の写真に偶然写し込まれていたものです。ぼやけているのは小さな部分を拡大したためです。…

データベースでは、目録番号:6030「旧長崎奉行所と師範学校」。この作品は、本ブログ次を参照。
朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」はどこから撮影されたか
https://misakimichi.com/archives/2158
長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 160P 旧長崎奉行所と師範学校
https://misakimichi.com/archives/3485

目録番号:6030「旧長崎奉行所と師範学校」に、亀山社中の建物が写し込まれていることは異論がないが、この作品の撮影場所を新聞発表では、「玉園墓地」(永昌寺墓地か)からとしているのは、大きな誤認だろう。「聖福寺」大雄宝殿の背後、開山老和尚(鉄心)塔所がある石段の入口あたりの道からが考えられる。
「旧長崎奉行所立山役所」も写された貴重な写真なので、長崎歴史文化博物館においても、正しい撮影場所の検証をお願いしたい。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 45P ロシア海軍士官と長崎の”娘”たち ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 45P ロシア海軍士官と長崎の”娘”たち ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

45P ロシア海軍士官と長崎の”娘”たち。 1865〜66年ごろ上野彦馬のスタジオで撮影

72P 松江からの視察団。  1867年8月(新暦)、上野彦馬のスタジオで撮影

106P 幕末中国人男女の正装。 1865〜66年ごろ上野彦馬のスタジオで撮影

107P 中国道教の道士。  1865〜66年ごろ上野彦馬撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

45P ロシア海軍士官と長崎の”娘”たち。 1865〜66年ごろ上野彦馬のスタジオで撮影
●ロシア海軍士官と長崎の”娘”たち
上野彦馬のスタジオで撮影されたロシア海軍士官と長崎の”娘”たちです。長崎大学附属図書館武藤文庫の「上野彦馬幕末アルバム」に収載されています。士官の肩に階級章を付けるのはロシア海軍に独特のものでした。…

72P 松江からの視察団。  1867年8月(新暦)、上野彦馬のスタジオで撮影
●松江の視察団、西洋文化に「アキレハテ」
2009(平成21)年5月21日付け朝日新聞「長崎今昔」で「コウモリ傘とサムライたち」として紹介した1枚です。長崎大学附属図書館武藤文庫の「上野彦馬幕末アルバム」に収載されています。
『龍馬が見た長崎』(朝日選書)に掲載したところ、島根県古代文化センターの岡宏三専門研究員から、松江市の藤間家に同じ写真が残されているという情報を戴きました。写されているのは松江の人であり、その足跡は藤間家の『萬覚留 長崎行日記』と『萬日記留』の2冊に記載されているということです。…

106P 幕末中国人男女の正装。 1865〜66年ごろ上野彦馬のスタジオで撮影
●幕末中国人男女の正装
…唐人は1859(安政6)年の開国以後、唐人屋敷入口の広馬場や新地への進出を図りました。写真は1865〜66(慶応2)年ごろ、上野彦馬のスタジオで撮影された清朝時代の正装の中国人男女です。…

107P 中国道教の道士。  1865〜66年ごろ上野彦馬撮影
●中国道教の道士
上野彦馬が撮った道士です。1865〜66(慶応2)年ごろの撮影。長崎大学附属図書館武藤文庫のアルバムに収録されています。道士とは、中国の伝統宗教の道教に帰依し、その活動を職業とする人です。…

以上4作品は、データベースにない。長崎大学附属図書館武藤文庫の「上野彦馬幕末アルバム」に収載されているようだが、これもすべて50点近く、データベースで公開をお願いしたい。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 43P オランダ商人カール・J・テキストルの妻子と乳母 

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 43P オランダ商人カール・J・テキストルの妻子と乳母 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

43P オランダ商人カール・J・テキストルの妻子と乳母 
ステレオカード。1860年ごろピエール・ロシエが出島で撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

43P オランダ商人カール・J・テキストルの妻子と乳母 
ステレオカード。1860年ごろピエール・ロシエが出島で撮影

●オランダ商人妻子と乳母—開港期の生活を写す
出島のオランダ商人カール・J・テキストルの日本人妻(マサナギ・ナオ)と乳母のステレオ写真です。ナオが抱いているのは、テキストルの間に1859(安政6)年に生まれた長女カロリーナ・マリアです。スイス人写真家ピエール・ロシエが出島内部で撮影し、ロンドンのネグレッティ・アンド・ザンブラ社から開国直後の「日本の風景」の1枚として販売されたものです。…

