月別アーカイブ: 2013年11月

長崎税関のソテツ  長崎市出島町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎税関のソテツ  長崎市出島町

長崎税関庁舎の国道側前庭にあるソテツ。数株あり、すべてか、どれかは不明。
「長崎税関のあゆみ 2003 長崎税関再開50周年記念」長崎税関/編による説明は、次のとおり。

⑦出島周辺の税関関連史跡  本関の蘇鉄    場所:長崎税関

昭和28年12月25日に奄美大島が日本に復帰し、名瀬税関支署が設置されました。同支署には当時監視艇「みちしお」が配備されていました。本関庁舎の庭に植えてある蘇鉄は、昭和34年か35年頃「みちしお」が定期ドックのため長崎へ回航されたときに職員が奄美大島の蘇鉄を本関に持ってきて植えたものです。
なお、庁舎周辺の庭の土は、当時守衛として勤務されていた岩石氏のお兄様が長崎市愛宕町にお住まいになっておられ、その方の家の土を運んだものとのことです。
当時、柔剣道部員がトラックを使用し数日がかりで運んだそうです。

2013年 サンサン さんわ フェスティバル

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

2013年 サンサン さんわ フェスティバル

長崎市南部、三和地区のイベント。2013年11月10日(日)、長崎市三和公民館前広場で、「サンサン さんわ フェスティバル」が開催された。
ベリーダンスやよさこい踊りがあるので、昼から出かけた。そのスナップ。

浪漫電話?  長崎市深堀町5丁目 菩提寺

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

浪漫電話?  長崎市深堀町5丁目 菩提寺

長崎市深堀町5丁目の菩提寺本堂手前に設置しているアンティーク風公衆電話機。KT4-FN「浪漫電話」日本通信機器製 69,800円か。
全国のホテル、旅館、道の駅などで、ときどき見かけるらしいが、寺では珍しい。
日本通信機器HPによる製品案内は、次のとおり。

◆ デザイン ◆
高級家具に好んで使われる選りすぐりの「栓」(せん)材を用いて、木目の美しさと堅牢さを両立した、ノスタルジーをかきたてる曲線多用の正統派デザインです。本格アンティークへのこだわりが息づくハンドメイドならではの温もりとフォルムは、まさに“芸術品”と呼びたいほどの仕上がりです。
◆ 機 能 ◆
家庭用電源不要で、壁掛け設置可能(オプション)なため置き場所を選ばないほか、フリーダイヤル、携帯電話への発信可能、「110」や「119」へ発信する際の硬貨不要など、電話としての機能や実用性にも細やかな心配りを忘れていません。

近くの境内に植えられた大ソテツ、菩提樹も珍しい。井戸ポンプは近代のものか。

深堀陣屋跡の現況 (1)  長崎市深堀町5丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

深堀陣屋跡の現況 (1)  長崎市深堀町5丁目

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町だった深堀(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
「深堀陣屋跡」の現地説明板、及び中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は、次のとおり。

深堀陣屋跡
この地に深堀能仲が地頭として下向したのは、建長7年(1255)のこと。深堀氏、本姓は三浦で、上総国深堀(千葉県大原町)の出身。
能仲が、承久の乱の勲功により戸八ケ浦と呼ばれていたこの地へ下って来ると、ここは領主の名をとって深堀と呼ばれた。深堀陣屋とは、深堀藩主の居城のことであり、通称は御屋敷と呼ばれていた。現在地(註 説明板設置の幼稚園の場所)は囲馬場(かこいばば)のあったところである。

(24)御 屋 敷(5丁目272,292)
正式には深堀陣屋、通称は御屋敷。深堀藩主の居城である。今幼稚園の処が囲馬場の有った処。現在書院の一部が残っているが大部が修築されているが其の俤を偲ぶに足るものがある。書院より一段高い所に御座(おざ)があった。これは明治40年頃迄建っていたが自然損耗して当時の礎石のみが残っている。御座は二階建てで庭には川原の黒石が敷きつめられていた。

春先頃から深堀陣屋跡の周囲立木のほとんどが伐採され、遠くから石垣が望まれ、居城跡の全容がわかる。きのう、現地の高台広場を訪ねたところ、整地工事中。
現在の中段にある「深堀カトリック教会」をここに新築し、来年秋の今頃、完成予定と聞いた。

長崎市文化財課による史跡調査は、行われたのだろうか。市指定天然記念物アコウ説明板は、説明部分が風のためか支柱からはがれて飛ばされ、無残に地面に放置されていたので、根元に置いた。こんな管理も、市は必要ではないか。

深堀菩提寺参道橋と周辺の桁石橋  長崎市深堀町5丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

深堀菩提寺参道橋と周辺の桁石橋  長崎市深堀町5丁目

「菩提寺」(ぼだいじ)は、長崎市深堀町にある曹洞宗の仏教寺院。山号は金谷山(きんこくざん)。鎌倉時代以来、当地の地頭であった深堀氏(三浦氏)、深堀氏の名跡を継いだ佐賀藩家老深堀鍋島家(石井氏)の菩提寺である。
境内には深堀氏、深堀鍋島家歴代の墓所の他、長崎喧嘩騒動(町年寄高木氏の家人と深堀鍋島家の家臣の紛争、赤穂浪士討ち入りの際の参考にしたと伝わる)で切腹した深堀鍋島家の家臣(深堀義士)らの墓所がある。(ウィキペディア)

アーチ式石門をくぐった参道を横切る小川に、大きな1枚石の両脇を固めた「参道橋」(写真1〜3)がある。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。
№6,859  菩提寺参道橋  長崎市深堀町5丁目
橋長:2.1m  橋幅:1.7m  桁3列  単径間桁橋

菩提寺の東側谷の車道を進むと、水路橋と桁石橋の2つ(同HPに掲載。写真4〜5)がある。
№6,860  深堀町5丁目の水路橋  長崎市深堀町5丁目
橋長:m  橋幅:m  単径間桁橋
菩提寺の東側。水路です。
№6,861  深堀町5丁目の石橋  長崎市深堀町5丁目
橋長:m  橋幅:m  単径間桁橋
菩提寺の東側。自然石が見えています。

菩提寺手前、川内公民館周辺のビオトープに、桁石橋3つ(同HPに掲載。写真6〜7)がある。
№6,862  川内の石橋  長崎市深堀町5丁目
橋長:m  橋幅:m  単径間桁橋
川内公民館の南側。
№6,863  川内の石橋2  長崎市深堀町5丁目
橋長:m  橋幅:m  単径間桁橋
川内公民館の西側、下へ降りるところ。
№6,864  川内の石橋3  長崎市深堀町5丁目
橋長:1.4m  橋幅:1.2m  単径間桁橋
川内公民館の西、下に降りたところ。

同HPでは調査がなかったが、菩提寺の西側谷(参道橋の上流)の同寺墓地道などにも、大小の桁石橋が5つ(写真8〜14)ある。所在場所は地図を参照。
明治19年架設の長崎市立深堀小学校旧校門橋は、平成13年コンクリート橋(写真15)となった。撤去された太鼓桁石は、現在の校庭西側に保存展示(写真16〜18)されている。
橋長:1.8m、橋幅:3.0mほど。桁4列、単径間桁橋。校庭フェンス外に長崎市教育委員会説明板がある。

ねじりまんぼ形式「戸町4丁目の石橋」を、にえもん氏が調査

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

ねじりまんぼ形式「戸町4丁目の石橋」を、にえもん氏が調査

2013年10月20日、長崎市戸町4丁目で見つかったアーチ式石橋は、前の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/3791

11月4日に「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」HPの、宮崎市贄田氏(にえもんさん)が、諫早に里帰りした「諫早眼鏡橋模型」とともに、現地確認調査に来られた。
同HPによるデータは、次のとおり。「石造アーチ橋では初めて見る珍しい形式です。おそらく現時点で日本で唯一の形式。…設計者のこだわりでしょうか」との解説である。
http://5.travel-way.net/~niemon/nagasaki/nagasakihasi.html  地図上で「長崎市」をクリック
三重県「六把野井水拱橋」のコンクリートブロックによる「ねじりまんぽ」は、
http://5.travel-way.net/~niemon/siga/mieken/inabesi/hasi/roppa.html

№6,856   4.戸町の石橋  
2013.11.04

長崎市戸町4丁目13
橋幅:6.7m  径間:2.1m  拱矢:0.8m  環厚:38㎝(輪石49㎝)  輪石:8.5列

みさき道人さんから10月21日に情報を頂いていました。
斜橋です。ねじりまんぽ、見事な加工です。
三重県の「六把野井水拱橋」はコンクリートブロックによる「ねじりまんぽ」ですので、石造アーチ橋では初めて見る珍しい形式です。おそらく現時点で日本で唯一の形式。