データベースでは、目録番号:3416「母子と乳母」。まだ撮影地域:未詳、撮影年代:未詳のままとなっている。タイトル、解説も違う。
この作品は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2646
本来のデータベースをまず修正してから発刊するべきではないか。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 37P オランダ海軍のメタレン・クルイス号の士官ら ほか 

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 37P オランダ海軍のメタレン・クルイス号の士官ら ほか 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

37P オランダ海軍のメタレン・クルイス号(上)とドゥジャンビ号の士官ら(下)。1864年出島で撮影。

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

37P オランダ海軍のメタレン・クルイス号(上)とドゥジャンビ号の士官ら(下)。

●下関戦争前夜のオランダ海軍士官
オランダ海軍の軍艦メタレン・クルイス号(上)とドゥジャンビ号(下)の乗組員の軍服正装での記念写真です。 下関戦争(1864=元治元年8月)が始まる4ヵ月前、準備のために長崎に寄港した際に撮影しています。ボードイン・コレクションのなかの2枚です。光を散らすため背後に白い屏風が立てられています。撮影者はアルベルト・ボードイン、場所は出島と思われます。…

データベースでは、目録番号:6243「下関戦争のメタレン・クルイス号の乗組員」と、目録番号:6244「下関戦争のジャンビ号の乗組員」。まだ撮影者:未詳、撮影地域:未詳のままとなっている。タイトルも違う。
この作品は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2647
本来のデータベースをまず修正してから発刊するべきではないか。

長崎外の古写真考 マンスフェルト集 72,73P 肥後矢部の製材所

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長崎外の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 72,73P 肥後矢部の製材所

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第五章 山鹿・矢部
72P  肥後矢部の製材所(1)
矢部郷の鶴ガ淵。緑川上流部の津留は、支流の内大臣川などが合流する地点。猿ガ城、鬼ガ城、獅子ガ城と呼ばれる岩峰が屹立し、渓流と奇岩怪石の景勝地であった。緑川舟運の起点で、物資輸送の勘定所も置かれ、年貢米の積み出しや材木の筏流しでもにぎわった。左手奥が獅子ガ城、右手奥が鬼ガ城の山裾。
060 1871−1874年頃  マンスフェルトか  サイズ/220mm×290mm 大

73P  肥後矢部の製材所(2)
奥の岩峰が猿ガ城。緑川に面して家並があり、中央が原題「Woodcutting mil」の主題である製材所で、角柱や板材が積み上げられている。川に下る石垣には巨大な柱材が集積され、これから筏を組んで運ぶのであろうか。  
063 1871−1874年頃  マンスフェルトか  サイズ/220mm×290mm 大

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行されている。
72P「肥後矢部の製材所(1)」と、73P「肥後矢部の製材所(2)」は、熊本県上益城郡矢部町(現山都町)の緑仙峡下流部にある鶴ガ淵橋付近の風景である。淵で流れが緩やかとなる左岸に近年まで製材所があった。

鶴ガ淵、猿ガ城、鬼ガ城、獅子ガ城の位置関係は、地形図を参照。72P「肥後矢部の製材所(1)」と、73P「肥後矢部の製材所(2)」は、同じ製材所を対岸からカメラの向きを変えて撮影している。現在の「鶴が淵橋」は、少し上流へ架設されている。
72P「肥後矢部の製材所(1)」の、左手奥は「獅子ガ城」。右手奥も「鬼ガ城の山裾」には間違いない。
73P「肥後矢部の製材所(2)」の、奥の岩峰が「猿ガ城」も間違いないようだ。少し高いところから撮影している。現在では右手奥に猿が城キャンプ場があり、その上に「鮎の瀬大橋」が見える。

マンスフェルトアルバムの100点以上に及ぶ貴重な古写真を、長崎大学附属図書館が今もってデータベースで公開しないのは、問題があるだろう。

長崎外の古写真考 マンスフェルト集 70,71P 肥後山鹿の風呂屋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 70,71P 肥後山鹿の風呂屋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第五章 山鹿・矢部
70P  肥後山鹿の風呂屋(1)
山鹿温泉桜湯。桜湯は明治3年(1870)に讃岐の道後温泉の建物をモデルとして建設された堂々たる湯屋で、多くの人々に親しまれていた。昭和50年(1975)に取り壊されて再開発ビルとなったが、ビルの老朽化で店舗の営業も減少。現在、再び木造の湯屋として復元された。  
061 1871−1874年頃  マンスフェルトか  サイズ/210mm×163mm 大

71P  肥後山鹿の風呂屋(2)
山鹿温泉は平安時代の末に、鹿が湯浴みしていることから発見されたと伝えられる古い温泉場である。豊前街道の宿場町であったことから、全国にも広く知れわたった。江戸時代から湯治客でにぎわい、「肥後国誌」には「湯療ノ貴賎男女昼夜不絶」と記されている。  
062 1871−1874年頃  マンスフェルトか  サイズ/215mm×163mm 大

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行されている。
70P「肥後山鹿の風呂屋(1)」と、71P「肥後山鹿の風呂屋(2)」は、現在の山鹿温泉元湯「さくら湯」である。熊本県観光サイトなごみ紀行による施設案内は、次のとおり。

「さくら湯」は、今から約370年前に肥後細川藩初代藩主(細川忠利公)が山鹿の温泉を気に入り、「御茶屋」を新築したのがその歴史の始まりで、約250年前に書かれた「山鹿町絵図」には「御前湯」として記録されており、大改修が行われた明治3年から昭和48年に取り壊されるまでの約100年間にわたって山鹿市民の大切なコミュニケーションの場として愛され親しまれていた市民温泉で、「八千代座」と共に湯の町山鹿のシンボルでもありました。
その後、大規模都市再開発事業により昭和50年に、鉄筋コンクリート造のさくら湯(温泉ビル)が完成しましたが、当初の予想以上に老朽化が進んだことを契機に、往時のさくら湯を再生しようという計画が持ち上がり、…「さくら湯再生基本構想」により、…平成23年7月より「さくら湯建設工事」に着手しまして、平成24年11月23日(祝)開湯(オープン)しました。

さくら湯パンフレットによる「さくら湯物語」も参照。これは次HPに「さくら湯の歴史」としてある。現在の経営主体は、一般財団法人山鹿市地域振興公社と思われる。
http://sakurayu.coresv.com/?page_id=244
これら資料によると、長崎大学の古写真解説は、次の点に疑問がある。

1 山鹿温泉さくら湯は、明治3年〜5年 地域全体が工事にかかわり、市民温泉として生まれ変わった。明治5年(1872)に竣工しているので、撮影年代はその後であろう。人力車の普及もこの頃である。
2 「明治3年(1870)に讃岐の道後温泉の建物をモデルとして建設された堂々たる湯屋」とあるが、それは明治31年 道後温泉の棟梁・坂本又八郎氏を招き大改修を実施した後のことではないか。
3 「昭和50年(1975)に取り壊されて再開発ビルとなったが、ビルの老朽化で店舗の営業も減少」とは、「昭和46年8月に起きた市内中心部の大火により再開発議論が活発化。昭和48年、大規模再開発事業によりさくら湯の解体が始まります。昭和50年に再開発ビル(温泉プラザ山鹿)が完成し、さくら湯はビル内に造られました。その後、平成21年11月まで、ビル内で営業を続けました」というのが実情である。
4 マンスフェルトは、1866年7月、ボードインの後任として長崎の精得館に赴任した。5年の任期を終え、1871年、3年間の契約で熊本古城医学校の創始にかかわった。一時帰国し、1876年に京都(府立)療病院の教師として3年契約で赴任した。熊本に滞在していた間に、マンスフェルトが撮影した写真と考えられないことはない。
5 2枚の同じ古写真は、現在のさくら湯パンフレット、説明板にも掲載され、「明治初期のさくら湯(人力車も見えます)」または「外湯の大改修が行われ、さくら湯が誕生しました」と説明がある。資料室にも展示されていたが、山鹿市は撮影者まで調査していないようである。