内部。石の加工がさぞかし難しかっただろうと思います。
鉄道煉瓦アーチの「ねじりまんぽ」の技術が使われたものと思われます。
耐荷重的にねじる必要のないのにねじるのは、設計者のこだわりでしょうか。

みさき道人さんのブログより引用
「 (2013年10月31日 追記)  石橋上部の「長崎税関戸町火薬庫の歴史と標石」
2013/10/31(木) [ JOKAMOTO ] 氏コメントがあった、大蔵省関税局編「税関百年史 上巻 」日本関税協会昭和47年発行197頁は、次のとおり。
火薬庫場所は、地元松林氏の記憶によると、現在ここにある郵政職員アパートや民間駐車場一帯で、2棟の煉瓦造り平屋建物が建っていたが、大戦中はもう使用されていなかったということである。
コメントどおり、近辺には欠損した標石2本(1本は「長崎…」と刻む)が現存しているのを確認したが、火薬庫境界石とは断定できない。
税関と火薬庫との関係は、輸入品だったなら火薬類一時保管庫をここに設置したのだろうと言う長崎税関の話である。
税関の火薬庫で、私が「軍道?の橋」と説明したのは、間違いがあるようなので訂正したい。

『…火薬類の保管については、旧幕時代のものが引きつづき使用されたが、明治五年正月、西泊郷に新しく一棟が新築され、これが利用されることになった。その後、二八年五月には、西彼杵郡戸町村の岩井浦に、新しく火薬庫が新築されたので、これに移転している。…』」

高橋輝吉氏稿 「長崎(佐世保)要塞地帯の区域標」

イメージ 1

イメージ 2

高橋輝吉氏稿 「長崎(佐世保)要塞地帯の区域標」

以下は、佐世保市高橋輝吉氏から最近、送られてきた資料。伊万里市周辺の佐世保(長崎)要塞地帯標、佐世保軍港境域標、伊万里軍港境域標などの標石について、これまでの調査結果を5編にまとめられている。
添付資料は数が多いが、私の判断で適当に掲載した。規則・軍港境域図は、「海軍制度沿革 巻15 海軍大臣官房」原書房発行からである。

5 長崎(佐世保)要塞地帯の区域標  高橋 輝吉

現佐世保市吉井町草ノ尾一帯は、元炭鉱地帯で人口も多く、山に詳しい方が多い。要塞区域標「第一一四号」「第一一八号」の2本は個人所有。「第一一九号」は、先月どうかなーと思い、行ってみましたが、ありませんでした。後でもう一度行ってみます。
「第一三〇号」は江迎の山頂に。「第一三一号」は道もないような所にあり。

「第一三五号」は岳ノ木場の個人所有。この地からは佐世保と軍港入口地帯が見えます。「第一三六号」は山ノ上の個人所有。軍港入口地帯が見えます。
「第一三七号」は北の方。「第一三八号」は西の方。「第一四〇号」は南の方で、西彼の「第一四七号」と連なる「第一五一号」「第一五二号」「第一五八号」。
(註 標石写真は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3152

「第一号」は区域標。外廻り区域標ですが、「第一号」が2本あります。佐世保では、第一地帯標が3本あります。何んで? 軍縮のためかなー。改刻の標石もあります。
「F.Z.」の標石はありません。長崎市には3本あり。

高橋輝吉氏稿 「脇野の標石石段の石を解明」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

高橋輝吉氏稿 「脇野の標石石段の石を解明」

以下は、佐世保市高橋輝吉氏から最近、送られてきた資料。伊万里市周辺の佐世保(長崎)要塞地帯標、佐世保軍港境域標、伊万里軍港境域標などの標石について、これまでの調査結果を5編にまとめられている。
添付資料は数が多いが、私の判断で適当に掲載した。規則・軍港境域図は、「海軍制度沿革 巻15 海軍大臣官房」原書房発行からである。

4 脇野の標石石段の石を解明  高橋 輝吉

伊万里市東山城町脇野の標石石段の所へは、3回くらい行った。このとき港域標「第二一号」もあり。10年前のときに、「どうしてここに」と聞きますと、多くは語らず「佐賀のG.H.Qが…」と。
多分、終戦時に、旧陸・海軍が遺した多くの標石等を撤去し集めたようである。伊万里方面に砲台地はなかった。

6年くらい前、ここを通ったら、石段は新しいコンクリートに変っていた。以前の古い標石は、角の方に集めてあった。許しを得て、号数や陸軍名を上にして、いろいろな角度から写真を撮った。
ゆっくりと話す間がなく、私が標石を見たので、20年前の標石石段を、新しいコンクリート石段に変えたのかなー。
(註 本ブログ次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/1825

松浦方面へ下る。右側山、中にも立札があったと教えてもらいましたが、現物なし。見本の書はありました。横辺田より「高法知岳」に松浦へ。草ノ尾高原に区域標「第一一六号」あり。見通しの良い所です。

高橋輝吉氏稿 「伊万里から県道で山を越え」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

高橋輝吉氏稿 「伊万里から県道で山を越え」

以下は、佐世保市高橋輝吉氏から最近、送られてきた資料。伊万里市周辺の佐世保(長崎)要塞地帯標、佐世保軍港境域標、伊万里軍港境域標などの標石について、これまでの調査結果を5編にまとめられている。
添付資料は数が多いが、私の判断で適当に掲載した。規則・軍港境域図は、「海軍制度沿革 巻15 海軍大臣官房」原書房発行からである。

3 伊万里から県道で山を越え  高橋 輝吉

佐賀や長崎の県北で「新聞に出てましたよ」。新聞を見た方から「うちの山にも、陸軍省の石があります」と。同行してみますと、伊万里市東山城町脇野の一角に、山の中に。昭和15年の第二区第二十二号。後で二十一号。明治の石は、七曲り山道を越した北松浦方面へ。

多分、山の中と思うが、山が深い。用心、用心と山を降り、七曲り下り道でどこかにと思っていた。伊万里市東山城町脇野で気付いて見たのは「みかげ」石の石段。
「オヤッ」と良く良く見ると、「陸軍省」などだ。
20年くらい前のことだった。写真を撮り、後で横辺田地方で。この近くより松浦方面へ。

6年くらい前、脇野の標石石段はどうなっているのかと思いきや、新しくコンクリート石段に成っていました。2回目の「石はどこに」?

高橋輝吉氏稿 「開戦1年前の伊万里湾」

イメージ 1

高橋輝吉氏稿 「開戦1年前の伊万里湾」

以下は、佐世保市高橋輝吉氏から最近、送られてきた資料。伊万里市周辺の佐世保(長崎)要塞地帯標、佐世保軍港境域標、伊万里軍港境域標などの標石について、これまでの調査結果を5編にまとめられている。
添付資料は数が多いが、私の判断で適当に掲載した。規則・軍港境域図は、「海軍制度沿革 巻15 海軍大臣官房」原書房発行からである。

2 開戦1年前の伊万里湾  高橋 輝吉

伊万里湾が佐世保軍港から外れて何10年。開戦1年前の昭和15年、陸軍の波が起こった。前々より所望していたのか。伊万里市郷土研究会「烏ん枕」参照。新兵科、陸軍輸送部隊の暁部隊。一〇四艇造りの川南造船も伊万里にあった。
伊万里湾一帯の土地の証しとして、陸軍省は標石100本を建てた。現在、残っているのは、佐賀県側15本、長崎県側10本。この内、第二区の第一号は青島の海の中。第一区の第一号は、星鹿の山中。

星鹿には陸軍兵舎あり、黒島にも兵舎あり。星鹿では古老の話だと、4年生上の生徒は中くらいの石、煉瓦は高等科、近くの大人は大きな資材を運んだそうです。城山には海軍の潜水艦用聴音機が。石を運んだ道にも、「海」と刻む16〜133号の海軍境界石あり。多くの標石で城山を取り巻いている。展望台より見えるのは、元寇の島か、向島の第七号か、逃の浦の防塁か、血田の陸軍省第一区第二号か。

青島の岩礁地帯に、コンクリートの石柱ありと島の話。もしやと思い、行ってみた。双眼鏡で見ると、岸より130mの所。陸軍省陸軍省第二区第一号と、昭和15年6月10日の陸軍輸送港域第二区標だった。